夕礼拝

主イエスの権威

「主イエスの権威」  副牧師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: サムエル記上 第8章4-22節
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第21章23―27節 
・ 讃美歌 : 229、358

人格的な権威
この日、主イエスは神殿の境内に入って教えておられました。そこに、祭司長や民の長老たちが近寄って来て、このように言いました。「何の権威でこのようなことをしているのか、だれがその権威を与えたのか。」(23節)祭司長、民の長老たちが主イエスに一つの問いを突きつけたのです。振り返って、思い起こしますとこれまでにも、主イエスの「権威」について語られたことがありました。同じマタイによる福音書の第7章の終わりの部分で、山上の説教の結びのところです。第5章から、6、7章とに渡って記された主イエスの説教の締めくくりに、それを聞いていた群衆の反応が示されています。7章28節ですが、こうあります。「イエスがこれらの言葉を語り終えられると、群衆はその教えに非常に驚いた。彼らの律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになったからである。」(7章28節)ここでは、興味深いことに、主イエスの権威は、律法学者の教え方と対比されているのです。律法学者たちは 神様から与えられた律法の言葉に精通し、その具体的な適用を人々に教えていました。そのようにして、人々からの尊敬を集めていました。律法学者と呼ばれる人たちこそ、当時を代表する権威ある者たちだったはずです。人々に、掟に触れることのない生活の仕方を教えることによって、権威を担うようになるのです。それは、宗教的な伝統に根ざした、制度的な権威です。他方、主イエスはどうでしょうか。主イエスは学者としての正規の教育を受けられたわけではありません。言ってしまいますと、主イエスは田舎から出た預言者の一人に過ぎないのです。それにも関わらず、主イエスは、律法学者たちとは異なり、「権威ある者」としてお教えになったのです。それはどのような権威でしょうか。制度や形式によって守られている権威ではありません。むしろ、もっと内的な人格的な権威です。主イエスの権威とは、その教え、振舞い、その人格もすべて、父なる神と直接につながる権威であり、神の独り子としての権威なのです。

罪を赦す権威
では、私たちはどうでしょうか。私たちは、宗教も一つの形式的な権威になってしまう危険性を持つことを、わきまえなければならないでしょう。本日の23節以下にある出来事は、「祭司長や民の長老たち」と主イエスの対話です。場所は神殿の境内です。神殿の責任者である祭司長たちと民の長老たちは、イスラエルの民の指導者たちであります。そして彼らは、エルサレムに、神殿に来られた主イエスに「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」と問われました。「このようなこと」とは、直接には、主イエスがこの神殿に来られてなさったこと、つまり12節以下に語られていた、売り買いしていた人々を追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒されたという、いわゆる「宮潔め」と呼ばれる行為のことです。主イエスの側から言えばそれは「宮潔め」ですが、彼らにすれば、自分たちが責任を持って管理している神殿の秩序を乱す行為です。祭司長や民の長老たちの問いは、主イエスによる「宮潔め」と密接に結びついています。そして、主イエスが前日の宮清めの際に引用されたのは、預言者たちの言葉でした。「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。ところが、あなたたちは それを強盗の巣にしている。」このように旧約時代の預言者たちが厳しく批判したのは、形式的になり、習慣的になってしまった宗教儀式であり、その中で権威の中に安住している指導者の在り方でした。神殿の祭司たちを中心に、宗教的伝統の中に立とうとした形式的な権威と、直接神に召され、神から使わされた預言者の神的な権威とが激しく対立し合ったのです。

十字架へと向かう中で
このような論争は、マタイによる福音書第9章においても現われています。9章1節からは主イエスが中風の人を癒された記事が記されています。ある時、主イエスのもとに、人々が中風の人を床に寝かせたままで連れて来ました。主イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に言われました。「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」。(9章2節)ところが、この主イエスの言葉を聞いた律法学者の中には「この男は神を冒涜している。」(3節)と思う者がいたのです。主イエスはここで、いわゆる宗教的な儀式を抜きにして、罪の赦しを宣言されました。そして、このことは。神様を冒涜すること、神様の領分を侵すことだと考えられたのです。ここでも、権威というものが問われています。神様おひとりのほかに、一体誰が、罪を赦すことができるだろうか、とつぶやいた人がいました。確かに、ただ神だけが罪を赦す権威を持っておられるのです。では、今まさに罪の赦しの宣言なさる、このイエスというお方は誰なのか、という問いへと向かわざるを得ないはずです。けれども、宗教的な儀式の中に埋もれて、動物の犠牲を献げることによって罪の赦しを求めるという下からの道だけに頼る者たちにとって、その手続きを守る神殿を中心とした儀式とは別のところに、無条件に罪の赦しを宣言する権威を認めることはできませんでした。主イエスの言葉と御業の中に、神が働いておられることを認めることができなかったのです。そして、自分たちの宗教的な権威を守るために、神の独り子を抹殺しようとしました。罪の赦しの権威に関わる論争は、既に、主イエスの十字架へとつながるものであったのです。

