主日礼拝

復活

「復活」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第16編1-11節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第16章1-8節
・ 讃美歌: 12、324、467

週の初めの日の朝
 礼拝においてマルコによる福音書を読み進めてきまして、いよいよ最後の16章に入りました。ここには、十字架につけられて殺され、墓に葬られた主イエスが、三日目の、週の初めの日の朝、復活なさったことが語られています。三日目というのは、足掛け三日目です。主イエスは金曜日の午前9時に十字架にかけられ、午後3時頃に息を引き取られたと15章にありました。先週申しましたが、ユダヤの暦では日没から一日が始まります。ですから主イエスの死からまもなく、日没になると二日目の土曜日、安息日が始まったのです。その日没前、安息日が始まる前に、アリマタヤのヨセフがピラトの許可を得て、急いで主イエスの遺体を十字架から降ろし、亜麻布を巻いて埋葬したのです。15章の最後の47節には、マグダラのマリアとヨセの母マリアという二人の女性がその埋葬を見ていたことが語られています。この人たちのことは15章40節にも語られています。主イエスの十字架を遠くから見守っていた何人かの女性たちの中に彼女らがいたのです。この女性たちは、弟子たちと共に主イエスに従っていた人々です。主イエスを尊敬し、愛し、主イエスに奉仕していた女性たちです。彼女たちは、十字架につけられて殺されてしまった主イエスの遺体に香料を塗って丁寧に埋葬したいと願っていました。しかし主イエスの死の直後は、間もなく安息日が始まろうとしていたのでそれが出来なかったのです。それで彼女らは、安息日が明けるのを待って香料を買い求めました。それが本日の箇所の冒頭、16章1節です。「安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った」。金曜日の日没から始まった安息日は土曜日の日没によって終わり、人々の活動が始まるのです。彼女らはその日没後すぐに香料を買いに行きました。しかしもう夜ですから、墓に行って遺体に香料を塗ることはできません。用意を整えた彼女たちは夜が明けるのを待って、2節にあるように「そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」のです。日が出るとすぐに、というところに、夜が明けるのを今か今かと待っていた彼女らの様子が伺えます。

教会の中心にいた女性たち
 主イエスの十字架の場面以降、マルコ福音書には女性たちが多く登場しています。主イエスの十字架を見守っていたのも、その埋葬を見ていたのも、そして香料を買って日曜日の朝に墓に出かけたのも皆女性たちです。ここに男の弟子たちは全く登場していません。彼らは主イエスの逮捕と共にみんな逃げ去っていなくなってしまいました。主イエスを埋葬したアリマタヤのヨセフは、「神の国を待ち望んでいた」人ではありましたが、主イエスの弟子ではありません。弟子たちは一人として、主イエスの遺体の埋葬に手を貸していないし、その遺体に改めて香料を塗って丁寧に葬ろうともしていないのです。ここには、男の弟子たちと、彼らと共に主イエスに従っていた女性たちの姿が対照的に得かかれています。主イエスに従っていたのは男の弟子たちだけではありません。15章41節に「この婦人たちは、イエスがガリラヤにおられたとき、イエスに従って来て世話をしていた人々である。なおそのほかにも、イエスと共にエルサレムに上って来た婦人たちが大勢いた」とあります。主イエスが逮捕され、男の弟子たちが皆逃げ去ってしまった後、主イエスの死と埋葬を見届けたのはこれらの女性たちだったのです。15章から16章にかけて名前があげられている何人かの女性たちは、この福音書が書かれ、読まれた教会においてよく知られた仲間だったのでしょう。つまり彼女たちは初代の教会の中心的な信者になったのです。マルコによる福音書は基本的には使徒ペトロの証言によって書かれていると言われますが、主イエスの十字架の死と復活の場面は、この女性たちの証言に基づいて書かれているのです。教会の歩みは常にこのような女性たちによって支えられてきたと言うことができます。特に危機の時代に、教会を支え、信仰を伝えてきたのは、男性よりもむしろ女性たちであったことが多いのです。

