夕礼拝

信仰の節操

「信仰の節操」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第5章1-7節
・ 新約聖書:ガラテヤの信徒への手紙第4章8-11節  
・ 讃美歌:113、457

もう一度十戒が
 私が夕礼拝の説教を担当する日は、旧約聖書、申命記からみ言葉に聞いています。本日はその第5章に入るわけですが、お気づきのようにこの第5書には、いわゆる十戒が語られています。この十戒が最初に語られていたのは、出エジプト記の第20章でした。モーセを指導者として、奴隷とされていたエジプトから脱出したイスラエルの民が、エジプトを出てまもなく、神の山シナイで十戒を与えられたことがそこに語られていました。それとほぼ同じ十戒がこの申命記第5章にも出て来るのです。それは何故でしょうか。既に二回に亘って夕礼拝で申命記という書物の基本的内容についてお話ししてきました。その繰り返しになりますが、申命記は、エジプトを出てから四十年が経ち、イスラエルの民がいよいよ神様の約束の地カナンに入ろうとしている時点で、自分はそこに入ることができず、その地を目前にして死ななければならないモーセが、遺言として、主なる神様がイスラエルの民にお与えになった掟、律法をもう一度語り聞かせている、という設定の下に書かれているものです。申命記の「申」という字は漢語で「第二の、もう一度」という意味なのです。それゆえにここに、既に出エジプト記において語られた十戒が「もう一度」出て来るのです。

新たな世代の人々に
 申命記のそういう設定を頭に置いて本日の箇所を読むと、その意味がよりはっきりと分かってきます。モーセは十戒を民にもう一度語り聞かせるに当たって、このように語り始めているのです。1~3節です。「モーセは、全イスラエルを呼び集めて言った。イスラエルよ聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい。我々の神、主は、ホレブで我々と契約を結ばれた。主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた」。「ホレブ」というのはシナイの別名です。主なる神様がシナイ山でイスラエルの民と契約を結んで下さったことがここに振り返られています。十戒はその「契約」に基づいて与えられたものです。申命記の4章13節にはこのように語られていました。「主は契約を告げ示し、あなたたちが行うべきことを命じられた。それが十戒である」。主が契約を告げ示された、そのみ言葉が十戒なのです。ここで先ず注目したいのは本日の3節の「主はこの契約を我々の先祖と結ばれたのではなく、今ここに生きている我々すべてと結ばれた」という言葉です。ここでモーセが語っていることがまさに、申命記の設定との関係で重要なのです。ホレブ、シナイ山で、神様が契約を告げ知らせ、十戒を与えて下さったのは四十年前のことです。四十年前に与えられた十戒を、モーセは再び語り聞かせようとしているのです。そしてこれはこれまで私たちが読んできた民数記に書かれていたことですが、この四十年の間に、エジプトからの脱出を体験した第一世代の人々は皆死んで、世代の交代が起っているのです。つまりシナイで十戒を与えられたことを体験した人々はもういないのです。今モーセの言葉を聞いている人々は、その人々の子や孫たちです。その第二、第三世代の人々に対してモーセは、主がこの契約を結んで下さったのは我々の先祖とではなく、今ここに生きている我々全てとなのだ、と語っているのです。つまりあなたがた自身が、この契約と十戒の当事者なのであって、あなたがたはこの契約を、十戒を、自分自身の事柄として真剣に聞き、受けとめなければならない、とモーセは言っているのです。このことは、神様が結んで下さった契約が、ただその時代の人々だけを対象としたものではなくて、その子供たち、孫たち、つまり歴史を貫いて歩み続ける民全体を対象としていることを示しています。主なる神様が契約を結ぶことによって与えて下さる救いの恵みは、個人を対象としているのではなくて、子供たちや孫たちにも及ぶのであって、つまり神様は契約によって世代を越えて救いにあずかる神の民の群れを、神の家族を形造ろうとしておられるのです。モーセがここで四十年の時を経て十戒をもう一度語り直しているのは、神の家族が世代を越えて生き続けていくためです。神の家族は、血のつながりによって維持されていくのではありません。彼らを結び合わせているのは神様の契約です。神様の契約の相手とされている、ということこそが彼らを本当に一つの家族とするのです。ですから、神様との契約を自分のこととして受け止めることがなければ、外面的には一緒にいても、神の家族ではなくなってしまいます。そのようにならないために、モーセはここで改めて、神様の契約と、それに基づいて与えられた十戒を、新たな世代の人々に語りかけているのです。イスラエルの民は今いよいよ、神様が約束して下さったカナンの地に入ろうとしています。その大事な時に、自分たちが神の民、神の家族であることを、それを支えている神様の契約の恵みと、その恵みの下で生きるための指針である十戒を心に刻みつけることが、約束の地での歩みのために大切なのです。十戒はこのように、神の民がその歩みにおいて何度でも繰り返し立ち返り、確認していくべきものなのです。

