主日礼拝

祈りの交わりを深める

「祈りの交わりを深める」 牧師 藤掛順一 

・ 旧約聖書:詩編第122編1節-9節
・ 新約聖書:フィレモンへの手紙1-25節
・ 讃美歌: 13、492、506

教会全体修養会
 本日は、教会全体修養会が行なわれます。この主日礼拝はその開会礼拝をも兼ねています。修養会のテーマは、今年度の私たちの教会の主題である「祈りの交わりを深め、伝道する教会」です。この主題をめぐって皆で語り合う時を持つのです。「修養会」というといかめしい感じですが、「指路交流会」という別名がつけられています。この教会につながっている者どうし、語り合い、交流を深めることが目的の一つです。多くの方が気軽に参加していただければと願っています。その修養会における語り合いの土台を据え、方向性を定めるために、この礼拝においてみ言葉に聞きたいと願っています。そのために本日は、フィレモンへの手紙から聞くことにしました。説教の題は「祈りの交わりを深める」です。この手紙には、教会における、主イエス・キリストによる救いに基づく、祈りの交わりの具体的な姿が語られています。この手紙を読み味わうことによって、祈りの中で築かれる交わりとはどのようなものなのかを教えられたいのです。そして、私たちの間にも、祈りの交わりを築いていくための促しと、そのための課題を示されていきたいのです。

パウロの協力者フィレモン
 この手紙は、1節から分かるように、パウロからフィレモンという人に宛てたものです。パウロは9節で自分のことを「年老いて、今はまた、キリスト・イエスの囚人となっている、このパウロが」と言っています。「年老いて」と言う年齢になっているわけですが、しかし彼はなお精力的に主イエス・キリストを宣べ伝え、伝道しています。そのために今捕えられ、囚人となっているのです。「キリスト・イエスの囚人となっている」というのは、キリストのことで頭がいっぱいだ、ということの比喩ではなくて、キリスト・イエスを宣べ伝えたために逮捕され、監禁されている、ということです。13節に「福音のために監禁されている間」とあることからもそれが分かります。パウロは今おそらくエフェソの町の獄中でこの手紙を書いているのです。
 宛先であるフィレモンとはどのような人だったのでしょうか。1節に、「わたしたちの愛する協力者フィレモン」とあります。つまりフィレモンは主イエス・キリストを信じる信仰者であり、パウロの伝道の協力者だったのです。2節には「姉妹アフィア、わたしたちの戦友アルキポ、ならびにあなたの家にある教会へ」とあります。「あなたの家にある教会」という言葉に注目したいと思います。フィレモンの家には教会があった、つまり彼の家に信者たちが集まり礼拝をしていたのです。これが最初の頃の教会の姿です。最初は「教会堂」つまり礼拝のための建物などはありません。信者の家に集まって礼拝をしていたのです。今日の私たちの感覚では「家庭集会」のようなものです。そこにおいて伝道がなされていました。その伝道を担っていたのは信者たちです。パウロのような伝道者がいつもいるわけではありません。家の教会の礼拝では、信者の誰かがお話をしていました。あるいはパウロのような伝道者の手紙が朗読されたりもしました。自分の家を提供していたフィレモンは、そこでの礼拝においてお話をすることも多かったでしょう。「牧師」や「長老」といった制度が生まれる前のこの時代、フィレモンはパウロら伝道者の協力者として、自分の住む町の、それはコロサイという町であると考えられていますが、その町の教会の指導者の一人だったのです。2節に「姉妹アフィア」とあるのはフィレモンの妻のことではないか、「わたしたちの戦友アルキポ」というのは彼等の息子のことではないか、と思われています。フィレモンは家族ぐるみで信者となり、自分たちの家をコロサイにおける礼拝と伝道の拠点として提供していたのです。ですからこの手紙は、フィレモン個人への手紙であると同時に、彼の家にある教会の人々に宛てたものでもあります。また差出人も、パウロのみではなく、兄弟テモテとの連名になっています。テモテはパウロの弟子である若い伝道者です。ですからこの手紙は、パウロとテモテという伝道者たちから、フィレモンとその家の教会の人々に宛てたものです。個人の私信ではなくて、教会における信仰の交わりを背景とした、教会の交わりを築くための手紙なのです。

