夕礼拝

あなたの中にある光

「あなたの中にある光」 伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:イザヤ書 第29章13-19節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第6章22-23節
・ 讃美歌: 205、509、78

 わたしたちの中にある光。それはわたしたちの心の強さや感動ではありません。わたしたちの中にある光、それはわたしたちに与えられた神様からの贈り物です。わたしたちに与えられた光、それは決して失われることのない光です。イエス様はその光が無くならないように支えてくださっています。そして、神様の恵みを見つめることを促し、わたしたちを輝かせようとしています。イエス様はわたしたちを真に輝きと希望に満ちた道に招いておられます。

 本日共に聞きました、マタイによる福音書6章22節の冒頭で、イエス様は弟子たち群集たちに向かって「体のともし火は目である」と語られました。イエス様はこの言葉を今日わたしたちにも、語っておられます。「目が、体のともし火である。」この言葉は、簡単なようで、とてもむずかしい言葉です。これは言葉の通り、意味を取れば、わたしたちが持っている目が、光を放つロウソクのようなものであるということです。目がロウソクである。これではまったくわかりません。「その目が澄んでいれば、全身が明るくなる」とイエス様は言われます。ここから、そのロウソクのような働きをする目によって、体全体が明るくなると考えられていることがわかります。しかし、それは目が澄んでいると条件が満たされている場合であり、逆に目が濁っていれば体全体が暗くなると言われています。

 イエス様がここで言っている「目」は、わたしたちの肉体の一部である実際の目のことを、言っているのではないようです。これは、メタファーとして、隠喩的な表現として、「目」を言われています。当時の弟子たちや群集たちはユダヤ教徒です。そのユダヤ教徒たちは、「目」と聞くと、もちろん肉体の目のことも意識しますが、「目」はその人の性格や品性のことを表す言葉であったので、ここでイエス様は、「その人の性格や品性を問われているのだな」と聞いたことでしょう。では、イエス様がわたしたちに「あなたの性格や、品性、倫理的な行いがあなたを照らすものである」といったということでしょうか。そうすると、明るい性格な人は、全身があかるい。性格が暗い人は、全身が暗い。だから、明るい性格になって、生きましょうとイエス様がいっているかと言えば、そうではないでしょう。また良い行いをしていれば、全身が明るくなる。逆に、悪いことをしていれば、全身が暗くなる。だからよい行いをしましょうともイエス様は言いたいのではないでしょう。

 ここで、目をイエス様が用いられているのは、単純に目というものが何かを見るためのものであるからです。イエス様はこの目が見つめるべきものを見ていない時、暗くなり、ちゃんと見つめられているときは明るくなるということを言われようとされています。目が見つめるべきもの、それは神様の恵みです。前回の「地上に富を積むのではなく、天に富を積みなさい」の部分の説教で、神様からすべてのものが与えられており、わたしたちが所有していると思っているすべてのものは、本来は神様のものであり、それを貸し与えられているのがわたしたちであると言いました。わたしたちの命や体、食事、財産すべて神様からの恵みとして与えられているものであるとも言いました。恵みに目を向けること、つまり、それは神様から与えられている恵みとして、それを受け取るということです。前回も申し上げましたが、わたしたちは、自分の命も人生も、全部自分のものであると思っています。そうではなくて、それを神様のものであることを、認め、それらを神様のものとして頂く、そのようにして生きることにわたしたちの幸いがあるということを述べました。恵みを恵みとして受け取ることができたとき、わたしたちは、揺らぐことのない神様に支えられていきていることを実感できる。またわたしたちの命という財産が神様に所有されることによって、神様のものとなり、永遠の命となる。それもまた恵みです。そのわたしたちが神様に所有されるために、犠牲となってくださったのが、イエス様である。それも語られました。そのイエス様がわたしたちにとっての一番の恵みです。

