主日礼拝

つまずきを越えて

「つまずきを越えて」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ゼカリヤ書第13編7-9節
・ 新約聖書:マルコによる福音書第14章27-31節 
・ 讃美歌:18、141、401

つまずきの予告  
 マルコによる福音書を主日礼拝において読み進めておりまして、いよいよ主イエスが捕えられる場面を迎えようとしています。前回読んだ26節をもって、主イエスが弟子たちと共に取られたいわゆる「最後の晩餐」が終わりました。26節に「一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた」とあります。この「賛美の歌」は、過越の食事の終わりに歌われる詩編のことです。その賛美の歌を歌ったことによって最後の晩餐、過越の食事は終わり、一同はエルサレムの市街を出て、谷を越えた向こう側にあるオリーブ山へと向かったのです。そこには、彼らがいつも夜を過ごしていた、ゲツセマネと呼ばれる場所がありました。本日の箇所である27から31節は、そこへと向かう途中での話です。もう夜も更けています。町を出てオリーブ山へと向かう道は暗く、足もとによく注意しないとつまずいて転んでしまいそうだったと思われます。その道を歩きながら主イエスは弟子たちに、「あなたがたは皆わたしにつまずく」とおっしゃったのです。  
 「つまずく」という言葉が聖書にはよく出てきます。教会においてもよく使われる言葉です。その意味は、主イエスに従っていくことができなくなること、信仰を失ってしまうことです。信仰の歩みにおける挫折のことを、つまずいて転んでしまうことになぞらえているのです。主イエスはここで弟子たちに、「あなたがたは皆わたしにつまずく」とおっしゃいました。弟子たちの全員が、主イエスに従って来ることができなくなる、信仰を失ってしまう、とおっしゃられたのです。

わたしは羊飼いを打つ  
 弟子たちはなぜつまずいてしまうのでしょうか。彼らの信仰が弱いから、主イエスにどこまでも従って行こうとする勇気と力が足りないからでしょうか。確かにそうも言えるでしょう。しかし主イエスはここで、弟子たちの弱さや信仰の不確かさを指摘して、もっとしっかりしなければだめだ、と言っておられるのではありません。主イエスは「つまずかないように注意しなさい」と言っておられるのではなくて、弟子たちが皆必ずつまずく、と予告しておられるのです。その根拠として語られているのが、27節後半に引用されている旧約聖書の言葉です。「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう」。この引用によって語られているのは、羊の群れである弟子たちがつまずき、散らされてしまうのは、羊飼いである主イエスが打たれ、殺されてしまうからだ、ということです。羊飼いを失った羊の群れは、まさにばらばらに散らされてしまいます。弟子たちが、主イエスの逮捕と十字架の死に直面してつまずき、従い通すことができないのは、それと同じように、指導者である主イエスが打たれるからなのだと言っておられるのです。さらにこの引用は、羊飼いを打つのは「わたし」つまり主なる神様ご自身だということを語っています。神様が羊飼いを打ち、そのために羊が散らされていく、そのように神様が主イエスを打ち、そのために弟子たちがつまずき、散らされていくのです。そうであるならば、弟子たちがつまずくのは彼らのせいと言うよりもむしろ神様のせいだとも言えるのです。しかし主イエスはここで、弟子たちのつまずきの責任の所在を語ろうとしておられるのではありません。そういうことではなくて、弟子たちがつまずくことの背後に、父なる神様が主イエスを打つ、という神様のみ業があることを示すことによって、弟子たちのつまずきをも包み込んで進んでいく神様のご計画、み業を示そうとしておられるのです。  
 その神様のご計画、神様が為そうとしておられるみ業とはどのようなものであるかが、この引用の元である、先程朗読された旧約聖書の箇所、ゼカリヤ書第13章7節以下を読むことによってはっきり示されます。そこをもう一度読んでみたいと思います。「剣よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ/わたしの同僚であった男に立ち向かえと/万軍の主は言われる。羊飼いを撃て、羊の群れは散らされるがよい。わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。この地のどこでもこうなる、と主は言われる。三分の二は死に絶え、三分の一が残る。この三分の一をわたしは火に入れ/銀を精錬するように精錬し/金を試すように試す。彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え/「彼こそわたしの民」と言い/彼は、「主こそわたしの神」と答えるであろう」。ここで預言者は、イスラエルの民を羊の群れにたとえて語っています。その民の羊飼いが打たれ、羊の群れは散らされてしまう、それは民の罪に対する神の怒りによることです。その神の怒りによって、民の三分の二が死に絶え、三分の一が残る。そして神様はその三分の一を火で精錬し、清めて、「彼がわが名を呼べば、わたしは彼に答え『彼こそわたしの民』と言い、彼は『主こそわたしの神』と答える」というふうに、彼らを、主なる神様と、呼べば応えるという関係に生きるまことの神の民としようとしておられるのです。それが、神様の救いのご計画です。つまり、主が羊飼いを打ち、羊が散らされるのは、民の罪に対する主の怒りによることだけれども、怒って民を滅ぼし尽くしてしまうことが神様のみ心なのではなくて、その試練を通して、もう一度、まことの神の民を興すことが神様の目的なのです。