強いられてではなく、自発的に
 パウロとフィレモンとの関係をさらに確認しておきたいと思います。フィレモンが信仰を得たのはパウロのおかげでした。19節に「あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう」という言葉からそれが分かります。フィレモンは自分自身をパウロに負うている、それは彼がパウロの伝道によってキリストを信じるようになり、その救いにあずかったということです。パウロはフィレモンを信仰に導いた人なのです。それゆえにパウロは8、9節でこのように言っています。「それで、わたしは、あなたのなすべきことを、キリストの名によって遠慮なく命じてもよいのですが、むしろ愛に訴えてお願いします」。パウロはフィレモンの信仰の師として、先輩として、「こうしなさい」と命令することもできるのです。しかしあえてそうではなく、愛に訴えてお願いをする、と言っています。ここに、パウロがフィレモンとの間に、また彼の家の教会の人々との間に築こうとしている信仰の交わり、教会の交わりのあり方が現れています。パウロはこの手紙によってフィレモンにあることを「命じる」のではなくて「お願い」しているのです。それはパウロが謙遜な人だったということではありません。教会における信仰の交わり、教会という共同体は、上の者が命令して下の者が服従する、ということによってではなくて、愛に訴えてのお願いと、それに対する自発的な応答という形によってこそ築かれていくものなのです。そのことは14節にも表れています。「あなたの承諾なしには何もしたくありません。それは、あなたのせっかくの善い行いが、強いられたかたちでなく、自発的になされるようにと思うからです」。パウロはフィレモンに、ある「善い行い」をしてもらいたいと願っています。しかしそれを、強いられてではなく、自発的にしてほしいと願っているのです。それは一つには、強いられてしたのでは、せっかくの善い行いも善い行いとしての意味を失うからです。そしてもう一つには、信仰者の交わりは、強いられることによってではなくて自発的な行いによってこそ築かれていくからです。このパウロの姿勢が、教会における信仰者どうしの交わりの基本的なあり方を示し教えているのです。

逃亡奴隷オネシモ
 さてパウロがフィレモンにしてもらいたいと願っている「善い行い」とは何でしょうか。それはオネシモという人についてのことです。10節に「監禁中にもうけたわたしの子オネシモのことで、頼みがあるのです」とあります。パウロは今監禁されています。オネシモは、その監禁されているパウロのもとで教えを受け、キリストを信じる者になったのです。「監禁中にもうけたわたしの子」とはそういう意味です。当時の監禁生活は今日の刑務所などよりずっと自由だったようで、囚人パウロのもとにいろいろな人が出入りすることができたようです。だから彼は監禁されつつも伝道をすることができたし、オネシモを導くことができたのです。このオネシモとフィレモンとはどういう関係だったのでしょうか。実はオネシモはかつてフィレモンの奴隷でしたが、主人のもとを逃げ出して、パウロのもとに身を寄せているのです。そのことは15、16節から伺えます。「恐らく彼がしばらくあなたのもとから引き離されていたのは、あなたが彼をいつまでも自分のもとに置くためであったかもしれません。その場合、もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです」。オネシモはフィレモンの家で使われていた奴隷でした。主人の家で行われていた礼拝においてパウロのことを知ったのでしょう。主人のもとを逃げ出したオネシモは、エフェソで監禁されていたパウロのところに行ったのです。パウロのところへ行きたいと思って逃げ出したのか、他に知っている人もなく、行き場がなかったからそうしたのか、はっきりしませんが、とにかく彼はパウロのもとで、主イエスの福音を聞き、信仰者となり、今は捕えられているパウロの世話をしているのです。そのことは13節の「本当は、わたしのもとに引き止めて、福音のゆえに監禁されている間、あなたの代わりに仕えてもらってもよいと思ったのですが」というところから分かります。しかしこのオネシモをパウロは今、フィレモンのもとに送り帰そうとしています。12節、「わたしの心であるオネシモを、あなたのもとに送り帰します」。そして、お願いというのは17節、「だから、わたしを仲間と見なしてくれるのでしたら、オネシモをわたしと思って迎え入れてください」ということです。「わたしの心である」つまり私が大事に思っているオネシモを送り帰すから、信仰の仲間として温かく迎え入れてほしい、そのことをフィレモンに、また彼の家の教会の人々にお願いするためにパウロはこの手紙を書いているのです。

