夕礼拝

墓場からの帰郷

「墓場からの帰郷」 伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; イザヤ書 第65章1-7節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第5章1-20節
・ 讃美歌 ; 218、441

 
ゲラサ人の地域で
 本日からマルコによる福音書の5章に入ります。「一行は湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた」とあります。ここで、主イエスと弟子達の一行は、新しい土地に足を踏み入れたのです。「ゲラサ人の地方」とあります。主イエスが今まで活動していたのはガリラヤ湖の西側のガリラヤ地方です。ゲラサ人の地方というのは、その対岸、湖の東側にあるデカポリス地方の中にあります。この地域は、ユダヤ人ではなく異邦人の住む地です。主イエスと一行は、初めてユダヤ人の土地を離れられたのです。ガリラヤで主イエスは、神殿で教えを語り、様々な業によって権威を示されました。ガリラヤ地方では、主イエスのことは知れ渡っていて、いつも押し寄せてくるおびただしい群衆に囲まれていたのです。主イエスは、群衆から距離を取るために、舟に乗って舟の上から御言葉を語っていました。そして、そのまま、弟子達に「向こう岸に渡ろう」と言って、この対岸まで渡って来たのです。しかし、主イエスはほとんど、この場所にはいませんでした。今日お読みした箇所のすぐ後に続く21節には「イエスが船に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群集がそばに集まってきた」とあります。主イエスは、ガリラヤを離れて新しい土地に来たかと思ったら、すぐにガリラヤへと戻られるのです。ゲラサ人の地方で宿をとられるのでもなく、歩き回るのでもなく、とんぼ返りをなさるのです。主イエスが、ただ気まぐれで、この土地に来たのではありません。直前の箇所には嵐の中を湖を渡った出来事が記されています。来るべき理由のない場所に、嵐の中をわざわざやって来ることはしないでしょう。主イエスにとって、本日の箇所が記す、この短い期間になされた業が重要な意味を持っていたのです。

汚れた霊
 この地で主イエスを待っていたのは、おびただしい群衆ではありません。この地域では主イエスのことは知られていないのです。小さな舟から降り立つ姿に目を留める者はほとんどいなかったことでしょう。しかし、この時、主イエスのところにやってくる人がいたのです。「汚れた霊に取り付かれた人」です。主イエスが、ガリラヤで活動を開始され初めてカファルナウムの会堂に入られた時も、最初に主イエスに反応し叫びだしたのは、一人の男に取り付いた汚れた霊でした。この新たな土地でも同じです。「イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た」とあります。初めて訪れる地域で、人々が主イエスを知る前からから、「汚れた霊」は主イエスのことを知ってやってくるのです。「汚れた霊」とは、神の支配を拒もうとさせる力です。私たちに、神の支配を拒ませ、自分の支配を望ませるものです。私たちに罪を犯させようと誘惑する力です。ですから、この「汚れた霊」は主イエスの到来によって神様のご支配がこの地に及ぶことを最も警戒しているのです。この霊にとって、主イエスこそ自分の立場を脅かすものなのです。主イエスが来られることによって、自らの居場所がなくなることを恐れているのです。ですから、主イエスが舟から降りられると、真っ先に主イエスの下にやってくるのです。
この人は、「墓場から」やってきました。この人は普段墓場に住んでいたのです。その状況は次のように記されています。「この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎられ足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことは出来なかった」。これまで、多くの人が、何とか彼をつなぎとめておこうと努力したのです。鎖を用いたというのは、彼を痛めつけようとしていたのではありません。少し前の箇所には、主イエスの身内のものが、主イエスについて気が変になっているという噂がなされていることを聞いて、主イエスを取り押さえに来たことが記されていました。おそらく、彼の身内の者などは、彼を支配する悪霊の力から連れ戻そうとして必死だったのだと思います。この人のためを思って、何とか自分達の下に押さえておこうとしたのです。しかし、その度に、つなぎとめておくための鎖を引きちぎってしまうのです。もはや、人間の力では彼をつないでおくことは出来なかったのです。彼は、人々の中で暮らすことをやめて、自ら墓で生活するのです。そこで、この人は、叫んだり、自分の体を石でたたきつけたりしているのです。

