夕礼拝

右頬打たれ左頬を出す

「右頬打たれ左頬を出す」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:創世記第4章23-24節
・ 新約聖書:マタイによる福音書第5章38-42節  
・ 讃美歌:7、513

 私が夕礼拝を担当している時は、マタイによる福音書を読み進めております。今マタイによる福音書の5~7章にかけて書かれてある「山上の説教」と呼ばれる、イエス様の教えを読んでいます。本日は5章38節以下を読むのですが、ここは、5章17節から20節までの箇所と密接に結びついています。イエス様は17節で「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだと思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」と言われました。また20節では、「あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」と言われました。律法とは、神様が旧約聖書において、イスラエルの民に与えられた掟、戒めです。イエス様を信じ、従っていく信仰者は律法を守っていきます。ここで書かれている律法学者やファリサイ派の人々は旧約聖書の律法の専門家でした。彼らは字義どおり、律法を受け止め、律法に書かれていることはしっかりと守るのですが、律法の本来の目的である、神様を愛し、隣人を愛するという愛の関係を築くということを無視して、律法を守っていました。彼らの義、つまり彼らの正しさは、律法を言葉通り守るという正しさでした。イエス様を信じる者は、律法の本来の目的である、「神様を愛し、隣人を愛する」ということを実現するために律法を守ります。だから信仰者は律法学者やファリサイ派以上の義、正しさに生きなくてはならないということでした。本日の聖書の御言を通してイエス様は、律法学者やファリサイ派の人々にまさる義とは具体的にはなんなのかということを、実際にある一つの律法を通して、わたしたちに説明して下さっています。それが本日の38節以下に語られています。
38節から39節かけて「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と命じられている。?しかし、わたしは言っておく」と語られています。『目には目を、歯には歯を』という言葉は、旧約聖書のレビ記の中にも登場する律法の言葉です。レビ記24章17節以下にそれが語られています。特にその19、20節です。「人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならない。骨折には骨折を、目には目を、歯には歯をもって人に与えたと同じ傷害を受けねばならない」。わたしたちの今日の感覚からすると、この律法をずいぶん残酷な、野蛮な教えであるように感じますが、この教えが意味しているのは、過剰な復讐をしてはならない、ということです。人から何か損害や苦しみを受けた、それに対して個人的な恨みや憎しみによって復讐していくならば、その復讐は決して「目には目、歯には歯」で止まるものではありません。目をつぶされた者は相手の目だけでなく自分が傷つけられたよりもひどい復讐をしようとする、歯を折られた者は相手の腕の一本も折ろうとする、それが人間の復讐の思いです。復讐は復讐を生み、エスカレートしていきます。それは人間の本性に根ざすことであると言わなければならないでしょう。本日共に読んだ創世記にもあるように、23節「わたしは傷の報いに男を殺し/打ち傷の報いに若者を殺す。」と言っています。これは自分の力で身を守っていたレメクという男が、自分の妻に誇った言葉です。傷の報いで人を殺すと宣言しています。そのような、復讐が過激になっていくことへの抑止力として、この「目には目を歯には歯を」は、殺人の有効であったといえるでしょう。ただの野蛮な教えというわけではありませんでした。人の復讐が過激になっていくことを止め、人が人を殺すこととの抑止ともなっていた大切な教えでした。しかし、この律法には、「人を撃ち殺した者は、必ず死刑に処される」とも書かれてあります。この律法で、人を殺したものを死刑に処すことができたのです。つまり「生命には生命を」ということです。この「目には目を歯には歯を、生命には生命を」という律法の元々の考えは、神様のものである人を、勝手に傷つけたり殺したりした場合、その傷つけたり殺したりした者は神様のものに損害を与えたことになるので、神様御自身が賠償を要求され、目や歯や生命を要求するということが根底にあります。つまり、この律法は、神様が御自分のものを不当に奪われることに対する賠償です。この律法は、ただ単に自分が傷つけられたから、傷つけ返してもいいという人の権利が書かれているのではなくて、すべての命ある者は神様のものであるから、「神様がその賠償を要求する」ということが大切なことでありました。また、この律法は、神様のものである人の生命を勝手に終わらせることは、ある意味神様への反抗になるということを、人に知らせることになります。人を傷つけること、殺すことが神様への反逆を行うことであるということ知らせ、「人を殺してはならない」ということを促し、殺人を抑止する良い律法でありました。根底には人と人が争い殺しあうことを止めさせ、そのように人が互いに傷つけあって自滅していくことから守りたいという、神様のご意思と愛によって、この律法は出来上がっていたのです。
しかし時がたち、山上の説教が語られた時代に生きる人たちは、この律法を、神様とは関係なしに考えていました。そのために、「目を傷つけられれば、目を傷つけ返してもいい」「歯をやられれば、歯にやり返してもいい」というように、復讐することが自分に与えられた権利であるかのように思ってしまっていました。そうなれば、おそらく殺人に関しても、「人を殺した人は、殺された人と同様に殺されるべきだ、わたしたちはそのものを殺していいんだ」と、そう考えるだけになっていたでしょう。冒頭で、律法学者やファリサイ派の人は、律法は字義通りに守ることが正しいことであると考えていたと申しました。この律法もまた、ただ字義通りに理解し守るだけでは、自分の復讐の権利が保証されていることを主張するようになってしまい、またさらには、目を傷つけられたら必ず目を傷つけ返さないといけないという乱暴な考えを助長するルールになってしまいました。「神様が人に傷害を加えた者は、それと同一の傷害を受けねばならないと定めているから、お前を傷つける」という、慈悲もゆるしの心もない考えで、神様の言葉を武器に、堂々と復讐するようになってしまったのです。 本来、神様は人と人が互いに傷つけあうこと、殺しあうことから守るために立てられた律法が字義通りの解釈により、変容してしまっていたのです。

