夕礼拝

狭き門を通るために

「狭き門を通るために」   伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:申命記 第30章15-20節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第7章13-14節 
・ 讃美歌: 352、461

「狭い門から入りなさい」。このみ言葉は、世間によく知られていますが、一番勘違いされているみ言葉です。「狭き門をくぐる」という言葉は、受験とか就職とかにおいて使われます。倍率が高くて入るのが難しいところを、「狭い門」といい、倍率が少ないと、あまりいわれませんが「広い門」と考えられています。世間で狭き門といわれるときは、少数の優れたものしか入れない、入り口のことを狭き門といっている傾向があると思います。この「狭い門から入りなさい」というイエス様の教えは、そのような意味での狭い門を目指すことを教えていません。「狭い門から入りなさい」とは、優秀なものとなって、難関を突破しなさいということではないのです。

 狭い門は、言葉の通り、入り口が狭いということです。入り口が小さい門ですから、門自体も小さいのです。だから、あまり気づかれません。14節でイエス様「だから、見出す人が少ない。」と言われています。それは、大きさが小さいから見つけにくいということではなく、そのような小さな門に入ろうとは、誰も思わないということです。魅力がないということです。小さな入り口を見ますと、中にある空間も小さいだろうなとわたしたちは想像します。家の門を見て、家の門が小さく、汚かったたりすれば、その家は貧しいだろうなと想像できます。あまり門のある家もないので、玄関の扉を想像してみるほうがいいかもしれません。玄関の扉が小さく、狭く、汚ければ、その家の中も同様に小さく、狭く、汚いだろうな。散らかっているだろうなとあまりいいイメージをわたしたちは持ちません。わたしの実家の岩住家も、まさに、そのような家です。兄弟が6人の8人家族で、男が多い家庭だったので、玄関の扉はぼろぼろで、みすぼらしいです。わたしたちが乱暴に扉のレバーを上下に開け閉めしていたせいで、レバーが折れて垂れ下がったままです。また、小さな庭でボール遊びをしたりするので、玄関の扉になんどもボールぶつけられ、ボールの跡がついていたり、扉の木もとこどころ剥げかかっています。そして、実際に家の中も、人が多く、兄弟が散らかしまくるので、家の中は、おもちゃが転がっていたり、脱いだ服が脱ぎっぱなしになっていたりで、カオスな状態です。その逆で、門構えがしっかりしていれば、また玄関の扉が大きく重厚で、綺麗に整っていれば、玄関も広く、家も広く、中にいる人もしっかりしている人だろうなと想像するのではないかと思います。フランスの凱旋門をわたしは生では見たことが無いですが、あれほど大きく広く綺麗な門があることで、パリの町もきれいなのだろうなと、わたしは想像しています。しかし、この前、パリに旅行にいった青年は、パリの町は汚いといっていました。パリの街中の道には、ゴミやタバコの吸殻でいっぱいらしく、わたしの想像をぶち壊してくれました。岩住家に入りたいと思うよりも、フランスの凱旋門のある街に行きたいと、思うように、わたしたちは広くて大きな門、そして門に見合うような広くて大きな道、街、人のようになりたいとどこかで思っているのではないでしょうか。

この門の行き着く先を見ることよりも、わたしたちは門構えを見てしまうことの多いものであり、門構えから中を判断しがちなものです。イエス様は、門構えで判断するのではなく、「狭い門から入りなさい」と勧められておられます。そしてイエス様は、門の広い狭さ、道の広さ狭さよりもなによりもその門がどこに至るのかを、わたしたちに考えさせようとされておられます。広い門、広い道の行き着く先は、滅びであり。狭い門は狭い道は、「命に通じる」とイエス様はわたしたちに教えてくださっています。イエス様は、14節で「命の通じる狭き門を見つけ出すものがなんと少ないことか」と、悲しんでおられます。イエス様は、この時、弟子たちと、多くの群衆たちに向かって話されていました。イエス様が、その群集たち、また弟子たちを見て、「見出すものが少ないことか」と言われたということは、彼らもまた「広い門」を求めるものだったのでしょう。彼らは、イエス様を「広い門」、「広い道」として見ていました。それは、イエス様に従えば、豪華絢爛で大きな門に入れる、大きくてきれいな門のなかの街で生きるものは、すばらしく、しっかりしている者であるように、自分もそのようになれるだろう。またイエス様という方は自分の狭苦しい人生から解き放てくださって広くて自由な道を歩ませてくださるはずだ。その道は、他の人とぶつかることなく、他人を気にすることなく、自分勝手に歩くことも、その広い道の中で、自分なりのコースを選んで歩くことが出来る。弟子たちも群集たちも、イエス様に広い門を求め、広い門の中の素晴らしさ、他者を気にしないで自分勝手に生きる自由さが、与えられるそのような門としてイエス様を望んでいたのでしょう。この礼拝をしているわたしたちもまた、洗礼を受けイエス様に従う者となった弟子たちのようなものですし、またはイエス様に付いて行きたいなぁと望んでいる群集のようなものです。そのわたしたちも、イエス様が「広い門」であってほしい、「広い道」であってほしいと望んでいることはないでしょうか。キリスト者になれば、すばらしい清い人になれる、なんの問題もない誰からも邪魔されることもない平坦で苦しみのない自由な歩みができるようになると、思うことはないでしょうか。もしキリスト者になったものでも、イエス様を「広い門」、広くて綺麗な門だと思っている者は、つまり「その綺麗な大きな門に入ったわたしは、キリスト者という綺麗な衣をきて、しっかりしたものになり、美しくきらめいて、誰かも邪魔されることなくこの世界を闊歩できる」と考えているものは、この時、山上の説教を聞いていた弟子たちと一緒です。

