夕礼拝

混沌の中に光あれ

「混沌の中に光あれ」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; 創世記、第1章 1節-5節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙二、第4章 1節-6節
・ 讃美歌 ; 2、204
 

混沌
 月に一度、私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書、創世記を始めから読んでいくことにしておりまして、9月に第一回として、1章1節「初めに、神は天地を創造された」を読みました。10月は青年伝道夕礼拝でしたので、本日が創世記の二回目ということになります。前回は、神様が天地を創造されたということに込められている、福音の第一声とも言うべきメッセージを聞きました。即ち、この世界は、そしてそこに生きる私たちと私たちの人生の全ては、神様によって創られ、与えられ、生かされ、導かれているのだということ、だからこの世界は基本的によい所であり、私たちの人生は生きる価値のあるものなのだ、ということです。創世記の初めのところにあるいわゆる天地創造の物語は、この世界がどのようにして出来たかという成り立ちやしくみを語っているのではなくて、この世界と私たちに対する神様のご支配、しかも恵みのみ心によるご支配を告げているのです。
 本日は、その1節に続いて、2節から5節までを読みます。その2節には、神様がお造りになったこの世界が初めはどのような所であったかということが語られています。「地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」、これが、神様が最初にお造りになった天地の姿だったというのです。地は混沌であった。ここは前の口語訳聖書では、「形なく、むなしく」と訳されていました。また別の訳では「形がなく、何もなかった」となっているものもあります。これらの訳からわかるように、この「混沌」と訳されている言葉は原文においては二つの言葉から成っています。二つの言葉が結び合って一つの熟語となっているのです。これと同じ言葉は旧約聖書の中にあと二か所出てきます。一つはエレミヤ書の4章23節です。そこには、「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった」とあります。その「混沌とし」がこの言葉です。もう一つはイザヤ書の34章11節です。その後半に、「主はその上に混乱を測り縄として張り、空虚を錘として下げられる」とあります。この「混乱と空虚」がこの言葉です。「地は混沌であって」は、「地は混乱であり空虚だった」と訳すこともできるのです。これはどういうことなのでしょうか。神様が天地を、この世界をお創りになったという1節の言葉は、恵みの宣言だったはずです。それなのに、そうやって神様がお創りになった世界が、混乱と空虚の世界だったとしたら、それは恵みでも何でもないことになってしまうのではないでしょうか。

闇が深淵の面にあり
 さらに2節の後半には、「闇が深淵の面にあり」とあります。「深淵」それは文字通り「深い淵」です。底なしの深みです。そこに落ち込んだら二度と浮かび上がってくることのできない、すべてのものを飲み尽くそうとする深みです。その深淵の面をさらに闇が覆っているのです。暗闇に覆われた恐ろしい淵がすべてのものを飲み尽くそうとしている、それは最近の天文学で明らかになってきたブラックホールのようなイメージだと言ってもよいかもしれません。しかもそれが、遠い宇宙の彼方のどこかにあるのではなくて、この世界そのものがそういう所だというのです。つまりここに描かれているのは、身の毛もよだつような恐ろしい光景なのです。神様がお創りになったこの世界は、そういう所だったと2節は語っているのです。

暴風
 2節の最後のところには、「神の霊が水の面を動いていた」とあります。ここへ来てようやくほっとするような思いがします。神様の霊がその世界を覆い、守っているということかなと思うのです。ところが、この文章はそのような穏やかな、神様の守りを語っているのではないのではないか、と多くの学者たちは言っているのです。「霊」と訳されている言葉は、「風」という意味でもあります。聖書では、旧約でも新約でも、「霊」と「風」は同じ言葉なのです。ですから「神の霊」は「神の風」とも読めます。そして「神の」という言葉は、「ものすごい」という意味にも使われるのです。そうするとこれは「ものすごい風」「暴風」という意味なのではないか。ここは「暴風が水面を吹き荒れていた」と訳すべきではないか、と多くの研究者が考えているのです。つまり、大嵐です。先日テレビで、「パーフェクト・ストーム」という映画をやっていました。史上空前の大嵐の中で、まさに山のような波が、小さな漁船を飲み込んでしまう、この2節に描かれているのはあのような世界なのではないかと考えられるのです。神様がお創りになったのはそのような恐ろしい、すさまじい、身の毛のよだつような世界だった、それはいったいどういうことなのでしょうか。