わたしたちもその思想の中にいる  
 わたしたちはユダヤ人ではありませんから、この「目には目を歯には歯を」という律法のもとに生きていませんでした。しかし、わたしたちの内に、どこかこの考えはあるのではないでしょうか。自分が、受けた損害や痛み分は、相手に仕返しすることができる。そのようにして、公平性が保たれると、わたしたちは考えていることが多いと思います。わたしたちも、知らず知らずの内に、「目には目を歯には歯を」の思想を持っています。しかも、すべての人が神様のものであるという考えなしに、この「目には目を歯には歯を」を用いるならば、公平性を掲げる、赦しのない復讐を助長することになります。わたしたちは、すべての命あるものが、神様のものであるということを、忘れています。自分の生命、体、人生も、神様のものであると思うことなく、自分で所有していると思いがちです。そして神様を忘れて生きる時、他者の体や人生、生命も、自分が所有したいという思いに駆られることがあります。他者の体を傷つけることというのは、ある意味、相手を傷つけていいもの、つまり、自分のおもちゃを乱暴に扱うように、相手を自分のもののように扱っているということです。  

悪人とは、神様のものを神様のものとせず、自分のものように扱う者  
 39節でイエス様は、「しかしわたしは言っておく」と言われ、これまでの「目には目を歯には歯を」の解釈を否定され、新たに「悪人に手向かってはならない」という教えを、山上に集まっていた弟子たちや群集たちに伝えました。ここで悪人と言われているのは、どのような者でしょうか。わたしたちは悪人といったら、性根から腐りきっている悪の権化みたいなものを想像するかもしれません。法やルールを守らない人、相手を理由もなく一方的に痛めつける人であったりを想像するかもしれません。しかしここで言われている悪人というのは、もっと広い意味で「神様のものを神様のものとせず、自分のものように扱う者」であるでしょう。39節後半で「だれかがあなたの右の頬を打つなら」とイエス様がおっしゃっているので、悪人というのは、そのように自分に攻撃をするものであるだろうとわたしたちは考えていると思います。確かにそうなのですが、もっと大きく見れば、その平手打ちをした人は、打たれた人のことを、神様のものであると考えず(知らず)、自分のもののように殴っていいと考えているから、その人は躊躇なく殴るのです。神様に対抗しているから、悪人なのです。そのような意識があるかないかは別にして、神様に対抗し、人を神様のものだと思わず、自分の所有物のように思っている人に向かって、イエス様は手向かってはならないと39節でおっしゃっています。

あなたは悪人に手向かってはならない   
 「悪人に手向かうな」の「手向かう」という言葉は、「抵抗すること」、「敵対すること」で、広い意味で「争う」ということです。つまり「神様を忘れ、自分をもののように扱う人に、敵対するな、争うな」ということをイエス様は教えておられます。   