私たちを支配する汚れた霊
この汚れた霊に取り付かれた男の姿を想像してみると、凄まじい光景です。現代を生きる我々にとってこの人がどのような人なのかを考える時、重度の精神病を患っている人を思い浮かべるかもしれません。しかし、この人の姿を、精神的な病を負った特別な人の姿であるとして、自分とは無関係なこととしてしまうわけには行きません。まして、「汚れた霊」というのは、幽霊のようなもので、この話は全くばかげていると思うのであれば聖書のメッセージを聞き取ることは出来ないでしょう。「汚れた霊」は、他でもなく私たち人間の内で働くのです。
私たちの世では、想像を絶するような凶悪な犯罪や、戦争における大量の殺戮ということが起こります。又、私たち自身も、この力に支配されるのです。ここで言われている「汚れた霊」は、いつの時代も変わらず、私たちの間で働いているものです。
汚れた霊に取り付かれた男は、イエスを遠くから見ると、走りよってひれ伏して、「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」と願ったとあります。「かまわないでくれ」という言葉は、「私とあなたに何の関係があるのか」という意味の言葉です。主イエスと無関係であることを主張するのです。この「わたしとあなたに何の関係があるのか」という態度は、しばしば、私たちが取る態度でもあります。自分と神様、又、自分の周囲の人との関係をも断ち切ろうとするのです。神様の支配を望まずに、自分だけで生きていけると思い込み、自分の力のみに頼って生きようとする思い。又、隣人との関係も断ち切って、自分の欲望のままに行動しようとする思い。そのような思いは、私たちの心に浮かぶことです。そのように自由を得ることによって、最も自分らしい生き方が出来ると考えるのです。しかし、実際は、そのような時、本当の自由を得ているのではなくて「汚れた霊」によって支配されているのです。本当の神様の支配が見えない中で、自分が支配者となっているように錯覚し、隣人を裁き、隣人との関係を絶とうとしてしまう。そして遂には、自分自身をも裁きだすのです。そのような時に人間は神様とも隣人とも関係が絶たれて孤立しています。人々との関係を振りほどき、自分で自分を傷つける。「わたしとあなたに何の関係があるのか」と叫びつつ、墓場に住むというのは、罪の内にある私たちの孤独を示しているのです。それは、生きながらにして死んでいるようなものなのです。

自分を打ちたたく
汚れた霊に取り付かれた人は、「墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた」と記されています。自分自身を傷つけていたのです。神様と正しい関係が結べずに、神様のご支配の下で自分を見出せない時に、結果として、人は自分を傷つけようとすることがあります。自分のことを愛することが出来ないのです。私たちの周りにおいて、最近大きな問題となっていることに「自殺」があります。自殺は自分を傷つけることの最たるものです。少し前は、中高年の自殺ということが話題になりました。最近ではいじめを苦にした中高生が自らの命を絶っています。苦しみの中にある心の叫びとも取れる自殺予告が多数送られているようです。隣人との関係の敗れから、本当の意味で自分を愛することが出来ない人間の姿が現れているようにも思います。 私たちは孤独の中で自分を愛することは出来ません。自分を愛することが出来るのは、神様によって愛されているという確信がある時ではないかと思います。どんなに、人が自分を否定しても、又、自分で自分を否定しようとも、自分が神によって肯定されていることを知らされることが出来るならば、その時、自分を愛することが出来るのです。ですから、神様との関係が正しくもてない時、私たちは自分のことを愛することは出来ないのです。