神の怒りと審き
 先程の「混沌」という言葉、あるいは「形なく、虚しく」、または「混乱と空虚」と訳される言葉が使われていると申しましたエレミヤ書とイザヤ書の個所は、いずれも、神様の怒りと審きを描写している所です。エレミヤ書4章23節の「わたしは見た。見よ、大地は混沌とし、空には光がなかった」という文章はその後このように続いていくのです。「わたしは見た。見よ、山は揺れ動き、すべての丘は震えていた。わたしは見た。見よ、人はうせ、空の鳥はことごとく逃げ去っていた。わたしは見た。見よ、実り豊かな地は荒れ野に変わり、町々はことごとく、主の御前に主の激しい怒りによって打ち倒されていた」。「主の激しい怒りによって打ち倒されていた」。この混沌、混乱と空虚は、神様の怒りによるものです。人間の罪に対する神様の怒りと審き、それによって地は混沌となり、形なく、虚しくなり、混乱と空虚に支配されるのです。つまり2節に描かれているのは、人間の罪のもたらす悲惨な現実なのです。しかしそれはどういうことでしょうか。神様がそのような罪に満ちた悲惨な世界をお創りになったのでしょうか。そもそも、この2節において、まだ人間は創られていません。人間の罪とか、それに対する神の怒りなどがここに語られているというのは順序がおかしいとも言えます。人間の罪がもたらす悲惨な現実がここに描き出されているなどと言われるとわけがわからなくなる、と誰もが感じるだろうと思います。

滅亡と捕囚の中で
 そこで、私たちがここを読んでいく上で大切なことをお話ししておきたいと思います。それは、この創世記第1章の天地創造の物語が、いつ、どのような時代状況の中で生み出され、書かれたのか、ということです。この第1章が書かれたのは、紀元前6世紀ごろと考えられています。それはイスラエルの民の歴史においてはどのような時代だったのでしょうか。イスラエルの民は、モーセに率いられてエジプトを脱出し、約束の地カナンに定住し、そこで国を造りました。ダビデ、ソロモンの時代にその王国は最盛期を迎えました。それはおよそ紀元前1000年ごろのことです。しかしソロモンの後、王国は南北に分裂し、次第に周囲の大国、北からはアッシリア、その後を継いだバビロニア、南からはエジプトの脅威にさらされていきます。北王国イスラエルは紀元前8世紀にアッシリアによって滅ぼされ、残った南王国ユダも、紀元前587年にバビロニアによって滅ぼされ、多くの人々がバビロンに連れて行かれてしまう、いわゆるバビロン捕囚が起るのです。紀元前6世紀とはまさにこのユダ王国滅亡とバビロン捕囚の時代です。預言者エレミヤはまさにこのユダの滅亡とバビロン捕囚のまっただ中を生きた人でした。先程の、主の激しい怒りによる混沌、混乱と空虚の様は、この、国の滅亡と、人々が故郷から引き離され、敵の地へと連れ去られてしまうという悲惨な状況を語っているのです。エレミヤを始めとする預言者たちは、このような滅亡の苦しみが自分たちを襲ったのは、この民が代々に亘って犯してきた、主なる神様に対する罪への神様の怒りと審きによるのだと語りました。エジプトで奴隷とされていたこの民を救い出し、乳と蜜の流れる約束の地カナンを与えて下さり、国を築くことを許し、守り導いてきて下さった主なる神様を捨てて、他の神々、五穀豊穣をもたらすとされる偶像の神々、人間の欲望や願望の投影に過ぎないご利益の神々の方に心を向け、それらを拝むようになった、そのイスラエルの民の裏切り、忘恩の罪が、このような悲惨な国の滅亡と捕囚をもたらしたのです。創世記第1章は、エレミヤが見つめているこの現実の中で書かれました。2節において描かれているのは、国の滅亡とバビロン捕囚という現実なのです。つまり、創世記の著者が見つめ、描いているのは、実は、大昔に神様がこの世界を創られた時、この世界はどんなところだったか、ということではないのです。彼が見つめているのは、今の自分たちの、目の前の現実なのです。今自分たちの前にある世界、自分たちの置かれている現実が、混沌であり、形なく、虚しく、混乱と空虚に満ち、闇に覆われた底知れぬ淵がそこにぱっくりと口をあけ、自分たちを飲み込もうとしている、ものすごい暴風が吹き荒れ、山のような波が襲いかかってきている、そういう身の毛のよだつ現実が、大昔ではなく、今、自分たちの目の前にあるのです。