この弟子たち群集たちはイエス様のことを、自分を苦しみから解き放つ方、ローマの支配から解き放つ革命家、触れるだけでなんでも癒してくださる、つまり一緒にいるだけ自分を素晴らしい人間に変えてくださる方として、イエス様にすばらしい広い門であってほしい、そうであるに違いないと思っていましたから、イエス様が祭司や律法学者、ローマの兵士、ローマの総督の手で、十字架に掛かけられてしまい、敗けてしまうこと、屈服してしまうこと、嘘つきとして罵られること、罪人のように扱われること、奴隷のように十字架を背負って鞭打たれて歩かされることを望まず、見ないようにして、逃げていってしまったんです。むしろ、弟子の筆頭であったペトロは、イエス様のことなんか知らないと断言しイエス様を見捨て、自分を今の苦しみから解放し救ってくれるという期待をなくした群集は、「イエスを十字架につけろ、イエスを十字架につけろ」とポンテオ・ピラトに向かって叫んだんです。イエス様が狭くて、みすぼらしい、ボロボロの門に見えた途端、弟子たちも群集たちは、イエス様を捨てたのです。

わたしたちもまた、イエス様を「広くて綺麗な門」として見ているのならば、自分の弱さや苦しみに直面した時に、「神様はわたしを素晴らしき人にしてくれるんじゃなかったのか、どんな苦しみやしがらみからも解き放って自由にしてくださるはずではなかったのか、全然そうなってないじゃないか」と心の中でつぶやき、イエス様に対する信頼を捨て、イエス様のことを忘れ、やがて「イエスなんてしらない」となってしまうのです。「イエスなんて知らない」となった時が、わたしたちの滅びの時です。「わたしを信じるものは死んでも生きる、永遠の命を得る」とのイエス様の約束の意味を逆にして聞けば、わたしたちがイエス様を信じなくなるのならば、「生きていても死んでいる」、やがて完全に滅びを得るものになってしまうのです。だから、広い門から入るものは、滅びに通じると語られているのです。今、イエス様を広い門、広い道として見ている弟子たち、群集たち、そしてわたしたちに、イエス様は狭き門から入りなさいと勧められておられます。門とは、つまりイエス様です。イエス様は別の聖書箇所で、ご自分のことを門といわれています。イエス様はわたしたちに、「わたしを狭き小さきボロボロの門として、見つけ出しなさい。そのように受け取り、入りなさい」と勧められておられます。なぜわたしたちはイエス様を狭き門として見つけ出さなければいけないのでしょうか。それは、なぜイエス様は狭くて、小さな、ボロボロな門になったのかを考えるときに答えが与えられます。イエス様は、神の子であり神であったのに、人となられました。つまり凱旋門のように、大きく気高く、美しいものであったのに、岩住の家の玄関の扉のように、普通の扉、さらにはボロボロの扉になったということです。もし、イエス様が神のままであり凱旋門のままであるならば、そこは本来、勝利者、勝利した集団しか入ることの出来ない門です。気高きものしか入ることの出来ない門です。そうであるならば、普通のもの、戦に失敗した者は入ることができません。イエス様が狭き小さな門になられたのは、つまり人となられ、弱いものとなられ、普通の人と同じになられたのは、誰もがそこに入ることができるようになるためです。完全なもののみが、力ある勝利者のみが入ることのできる気高き大きな広い門ではなく、イエス様は狭き小さきボロボロの門になられることで、貧しいものから、貧しくないものまで、幼子から老人まで、誰もが入ることができるようになるためです。しかし、貧しくないものにとっては、そこに入ることは抵抗があるでしょう。