主にある兄弟として
 当時の社会には奴隷制度がありました。主に戦争における捕虜であり、売買の対象となっていました。奴隷と言っても、鎖につながれて家畜のように働かされるというよりも、特に教養ある奴隷たちは子供たちの家庭教師となったりして、家族の一員のように大事にされている人もいました。しかし基本的にはやはり奴隷は主人が金を出して買った財産であり、逃げ出したりしたら主人に損害を与えるわけで、厳しく罰せられ、場合によっては殺されてしまうこともあったのです。オネシモとフィレモンの間にはそのような問題があることを知りつつ、パウロはオネシモをフィレモンのもとに送り帰そうとしています。それは、フィレモンとその家の教会の人々が、キリストを信じる者となったオネシモとの間に、信仰による対等な交わりを築くためです。そのためには、かつて主人であったフィレモンが逃亡したオネシモを赦し、信仰の仲間として、主にある兄弟として受け入れることが必要です。フィレモンだけはなくて、フィレモンの家の教会の人々もオネシモを教会の交わりに迎え入れなければなりません。そのことが、強いられてではなく自発的に起ることをパウロは願っているのです。そのために、フィレモンの愛に訴えてお願いをし、オネシモのためのとりなしをしているのです。11節には「彼は、以前はあなたにとって役に立たない者でしたが、今は、あなたにもわたしにも役立つ者となっています」とあります。逃げ出したオネシモは、フィレモンにとって何の役にも立たない奴隷でした。しかしパウロのもとで信仰者となった今、彼はパウロのためにもフィレモンのためも役に立つ者となっている、その「役に立つ者となった」というのは、前よりは少しは使える奴隷になった、ということではありません。16節には、「もはや奴隷としてではなく、奴隷以上の者、つまり愛する兄弟としてです」とあります。これは、主イエス・キリストを信じる信仰者になったことによって、オネシモは、私にとってもあなたにとっても、もはや奴隷ではなく、愛する兄弟となったのだ、ということです。奴隷だった時には役に立たない者だったのが、兄弟となったことによって役に立つ者となった、その「役に立つ」の意味は、自分のために便利に使える、ということではなくて、互いに愛し合いつつ共に生きることができる、ということです。そのことが16節の後半にはこのように語られています。「オネシモは特にわたしにとってそうですが、あなたにとってはなおさらのこと、一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟であるはずです」。オネシモが信仰者となったことによって私は一人の兄弟を得た。しかし、かつて彼を奴隷として所有していたあなたにとってこのことは、もっと大きな意味を持っている。今やオネシモはあなたにとって、一人の奴隷、所有物から、「一人の人間としても、主を信じる者としても、愛する兄弟」となったのだ。あなたとオネシモの関係は、主を信じる信仰によって、一人の人間と一人の人間としての、また共に主を信じる愛する兄弟としての関係に変わったのだ、そのことを受け止めてほしい、とパウロは願っているのです。