私たちの現実
 私たちにとってそれは、紀元前6世紀という大昔の話でしょうか。私たちの見ている現実、世界は、こんな恐ろしい身の毛のよだつ所ではない、と言えるでしょうか。確かに私たちは今、人類史上最も豊かで便利な時代を生きています。この国に限って言えば、景気が悪いとは言え、なお平和と繁栄を謳歌しているように見えます。しかしそのような表面の繁栄と明るさの陰で、いろいろなものが崩れ去りつつある、崩壊していっていることを私たちは感じているのではないでしょうか。子供の連れ去り事件が後を絶たないので、児童全員に防犯ブザーを持たせる自治体が出て来たというニュースをやっていました。若い男女が、両方の家族を皆殺しにして一緒に住もうと計画していたなどという話もありました。そういうことが、特殊な話ではなく、いつ自分の隣で、いや自分の家で起っても不思議はないような社会になってきています。私たちの社会とその現実は、急速に変わっていっている、しかも悪い方へ悪い方へと、坂道をころげ落ちるように崩壊が進んでいることを感じるのです。世界に目を転じれば、9・11以来、テロとの戦い、正義の戦争を宣言したアメリカは、アフガニスタンで、そしてイラクで、泥沼にはまりこもうとしています。そして世界各地で毎日のように爆弾テロ、自爆テロが起っている。多くの人が傷つき倒れ、憎しみが憎しみを生み、それがどんどん増幅されているのです。真っ暗な深淵が私たちを、この世界を、飲み込もうとしている。その中で私たちは、あのパーフェクト・ストームの漁船のように、山のような波に飲み込まれようとしている、それが私たちの目の前にある現実なのではないでしょうか。そしてそれら全てのことは、自然現象ではありません。すべて、私たち人間の罪が生み出したことです。個人の罪、国家の罪、民族の罪、そして人類全体の罪が積み重なって、今のこの現実、この社会、この世界を生み出しているのです。教会だって、この世界の一部です。この世界を覆う人間の罪の現実とそれによる荒廃、悲惨は教会にも容赦なく襲いかかってきています。パーフェクト・ストームに立ち向かい、結局飲み込まれてしまうあの漁船は、この世を歩む教会の姿であると言わなければならないかもしれません。創世記第1章を書いた人が、国の滅亡とバビロン捕囚という苦しみの現実を見つめつつ描いた2節の光景は、そのまま私たちの現実、私たちが生き、教会が歩んでいるこの世界の有り様なのです。

光あれ
 繰り返しますけれども、天地創造の物語はこのように、昔この世界はどうだったかということを語っているのではないのです。聖書は、そういうことには興味を持っていないし、語ってもいません。聖書が語っているのはそんな呑気なことではないのです。私たちが今生きているこの世界、この現実、それがどういうものなのか、そこに何が起っており、これから何が起るのかという、極めて切実な、せっぱつまった問いを聖書は投げかけているのです。そしてその問いに対して創世記第1章の著者に与えられた答えが、「初めに、神は天地を創造された」という言葉だったのです。滅亡と捕囚の現実の中で、混乱と空虚に捕えられ、真っ暗な深淵に飲み込まれていくような、暴風に吹きまくられているようなこの世界だけれども、しかしそれは神が創造されたもの、神のご意思によって創られたものなのだ、この世界が存在し、私たちが生きているのは、神様のみ心とみ力によるのだ、それが1節の意味です。そしてそれゆえに、その創造のみ業は、3節以下のように展開されていくのです。「神は言われた。『光あれ。』 こうして、光があった」。闇に覆われた深淵、暴風吹きすさぶ嵐の中に、神様の「光あれ」というみ言葉が響き渡るのです。するとそこには、光が生まれる。闇の中に輝き、闇をけちらす光が神様によって創られ、この世界に、私たちに与えられるのです。