お金持ちの人が神の国に入ることは難しいと聖書が語るように、貧しくないものは、自分がボロボロの扉に入るのはふさわしくないと思っている、またたくさんもっている財産がじゃまをして狭き門をくぐることができないからです。イエス様という門を本当にくぐる時、わたしたちは一旦すべてを捨てなければ入ることができないでしょう。それほど狭いんです。ですから、イエス様のという門を、信仰をもってくぐり抜ける時、わたしたちは全員、一旦持ち物捨てなければ入ることができないでしょう。持ち物と言いましたが、それは比喩的な表現で、実際は物質的なものではなくて、プライドであったり、経験であったり、能力であったりと自分の支えとなっているものです。もちろんお金が自分を支える唯一のものと思っているのならば、その思いを捨てなければ、イエス様という狭き門をくぐることは困難でしょう。だから、イエス様は、心の貧しい者は幸いであると、なにも支えになるものを持っていない者は、幸いであると言われるのです。だれもが、本当はなにももっていないもののはずなのです。なぜならば、与えられているものは、すべて神様に預けられているものだからです。何一つわたしたちは、本当の意味で所有はしていないのです。命も、財産も、友も、家族も。それを、認めた時、わたしたちは、持ち物を置き、狭き門をくぐることできるのです。狭き門がなぜボロボロなのか。それは、岩住家の扉が、子どもたちによって汚されボロボロにされていたように、外にいるわたしたちがイエス様をボロボロしたのでしょう。あらゆる持ち物をもって、でっかい荷物をもって、固いプライドをもって、無理矢理狭い門に入ろうとするならば、門は傷つくでしょう。わたしたちがイエス様は広い門だ、なんでも受け入れてくださると思って入ろうとする時、入ったつもりになっている時、その狭き門は傷つけられているのです。そして、なんだ入れないじゃないかと見限る人が、門につばを吐きかけるので汚れるのです。わたしたちが、「救われるっていわれたのに、全然自分は苦しいじゃないか」と聖書の語っていることは嘘なんじゃないかとレッテル貼ることで、門はそのレッテルでいっぱいになり汚くなる。もっと過激な人は「これは世界を救う、小さな門」だと落書きをする。だから、この門は、みすぼらしく、きたなく、ボロボロなんです。それをしていたのは、弟子たちであり、群集であり、わたしたちです。そのような、わたしたちにイエス様は「門を叩きなさい」と言われます。すでにボロボロなのに、その門を叩きなさいと言われます。そうすれば、開かれる。その狭き門に本当に入りたいと願うものは、入れられ。死ではなく命を本当に欲するものは、与えられるのです。わたしたちは、自分で自分の持っているプライドや財産を簡単に捨て切ることができないものです。表面上は、それを求めないとしても、心のどこかでふつふつと、たくさんのお金があれば、自信や誇りを持ちたいという思いが湧いてきます。イエス様はそのようなわたしたちの棘棘した罪の鎧を身にまとった状態でも、入りなさいと言われます。そのトゲトゲした手でたたきなさいと言われます。「その罪の刺をわたしが受け入れたんだ」「だから十字架上で血を流したんだ」「あなたをゆるすために、あなたを受け入れるために」とイエス様はわたしたちを受け入れるために、その痛みを負ってくださったんです。だから、この狭き門は、完全で完璧な人が入る門ではありません。罪と弱さをもった人が入る門です。幾人もに叩き続けられたから、この門はボロボロなんです。しかし、この門は、決して壊れません。世界中の人が叩いても壊れません。そのような、真にみすぼらしいが、真に強固な門なのです。