あなたがたより先にガリラヤへ行く  
 主イエスも、神様のこのご計画、目的を意識しつつこのゼカリヤ書の言葉を引用しておられるのです。つまり、羊飼いである主イエスが打たれ、弟子たちはつまずき、散らされてしまうけれども、そのことを通して、まことの神の民が再結集されていく、主イエスはそのことを28節の「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」というお言葉によって語っておられるのです。このお言葉が示しているのは、主イエスの逮捕と十字架の死においてつまずき、散らされてしまう弟子たちに、復活なさった主イエスがもう一度出会って下さり、彼らを新たに弟子として、信仰者として立てて下さるということです。ガリラヤは弟子たちの故郷です。このガリラヤで、彼らは主イエスと出会い、召されて弟子となり、今日まで従って来ました。ガリラヤは彼らが弟子としての、信仰の第一歩を踏み出した所なのです。そしてまた、信仰の歩みにいてつまずき、主イエスに従い通すことができなかった弟子たちが、信仰における挫折し、足取り重く帰って行く先もガリラヤです。そのガリラヤに、復活なさった主イエスが、彼らよりも先に行って、そこで彼らを迎え、もう一度主の弟子として新しく歩み出させて下さるのです。彼らが、つまずきという試練を越えて、まことの神の民、まことの弟子の群れ、まことの信仰者の群れとして再結集される、そのことがこのガリラヤにおいて実現するのです。そういう主なる神様のご計画に基づいて、主イエスは「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」と語っておられるのです。

ペトロの裏切りの予告  
 ところが、このお言葉を聞いたペトロは「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」と言いました。ペトロは最初に主イエスの弟子になった、弟子の中の最古参です。弟子の筆頭としての自覚とプライドをもって彼はこう言ったのでしょう。彼のその気持ちに嘘偽りはなかったろうと思います。ペトロは確かに、自分は主イエスにつまずき、信仰を捨ててしまうことなど決してしない、と思っていたのです。そのペトロに対して主イエスはさらにこうおっしゃいました。「はっきり言っておくが、あなたは、今日、今夜、鶏が二度鳴く前に、三度わたしのことを知らないと言うだろう」。「今日、今夜、鶏が二度鳴く前に」という言い方は、次第に範囲を狭めていき、ペトロの裏切りの時刻を特定していくような言い方です。もう夜も大分更けています。その夜が明ける前に、ということはあと数時間の内に、ペトロは三度主イエスのことを「知らない」と言うのです。「三度」とは「徹底的に」ということです。「三度知らないと言う」とは、主イエスと自分との関係を徹底的に否定してしまうということです。ペトロはそういう「つまずき」に陥るのです。しかしペトロはさらに、「たとえ、御一緒に死なねばならなくなっても、あなたのことを知らないなどとは決して申しません」と力を込めて言い張りました。「皆の者も同じように言った」とあります。他の弟子たちも皆、自分は主イエスにつまずくようなことはない、と断言したのです。先程も申しましたが、このペトロや弟子たちの言葉は嘘ではなかったでしょう。彼らは本当に、死に至るまで主イエスに従って行くつもりだったのだと思うのです。けれども、いざという時になると、それができなかった。主イエスが捕えられる時には彼らは皆逃げてしまいました。ペトロは、捕えられた主イエスのことを案じて、大祭司の屋敷の中庭に入り、様子を伺っていましたが、そこで「あなたもあのイエスの仲間だろう」と問われて、思わず「そんな人は知らない」と言ってしまうのです。そこに、人間の弱さが表れています。心では決意していても、実際に命の危険に直面する中でそれを実行することはなかなか出来ないのです。

