主日礼拝

神さまの愛

「神さまの愛」 牧師 藤掛順一 

・ 旧約聖書:詩編第8編1節-10節
・ 新約聖書:ヨハネの手紙一第4章7-10節
・ 讃美歌: 205、194、507

神さまに招かれ、愛されている私たち
 今日は、花の日、子供の日の総員礼拝ということで、普段は9時から行なっている教会学校の礼拝と、10時30分から行なっている主日礼拝、大人の礼拝を一緒にしています。小さな子供からお年寄りまで、みんなが一緒に神様を礼拝しているのです。普段主日礼拝に出席している大人の人たちにとっては、教会学校の子供たちや保護者の皆さんと出会って、親しく覚えることができる礼拝ですし、教会学校の礼拝に出席している人たちにとっては、教会では毎週これだけ沢山の大人の人たちが集まって礼拝をしているんだ、ということを知ることができる大事な礼拝です。今年は、この花の日の一回だけ、こういう総員礼拝をすることになりました。どうぞ皆さん、一緒に礼拝を守っている人たちの顔をよく見回してみて下さい。こういう子供たちが、また保護者の方々が、教会に集っておられるのです。またこういう大人の人たちが、毎週真剣に神さまを礼拝しているのです。すばらしいことだと思います。何よりもすばらしいのは、こうして礼拝をしている私たち一人一人を、大人も子供も、神さまがここへと招いて下さっている、ということです。私たちは、自分で今日は教会へ行こうと思ったから来ているのだ、と思っているかもしれません。子供たちであれば、お父さんやお母さんに行きなさいと言われて、あるいは一緒に連れて来られたからここにいる、という人もいるでしょう。でも、皆さんがここでこうして礼拝をしているのは、自分の思いによってでもなければ、お父さんやお母さんの思いによってでもないのです。神さまが、小さい子供からお年寄りまで、みんなをこの礼拝へと招いて下さったのです。神さまの招きがなければ、私たちは教会へ行こうという思いを持つこともないし、こうして礼拝を守ることはできないのです。
 神さまは私たち一人一人を招いて下さっている、それは、神さまが私たち一人一人を愛して下さっているということです。愛して下さっているというのは、別の言い方をすれば、大切に思って下さっている、ということです。神さまは私たちを愛して、大切に思っておられるから、ご自分のもとへと、礼拝へと、招いて下さっているのです。私たちが礼拝にこうして集っているのは、神さまが愛して下さっているしるしです。だから、こうして礼拝をすることが出来るのはすばらしいことなのです。

神さまの愛が分からなくなる
 でも、神さまが私のことを愛しておられる、大切に思っておられるって本当かな、そんなことあんまり感じられないな、と思うことがあります。私たちは、何かいいこと、嬉しいことや楽しいことがあると、ああ神さまが愛してくれている、大切に思ってくれている、と思うことが多いです。だから逆につらいこと、悲しいことがあると、神さまは愛してくれていない、自分のことなんか大切に思ってくれてないんだ、と思ってしまうのです。それは大人も子供も同じです。教会学校の生徒の皆さんの中にも、いろいろとつらいこと、悲しいことを体験している人がいます。子供の時にそういうことを体験しないですむ人はとても幸せですが、でもそういう人も、段々に大人になっていくにつれて、どうしてもいろいろつらいこと、苦しいこと、悲しいことに直面していきます。そうするとだんだんに、神さまが愛して下さっている、自分のことを大切に思って下さっている、ということが分からなくなっていってしまうのです。大人になればなるほど、それが分からなくなっていく、ということがあると思います。

イエスさまのご生涯を通して
 そういう私たちに、今日の新約聖書の箇所、ヨハネの手紙一の第4章の9節はこのように語りかけています。「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました」。ここに、神さまの愛が、神さまが私たちのことを大切に思っていて下さることが示されている。「ここ」とはどこかというと、神さまが独り子を世にお遣わしになったことです。神さまの独り子のイエスさまがこの世に来られた、そこに、神さまの私たちへの愛が示されているのです。神さまが私たちを愛して下さっていることは、何かいいことがある、嬉しいことがあるということよって分かるのではありません。イエスさまがこの世に生まれて下さったことによってこそ分かるのです。イエスさまがこの世に生まれて下さった、つまりクリスマスの出来事です。イエスさまが、ベツレヘムの馬小屋で、一人の小さな赤ちゃんとしてお生まれになった、それは神さまから私たちへの愛のプレゼントでした。そのプレゼントをいただいたことを私たちはクリスマスにお祝いしたのです。クリスマスにお生まれになったイエスさまは、神さまがみんなのことを愛して下さっている、大切に思って下さっている、ということを人々に伝えるご生涯を歩まれました。特に貧しい生活をしている人たちに、つらい思いをしている人たちに、悲しんでいる人たちに、神さまの愛がわからなくなって、神さまから離れてしまっている人たちに、神さまはあなたがたのことを大切に思っておられるのですよ、そのことを信じて神さまのところに戻っていらっしゃい、と告げて下さいました。お金持ちだったりして幸せそうにしている人たちにも、あなたがたは自分がいろいろなものを持っていることで安心できると思っているけれど、そのためにかえって神さまの愛が分からなくなっていますよ。あなたがたも神さまのところに戻っていらっしゃい、神さまの愛の中で生きることによってこそ、自分の持っているもの、お金や財産を正しく使うことができるようになるのですよ、と告げて下さいました。そして神さまの愛がはっきり分かるように、病気の人を癒したり、悪霊を追い出すという奇跡もなさいました。神様の独り子イエスさまは、そのご生涯を通して、父である神さまの愛を人々に伝え、示して下さったのです。

