夕礼拝

枕する所もない歩み

「枕する所もない歩み」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:創世記第12章1-9節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第8章18-22節
・ 讃美歌:218、518

・群集から離れたイエス様
 「イエスは、自分を取り囲んでいる群衆を見て、弟子たちに向こう岸に行くように命じられた。」本日の箇所の18節で、イエス様は、弟子たちに向かって、舟に乗り込み、ガリラヤ湖の向こう側に行くように命じられました。この18節の聖書の本文を見ていますと、ここには「弟子たちに」という言葉はありません。実はここでは、命じられた対象が明らかになってはいません。ですから、向こう岸に行くようにと命じられたのは、弟子たちだけではない可能性があります。イエス様を囲んでいる群集に向けて語られている可能性もあえるということです。この「向こう岸に行く」ということには、イエス様と共に一つの舟に乗るということが前提となっています。舟に乗るということは、イエス様に従うために、自分の住み慣れた土地から離れる、言い換えるならば故郷という安住できる大地から離れて、不安定な湖の上を行く舟に乗るということです。この時群集たちが、直ちにイエス様の招きにしたがって、舟に乗るということは、それは貯めてきた財産も、家も、家族を置いていかなければいけないことが示されています。イエス様は、向こう岸に行きなさい、つまり一緒の舟に乗りなさいとすべてのものに呼びかけました。その呼びかけに応えるものを、イエス様は、このとき募られたのです。イエス様が小さな舟に乗ってこぎ出される時に、本当に従っていこう、ついていこうとしている者は、その舟に一緒に乗り込まなければなりません。つまりそこではもう、もはや群衆の一人でいるわけにはいかないのです。この18節の命令は、イエス様が「わたしに本当に従って来る者は誰か」という招きがなされていると言えるでしょう。

・弟子の生き方
 「イエス様に本当に従うものになる」、それはつまりイエス様の弟子になるということです。本日18~22節は、弟子としての生き方、弟子たるものの道について書かれていると理解されています。弟子とは、ギリシャ語では、もともと「教わる人」、「学ぶ人」という意味です。しかし、この福音書を見てみますと、弟子となる人というのは、ただイエス様に教わる人というだけではないことがわかります。弟子になるということは、教わるだけでなく実際に、「イエス様に従って行く」「共に歩む」ということが必要となるということです。

・どこへでもついてこようとする律法学者
 ある人がそのイエス様の招きに答えて名乗り出たということが、19節に語られています。名乗り出た者は、「律法学者」でした。彼は「先生、あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言いました。つまり、わたしはあなたと共に舟に乗り込み、向こう岸に行きます、ということです。一見、素晴らしい信仰の告白のように聞こえます。「どこへでも従って参ります」という言葉は、イエス様について行く者としては、正しい告白です。しかし、律法学者は、イエス様のことをここで「先生」と呼んでいることから、先に紹介したギリシャ語のもともとの意味に近い「弟子」、つまり律法学者は「学ぶ人」としての「弟子」になろうとしていることがわかります。この律法学者は「この人の下にいれば、多くのことを学ぶことができる。そうすれば、より律法を理解し、良き行いができ、主の御心をいまよりももって行うことができるようになる。そのように自分は向上できると思ったかもしれません。もしそれが本心であるならば、実際「どこへでも従ったとしても」、イエス様に本当の意味で従うということになりません。この律法学者は、自分を高めるために、自己が向上するための手段として、イエス様を利用しようとしています。自分を高める代金として、「イエス様について行く」ということをしますと、ここで宣言したということです。わたしたちの日常にある状況で言い換えるならば、この律法学者は、自分の成績をあげるために通っている塾に対する月謝として、または自己啓発セミナーを受講した代金として、「イエス様について行く」ということをしようとしたということです。