偶像化された権威
そして、本日の箇所の論争もまたはっきりと、主イエスが十字架へと向かう道の途上で起こった出来事として記されています。受難週の二日目の出来事ということです。直接的には、前日の宮清めの行為を問題にしたのでしょう。神殿の中で両替をしたり、犠牲の動物を売ったりする商売は、きちんと祭司たちの許可を得て行われていたはずです。それを勝手に追い出したのですから、当局の権威に盾突くものと映ったに違いありません。祭司長や民の長老たちは、翌日また神殿にやって来て教えておられた主イエスに対して、待ちかまえていたかのように問いただしました。「何の権威でこのようなことをしているのか。だれがその権威を与えたのか」。この言葉の背後には、自分たちの宗教的な権威を踏みにじられた者たちの憤りがあります。権威を持つ者たちにとって、その権威が重んじられないということほど、腹立たしいことはありません。ですので、権威の象徴するように、特別な衣服を身にまとったり、特別な仕草を身につけるのです。宗教的な儀式も次第に恭しく厳かに整えられていくのです。そして祭司は、まるで役者か何かのように、権威ある者を演じるようになります。確かに、その方が分かりやすいのかもしれません。本人たちだけではなく、見ている方にも分かりやすいのです。しかし、宗教が一つの形式的な権威になるとき、これもまた偶像になってしまいます。主イエスの権威というのは、そのような偶像化した権威の内実を、絶えず問い直していくのです。

問うことから問われることへ
24節で、主イエスはお答えになったとあります。ここで主イエスの答え、という言い方に、違和感を覚えるかもしれません。正確に言えば、24節以下で主イエスは、祭司長や長老たちの問いに対して、きちんと答えてはおられないのです。主イエスはここであえて、彼らの問いに対して直接答えることをしないで、別の問いをもって応じておられます。答えははっきりしているにもかかわらず、主イエスは敢えて、問いをもって切り返されたのです。そこに現れている意味をよく考えてみたいのです。私たちは、他者に対して問いをぶつけるとき、どのような位置に立つでしょうか。もちろん、本当に分からないことを質問することもあるでしょう。謙遜に、教えを請うための問いもあるに違いありません。しかし、ここに現れたように、相手の権威や資格を問う場合にはどうでしょうか。問う者の方が、かなり強い立場に立つということは、明らかです。あたかも正義は自分の側にあるかのように、自信を持って相手に問いただします。場合によっては、相手の弱点をついて、その正体を見破ろうとして問うのです。その場合、問われている側よりもむしろ、問う者の側に大きな問題が生じるのではないでしょうか。私たちが人を問いつめているとき、自分のことは問題にされません。自分は安全な場所にいて、他者を問いつめ、その矛盾を暴いていこうとする。それは興奮するような力強さに思えます。しかし、問う者の権威はどこにあるのでしょうか。もしも、形式上の権威がはぎ取られて、同じ問いで自分自身が問われたとしたらどうでしょうか。もはや、自信を持って問い続ける者であることはできなくなるのではないかと思います。だからこそ、自分に自信のない者たちほど、形式的な権威を振りかざして、相手を問いつめようとするのかもしれません。主イエスは、ここで、問う者たちに、逆に問いを投げかけることによって、外に向かっている目を、内側に向けさせようとしておられるのです。私たちは自分自身が問う者である以前に、問われるべき者であることに気づかせられるのです。神からの根源的な問いの前に、私たちを立たせられるのです。私たちは、神から問われている者なのです。私たちが主イエスにいろいろなことを問うていく時に、逆に私たちは主イエスからの問いかけを受けるのです。主イエスの問いの中には、そのような逆転を生み出す力がありました。信仰の歩みというのは、主イエスに色々な問いを投げかけて、満足のいく答えを与えられ、信じるということではありません私たちは、主イエスから問われているのです。信仰とは、そのことに気づくことなのです。