労苦と犠牲を負う
 この願いがそう簡単なものではないことをパウロは自覚しています。なぜなら、そこには結構なお金が関係しているからです。フィレモンはオネシモを奴隷として買ったのです。どれくらいの金額を払ったのかは分かりませんが、一人の奴隷の値段は決して安くはなかったでしょう。一人の奴隷を失うことはそれだけの財産を失うことを意味しています。つまりフィレモンがオネシモを奴隷としてでなく兄弟として迎えるとしたら、彼は損失を被らなければならないのです。だからパウロは18、19節でこう言っています。「彼があなたに何か損害を与えたり、負債を負ったりしていたら、それはわたしの借りにしておいてください。わたしパウロが自筆で書いています。わたしが自分で支払いましょう」。あなたが被る損失は私が負う、私がそれを支払う、と言っているのです。ここに「わたしパウロが自筆で書いています」とあります。パウロは基本的に口述筆記によって手紙を書いていますが、この部分だけは自筆で書く、と言っているのです。それは、契約書に署名するようなことです。あなたの損失を私が支払うことを、ここに自筆の署名によって約束する、と言っているのです。このことを、オネシモを奴隷の身分から解放しようとしているパウロの強い思いの現れ、としてのみ捉えてしまってはなりません。パウロはこのことを通して、大切なことを示そうとしているのです。それは、彼が続いて語っていることから分かります。「あなたがあなた自身を、わたしに負うていることは、よいとしましょう」。それは先程申しましたように、フィレモンが信仰を得て救われたのはパウロのお陰だということです。そのことをここで持ち出しているのは、自分の恩を思い出させて言うことを聞かせようとプレッシャーをかけているようにも聞こえますが、そうではありません。パウロはこれによってフィレモンに、自分の救いのために誰かが犠牲を払っていることを思い出させようとしているのです。直接には、自分に福音を伝えてくれた人、伝道の労苦を担ってくれた人がいます。パウロが非常に大きな苦労を負って伝道してくらたことをフィレモンはよく知っています。しかしそのことを通してパウロが見つめさせようとしているのは、私たちの救いのための労苦は、根本的には主イエス・キリストが十字架の苦しみと死とにおいて負って下さったのだ、ということです。フィレモンが自分自身を負うているのは、厳密にはパウロにではなくて、主イエス・キリストになのです。パウロがしたのは、主イエスが十字架にかかってあなたのために死んで下さったことによってあなたは罪を赦され、神の子として新しく生きることができる、という救いを伝えることだけだったのです。つまりパウロがここでフィレモンに求めているのは、あなた自身の救いのために、神の独り子主イエスが、ご自分の命という価を払って下さった、その主イエスの犠牲によってあなたは今救いの恵みをいただいている、その主イエスの恵みに応えて、あなたもオネシモが主にある兄弟となるために損失を負い、犠牲を払って欲しい、ということです。主イエスの労苦、犠牲によって救われた私たちは、その恵みに応えて自らも主のための労苦を負い、犠牲を払うのです。私もあなたのためにその労苦を負った、あなたもオネシモのためにそれを負って欲しい、そのようにして、共に主イエスの恵みに応えていこうではないか、そこにこそ、全く新しい、主にある兄弟姉妹としての関係が、交わりが、与えられるのだ。パウロはそのように語りかけているのです。

喜びと安らぎのために
 20節でパウロは「そうです。兄弟よ、主によって、あなたから喜ばせてもらいたい。キリストによって、わたしの心を元気づけてください」と言っています。フィレモンが主イエスの恵みに応えて信仰の労苦を共に負ってくれることによって、パウロは「主によって、キリストによって」喜びを与えられ、元気づけられるのです。パウロだけではありません。フィレモン自身も、また彼の家の教会の人々も、このことによって喜びを与えられ、元気づけられるのです。「元気づける」と訳されている言葉は、マタイによる福音書11章28節の「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」という主イエスのお言葉の「休ませる」と同じ言葉です。重荷を負っている者が休みを与えられ、リフレッシュされるのです。マタイのみ言葉の続きには「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる」と語られています。この「安らぎ」も同じ言葉です。私たちが真実の安らぎを得て元気づけられるのは、主イエスの軛を負い、従っていくことによってです。「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」とも語られています。主イエスの軛を主イエスと共に負い、主イエスの荷を背負って歩むところでこそ、私たちは人生における様々な重荷を降ろして本当の安らぎを得ることができるのです。パウロはフィレモンとその安らぎを、そこにある真実の喜びを共有したいと願っているのです。