・イエス様の反応
 このように、従うということの誤った理解を持っていた律法学者ですが、イエス様のまわりにいた群集からみれば、この律法学者の発言は驚くべきものでした。この律法学者は、「律法学者のという肩書」を持っています。この人は、いつもユダヤの民からは先生と呼ばれる存在でした。その先生と呼ばれる律法学者が、ナザレ出身の大工の息子であるイエス様のことを「先生」と呼び謙遜を示し、さらにどこにでもついて行くという従順を示したので、群集は驚いたに違いありません。弟子となるということは、イエス様について行くことだと最初に申しました。それを踏まえるとすると、この人はイエス様に対して大変模範的な答えをしたということになります。ところが、この律法学者の告白に対して、イエス様は、直接、理解できるような言葉では何も答えられてはしいません。つまり「よろしい、ついてきなさい」とも、「お前は来るな」とも直接は語られていないということです。直接の言葉では語りませんでしたが、明らかに厳しい拒絶の意味を含んだことをイエス様は語られました。それは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」という言葉です。
 このイエス様のお言葉は何を語っているのでしょうか。「人の子」という言葉は、ここで初めて出てきていますが、イエス様がご自分のことをさして言っておられる言葉です。そうするとこれは、「狐や空の鳥には、それぞれ休むことのできる家があるが、わたしには、そしてわたしに従って来る者たちには、そのような休む場所、枕する所もないのだ、わたしに従って来るとは、わたしと共にそういう厳しい、つらい生活を送るということだ、あなたはその覚悟があるのか」、と言っているように聞こえてきます。そうであると仮定しても、律法学者は、「あなたのおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言っています。律法学者はどんなに辛い歩みでも、ついて行きますという思いがありました。
 この律法学者が、イエス様に従って行こうとした、その思いは、彼が律法学者であったということから推察することができます。当時の律法学者は、律法をより厳格に守り、それによって神様の前により正しい、より清い、より相応しい者となろうとするものでした。イエス様の語られること、なされる業を見て、彼は、この人に習えばもっと自分を向上させることができる、高めることができると考えたのです。この方に従っていけば、律法をより良く守ることができ、より立派な神の民になれる、そのように自分を向上させ、高めていく道がイエス様に従うことにこそある、と彼は思ったのです。彼はそのことのためには、つらい、苦しいことをも引き受ける覚悟を持っています。楽をして、安易に自分を高めることができるなどとは思っていないのです。神様の祝福により相応しい者となるためには、努力が必要だし、苦しみを負うことも必要だ、そういう覚悟を持って彼はイエス様に従って行こうとしたのです。この彼の思いは、わたしたちが信仰者になっていこうとする時にしばしば抱く思いと同じなのではないでしょうか。わたしたちは、信仰によって、自分がより良い者、より清く正しい者となることができる、と思って信仰を求めます。自分を向上させるために、信仰に入ろうとします。神様を信じ、イエス様を信じることによって、自分が前よりも良い人間になることができる、と思う。そしてそのためには、多少の苦しみをも負わなければならないのは当然だ、と思う。それは、この律法学者がイエス様に従って行こうとした思いと同じです。冒頭でも申し上げましたが、その「ついて行く」という行いは、自分を高めるためのお月謝としての行いです。そのような、考えでもし、イエス様に付いていったとしたら、自分が高められていない、向上していない、良いクリスチャンになっていないと思う時、「それは、イエス様のせいだ」となるのです。こちらは、ちゃんと代金払っているのに、自分の能力が向上されない。お金を払っているんだから、その責任を果たせという傲慢な態度になっていきます。
 そもそも従うということの誤っていた律法学者に対してイエス様は、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」と言われました。それは、「わたしに従ってくることはつらく苦しいことだぞ」というのではなく、「わたしに従うということは、狐や空の鳥以下になるということだ。他の人よりも自分が高くなるということはないし、他の人よりも優れているということでの安心などを得られることはない」ということを意味しています。さらに、枕することのないというのは、イエス様に従って歩むものは、この世には安心できるものや、場所はないということが意味されています。律法学者は、自分が努力して積み上げてきた経験値によって安心していました。彼は、自分の行いや能力で、自分の家、安息できる家を築いていました。彼はイエス様に従うことで、自分の行いや能力がより正しくされ、一生安心できる大豪邸を築きくことができると思っていたのでしょう。イエス様の教えの中で、岩の上に家を建てるものは賢いと言っていたので、イエス様からその家を建てる方法を学ぶことができると思っていたのでしょう。しかし、イエス様から、枕する所もないと言われ、彼は失望したのです。期待外れだと思ったのです。
 ここに描かれていることは、わたしたちの信仰においてもしばしば起ります。自分を向上させ、より良い者になろうとして信仰を求める、または、イエス様に教えられて、自分を高めることで、より大きい安心を得ることができる、そういう思いで神様を、イエス様を信じ、従おうとする、そういう信仰はどこかで挫折してしまいます。
 「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」。この言葉をもう一度見てみましょう。イエス様は、わたしたちに狐と空の鳥を見つめさせておられます。「空の鳥を見よ」ということは、あの山上の説教の中にも出て行きました。6章26節以下です。そこにおいて、空の鳥を見ること、それは天の父なる神様が鳥たちを養っていて下さる、ということを見ることでした。空の鳥たちは、種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしていないのに、天の父なる神様が彼らをちゃんと養われている。「空の鳥には巣がある」というみ言葉も、そのことを見つめています。狐も鳥も、他の動物たちも皆、自分のねぐらを持っている、それは、神様が彼らを養い、守り、支えられ平安の中で生活を送っているということをイエス様は見つめさせ、「それに引き換え、あなたがたは大きな家に住もうとし、自分の生活を自分の思う通りにしているのに、思い煩いに満ちている。明日のこと明後日のこと心配し、思い悩みに心を支配され、不安に満ちた生活をしているではないか」と、わたしたちに問うておられるのです。わたしたちは目に見えて満たされても、心は渇き、また思い煩いに支配され、いつも不安に満ちて、安住することができないものです。つまり、不安に襲われ、安眠することができない生活している。それが枕することができないということにもあらわされています。その、枕することのできない生活を、人の子であられるイエス様はわたしたちと共にしてくださることをお選びになりました。神の子であり、救い主であられる、偉大な方であるのに、わたしたちとまったく同じ生活をしてくださる。わたしたちの不安と思い煩いの生活の中に、入ってきてくださり、そこで悩みを共にされました。わたしたちの病的な思い悩みを、共にいて、担ってくださった。代わりにおってくださったのです。イエス様も天の故郷を離れられ、家を失ったものとなってくださいました。わたしたちは、この地上に家を建てたとしても、どうしても安住することはできません。家を持っていても、そこは本当の家でないので、安心できないのです。しかし、イエス様は、「わたしたちは、今は枕することができないが、天に父の家がある。そこがあなたの本当の家であり、故郷であり、平安が与えられる場所だ。」「あなたは父の子とさられたのだ。そのためにわたしが十字架で苦しみ死んだのだ。」「父の子であるあなたは、将来わたしと共に父の家を与えられる。そしてそこに共に住むことができる」と言われます。そのイエス様の約束に支えられて、また、山上の説教に語られた父なる神様の日々の支えを信頼することで、わたしたちはこの枕することができない地上を、イエス様と共に、希望をもって、忍耐しながら、歩むことができるのです。その歩みへの招きとして、イエス様は今一緒に舟に乗ろうと言われているのです。

