主日礼拝

力ある神の子

「力ある神の子」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編書 第89編20-30節 
・ 新約聖書:ローマの信徒への手紙 第1章1-7節
・ 讃美歌: 314、356、481

先々週より、主日礼拝においてローマの信徒への手紙を読み始めました。この手紙は、初代の教会における最大の伝道者パウロが、これから訪れようとしている、まだ会ったことのないローマの教会の人々に、前もって自己紹介をするために書き送ったものです。その冒頭の1節でパウロは「キリスト・イエスの僕、神の福音のために選び出され、召されて使徒となったパウロから」と、差出人である自分のことを語っています。「僕」とは「奴隷」という意味の言葉だと前回申しました。パウロは、自分はキリスト・イエスの奴隷だ、キリストに身も心も全て所有され、キリストのものとされているのだ、と言っているのです。それは決して、奴隷のように惨めな者だ、ということではありません。キリスト・イエスの奴隷とされている自分は、同時に、「神の福音のために選び出され、召されて使徒となった」者だと言っています。前回も申しましたが、ここは原文の語順に従って訳すと、「召されて使徒となった、選び出された、神の福音のために」となります。パウロは自分が「キリスト・イエスの僕」だと語ったのに続いて、自分は「召された使徒」だと言っているのです。「使徒」とは、「遣わされた者」という意味です。それは単なる「お遣い」や「パシリ」ではありません。全権を委任されて派遣された大使のようなものです。他国との交渉において、いちいち本国の指令を仰がなくても自分の判断で交渉し、条約を結ぶことができる大使のような権威を、復活なさった主イエス・キリストによって授けられ、キリストの福音を宣べ伝えるために全世界へと派遣された人々が使徒です。使徒となることができたのは基本的には、主イエスの地上のご生涯を弟子として共に歩み、復活なさった主イエスと直接お目にかかり、その主イエスによって派遣された人のみです。そういう意味ではパウロは、主イエスの弟子だったわけではありませんし、むしろもともとは主イエスを信じる人々を迫害していたのですから、使徒となる資格はありませんでした。パウロ自身がコリントの信徒への手紙一の15章9節で「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」と言っています。しかしそのように教会を迫害していたパウロに、復活なさった主イエスが、主イエスの方から出会って下さり、彼を召して、キリストによる救いを宣べ伝える者として派遣なさったのです。パウロは、主イエス・キリストによって捕えられ、身も心も徹底的にキリストに所有される奴隷となったことによって、キリストに信頼され、全権を委任されて派遣される使徒となったのです。

福音の要点
 彼が召されて使徒となったのは、「神の福音のために」です。「福音」という言葉は「良い知らせ、救いの知らせを宣べ伝える」という動きのある言葉です。だから「福音のために」は「福音を宣べ伝えるために」ということだと前回申しました。パウロは福音を宣べ伝えるために召されて使徒となったのです。彼が宣べ伝えている福音、良い知らせとはどのようなものなのでしょうか。それが2節の「この福音は」以下に語られています。今読んでいる1-7節はこの手紙の冒頭の挨拶の部分ですから、ここに福音を全て語ることは勿論できません。それはこの手紙全体を通して語られていくわけですが、しかしパウロはこの冒頭の挨拶において、自分がそのために召されて使徒となった福音とはどのようなものかを簡潔にまとめています。2-6節は、彼がこれから語っていこうとしている福音の要約、まとめであると言えるのです。ここを読むことによって私たちは、これから読み進めていくローマの信徒への手紙に語られている福音の要点をつかむことができます。あらかじめそれをつかんでおくことは、この手紙を読み進めていくための良い導きとなるでしょう。