洗礼者ヨハネの権威
主イエスが彼ら祭司長や民の長老に問われたことは、25節以下の「ヨハネの洗礼はどこからのものだったか。天からのものか、それとも、人からのものか」ということでした。洗礼者ヨハネは、主イエスが人々に福音を宣べ伝え始める前に現われ、荒れ野で、人々の罪を厳しく指摘し、悔い改めを求め、悔い改めの徴としての洗礼を授けていた人です。主イエスは洗礼者ヨハネの働きは何の権威によるものだったか、天から、つまり神様からの権威によるのか、人から、つまり人間であるヨハネが勝手にしていたことで、本当に権威あることではなかったのか、そのことについての祭司長や民の長老の見解を求めたのです。洗礼者ヨハネは神殿の祭儀を重んじず、民の指導者たちにも従わないという活動は祭司長や民の長老には気に入らないものであったのです。祭司長や民の長老にとってヨハネの洗礼の位置づけは決まっていました。そなものは天からではない、ただの人間の勝手な業だというのです。しかし、彼らを取り巻いている多くの民衆はそうは思っていませんでした。彼らはヨハネを神様から遣わされた真実な預言者と信じ、ぞくぞくとヨハネのもとに行って悔い改めの洗礼を受けたのです。またヨハネはヘロデ王を批判して投獄され、獄中で首を切られて死にました。そのこともまた、権力に屈することなく正しい主張をして殉教した預言者としてヨハネを尊敬する機運を盛り上げていました。そのような人々の前で、「ヨハネの洗礼など人間の勝手な業で神様とは関係ない」などと言えば、群衆の怒りをかい、殺されてしまわないまでも、人々の支持を失うことになるのは目に見えているのです。それで彼らは「分からない」と答えました。すると主イエスも、「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と答えられました。主イエスはここで、洗礼者ヨハネの権威について、彼らの関わり方を問われています。洗礼者ヨハネは、主イエスのために道を備え、後から来られる主イエスを証しした人です。ヨハネの権威はまた、主イエスの権威を証ししています。ヨハネは、大勢の人たちから預言者として支持されていました。ヨハネの存在は目障りだったに違いありません。ヨハネは神殿を中心とする権威の体制からは外れた人だったのです。祭司長や民の長老は洗礼者ヨハネのもとに群衆が集まることに、妬みの思いを抱いていたのでしょう。しかし、今、ヨハネを否定すれば、群衆にそっぽを向かれます。祭司長たちは、群衆の顔を恐れたのです。それは結局彼ら自身が依り頼んでいた権威は、宗教的伝統や儀式という形だったということです。毅然として真理を貫くというのではなく、妬みや恐れに支配されながら、人々の顔色を伺っていたのです。主イエスの問いに対して、自らの責任を持って答えるというのではなく、むなしく論じ合うしかなかったのです。そして、なおも自分たちの権威と地位を守るために、明確な答えを避けるずるさをもっていました。私たち自身もまた、このように他者を問うことは簡単ですが、この同じ問いで自らを問うて見なければなりません。他者を問うことから、自分自身を問うことへ。祭司長たちとの問答を通して、主イエスは私たちにも、この転換を求めておられるのです。

主イエスのもとで
主イエスの問いの前に立たせられます。私たちは自分自身の存在を問われます。そのとき、私たちは、自らの頼りなさ、不完全さ、そして罪深さを認めざるを得ません。しかし、それらの惨めさががえぐり出されてくるとき、私たちは、主イエスの権威がどこから来たのであるかを、改めて示されます。神の独り子が、人となってこの地上に来て下さいました。私たちは本日より、主イエス・キリストのご降誕を待ち望むアドヴェントを迎えました。この世に、最も小さき者として私たちのところに来て下さった主イエス・キリストのご降誕を待ち望むときです。そして、主イエス・キリストは十字架の上でご自身の一切を罪の贖いのために捧げて下さいました。罪の贖いを成し遂げてくださいました。そのためにエルサレムへ来られたのです。主イエスこそは、罪を赦す神の権威を持っておられるお方です。十字架によって罪の赦しの道を切り開いてくださったのです。本日は聖餐に与ります。主イエスの出来事を覚え、感謝する時です。主イエスが私たちに仕えてくださったのです。仕えて下さる権威です。私たちに命を与える権威です。そして、私たちを罪から解き放つ権威なのです。死の力をうち破ってよみがえられた主イエスは、高い山の上に弟子たちを集めて言われました。マタイによる福音書の最後の箇所ですが。主イエスは「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われました。
主を待ち望むアドヴェントの時を歩み始めます。私たちのところに来て下った主イエスが私たちに問いかけられます。そして、主イエスが与えて下さった務めにこの場所より私たちは遣わされます。私たちが、主イエスから託された務めに生きるとき、主は私たちのただ中に共にいてくださいます。主イエスは「子よ、あなたの罪は赦される」と言われました。真の権威あるお方である、主イエスを心からの喜びをもってお迎えしたいと思います。

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