主イエスの体への深い思い
 ここに描かれている女性たちの姿から、彼女たちの主イエスへの思いの深さが伺えます。しかもその思いの深さは、男の弟子たちとはいささか違う深さです。男の弟子たちだって、主イエスへの思いが深くなかったわけではありません。彼らは全てを捨てて主イエスに従い、主イエスの教えに熱心に聞き従っていたのです。しかしこの女性たちの思いは、男たちの思いとは質が違います。彼女たちは、いささか誤解を招きかねない表現ですが、主イエスの体のことを深く思っているという印象を受けます。十字架につけられた主イエスを遠くから見守り、その埋葬に立ち会い、遺体に香料を塗ろうとする彼女たちは、主イエスの体を大切にし、その体に仕えようとしているのです。それは、彼女たちが主イエスのことを体で感じ、皮膚感覚で受け止めていたということでしょう。男の弟子たちは、どちらかと言えば主イエスの教えやみ業を受け止め、この主イエスこそ救い主だと信じて尊敬し、言わば理屈において従っていたのに対して、彼女たちは、肉体を持って生きておられる主イエスを理屈抜きでまるごと受け止め、愛し、仕えようとしていたのです。主イエスの十字架の死の場面以降男の弟子が姿を消し、女性たちが前面に出て来たのはそのためです。主イエスは救い主であるという信仰や理屈において従っていた男の弟子たちは、主イエスが捕えられ殺されてしまうともうなすすべがないのです。彼らに出来ることは何もなくなってしまったのです。しかし主イエスを体ごと受け止め、愛し、仕えていた女性たちは、主イエスが殺されてしまっても、なおその体に仕えようとしています。男たちが立ち尽くしている所でも、彼女らにはなお出来ることがあるのです。危機の時代に教会を支えてきた女性たちはこのような信仰に生きていたのです。

墓を見つめていた女性たち
 ここに、男性と女性の基本的な違いが現れているように思います。男として主イエスに従っていった人々と、女として従っていった人々では、その従い方、仕え方に違いがあるのです。そして、十字架の死と埋葬、そして復活の場面においては、男としての従い方、仕え方が全く破綻しており、何の役にも立たなくなっています。それに対して女としての従い方、仕え方は大きな意味と力を発揮しているのです。男として、女として、という違いをあまり強調することは適切ではないかもしれません。男性にもいろいろな人がいるし、女性にもいろいろな人がいます。男だから、女だから、ということで決めつけてしまうことは危険なことでしょう。しかしここにはやはり、女性たちならではの、あるいは女性に代表されるような、主イエスへの関わり方が描かれていることを感じるのです。それは今も申しましたように、主イエスの体、肉体への深い思いです。主イエスの遺体に香料を塗って丁寧に埋葬しようとする、そのように彼女らは主イエスの体を大事にしているのです。そのような思いは、彼女たちがガリラヤからずっと、主イエスの日々の生活のお世話をしてきたことと関係しているでしょう。いわゆる家事というのは、その多くが、体としての人間の生活に関わることです。三度三度の食事を用意し、衣服を整え、掃除や洗濯をする、そういう日常の生活のお世話をしていく中で、彼女たちは、男の弟子たち以上に、主イエスの体のことを思い、体をもって生きておられる主イエスとの関わりを深められてきたのです。彼女たちの思いが最も印象的に語られているのは15章の47節だと思います。「マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた」とあります。この「見つめていた」はまことに印象的な言葉です。前の口語訳聖書ではここは「イエスが納められた場所を見とどけた」となっていました。「見とどけた」ならば、その場所を確認した、安息日が終わったら香料を塗りに来ようと思っているので、場所が分からなくならないように確かめた、と理解することができます。しかし原文の言葉は新共同訳のように「見つめていた」という、継続を表す形なのです。単に場所を確認した、という意味ではありません。彼女たちは、主イエスの葬られた墓をじっと見つめていたのです。アリマタヤのヨセフやその供の者たちが埋葬を終えて帰った後も、です。マタイによる福音書の27章61節には「マグダラのマリアともう一人のマリアとはそこに残り、墓の方を向いて座っていた」とあります。石で蓋をされた主イエスの墓の前で、その墓をじっと見つめながら座っている、この女性たちの姿はもはや理屈で説明できるものではありません。主イエスのお体がそこに、その墓の中にある、できるだけその傍にいたい、という思いが彼女たちを満たしているのです。週の初めの日の夜明けと共に彼女たちが香料を携えて再び墓に行ったのも、そういう思いからです。遺体に香料を塗るために行ったわけですが、3節には彼女たちが、「だれが墓の入り口からあの石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていたとあります。こんな朝早くから、彼女たちのために石を転がして墓の入り口を開けてくれる人が見つかるとも思えないのです。だから墓に入ることができるという当てはないのです。でも彼女たちは、夜明けと同時に墓に行かずにはおれなかった。主イエスのお傍に、その体のある場所に行きたかったのです。石を転がしてくれる人がいなければ、またじっとその墓の前に座って墓を見つめているつもりだったのでしょう。この女性たちの姿によって示されているのは、このような、主イエスの体に対する深い思い、こだわりなのです。