十字架の死によって
 でもイエスさまが神さまの愛を示して下さった一番大きな、大事なことは、私たちのために十字架にかかって死んで下さったということでした。今日の聖書の10節に、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」と語られています。父である神さまは、御子イエスさまを、「わたしたちの罪を償ういけにえとして」この世に遣わして下さったのです。それはイエスさまが私たちの罪を全部引き受けて十字架の死刑を受けて下さったことです。私たちには罪があります。それは神さまを神さまとして大切にせず、感謝せず、従わないで、神さまのみ心を無視して自分の思い通りに歩もうとしていることです。そのために私たちは、他の人たちを愛することができません。愛することは大切にすることです。大切にするためには先ず人を受け入れなければなりません。でも自分の思い通りに歩もうとしている私たちは、他の人を受け入れることができずに、気に入らない人を無視したり、自分を大事にしてくれる人とだけ仲良くして他の人を仲間はずれにするようなことをします。そのようにして、他の人を大切にするどころかむしろ傷つけてしまうことが多いのです。私たちはそのように、神さまに対しても、他の人たちに対しても、罪を犯しています。イエスさまは、その私たちの罪を償って下さるために、十字架にかかって死んで下さったのです。そのイエスさまを遣わして下さったことが、父なる神さまの私たちへの最大の愛です。「ここに愛があります」。その「ここ」というのは、イエスさまのご生涯の全てであり、その中心、クライマックスは十字架の死なのです。私たちは、イエスさまのご生涯を見つめ、とりわけイエスさまが私たちのために十字架にかかって死んで下さったことを見つめることによって、神さまが私たちを愛して下さっていること、独り子の命を与えるほどに大切に思って下さっていることを知ることができるのです。

既に与えられている神の愛によって
 今の10節に「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して」とありました。神さまは、私たちが神さまを愛して、大切にするようになったら、私たちのことを愛して下さるのではありません。私たちが神さまを愛するようになる前に、私たちがまだ神さまのことを知らなかった時に、神さまが先ず私たちを愛して下さり、独り子のイエスさまを遣わして下さったのです。だから私たちは誰もがもう既に、神さまの愛の中に置かれているのです。イエスさまの十字架による罪の赦しの恵みをいただいているのです。その神さまの愛が与えられているから、私たちも神さまを愛することができます。愛して下さっている神さまのもとで、私たちも神さまを愛して、神さまのことを大切に思って生きることができるのです。私たちが毎週こうして礼拝を守るのは、神さまを愛し、神さまと共に歩むことを大切にしていくためです。この礼拝は、神さまが先に私たちを愛してイエスさまによる救いを与えて下さった、その神さまの愛に基づいています。神さまはその愛によって私たちを礼拝へと招いて下さっています。私たちは神さまに招かれてこの礼拝に集まり、み言葉を聞き、祈り、賛美を歌う、そのようにして神さまとの交わりの時を持つのです。礼拝は、神さまが既に与えて下さっている愛を味わうすばらしい時なのです。

互いに愛し合う
 神さまに愛されていることが分かると、神さまが他の人たちをも愛して下さっていることが分かるようになります。そして私たちも、他の人たちを愛し、受け入れ、大切にすることができるようになります。7、8節にこう語られています。「愛する者たち、互いに愛し合いましよう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです」。神さまを知っている人は互いに愛し合うのです。神さまを知っているというのは、神さまが自分を愛して下さっていることを知っていることだからです。人を愛することのない人は、神さまを本当に知ってはいないのです。でもイエスさまを、そのご生涯と十字架の死を見つめるなら、私たちは神さまを知ることができます。神さまがこの自分を本気で愛して下さっていることを知ることができます。それが分かった私たちは、神さまを愛し、他の人たちを愛して生きることができるのです。気の合う人、自分を大事にしてくれる人、親切にしてくれる人だけでなく、敵対する人、うまが合わない人、好きになれない人をも、受け入れて、大切にしていくことができるようになるのです。神さまの愛の下で、互いに愛し合う交わりが生まれるところ、それが教会の礼拝なのです。この礼拝の後、教会学校の皆さんは病院や老人ホーム、消防署などにお花を届けに行きます。教会でも、礼拝に来ることができない病気の方やお年寄りの方にお花を届けることがなされます。この礼拝でいただいた神さまの愛を、そのようにして多くの人たちに届け、互いに愛し合う交わりを築いていくのです。それは今日だけではありません。神さまに招かれて礼拝に集まり、神さまの愛をいただいている私たちは、毎週新しく、互いに愛し合い、愛を分かち合う者とされていくのです。

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