なぜ手向かってはいけないのか  
 このイエス様の教えを聞く時、わたしたちはイエス様に対して、「それは厳しすぎます」と言いたくなります。自分をもののように扱う酷いやつに対して、なぜ反抗したり、敵対したりしちゃだめなのか。神様に反抗しているものに対して、なぜわたしたちは敵対しちゃだめなのか。「神様の敵ならば、神様と共に歩んでいる、もしくは神様と共に歩みたいと思っているわたしたちにとっても、そいつは敵だ」「なのになぜ、わたしたちは敵対したり、戦ったりしてはだめなのでしょうか」という疑問をわたしたちは拭い去ることはできません。なぜだめなのか。それは、悪人に裁きを下すのはわたしたちではなく、神様だからです。「目には目を歯には歯を」の根底にある考えも、創世記の9章のノアとの契約の中にでてくる「あなたたちの命である血が流された場合、わたしが賠償を要求する」ということに基づいています。「目には目を歯には歯を」は本来、旧約時代の神様の賠償の要求を具現化したことです。一番大切なのは、神様のご意思です。神様がこの悪人に対して、どのようになさりたいのかということが、本来は一番大切なのです。イエス様が悪人に手向かってはならないとわたしたちにおっしゃったのは、第一に、「父なる神様が父の正しさによってその悪人に対して何らかのことをなさろうとしているということを知りなさい。早まって、あなたがたが敵対して手を出したり、ましてや裁いたりしてはならない」ということを伝えたいからです。神様に従って歩みを始めた弟子たちや信仰者たちのあるべき姿がここに示されています。信仰者たちは、悪人に何かされても、そのことに対して必ず神様が何かを行ってくださるということに委ねることです。必ず何かを行ってくださると言っても、「目には目を歯には歯を」的に、相手に同等の罰を与えて下さるというわけではありません。神様が、その悪人に対して、何をさせるのかは、どのようにしたいのかは、神様の正義と自由によって決断されます。神様と共に歩むものは、その神様の決断が正しく、なによりも勝る決断であることを信じます。そして、その決断通りに、事を行ってくださることをも信じるのです。

神様のご意思はなにか  
 神様は悪人に対して、どう思っておられるのでしょうか。悪人とは、神様を忘れたり、神様を無視して生きていたり、またすべての生命あるものが神様のものであることを知らずに、自分のもののように扱おうとする人です。その人のことを神様に敵対する人とも言いました。神様に敵対する人とは誰でしょうか。それは、聖書に出てきています。罪のないイエス様を、十字架に架け、また侮辱したり、見捨てたり、裏切ったりした人たちです。そのような人々は、ユダヤ人の祭司や律法学者やユダだけではありません。一番弟子であったペトロもイエス様を見捨てました。イエス様のことを慕っていた群集たちも、「殺せ、殺せ、十字架にかけて殺せ」と叫んでいました。あの時、神様に敵対していない人は、誰一人としておりませんでした。すべての人がイエス様のことを傷つけていました。わたしたちは、どうでしょうか。わたしたちは、神様のものであるわたしたちの隣人、家族、友人を、傷つけることなくいきてきたでしょうか。腹を立て仕返ししてやりたいと心に抱いたことはないでしょうか。または相手を支配したい、相手をものにしたいと思ったり、実際にそのように行動を起こしたりしたことはないでしょうか。自分を含め隣人や家族、愛する人に対して、好き勝手なことをしているのならば、それは神様に対して、好き勝手なことをしているということです。そのようにしてしまうのは、わたしたちの罪故です。神様に対して根っから敵対してしまうのは、わたしたちが「自分を中心にしたい、わたしの支配下にすべてを起きたい、すべてを所有したい」ということを心に思わせ、また行動させるわたしたちの罪故です。イエス様は、そのような者たちから、理不尽に傷つけられ、侮辱され、十字架で死ぬことを強いられました。イエス様や父なる神様は、そのような者、つまりそのような悪人に対して、どのような思いを持っておられたのか。それも聖書に書いてあります。ヨハネによる福音書に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」とあります。神様は、そのような悪人であるわたしたちのことを、愛されて、さらに、その愛ゆえに、わたしたちを赦されたのです。神様は神様に敵対するものをも愛されたのです。そして、赦したいとお考えになっているのです。神様はわたしたちに、この愛に基づいて、イエス様を通して「悪人に手向かってはならない」と言われているのです。