ユダヤ人の救いのために
 2節に先ず語られているのは、「この福音は、神が既に聖書の中で預言者を通して約束されたもので」ということです。彼が宣べ伝えている福音は、神が既に聖書の中で、預言者によって、約束として語っておられたものなのです。その聖書とは旧約聖書のことです。新約聖書はまだ生まれていません。そこに入ることになる大事な手紙の一つが今書かれているわけです。その手紙において彼が今語っている福音は、既に旧約聖書において、預言者たちを通して神が与えておられた約束が実現したということなのだ、とパウロは言っているのです。このように語ることによってパウロは、彼が語っている福音、つまりイエス・キリストによる救いの知らせと旧約聖書とのつながりを明確にしようとしています。旧約聖書に既に語られていた救いの約束がイエス・キリストによって実現した、それが福音なのです。彼がそのことを真っ先に語って強調しているのは、一つには、旧約聖書の信仰に生きているユダヤ人、イスラエルの民に、キリストの福音を伝えるためです。ユダヤ人たちは、パウロ自身もその一人ですが、神が旧約聖書において預言者を通してお語りになった救いの約束を固く信じており、いつかその約束が実現することに希望を置いていたのです。しかし、パウロ自身が以前そうだたように、多くのユダヤ人たちは今、イエス・キリストを信じようとしません。パウロは、復活なさった主イエスとの直接の出会いによって、イエスこそキリスト、つまり救い主であられることを知らされ、神の救いの約束は主イエスによってこそ実現したという福音を知らされました。しかし彼がその福音を熱心に伝道しても、同胞であるユダヤ人たちは、以前の彼と同じようにそれを受け入れようとしない、それがパウロにとって深い悲しみでした。旧約聖書における神の救いの約束は、主イエスの十字架の死と復活において実現した、主イエスこそ神が約束して下さっていた救い主キリストなのだ、という福音を何とかしてユダヤ人たちに伝えたい、そういう彼の願いがこの2節には込められているのです。

ただ神のみ心によって
 しかしそれは彼の中にある一つの思いであって、それが全てではありません。もっと大事なことがあります。それは、福音は神がご自分の約束を実現して下さったということだという点です。つまりそれは神のみ心によって実現し、与えられたものなのです。しかもその約束は既に旧約聖書において語られていたのであって、今始めて与えられたのではありません。ということは、この約束の実現は、それを与えられている自分たちが何か良いことをしたからとか、立派な人になったからでは全くないということです。神はただご自分の恵みのみ心によって救いの約束を与え、同じみ心によってそれを実現して下さったのです。福音とはそういうものなのだ、とパウロは語っているのです。私たちはどのような罪人であっても、救われるのに相応しい人間でなくても、ただ神の恵みのみ心によって実現した救いにあずかることができるのです。だからそれは福音、良い知らせ、救いの知らせなのです。パウロはこの手紙においてその福音を、つまり人間の良い行いによってではなく、ただ神の恵みによって与えられる救いを語っていこうとしているのです。

肉によればダビデの子孫から生まれ
 その福音は「御子に関するものです」と3節にあります。旧約聖書において神が既にお与えになっていた救いの約束が、イエス・キリストによって実現した、とパウロは語っていますが、そのイエス・キリストは「御子」、つまり「神の子」なのだ、福音は御子イエス・キリストによって実現した救いの知らせなのだ、ということです。そしてその後3、4節は、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。」と続いていきます。主イエス・キリストが御子、神の子であられるとはどういうことか、その根本がここに語られているのです。ここも、冒頭の挨拶の中で私たちがじっくりと味わっておくべき所です。
 「肉によれば」と「聖なる霊によれば」という言い方がなされています。私たちはともすればこれを、主イエス・キリストは、目に見える姿としてはダビデの子孫から生まれた一人の人間だったが、その見えない本質においては、神の子であられたのだ、そのことが復活によって明らかにされたのだ、というふうに理解しがちです。しかしパウロがここで言っているのは、そのような、主イエスの外見と本質ということではありません。「肉によれば」というのは、外見上はこう見えた、ということではなくて、「私たちと同じ人間としては」ということです。つまりこれは、神の子、つまり本質において神であられる主イエスが、私たちと同じ人間となり、肉体をもってこの世に生まれて下さった、ということを言っているのです。それを「受肉」と言います。「肉を受ける」と書きます。神の御子が、私たちと同じ人間の肉を受けて下さり、肉体を持った一人の人間としてこの世に、私たちのところに来て下さったのです。それは外見においてそう見えたというのではなくて、むしろそこに、神の子である主イエスの本質があるのです。主イエスが神の子であられるとは、主イエスはまことの神であられるということですが、そのまことの神であられる方が、天からこの世を、私たちをただ見降しているのではなくて、私たちと同じ肉を受けて人間としてこの世に生まれ、歩んで下さったのです。そこにまさに喜びの知らせ、救いの知らせ、福音があるのです。しかも主イエスは「ダビデの子孫から生まれ」ました。そのことは、主イエスの誕生が先ほどの2節の、神が既に旧約聖書の中で預言者を通して約束しておられたことの実現であることを示しています。ダビデの子孫として救い主を遣わす、という約束を神は旧約聖書の中で預言者によって与えて下さっていたのです。本日共に読まれた詩編第89編も、その神の約束を背景として歌われたものです。この詩編にも歌われている約束の実現として、神の子イエス・キリストはお生まれになったのです。