新しい神の民においても
 私たちは、2010年の夏から一年間、この夕礼拝で、出エジプト記の第20章から、十戒の一つ一つを読み、み言葉に聞きました。本日から、今度はこの申命記第5章から、もう一度、十戒を一つ一つ読み、み言葉に聞きたいと思っています。四年前にも読んだわけですが、今申しましたようにこの十戒は、神様の救いを受け、契約の相手とされた神の民、神の家族として生きる者たちが、常にそこに立ち帰り、新たに聞き続けなければならないみ言葉です。それは昔のイスラエルの民だけのことではありません。私たちは、教会という新しい神の民、新しい神の家族の一員として、あるいはその群れへと招かれている客人として、この礼拝を守っています。旧約聖書にその歴史が記されている旧い神の民イスラエルは、主イエス・キリストによる神様の新しい救いのみ業によって新しくされました。それまでの旧い神の民イスラエルは、新しい神の民である教会に、言わば発展的に解消したのです。それによって意味を失い、廃止されたことも沢山あります。動物を犠牲として神様に献げ、罪の赦しを受ける、という祭儀はもう不要なものとなりました。神様の独り子であられる主イエス・キリストが、十字架の死によって、私たちのためにご自分の命を犠牲にして、完全な罪の赦しを実現して下さったのですから、動物を犠牲として献げることはもう不要となったのです。そのように主イエス・キリストによって意味を失った儀式や掟もありますが、十戒はそうではありません。十戒という日本語は「十の戒め」と書くので、私たちはとかく十戒を「戒め、戒律」として捉えがちです。すると、主イエス・キリストによる救いは戒めを守ることによってではなく、主イエスを信じる信仰によって与えられるのだから、戒めである十戒は主イエスによる救いの福音とは相容れないように感じてしまうことがあります。しかし十戒はもともと「戒め、戒律」とは違うのです。先程4章13節を読みましたが、「主は契約を告げ示し、あなたたちが行うべきことを命じられた。それが十戒である」という13節の「十戒」と訳されている言葉は、直訳すれば「十の言葉」です。十戒とは、主なる神様の十のみ言葉なのです。つまりそれは、「これを守る人は救われ、守れなければ滅びる」という、救いを得るための条件である掟を並べたものではなくて、主なる神様が、ご自分と契約を結んだご自分の民に期待しておられることをお語りになったみ言葉なのです。それゆえにこれは、新しい神の民である教会においても重要な意味を持っているのです。

契約―相互の交わりを築く
 ところで神様と民との契約は、人間どうしの取引の契約のように対等の立場で結ばれるものではありません。この契約は、神様が恵みによって与えて下さるものであり、全く相応しくない者をご自分の民として下さる、というものです。イスラエルの民においては、神様が彼らをエジプトの奴隷状態から解放して下さったという恵みの中で契約が結ばれました。そのことを前提として十戒は与えられているのです。それを語っているのが、十戒の前文である6節の主の言葉です「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」。十戒のみ言葉はどれもこのことを前提として読まれなければなりません。そのことは、新しい神の民である私たち教会においても同じです。私たちが与えられた新しい契約は、主イエス・キリストが私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して下さったことによって、私たちに罪の赦しと永遠の命の約束が与えられた、その救いの恵みによって結ばれたのです。そのように、神様の契約は、神様の恵みによる救いの出来事を土台として結ばれるのです。しかしそれが契約と呼ばれるのは、人間の側にも、その恵みに応えて、神様に従って生きる、という応答が求められるからです。神様の救いの恵みは、神様から一方的に私たちに与えられます。だからこそ、罪人である私たちが救いにあずかることができるのです。しかしそこにおける神様と私たちの関係は決して一方的なものではありません。神様の恵みによってこの救いを与えられた私たちは、その恵みに応えて、私たちの側からも神様に従い、仕えていくのです。そのようにして、神様と私たちの間に交わりが、関係が築かれていくのです。契約という言葉はそういうことを言い表しています。そのように私たち人間が神様の恵みに応えて、神様に従い仕えていく、その歩みを導くために、神様が十の指針を与えて下さった、それが十戒です。神様の恵みによって与えられた救いに応えて、私たちが神様とどのような交わりを、関係を築いていけばよいのか、それを告げているみ言葉が十戒なのです。