自分の勇気と力を見つめているペトロ  
 私たちは、ペトロの陥ったこのつまずきを、今申しましたように人間の弱さによることと受け止めがちです。それはその通りなのですが、さらに突っ込んで、その弱さはどこから来ているのかを考えたいと思います。それによって、その弱さ、つまずきを乗り越える道をも知ることができると思うのです。ペトロは、主イエスの前で力を込めて語ったあの勇ましい言葉を実行する力、勇気が足りなかったからつまずいたのでしょうか。もっと勇気や力を身に着ければ、つまずきを乗り越えることができるのでしょうか。聖書が語っているのはそういうことではないと思います。ペトロの弱さ、つまずきの原因は、自分の決意を実行する勇気や力が足りなかったことにあるのではなくて、むしろあの勇ましい言葉そのものに、彼の弱さの原因が、つまずきに陥った理由があったのではないでしょうか。彼が力強く語ったことは、「自分はどこまでも主イエスについていくことができる。従い抜くことができる」ということでした。そのように語った彼は、信仰における自分の勇気や力を見つめています。そのように自分の力を見つめ、自分はこういうことが出来る、ということを見つめている彼は、人と自分を見比べています。29節の彼の言葉がそれを示しています。「たとえ、みんながつまずいても、わたしはつまずきません」。ここの原文には「つまずく」という言葉は一回だけ、「たとえみんながつまずいても」という所にのみ語られています。その後のところを直訳すれば「しかし私は違います」となります。つまりペトロは、「私だけは他の連中とは違う」という思いでこの言葉を語っているのです。自分の力や勇気、自分が出来ることを見つめていく所には必ずこのような思いが生じます。私たちも、人と自分とを比べることによって、自分の力や勇気を確かめ、自分に何が出来るかを確認しようとするのではないでしょうか。しかしそのように自分の力や勇気、自分が出来ることを見つめ、それにこだわっていたことこそが、ペトロの弱さ、つまずきの原因だったのではないでしょうか。私たちは、自分の力や勇気に依り頼み、それによって生きていこうとすることによって、確かに大きな力を発揮することがあります。この時のペトロのように勇ましい思いを、口先だけでなく心から抱くこともあります。しかし残念ながら私たちの力や勇気には限界があって、それを圧倒的に越えるような事態に直面したら、持ちこたえることができないのです。固い木の枝が突然ポキンと折れるように、私たちの勇気や力は粉々に砕け散り、挫折に陥るのです。自分の勇気や力に依り頼み、自分にはこれが出来る、ということにこだわっているところにこそ、つまずきが生じるのです。

自分の足で立っていると思っている人こそ  
 このことは、信仰における「つまずき」が生じる所に共通して起こっていることだと思います。信仰をもって生きていく中で、私たちはいろいろなことにつまずきます。苦しみや悲しみが襲って来ることによってつまずいてしまうこともありますし、教会の方針が自分の考えと違うことにつまずきを覚えることも、あるいは誰かのある言葉につまずいたり、教会における人間関係につまずいたりします。信仰におけるつまずきの要因を捜せばきりがないのです。私たちは、そういうつまずきを人に与えてしまわないように、極力注意しなければなりません。けれども、信仰におけるつまずきは、根本的には、その人が自分の思い、自分の力、自分に出来ることに依り頼み、それにこだわっているから生じるのです。自分が思っている神様の恵みが与えられずにむしろ苦しみや悲しみが生じてくることによってつまずくのだし、教会において自分の思いが通らないことでつまずき、人間関係において自分が傷つけられたと思う時につまずくのです。つまずきの原因は、自分へのこだわりです。ペトロはまさに、自分の信仰における勇気や力にこだわり、自分は他の連中とは違って最後まで主イエスに従うことができる、信仰者として自分の足で立ち続けることができる、と思っていたがゆえに、つまずき倒れてしまったのです。つまり、自分の足でしっかり立っているし、立ち続けることが出来ると思っている人こそが、つまずき倒れてしまうのです。

自分へのこだわりから解放されている人は  
 そうであるならば、つまずきを乗り越える道は、つまずかないでしっかりと立ち続けることができる力を身に着けることにあるのではありません。力や勇気を身に着けようとする努力は、結局、より大きなつまずきを生むだけなのです。私たちは、自分の力でこのつまずきを乗り越えることは出来ないのです。なぜなら私たちは自分に対するこだわりを捨てることができないからです。自分を無にすることは私たちには出来ないのです。人間の心というのは複雑なもので、「自分を無にして神様のために、あるいは隣人のために尽くす」ということの中で、自分の力を誇り、自分の名誉を求め、つまり自分にこだわっている、ということが起こるのです。どこまでも謙遜であろうとすることによって実はその謙遜な自分を誇っている、ということもあります。ですから、ある人が本当に自分を無にしているのか、あるいは本当に謙遜に生きているのかは、その人の働きを見ていても分かりません。そのことはむしろ、その人が自分と人とを比べているかどうかによってこそ分かるのです。その人が他の人のことを「あの人は自分を無にしていない」とか、「あの人は謙遜でない」と批判していたら、それはその人自身が自分にこだわっており、人と自分を比べて誇ろうとしていることの現れです。本当に自分を無にしている人、本当に謙遜な人、つまり本当に自分へのこだわりから解放されている人は、そのようなことは言わないのです。そういう人はむしろ、自分は自分を無にすることが出来ておらず、本当の謙遜からほど遠い者であることを知っており、人のことを批判するのではなくて、様々な点で欠けのある人の働きを受け入れるのです。