 この狭き門に入れられたものは、狭き道を歩むものです。広い道は、たくさんの個人のスペースがあり、好き勝手に自由に歩くことの出来る道でした。広い道は、他者と関わることなく歩こうと思えば歩ける道です。狭き道は、そうではありません。道が狭いですから、隣の人がすぐ近くにいます。隣の人と関係をしていかなければ、歩むことのできないような狭さです。道が細いですから、トラブルも起こります。「誰かが私の足を踏んだ。」「自分の前で立ち止まられて、自分の歩くペースを乱された。」「隣の人の荷がぶつかってくる」なんてことが、歩みの中で起こります。自分勝手に歩けば、間違いなく、ぶつかったり、傷ついたりする人が現れるような、そのような狭い道です。この狭き道を歩むということは、他者との関わりに生きていくことを意味しています。弱さや欠け、罪が残る者たちの歩みの中では、先ほどのようなトラブルも生まれる道です。故に、苦労や忍耐が生まれる道です。また他者を傷つけてしまうという経験をしてしまう道でもあります。しかし、この道を歩む者は、大事なことを教えられてこの門に入っています。それは「わたしは赦しに与っている」という事です。この狭い道を歩む者たちは、すべてのものがイエス様に忍耐していただいて、赦されてこの門をくぐった者たちです。イエス様の赦しを受けた赦されたものたちは、イエス様に隣人を赦しなさいと教わったものです。この狭き道を歩む者たちは、主の祈りを通して「隣人を赦しましたように、自分を赦してください」と祈っている者たちです。ですから、トラブルが起きても赦し起こり、トラブルを起こしてしまっても赦されることが起こる道なのです。トラブルだけが起こる道ではありません。他者との関わりがあるから、共に喜ぶことも悲しむことのできる道でもあります。主に救われたという共通の出来事をもっており、そこにおいて喜びを共感でき、自分の罪の深さを知っているから他者の罪の痛みも悲しみも共感できるのです。イエス様をという同じ狭き門を通っているから、自分の罪の大きさを知り、イエス様の憐れみの深さを知ります。この門を通ったものはそれを、共通に経験するのです。それをすべての人が頭で理解しているかと言えばそうではないでしょう。しかし、イエス様という狭き門を信じて通った、言い換えれば信じて洗礼を受けたということは、すべてのものがその出来事に与っており、理解はしていなくても経験しているのです。その出来事に与ったものに、理解できるように、イエス様は今でも聖書を通して、説教を通して、わたしたちに「隣人を赦しなさい、愛しなさい」と言われているのです。
狭い道だから、この苦しみと忍耐が生まれ、喜びと悲しみが生まれ、赦され赦すことが起こるのです。実は、この狭き道をイエス様が、最初の一人として先立って歩んでくださいました。その狭き道は、イエス様この世にお生まれになってから十字架で死なれるまで歩まれた道です。その狭き道は、わたしたちが歩むものより、もっと過酷な道でした。愛する家族、愛する弟子たち、愛する群集たちとの歩みの最後に、愛するすべての人に捨てられ、失望され、だれにも受け入れられることなく、傷つけられ、死なれた。しかし、その見捨てたすべての人を十字架の死によって赦された。そして、三日目に甦らされることで、人々やわたしたちが復活させられること、死に勝つ永遠の命を与えられるということを確かに示してくださり、天に昇られことで、人々やわたしたちが神の国に入れられるということを、わたしたちに確証してくださったのです。イエス様はこの狭き道の最後がそのようであるということを、先に歩んで示してくださいました。イエス様は、真にこの狭き道が命の道であることを、その歩みのすべてで示してくださったのです。

わたしたちはこの狭き道で、他者関係のトラブルの中で、もうすべてが嫌になって、「自由でトラブルのない広い道を歩みたい。この狭き道から出て行ってやる」と思い、実際に飛び出すことあります。しかし、飛び出した先で、道が広すぎて方角がわからなくなるのか、共に歩むものいないからなのか、導いてくれるものがいないからなのか、どこに進めばいいかわかなくなります。「自分で好きに選んで歩む」と息巻いたが、歩いてみたら、最初は自由を謳歌するが、そのうちに「この道が良かったのか、わるかったのか」がわかなくなり、不安と恐怖に襲われ、歩けなくなるということが起こります。先には獣がいるかもしれない、自分を襲う追い剥ぎがいるかもしれないという危険を想像し、怖くなり歩けなくなります。そして立ち止まって、座り込んでしまい、帰る方向もわからなくなるということが起こります。この世は、誤った道に行ってしまったわたしたちを、それは自業自得だ、自己責任だ、だからあなたは滅びて仕方ないといいます。しかし、神様は、イエス様は、そうではありませんでした。そのように、自分の勝手で迷い出たわたしたちを赦し、探し出し、連れ帰ってくださいます。それは、あの99匹を置いてでも1匹の迷い出た羊を探し出す羊飼いのようにです。この狭き道を歩むものは、そのような羊飼いに赦され守られて歩んでいるのです。だから、この道は、滅びることを恐れず、迷い出てしまうのではないかと不安にならず安心して歩めます。ですが、すべての苦しみが消えるわけではありません、隣を歩む関係の中では、ぶつかり合ったり、傷つけあうことは起こります。狭い道ですから。しかし、そのトラブルの最後には赦しと和解が用意されているはずです。だから恐れることはありません。

イエス様はいまわたしたちに「この狭き道に、この狭きわたしという門をくぐりなさい」と命令されておられます。なぜ、命令するほどまでに、強く言われるのか。なぜならば、真の命をわたしたちに、得させたいからです。「絶対に滅びに与らせたくない」と思ってくださっているからです。わたしたちは、今、このイエス様の力強い愛のことばを受けました。なんという喜び、なんという幸いでしょうか。主に赦されて愛されて歩む道が目の前に広がっています。感謝してお祈りいたしましょう。

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