その間違いに目を向けさせるためのわざ  
 イエス様は、「手向かうな」といわれるだけでなく、さらなることをわたしたちに要求されています。そのことをイエス様は39節、40節、41節で3つの言い方で言われています。3つのことは、ひとつひとつ違いがありますが、どれも、理不尽な状況で苦難にあった場合に、仕返しするのではなくて、逆にそれ以上の苦難を望むということです。右頬打たれても、左頬をだすこと。下着という安価なものまでも裁判で要求される状況で、上着とありますが、これは外套つまりコートのことまでも、あげなさいということが言われています。この当時、外套は、身を守るもの、また寝床のない人にとっての寝具でもありました。その身を守るものまでも、与えなさいといっておられます。41節の「一ミリオンいかせるように強いる」のこの強いるは、国家的に強制的に、強いられるということを示す言葉です。この当時、ユダヤは、ローマ帝国に支配されていましたから、戦争が起これば、ユダヤ人が軍隊にだけでなく、食糧を緊急に強いられることもあったかもしれません。そのように、無理矢理に共に歩まされることがここでは描かれています。そのものに対して、「一緒に来いといった1ミリオンだけでなく、一緒に2ミリオンいきなさい」とイエス様は言われています。「左の頬をも向けなさい」「上着をも与えなさい」「一緒に二ミリオン行きなさい」ということに示されているのは、そのように自分を苦しめる相手に対して、むしろ愛をもって臨めということです。これはただ抵抗するな、対抗するなということだけではありません。次の43節以下の、所謂「敵を愛しなさい」という教えにつながっていきます。本日の、「復讐をするな」という教えが消極的な仕方で語っていることを、「敵を愛しなさい」という教えは積極的な仕方で語っているのです。  

 もう一度、右頬のことを思い出して見たいと思います。右頬打たれて左頬をだす。このことを考える時、わたしたちはいつも自分が打たれる側の人であると思っています。そんな右頬打たれて左頬だすなんて、「目には目を歯には歯を」を超えているし、いやだな。なんでそんなことイエス様は要求するのかなーと思ってしまいます。ですが、逆の立場になって考えてみましょう。おそらく、うつ側に立ったわたしたちは、ビンタ一発で怒りを収められるものではありません。本日共に読んだ創世記にもあったように、わたしたちの怒りや憎しみの思いは、どれほどのことをしても消えません。突然、自分の子どもを殺されてしまった親が、その犯人が死刑になることを望み、実際に死刑なってもその怒りや子を奪われた憎しみは止むことがありません。このイエス様の話の中にでてくる平手打ちを食らわした人も、「目には目を」のごとく、一発食らわして「はい。スッキリ」とはいかないでしょう。わたしたちは、怒りを覚えた人に、一発を打ってももう一発平手打ちをしたくなると思います。もしかしたら、わたしたちの平手打ちはやまないかもしれません。そうすれば、目の前にいる人は、どうなっているでしょうか。ボロボロです。平手打ちはユダヤ人の間では屈辱的な行為ですから、その人はとんでもなく辱められていることでもあります。その時になって、やっとわたしたちは、自分の愚かさに気付くのではないでしょうか。  

神様は赦そうとされている  
 神様は、独り子イエス様に忍耐を命じ、十字架での苦しみを要求されていました。わたしたちは、そのイエス様を知らずに理不尽にボロボロしていました。そのイエス様をボロボロしていたことに気づいた時に初めて、己が悪人であり罪人であることを知ることができました。そして、イエス様を信じ、洗礼をうけ、悪人から、神様の民になることを赦されました。わたしたちは元悪人です。罪を赦された元悪人のわたしたちが、今神様を知らずに理不尽な振る舞いをしている人に対して、敵対できるでしょうか。わたしたちは、平手打ちをくらった後に、反対の頬をだすことできるほど、強いものではありませんが、その理不尽な人に対して忍耐して立つことはできます。その時、わたしたちは苦しみます。神様は。なぜわたしを苦しめるのだろうかと思います。しかし、この苦しみは無駄にはなりません。理不尽なものに対して、忍耐して、愛をもって受け止める時、その時、わたしたちはかすかに、イエス様のしてくださった偉大な忍耐を指し示すことができます。わたしたちを、忍耐することを通して、鏡に映し出すように、目の前の神様を忘れた人に、自身の罪をわたしたちの忍耐を通して、映し出させることができるのです。その時、隣人は自分自身の罪の中にいる姿を直視することになるでしょう。  

神様は悪をのさばるようにされない  
 神様はこの「悪人に手向かうな」という教えで、悪人を世にのさばらせようとしているのではありません。そのために、神様は、国をたてられ、法の秩序を作られ、裁判制度を造られています。それらを用いて神様は、悪人が好き放題することを止めています。わたしたちは、その神様の力と守りと正義を信じ、わたしたち自身は、忍耐をもって、自らを傷つけるものの前に立つのです。神様は、そのわたしたちの小さな忍耐の業を、神様の大きな救いの業の一部として、受け入れてくださいます。その神様の要求を胸に今週もまた歩んでまいりたいと思います。

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