主イエスによって背負われている  
 私たちは、自分へのこだわりを捨てることが出来ない者です。従って、つまずきを乗り越えることが出来ないのです。そんな私たちに、つまずきを乗り越えさせるものがあるとしたらそれは、先程の28節の主イエスのお言葉、「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く」、このみ言葉以外にはありません。ガリラヤは、先程申しましたように、主イエスにつまずき、信仰に挫折した弟子たち、自分を無にして主イエスに従うことができず、我が身かわいさで主イエスを見捨ててしまい、主イエスのことを「知らない」とさえ言ってしまった弟子たちが、自分の弱さを思い知らされた失意の内にすごすごと帰って行く所です。その彼らを、復活した主イエスが、先回りして迎えて下さるのです。それは、主イエスが彼らのつまずき、信仰の挫折を、全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって彼らの罪を赦して下さり、そして復活して永遠の命を生きておられる方として彼らに再び出会い、もう一度彼らをご自分のもとに集め、弟子として、信仰者として新しく立てて下さるということを意味しているのです。つまずき倒れた弟子たちは、この主イエスによる赦しと再結集によって、もう一度新たに、弟子として歩み出すことができるのです。その歩みはもはや以前と同じではありません。一旦つまずき倒れた彼らは、もはや自分の信仰における勇気や力、自分に何が出来るか、ということに依り頼んで歩むことはできないのです。彼らの弟子としての、信仰者としての新しい歩みを支えているのは、自分の勇気や力ではなくて、ひとえに、主イエス・キリストの十字架の死と復活による神様の救いの恵みなのです。キリストの教会は、この主イエスの十字架と復活による神様の救いの恵みによって結集されている群れです。そこにおける私たちの信仰の歩みは、私たちの勇気や力によって支えられているのではなくて、主イエス・キリストによる罪の赦しの恵みによってこそ支えられているのです。私たちは、自分の足で立って歩いているのではなくて、主イエスによって支えられ、背負われているのです。そのことをはっきりと知ることによって、私たちはつまずきを乗り越えていくことができるのです。  
 以前にも紹介したことがあり、聖歌隊によって歌われたこともある「足跡」という詩を思い出したいと思います。ある晩ある人が、主イエスと共に砂浜を歩いている夢を見た、という詩です。砂浜には、彼が主イエスと共に歩んできた人生の二人分の足跡が残されています。しかし彼は、その足跡が一組しかない時期があることに気付きます。しかもそれは、人生において最も困難な、苦しみの時期の足跡なのです。彼は主に問いかけます。「なぜあなたは、私の人生の一番つらい時期に、私から離れ去っておられたのですか」。すると主はお答えになりました。「私の子よ、私はあなたを決して離れ去りはしない。あなたの試練と苦しみの時に足跡が一組しかないのは、その時私があなたを背負っていたからだよ」。

つまずきを越えて  
 自分の足で立ち、自分の力で人生を歩んでいると思っている私たちは、共にいて下さる主イエスをしばしば見失い、つまずきに陥るのです。しかし実はそのような私たちを、主イエスが、特に苦しみ悲しみ試練の時にこそ、背負って歩んで下さっています。主イエスが背負って下さっていることを知るなら、私たちはつまずきを乗り越えていくことができるのです。ペトロも、自分はどこまでも主イエスに従っていくことができる、死に至るまで信仰を貫くことができる、と思っていた時には、つまずきを免れませんでした。しかし、三度、徹底的に、主イエスとの関係を否定してしまうというつまずき、挫折を経て、その自分を、ガリラヤで待ち受け、深い罪を赦し、新しく弟子として、信仰者として立てて下さる主イエスの恵みに触れた時に、彼は、もはや自分の足で立ち、自分の勇気や力によって歩む者であることをやめたのです。主イエス・キリストによって背負われて生きる者となったのです。そのことによって彼は、もはやつまずかない者となりました。主イエス・キリストを宣べ伝えて殉教の死を遂げる使徒とされていったのです。私たちが、つまずきを越えて信仰をもって歩んでいく道も、そのようにして開かれて行くのです。

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