体の復活
 主イエス・キリストの復活の出来事は、この女性たちに最初に告げられました。それは主イエスの復活の出来事の意味に適う、必然的なことだと言うことができます。主イエスの復活は、体のよみがえりです。主イエスの体が、再び生きたものとなったのです。復活は、主イエスは体においては死んでしまったが、その魂は死んではおらず、弟子たちといつも共にいて下さることが分かった、ということではありません。あるいは弟子たちの心の中に主イエスの思い出がいつまでも生き続けた、ということでもありません。主イエスは体をもってこの世を生き、そして十字架にかけられて死んで、遺体となって墓に葬られた、その遺体が生き返ったのです。復活は、弟子たちの心の中に起った心境の変化ではなくて、主イエスの体に起った奇跡なのです。だからそれは、主イエスの体への深い思いを抱き、その遺体に仕えようとして墓にやって来た女性たちにこそ最初に告げられるべきものだったのです。

主イエスの体はどこに
 彼女たちは、主イエスのお体の傍にいたい、その体に香料を塗って仕えたいと思って、夜明けと共に出かけました。しかし墓に来て見ると、蓋をしていた非常に大きな石は既にわきへ転がしてあり、主イエスの体は墓の中になかったのです。そこには「白い長い衣を着た若者」がいました。それは天使でしょう。その天使が彼女らに、「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。御覧なさい。お納めした場所である」と告げたのです。天使は主イエスの復活を告げていますが、彼女たちが捜し求めている主イエスの体がここにはないこと、遺体を納めた場所がからっぽになっていることを彼女たちに確かめさせています。そしてさらに「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」と言っています。墓の中にはいない主イエスに、どこへ行けば会うことができるのか、を告げているのです。しかも「ガリラヤ」という具体的な地名を示しています。体をもって復活なさった主イエスの体と再び出会うことができる場所を告げているのです。このように天使の言葉は、主イエスの体を慕い求めている彼女たちの思いに対する答えとなっているのです。

体をもって生きている私たちの救い
 主イエスの復活は、体のよみがえり、肉体の復活です。だからそれは主イエスを体ごと受け止め、その体に仕えていた女性たちに真っ先に告げ知らされたのです。復活は、主イエスの「体」に対して深い思いを持ち、体をもってこの世を生きた主イエスと自分の体において関わりを持っている者においてこそ本当に分かることなのです。逆に言えば、主イエスとの関わりを、体においてでなく、ただ心において、主イエスの教えやみ業を理屈で受け止めることにおいてのみ持っている者には、復活は分からないし、その恵みも分からないのです。そのような関わり方においては、体の復活など必要ないからです。しかし父なる神は主イエスを体において復活させられました。そこに、神が主イエスによって私たちに与えようとしておられる救いとはどのようなものであるかが示されているのです。
 私たちは体、肉体をもって生きています。それは当たり前のことですが、しかし私たちはそのことを忘れていることがあります。若くて健康で元気なうちは、自分の肉体のことなど大して意識せずに生きることができるのです。しかしだんだんに年をとっていき、病気になったり、体の痛みや不自由さを体験するようになると、自分の体のことをいやおうなしに意識させられるようになります。体をもって生きていることの苦しみが分かってくるのです。私もこのところ次第に体のあちこちが痛む年齢になってきまして、以前は年配の方々が「ここが痛い、あそこが痛い」とおっしゃっているのを聞いて、「大変ですねえ」などと言いながら、全然実感として分からなかったのが、ようやく少しその苦しみが分かり始めたところです。体というのは、確かにだんだんに衰えていくものです。そして以前出来たことが出来なくなっていく。前はこんなことはなかったのに、ということが起るようになっていく。そのように体は次第に衰えていき、その行きつく先は死です。私たちの体は、だんだんに弱っていき、ついには死んで遺体となってしまう、それは全ての者に訪れることであって、そのことを無視して、考えないで生きることはごまかしなのです。主イエス・キリストの復活は、そのように次第に衰え、いつかは死を迎える体をもって生きている私たちのために、神が行なって下さった大いなる恵みのみ業です。神が主イエスによって与えて下さる救いは、私たちの魂や心にのみ関わることではないのです。救いは私たちの体にも及ぶ、主イエスの復活はそのことを示しているのです。