信仰の節操
 このことを頭に置いた上で、本日は十戒の第一番目を読みます。7節です「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」。先程読んだ6節の「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」という前提とつなげて読むならば、エジプトの国、奴隷の家からあなたを導き出し、救い出したのはわたしであり、ほかのどの神でもないのだから、あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない、ということです。それを新しい神の民である私たちキリスト教会の信仰において言い直せば、独り子イエス・キリストを遣わして、その十字架の死と復活によってあなたの全ての罪を赦し、あなたを新しい神の民の一人とし、救いを与えたのは主であるわたしなのだから、あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない、ということです。つまり十戒のこの第一のみ言葉は、救いの恵みを与えて下さった神様に対して、神の民とされた私たちが節操を守ること、他の神々に心を向けないことを求めているのです。神様の恵みに感謝し、それに応えていくことにおいて先ず第一に必要なことは、誰がその恵みを与えて下さったのかをしっかりとわきまえ、その方との交わりをこそ大切にすること、つまりその方に対して節操を守ることです。私たちは、人間どうしの交わりにおいて、この節操ということがとても大事であることを知っています。それは夫婦の間だけのことではありません。もっと広い意味で、節操のない人というのは信用されず、信頼関係を築くことはできないのです。節操がないというのは、自分に都合のよい時にはいかにも親しげに好意的なことを言っているのに、一旦都合の悪いこと、自分に不利なことが起ってくると、たちまちそっぽを向き、他の人の方にすり寄っていく、ということです。そういう人は信用できないと私たちは思います。しかし神様との関係において、私たちはどうでしょうか。都合のよい時には信仰深く、熱心に礼拝を守るが、何か都合の悪いことが起り、悩みや苦しみが襲ってくると、途端に神様からそっぽを向き、別の何かに頼ろうとする、そういう節操のないことを私たちは平気でするのではないでしょうか。このような無節操こそ、私たちの信仰のもっとも大きな問題であり、弱さであると思います。私たちは、主イエス・キリストを信じて、その救いにあずかる洗礼を受け、教会の一員となる、その時に必ず、神様と教会の人々の前で誓約をします。教会の信仰を自分の信仰として受け入れ、神様に従って生きていく、そのために毎週の礼拝を大切にし、兄弟姉妹と共にみ言葉を常に新たに聞き、それによって導かれて生きる者となることを誓うのです。そのような誓いをする人に、洗礼が授けられるのです。この誓いは、結婚式における夫婦の誓約と同じようなものです。いや、夫婦の誓約よりももっと重いものです。夫婦の誓約は、どうしてもそれを守ることができなくなり、離婚して解消するということもあり得ます。しかし洗礼における誓約は、解消することがあり得ないものであり、またそれは私たちがこの世を生きている間だけの事柄ではなくて、永遠の命に関わる誓約なのです。私たちキリスト信者は、神様に対してそういう誓約をした者たちです。その誓約に対する誠実さ、誓約をした相手である神様に対する節操を守ることを、私たちはもっと真剣に考えなければなりません。自分が誓ったことに対する節操を守ることは、人間として当然のことです。その当然のことを、人間に対しては守ろうとするのに、神様に対してはそれを軽んじてしまうとしたら、神様を人間以下の、つまり自分の利用できる道具のようにしか思っていないということになります。神様に対する節操を守る、という感覚は、私たちが信仰者として生きる上で身に付けていかなければならない基本的な感覚なのです。