・父の葬り
 21節以下には、弟子の一人がイエス様に、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言ったことが語られています。イエス様はそれに対して、「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」とお答えになりました。葬りに行かせてくださいといったのは、既に弟子となったものでした。その弟子は、船出の前に、父親が亡くなったことを聞き、困ったのでしょう。ある人からは「あなたの父親が今亡くなった、帰って葬式をしなさい」と言われ、イエス様の方を見ると、舟に乗ろうとされている。これは、困ります。困りながら、彼の心には、父を葬るのだから、それは許されるだろうと思いがあったと思います。当時の社会でも、父母の葬りをするということは大切な務めであり、ユダヤ教においてとても重要視されていた義務でありました。だから、この人は、迷いながらも、きっとイエス様はゆるしてくださるに違いにないと思って申し出ました。ところが、イエス様は「このままわたしに従いなさい。死人を葬るのは、死人に任せておきなさい」と言われました。死んだ人間は死んだものに任せろというのは、単純に理解すれば「ほっておきなさい」ということです。しかし、どうもそんな単純なことではないようです。ある注解書では、「この死人を葬るのは、死人に任せない」というこの言葉を理解するには、イエス様の傍らにこそ命があるということを信じることが必要であるとあります。イエス様と共に、行く歩みにこそ、真実のいのちがそれ以外のところにはない。もしあなたが、父を弔っても、それによって、父親が命を得るわけではない、弔いによって父もあなたも死に打ち勝つことができるわけではない。つまり、わたしについてくるその道にしか、死に打ち勝つ道はない、死を克服する道はないと言われているということです。イエス様からわたしたちが離れてしまえば、生きるものではなく死ぬものとなります。つまり、イエス様から離れれば、死人のまま人生が終わるがもの、生きているが死むもの、生ける屍ということです。生ける屍がする葬式、それが死人がする葬式です。イエス様を信じず離れたものの葬式は、救いも復活も永遠の命もない葬式です。本当の慰めや希望のない葬式です。だから弟子に行くなとイエス様は言っておられるのです。このイエス様の言葉は決して、すべてのクリスチャンが父母の葬式、家族親族の葬式をするなということではありません。しかしわたしたちが、主イエス・キリストに従っており、イエス様のもとに留まっており、それゆえに神様の父としての愛の内に留まっており、すなわちまことの命のもとに留まっているならば、そのわたしたちが行う葬りは、命の支配の下にあるのです。死んで、復活して下さった主イエス・キリストの恵みの下にある葬式なのです。つまりわたしたちは、イエス様に従っており、イエス様のもとに留まっていることによってこそ、本当に命と希望と慰めのある葬りができるということです。父の葬式に出ないこの弟子は、親族のすべてのものから、家族を捨てたと思われたでしょう。しかし、彼はすべてを捨てているようで、すべてを得るのです。彼は、イエス様についていくことで、復活の日においての家族との再会の希望が与えられたのです。今日イエス様が、本当にイエス様に従うこと、イエス様の弟子となることの恵みをわたしたちに語ってくださいました。枕する所がないが、希望のある、弔いがないが、復活と希望のある歩みを示してくださいました。今、イエス様が「向こう岸に生きなさい」わたしと共に舟に乗りなさいとわたしたちを呼びかけておられます。

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