具体的な人間となる
 ダビデの子孫として救い主が生まれるという旧約聖書に語られていた約束は、イスラエルの民、ユダヤ人に対して与えられた約束です。その約束の実現として主イエスは、およそ二千年前に、ユダヤのベツレヘムで、一人のユダヤ人としてお生まれになったのです。私たちは、そのイエス・キリストが二千年後の、しかもユダヤからは遠く離れている日本に生きている自分の救い主だと言われてもピンと来ない、イエスと自分といったいどんな関係があるのか、という疑問を持ちます。それは、ユダヤからは遠く離れたローマにいる、しかもユダヤ人ではない異邦人たちにとっても同じだったでしょう。ユダヤ人に与えられた約束の実現がどうして異邦人である私たちにとって福音なのか、救いの知らせなのか、パウロもそういう問いを異邦人たちから受けていたのです。彼はこの手紙でその問いにも答えています。どのように答えているのかはこの手紙を読み進めていく中で見ていきたいと思います。しかし、「御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ」という本日の言葉によって、そのことを考える上で大事なことが示されています。つまりパウロはこれによって、神の御子が肉体を持った人間となられたことに救いの恵みがある、と言っているのです。人間となるというのは抽象的なことではありません。私たちは、日本人でもアメリカ人でもどこの国の人でもない人間になることはできません。「無国籍」ということはあり得ても、どの人種にも属さず、どんな皮膚の色も持たず、具体的な姿形を持たず、特定の時を生きていない抽象的な人間などあり得ないのです。神の御子が人間となるということも、ある民族に属する一人の具体的な人間となってある時を生きる、ということでしかあり得ません。つまり御子がダビデの子孫から、一人のユダヤ人として生まれたというのは、神が私たち人間に、抽象的にではなく具体的に関わって下さったということなのです。神が人間に具体的に関わり、具体的な救いのみ業を行なって下さる、そのために選ばれたのがイスラエルの民、ユダヤ人であり、あのユダヤの地であり、約二千年前のあの時だったのです。神は、イスラエルの民に約束を与え、その約束を、主イエスがダビデの子孫として生まれ、一人のユダヤ人としてあの時を生きることによって実現して下さった、そのことによって、ユダヤ人のみでなく、異邦人も含めた、つまり私たち全ての人間のための救いのみ業を実現して下さったのです。だから、ローマとも、日本とも遠く離れた地において生まれ、そして十字架にかかって死んで復活した主イエス・キリストが、私たち全ての者の救い主なのです。神の子である主イエスは、私たち人間と本当に具体的に関わり、具体的な救いを与えるために、ダビデの子孫から生れて下さったのです。