 それら恵みを恵みとして、受け取ることが出来るかを、今日イエス様はわたしたちに問われています。「目が澄んでいる」の「澄んでいる」という言葉には、「真っ直ぐな」という意味があります。「目が真っ直ぐ」であれば、全身が明るく輝くとイエス様は言われます。それは、まっすぐに恵みを恵みとして受け取るということでしょう。この「澄んでいる」という言葉は、ネガティブな意味もたくさんあり、ここでは用いられていないのですが、わたしはこのネガティブな意味も重要だと思っています。「澄んでいる」という言葉には、「素朴な」「無教養な」「複雑さのない」「単純な」「無資格の」という様々な意味があります。しかし、これらは、恵みに対してわたしたちが取るべき態度をそのまま意味していると思います。わたしたちは、恵みに対して、「素朴」に理解して良く、「複雑」に考えなくてよく、「単純に真っ直ぐ」に恵みを見つめ、受け取ればいいということです。さらには、その恵みを受けるふさわしくなく、恵みを受ける「資格が無い」のに受けることができるということも、「目が澄んでいる」ということは意味しています。わたしたちは、神様が日々与えてくださっている恵みをそのまま、恵みとして受け取り感謝して生きること、それがわたしたちの全身を輝かせることです。しかし、逆に、「目が濁る」ということは、神様の恵みを恵みとして受け取れなくなるということでしょう。すべてが神様からの恵みであるのに、それを自分で得ているように錯覚している時。恵みに支えられて生きているのではなく、自分の才能、財産、権力等、それらの自分の力によって生きていると勘違いしている時、その時、わたしたちの全身は暗くなります。地上に富を積んでいた人が、それらが失われていくことを常に心配し、不安をおぼえ、ストレスを感じていたように、生活に不安の影がつきまとい、いつしか財産や自分の力に自分が支配されて行きます。その時、その人の目は地上の富や自分にばかりそそがれており、次第に全身が暗くなってしまうのです。

 イエス様は今日、「あなたの目は何を見つめているか」、それが、「あなたの目は澄んでいるか」と問われています。そして、恵みを見つめることを勧められております。わたしたちは、イエス様にそのように言われて、神様からの恵みを素直に真っ直ぐに受け取りたいと願います。そして、その恵みをうけて感謝して喜びに溢れて生きていきたいと願います。しかし、そのようにいくら思っていても、わたしたちの内に残る罪と弱さのために、地上の富に目を向けたり、自分自身の力で生きていると思ったりして、神様の恵みに生かされていることを忘れてしまいます。イエス様を信じている信仰者であっても、恵みを恵みとしていつも受け取れることができているかと言えば、そうではないでしょう。