信仰に基づく新しい関係を築く
 さて冒頭で、この手紙には、教会における、主イエス・キリストによる救いに基づく、祈りの交わりの具体的な姿が語られていると申しました。パウロがこの手紙によって、かつての主人であるフィレモンと奴隷だったオネシモとの間に、そしてフィレモンの家の教会の人々の間に打ち立てようとしている交わりこそ、キリストの救いに基づく交わりです。その交わりは、主イエスが十字架の苦しみと死という犠牲を自分のために払い、その労苦によって与えて下さった救いの恵みに共にあずかる交わりです。その交わりは主イエスを信じる信仰があれば自然に生まれるものではありません。主イエスが自分のために負って下さった労苦と犠牲をしっかりと覚えて、私たちも、お互いのために労苦を負い、犠牲を払うことによってこそ、この交わりは築かれていくのです。そのような労苦をお互いのために負うことによってこそ、私たちは、この世における関係とは違う、主にある兄弟姉妹としての新しい関係を築くことができます。主にある兄弟姉妹としての関係も、自然に生まれるものではないのです。お互いがお互いを、主イエスによって罪を赦された者として受け入れ合うことなしには、私たちは兄弟姉妹にはなれません。それがないところでは、この世の人間関係、上司と部下とか教師と生徒という社会的な上下関係が、あるいは世間において尊敬され重んじられているかそうでないかという力関係が、教会においても幅をきかせてしまうのです。そのような古い関係から抜け出して、主にある新しい関係を築くことが私たちの信仰の課題です。それは決して簡単なことではありません。パウロはそのことを意識しつつこの手紙を書いています。そこにおいてパウロが教えている大事なことは、教会における主にある兄弟姉妹としての新しい関係、交わりは、上からの命令によって強制されて生まれるものでは決してない、ということです。大伝道者であり、信仰の恩人、指導者であるパウロがこの手紙でしているのは、相手の愛に訴えてお願いすることなのです。そのお願いに、フィレモンや教会の人々が、自分の信仰の決断によって自発的に応えていくことによってのみ、教会における、主イエス・キリストによる救いに基づく交わりは築かれていくのです。

祈りの交わりを深める
 そのように見て来た時に、この信仰による交わり、主にある兄弟姉妹としての教会の交わりは、祈りによる交わりでしかないことが分かります。主イエスの犠牲、労苦に応えて私たちがお互いのために犠牲を払い、労苦を負っていくことも、祈りにおいて主イエスとの、主イエスの父なる神との交わりに生きている者にしか起りません。この世の人間関係を乗り越えて主にある兄弟姉妹としての交わりを築くことも、「天におられる父なる神よ」と祈ることを許され、神の子とされた者どうしの間でこそ実現するのです。そして強制によらず、自発的な応答によって築かれていく交わりを結び合わせる絆は、共に祈ることでしかないでしょう。私たち一人一人が祈って主とのつながりを持ちつつ、お互いのために祈り合い、また共に祈ることを大切にしていくことによってこそ、主イエスの十字架と復活による救いに基づく新しい交わりが築かれていくのです。パウロはこの手紙の4節で「わたしは、祈りの度に、あなたのことを思い起こして、いつもわたしの神に感謝しています」と言っており、22節の後半で「あなたがたの祈りによって、そちらに行かせていただけるように希望しているからです」と言っています。パウロは常にフィレモンのことを覚えて祈っており、フィレモンやその家の教会の人々も、パウロのことを覚えて祈っている、その祈りの交わりの中でこの手紙は書かれています。祈りの交わりを深めることによってこそ、主にある兄弟姉妹としての交わりが、社会的な立場や上下関係を乗り越えた新しい関係が、私たちの間にも築かれていくのです。

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