力ある神の子
 その御子は、「聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められた」と語られています。これは、主イエスは復活したことによって初めて神の子となった、ということではありません。パウロは、人間だったイエスが復活して神の子となった、と言っているのではなくて、神であられる主イエスが人間となってこの世に来て下さったと言っているのです。主イエスはもともと神の子です。この言葉が語ろうとしているのは、復活において、主イエスが「力ある」神の子であることが明らかになった、ということです。「力ある」が大事なのです。主イエスの神の子としての力、つまり私たちを救って下さる力は、死者の中からの復活によってこそ示され、明らかにされたのです。その力とは、死に勝利する力です。ご自分の復活の命に私たちをもあずからせて下さり、私たちにも、死に勝利する復活の命を与えて下さる力です。肉体をもってこの世を生きている私たちは、死の力に常に脅かされています。どんなに充実した実りある人生も、その終わりは死であり、死の支配から逃れることができません。そして死が私たちを脅かす恐ろしい力であるのは、私たちに罪があるためです。その罪というのは、私たちがあれこれの悪いことをしている、ということであるよりも、もっと根本的に、私たちに命を与え、人生を導き、そしてそれを取り去られる神との間の良い関係が失われていることです。神を神として敬い、感謝し、礼拝するのでなく、自分が主人になって生きている私たちは、神との正しい関係を失っているのです。しかし死に直面する時私たちは、自分の人生の本当の主人は自分ではなかったことに気づかされます。自分の知らない、良い関係を持っていない、得体の知れない力によって命が奪われ、人生が取り去られることに恐怖を覚えるのです。主イエスが復活によって力ある神の子と定められたというのは、このような死への恐怖から私たちを解放して、新しく生かして下さる力ある救い主となられた、ということです。神の子である主イエス・キリストは、私たちと同じ肉体を持った一人の人間となって下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さいました。主イエスの十字架の死による罪の赦しの恵みを受けた私たちは、主イエスと同じ神の子とされ、神との良い関係を回復されたのです。そして主イエスが復活して下さったことによって、私たちにも、肉体の死を越えた先に与えられる新しい命、復活と永遠の命の約束が与えられたのです。主イエスの十字架の死と復活によって、力ある神の子イエス・キリストによる救いが実現したのです。これが、パウロがこの手紙で語っていく福音の中心です。つまりその福音は、ダビデの子孫として肉体をもってこの世に生まれ、十字架の死を経て復活して下さった力ある神の子イエス・キリストによる救いの知らせなのです。「聖なる霊によれば」とあるのは、私たちがこの福音を信じて救いにあずかることは、聖霊なる神のお働きによってこそ与えられる、ということでしょう。パウロがどんなに弁舌巧みにこの福音を説いても、多くのユダヤ人たちはそれを受け入れようとせず、むしろ異邦人たちが、ダビデの子孫として生まれた主イエスを力ある神の子、救い主と信じてその救いにあずかるということが起っています。それは全て聖霊のお働きによるのであって、だからこそそこに、今はまだ信じていない人々も、聖霊の導きによって主イエス・キリストと出会い、救われる希望があるのです。

イエス・キリストこそ福音
 福音は、御子に関するものです。救いの知らせである福音を信じるとは、御子イエス・キリストを信じることであり、それ以外ではありません。このことはいくら強調してもし過ぎることはありません。パウロはこの手紙の第6章で洗礼について語っています。洗礼式の時にいつも読まれる箇所がここです。その3節に「キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたち」とあります。私たちは洗礼を受けることによって、主イエス・キリストと結び合わされ、一つとされるのです。そこにこそ救いがあります。そして第8章の1節には、「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません」とあります。洗礼を受けてキリストであるイエスと結ばれ、一つとされている者は、罪に定められることはない、つまり神との良い関係を持っていない者として神から切り離されてしまうことはないのです。そしてこの第8章の終わり、ここはローマの信徒への手紙の一つのクライマックスですが、その38、39節にこうあります。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」。力ある神の子主イエス・キリストと結び合わされているなら、私たちは神の愛の下にしっかりと捉えられているのです。この世において起るどのような苦しみや悲しみも、そして肉体の死において命が失われ、人生が終わっていく時にも、力ある神の子イエス・キリストの復活によって与えられている神の愛から、私たちを引き離すことができるものは何もないのです。パウロは、この福音のために選び出され、召されて使徒となりました。パウロが、神から全権を託されて語っているこの福音を、私たちはこの手紙において読むことができます。そして私たちも、力ある神の子イエス・キリストによる神の愛にしっかりと捉えられて生きる者とされるのです。

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