信仰の節操を失わせるもの
 この第一戒について「ハイデルベルク信仰問答」が語っていることをここで味わいたいと思います。問94「第一戒で、主は何を求めておられますか」に対する答えです。「わたしが自分の魂の救いと祝福とを失わないために、あらゆる偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人や他の被造物への呼びかけを避けて逃れるべきこと。唯一のまことの神を正しく知り、この方にのみ信頼し、謙遜と忍耐の限りを尽して、この方にのみすべてのよきものを期待し、真心からこの方を愛し、畏れ敬うことです。すなわち、わたしが、ほんのわずかでも神の御旨に反して何かをするくらいならば、むしろすべての被造物の方を放棄する、ということです」。最後の所の「ほんのわずかでも神の御旨に反して何かをするくらいならば、むしろすべての被造物の方を放棄する」というところなど、甘ったれた私たちの信仰に喝を入れられるような厳しい言葉です。神様への節操を守るとはそういうことなのです。しかしここで特に注意深く読んでおきたいのは、信仰の節操を失わせるものとしてどのようなものが挙げられているかです。「偶像崇拝、魔術、迷信的な教え、諸聖人や他の被造物への呼びかけ」とあります。人間が造った偶像を拝むことである「偶像崇拝」が信仰の節操を失わせることはよく分かります。しかし「魔術、迷信的な教え、諸聖人や他の被造物への呼びかけ」もまたそれに並べられているのです。これらは要するに、主イエス・キリストの父なる神様以外の何らかの力が私たちの人生の歩みに影響を及ぼしている、と考えることです。私たちは、苦しみや悲しみ、不幸を体験するとすぐに、その原因は何かと考え、その原因を取り除くことによって苦しみから逃れようとします。そこに、様々な魔術や占い、迷信、そして神ではないものの名を呼ぶことが起ってきます。私たちの身近な所にあるのは様々な占いです。今週の何座の運勢などから始まって、姓名判断や手相、方角、風水など、いろいろな占いがあって、こうすれば良い運を招ける、こうすれば苦しみや不幸を避けることができる、ということを語っています。そういう占いの類いは、主イエス・キリストの父なる神様こそがこの世界を造り、支配しておられ、私たちの人生をも導いておられるという聖書の信仰とは相容れないものです。それゆえに旧約聖書には、神の民イスラエルには占い師がいてはならない、と厳しく語られています。本日共に読まれた新約聖書の箇所、ガラテヤの信徒への手紙第4章8節以下にも、せっかく主イエス・キリストの救いにあずかった者が、神でない神々、無力で頼りにならない支配する諸霊の下に逆戻りするとは何事か、という嘆きが語られています。具体的には、いろいろな日、月、次節、年などを守るようになっている、つまり、今日のお日柄は良いか悪いかという占いを気にするようになっていることです。それは、独り子の命を与えて下さった神様の恵みを無にしてしまうことであって、あなたがたの信仰がそれによって無駄になってしまうような大きな過ちなのだと語られているのです。聖書は、私たちの人生に起る全てのことは、幸いも不幸も皆、神様のみ手によって与えられているのだと教えています。つまり私たちの人生を支配しているのは、占いにおける諸霊の力ではなくて、主なる神様の力なのです。「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」は、「あなたの人生に対する、わたし以外のものの支配を認めてはならない」ということです。幸いにおいても、不幸や苦しみの中にあっても、ただ独りのまことの神様のみが自分を導き、支配しておられることを信じ抜く、それが信仰の節操を守ることです。それはしんどいことです。苦しみもまた神様のご支配の下にあると信じることには大きな葛藤があります。神様以外の何かせいにして、その原因を取り除こうとする方が楽なのです。しかしそこで私たちがしていることは結局、苦しみからの逃げでしかありません。そして苦しみは、逃げても逃げても追いかけて来て、私たちを捕えるのです。それに対して、苦しみの中で信仰の節操を守ること、苦しみをも主なる神様からのものとして受け止めることは、ハイデルベルク信仰問答が語っているように「謙遜と忍耐の限りを尽して、この方にのみすべてのよきものを期待し」ていく、という信仰の歩みを生みます。神様の前にへりくだり、苦しみを耐え忍びつつ、神様こそがよきものを与えて下さることを信じて、希望をもって待ち望むことへと私たちを導くのです。

希望の源
 その希望には根拠があります。神様は、独り子イエス・キリストを遣わして下さり、その十字架の死と復活とによって私たちに、罪の赦しと永遠の命の約束を与えて下さったのです。つまり神様は最もよきものを既に私たちに与えて下さったのだし、そのよきものを終わりの日に誰の眼にも明らかなように完成すると約束して下さっているのです。そのことを信じて、神様のみが私たちの人生の支配者であられることを受け入れて生きることによって、私たちは、苦しみの中でも忍耐と希望に生きることができます。逆にこの神様以外の力の支配を認めてしまって、いろいろな占いや魔術、迷信に頼ってしまうならば、そこには忍耐も希望も見失われてしまいます。つまり、神様に対する節操を失う時に、私たちは同時に希望をも失うのです。「わたしには、主イエス・キリストの父なる神様以外に神はない」という信仰の節操に生きることにこそ、どのような苦しみ悲しみにおいても失われてしまわない希望の源があるのです。十戒の第一は私たちに、主なる神様に対する信仰の節操を貫くことを求めています。そしてこれは、繰り返し申しますが、掟、戒律ではありません。むしろそこにこそ、私たちが、この世のどのような苦しみや困難にも負けてしまうことなく、真実の希望を抱いて、自由に、人間らしく生きるための秘訣があるのです。

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