 23節後半でイエス様、「だから、あなたの中にある光が消えれば、その暗さはどれほどであろう。」と言われています。イエス様は23節後半で、「あなたの中にある光」という新たなことを言われます。神様や神様の恵みを見なくなった人は全身が暗くなる、それはとても暗い。しかし、さらに、「あなたの中にある光」が消えればどれほど暗いかといっておられるということは、それは恵みを見ることができていない時の暗さよりも、暗い状況があるということです。そこから、さらにわかるのは、自分が神様の恵みを見る見ないに関係なく存在する、わたしたちの内なる光があるということです。その「わたしたちの内にある光」が何なのかが、わたしたちは気になります。端的に申し上げますと、それは、「信仰」であります。わたしたちの「信仰」が失われれば、もはや神様を見ることなどしない、それ以上に、神様などいないとしているので、そもそも見る対象でなくなっています。それは、神様に目を向く可能性がいっさいないとなれば、そこには、救いの可能性もなく、ただ命が終わり、滅び向かって、絶望という暗闇に向かって歩くだけになります。希望という光はそこには差し込みません。信仰は、わたしたちの内なる力、敬虔さとは違います。信仰とは、わたしたちの内から自然と沸き上がってくるものでもありません。信仰、それはわたしたちの内からではなく、外から、つまり神様から与えられるものです。教会に集う信仰者は、それぞれ教会との出会いがあり、礼拝で語られる神様の御言葉を聞き、神様と出会います。そして、自分が救われていることを知り、神様の救いを信じます。そして信仰を告白し、洗礼を受けます。この教会への導きや、御言葉を聞くこと、神様の救いを信じようと思う心、それらすべては神様が与えてくださったものです。自分の意志を超えて、わたしたちは御言葉と教会に出会わされて、イエス様を信じる、救いを信じる信仰が与えられます。わたしたちが、普通にこの世を生きてきて、自然にイエス様を信じようとはなりません。信じたい、洗礼を受けようと思うに至るまでには、神様の導きがあり、出会いがあるのです。そのように、神様の導きの中で与えられた信仰は、なくなりません。洗礼を受けたものは、信仰が与えられているということ、神様の子であるということを、神様が目に見える形、目に見える事実にしてくださっています。神様が信仰を与えたということを、洗礼という形で、保証してくださっているのです。また今日行われる、聖餐もそうです。神様からの恵みが与えられていること、信仰がなくなっていないことの神様からの保証です。しかし、そのように神様から保証されてはいても、わたしたちはその後の歩みの中で、何度も何度も信仰がゆるぎます。 イエス様の一番弟子であったペトロでも信仰が揺らぐ時がありました。ペトロは、信仰を告白し、またイエス様から絶対に離れませんと宣言したのに、イエス様が捕らわれて、裁判にかけられている時、ペトロは町の人に見つかり、イエスを三度知らないといってしまいます。

 わたしたちも、信仰の歩みの中で、ペトロと同様に、自分の立場を守るためにイエス様を知らないふりをして、生きていこうとすることがあると思います。そして、「なんで信仰を告白したのに、私は罪ばかり犯してしまうのだろうか」、とそのように思い、またそのたびに私たちは、信仰者としてだめだと思い、どんどん自信をなくして、大きく信仰が揺らいでしまいます。しかし、イエス様はこのようにペ私たちの信仰がゆらぐことを、信仰を告白した時点でご存知であられました。ですから、イエス様はペトロに向かって「わたしはあなたのために、信仰がなくならないように祈った。」といわれました。私たちの信仰も、信仰の道を歩むとき、神様にその信仰が保証されていても、なんども主から離れ、主を知らないといい、揺らいでしまいますが、イエス様がわたしたちのために「信仰がなくならないように」祈ってくださいました。ですから、信仰は決してなくなりません。滅びません。自分の力でも、ほろぼすことはできません。つまり、本日の言葉で言えば、わたしたちの中にある信仰という光は、何があっても消えることがないということです。わたしたちが、地上の富、自分の功績、自分自身にばかりに目を向けて生きていて、神様のことを忘れてしまうようなことがあっても、この信仰はなくなりません。わたしたちの内なる光は輝き続けています。しかし、わたしたちの全身が、わたしたちのすべてが本当の意味で輝き出すのは、まっすぐに神様からの恵みを恵みとして見て、受ける時です。神様の恵みを受ける値しないのに、まっすぐに恵みを受けているということを、認められた時、わたしたちは、神様に支えられて生きていること、神様がわたしたちを見捨てないで導いてくださっていること、つまり神様が共に生きてくださっていることを実感できるのです。それは、内なる光である、信仰に基づいて、見えてくるのです。わたしたちの内になる信仰は、イエス様の祈りによって支えられ、また洗礼の際にわたしたちの内に授けられる聖霊なる神様によって、内側から支えられています。だから、信仰はなくなりません、内なる光は輝き続けます。だから、わたしたちが、完全なる暗闇に支配されることはありません。わたしたちはその内なる光に支えられながら、わたしたちの目で、神様の恵みを見つめ、全身でそれをうけとり、わたしたちの内も外も、恵み支えられていることを実感し、神様のその恵みという栄光を帯びて、輝いて参りましょう。

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