体の復活の希望
 この恵みのみ業は、主イエスが一人の人間となり、肉体をもってこの世に生まれて下さったことから既に始まっています。神の独り子であられる主イエスが、私たちと同じ人間となって下さり、体をもってこの世を生きて下さったことによって、同じ体をもって生きる私たちの苦しみを共に背負って下さったのです。主イエスは十字架の死において私たちの罪を背負って下さいました。私たちが神を愛し敬うのでなくむしろ敵対し、隣人を愛するよりもむしろ憎しみを抱き傷つけてしまう、そういう罪を全て主イエスは背負って、その罪人が受けるべき滅びとしての死を引き受けて下さったのです。先週も先々週も見つめましたが、主イエスの十字架の上での最後の、またマルコ福音書においては唯一の言葉が「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」つまり「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」だったことがそれを示しています。主イエスは、罪人が自らの罪のゆえに神に見捨てられて死ぬ、その絶望の死を味わい、背負って下さったのです。それが主イエスの十字架の苦しみと死の根本的な意味ですが、その十字架の死において主イエスは、神に見捨てられる絶望だけでなく、肉体をもって生きている私たちが次第に弱り衰え、ついには死んで墓に葬られていく、その私たちの肉体の死の苦しみをも徹底的に味わい、背負って下さったのです。そしてその主イエスを、父なる神が復活させて下さいました。主イエスの遺体を納めた墓は空になり、主イエスの体は生きたものとなったのです。私たちと同じ体をもって生き、私たちに先立って死の苦しみを味わい、遺体となって墓に葬られた主イエスを、父なる神は復活させ、新しい命を生きる新しい体を与えて下さったのです。この主イエスの復活によって神は、いつか死んで葬られる私たちのこの体をも復活させ、新しい命を生きる新しい体を与えて下さることを約束して下さったのです。体をもって生きている私たちの人生は、いつかは死に支配されて終わるけれども、それが終わりなのではなくて、その先に、神の恵みによる復活があるのだ、という救いを示して下さったのです。しかもその救いは、死んでも魂が天国に行って幸せに暮らすというのではなくて、体の復活です。主イエスによる救いは、体を離れての魂の救いではありません。今私たちが体をもって生きており、そのために様々な苦しみや不自由さがある、そして最終的には死んで葬られていく、その体が、神によって復活の命を与えられ救われるのです。その時には、私たちがこの体においてかかえている痛みや不自由、障碍などの全ての苦しみ悲しみが取り除かれ、もはや死に支配されることのない永遠の命を生きる新しい体が与えられるのです。主イエス・キリストの復活によって、そういう希望が私たちに示されているのです。

体の救い
 それゆえに、主イエスの体を深く愛し、体をもって生きておられる主イエスをその体ごと受け止め、自分の体、日々の生活をもって仕え、従っていたあの女性たちの信仰は正しいのです。男の弟子たちの、理屈が先に立つ、頭でっかちの信仰は、主イエスの逮捕と十字架の死という絶望の現実において何の力も持たないものでした。彼らはこの現実を前にしてなすすべもなく呆然と立ち尽くすしかなかったのです。しかし、主イエスとの関わりを体ごと、皮膚感覚で、言い換えれば日々の具体的な生活の中で体験し、自分の時間と手足をささげて仕えていた女性たちは、主イエスの十字架の死と埋葬においても、埋葬された後も、主イエスに仕える思いを失うことはなかったのです。そして神はこの彼女たちの信仰に応えて、主イエスを復活させ、主イエスの体と共に生きる者として下さったのです。私たちと主イエスとの関わり、つまり信仰は、単に魂や心の問題ではなくて、体における関わりです。私たちは洗礼を受けてこの体ごとキリストと結び合わされ、兄弟姉妹と共にキリストの体である教会を形作っていきます。またこの体をもって聖餐にあずかり、十字架につけられたキリストの体と血とにあずかり、復活して今も生きておられる主イエスと共に生きていくのです。そのように体をもって主イエスと共に生きていく者は、自分の体の弱りや衰え、そしていつか必ず迎える死においても、その苦しみを先に味わい背負って下さった主イエスに支えられて歩むことができるし、そして神が主イエスを復活させ、永遠の命を生きる新しい体を与えて下さったように、私たちにも、体のよみがえりを、復活と永遠の命を与えて下さる、その希望に生きることができるのです。体をもって生きる人生には苦しみ悲しみがあり、痛みや不自由さがあります。しかし神の独り子である主イエスが、体をもって生きて下さり、肉体の死の苦しみを背負って下さったことによって、体をもって生きる苦しみや痛みの中にある私たちと共にいて下さるのです。そして神は主イエスを復活させて下さり、私たちにも復活の約束を与えて下さいました。神による救いは私たちの体の救いでもあることを、主イエスの復活が告げているのです。痛みがあり、不自由があり、それまで出来ていたことが出来なくなっていくという弱り衰えを覚えつつこの体をもって生きている私たちの歩みの全てが、主イエスの復活によって、神の恵みのみ手の中に置かれているのです。

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