良しとされた
 「神は光を見て、良しとされた」とあります。混沌の闇の中に輝いた光を、神様は「良し」として下さった、光が闇をけちらし、身の毛のよだつ荒涼とした世界に明るさ、暖かさが与えられることを神様は肯定して下さった、それでよいと言って下さったのです。闇に支配された混沌、それは先程申しましたように、人間の罪とそのもたらす悲惨、神様の怒りと審きの現実です。しかし神様は、そこに光を生じさせ、それを良しとして下さった。闇に支配された混沌を良しとするのではなく、光を良しとして下さったのです。それは、私たちの罪によってもたらされたこの悲惨な現実、神様の怒りと審きによって滅び去るしかないような現実を、神様が変えて下さる、私たちの罪を赦して、新しく生かして下さるという恵みのみ心の現れです。神様の良しとされるみ心は今や、私たちの滅びにあるのではない。私たちが赦されて新しく生きることをこそ神様は良しとし、望んでおられるのだ。「神は光を見て、良しとされた」とはそういうことなのです。

混沌から秩序へ
 そして神様は、「光と闇を分け、光を昼と呼び、闇を夜と呼ばれた」。昼と夜とが交互に訪れる、そういう一日が整えられたのです。それは、神様が、混沌であったこの世界に、秩序を与えて下さる、その第一歩です。秩序を与える、それは、この世界を、私たちが生きることができる所として整えて下さるということです。闇に支配された混沌の中では私たちは生きることができません。私たちは自分の罪によって、自分自身が生きることのできない世界を作り出してしまうのです。神様がその罪を赦して、世界に秩序を与え、私たちが生きることができるようにして下さる、光の創造から、そういう神様の恵みのみ業が始まっているのです。創世記の著者は、国の滅亡とバビロン捕囚の絶望的な苦しみの中で、ここに、希望を見いだしたのです。

福音の光
 この世界と私たちを覆う混沌の中で、暗い底知れぬ淵に飲み込まれそうになっている私たちに、神様は「光あれ」とのみ言葉を与えて下さっています。その光はどこにあるのでしょうか。私たちはどこにその光を見ることができるのでしょうか。本日共に読まれた新約聖書の個所、コリントの信徒への手紙二の第4章にそのことが示されています。その4節に、「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光」とあります。神様が私たちに与え、私たちを覆う闇をけちらし、新しく生きることができるようにして下さる光は、福音の光であり、それは主イエス・キリストの内に輝いているのです。神様がその独り子である主イエス・キリストを人間としてこの世に遣わして下さった、そこに、私たちの罪の混沌の中に輝いたまことの光があります。このまことの光が、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかり、私たちを赦して新しく生かして下さるのです。父なる神様は、この主イエスの十字架による私たちの罪の赦しを、「良し」として下さいました。主イエスの復活はそのことを示しています。私たちが主イエスによって罪を赦され、新しくされて生きることを、神様は良しとして下さっているのです。6節に、「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」とあります。主イエスによる私たちの罪の赦しを良しとして下さった神様が、私たちの心の内で今も、「光あれ」と宣言して下さっているのです。神様の天地創造のみ力は、遠い昔ではなく、今、私たちの内に働いているのです。「混沌の中に光あれ」と語って下さる神様のみ言葉によって私たちは、なお混沌の中にあり、闇に閉ざされているこの世界とこの人生を、主イエス・キリストにおける神の栄光、その福音の光に照らされ、導かれながら生きていくのです。

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