レギオン
 主イエスは「名は何というのか」と尋ねられます。名は体をあらわすと言います。名前を知らせるというのは、その人が何者なのかを知らせることです。正体を知らせると言ってもいいかもしれません。汚れた霊は、「名はレギオン。大勢だから」と答えます。「レギオン」というのは当時のローマの軍隊に使われた言葉のようです。4000~6000人の兵からなる一軍団をこう呼んでいたのです。名前を語ることによって、この男に取り付いていた「汚れた霊」が一つではなく多くの霊であったことが分かります。ルカによる福音書では、この部分をはっきりと、「たくさんの悪霊がこの人に入っていたからである。」と記しています。この「レギオン」という答えを境にして、汚れた霊が複数で記されるようになります。これまで、単数で「汚れた霊」と記されていますし、自らを「わたしは」と呼んでいます。しかし、10節には、「自分たちをこの地方から追い出さないように」と記されています。11節以下では、「汚れた霊ども」はと言われるようになるのです。汚れた霊は一人の人に取り付いている一つの霊のようでありますが、実際は多くの霊なのです。ここに記されているのは、一人の人の中に住むおびただしい軍勢とも言うべき汚れた霊の姿です。真の神との関係の中にない時に、人間は様々なものにとりつかれているのです。一人の人間の中でいくつもの霊が同居していて、自己が確立されない、無秩序の混乱に支配されているのです。このことは、私たちも理解しやすいと思います。私たちは世において、様々な関係の中で生きています。職場の中、家族の中、学校の中、そして、関係を持つ人それぞれに対して自分がとる態度というのが異なります。そして、その時々に応じて様々な思いや隣人の声に支配されて生きているのです。汚れた霊に取り付かれている状況というのは、そのような私たちの姿と似ています。様々なものに支配されている中で、本来の自分自身を見出すことが出来ない分裂した状態なのです。

悪霊からの解放
汚れた霊は、主イエスが「汚れた霊、この方から出て行け」と言われたことによって、必死に、自分の居場所を確保することにつとめました。ひれ伏し、自分を追い出さないようにしきりに願うのです。そして、挙句の果てに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と主イエスに取引じみたことを持ちかけるのです。イエスがお許しになると、豚の中に入るのです。その途端に、二千匹もの豚の群れが崖を下って湖になだれ込んで、溺れ死んだというのです。 一方で、レギオンに取り付かれていた人が服を着、正気になって座っていたと記されています。ルカによる福音書には、ここを「イエスの足もとに座っている」と記します。ここには主イエスの支配に服従する姿が示されています。墓場で生活し、汚れた霊によって叫びまわり、自分を傷つけていた一人の人が一転して、静かに服を着て座っているのです。この人は、主イエスの神の子としての権威の前で、自分自身を取り戻したのです。多くのものに支配された混沌とした状態から解放されるのです。汚れた霊を退ける権威を持ち、人間の罪に勝利された方の下で、神様と自分の関係を見出し、神様の支配の下を生きるものとなります。汚れた霊に支配された分裂した状態ではなく、神様と人とのどちらの関係においても平安の内に歩むことが出来るのです。

主イエス・キリストの贖い
この一人の人が汚れた霊から解放された時、汚れた霊が乗り移った二千匹の豚が湖になだれこんだことが記されています。何の犠牲もなくこの人が汚れた霊から解放されたのではありません。それにしても二千匹もの豚が湖になだれ込む姿というのは想像も出来ないような事態です。一人の人を支配した汚れた霊の力によって、これほどのことが起こるとは誰も想像できなかったことでしょう。豚飼いは逃げ出したことが記されています。汚れた霊に取り付かれていた男自身も、それを見ていた人も、この光景には驚いたのではないかと思うのです。この場にいた人は、この時、初めて取り付いていた汚れた霊の力がどれほど凄まじかったのかを知らされたのです。この被害の大きさに人間が「汚れた霊」から解放されるために必要な代償の大きさが示されているようにも思います。私たちは、払われた犠牲を見て、初めて自分を支配していたものの大きさを知ることが出来るのです。私たちは、主イエスの下で、汚れた霊の力から解放されると述べました。私たちは、この方の下で、霊からの救いが示されると同時に、そのために払われた犠牲をも知らされます。私たちを汚れた霊から解放するための犠牲として主イエスは十字架に赴かれたのです。主イエスは自ら、人から見捨てられ、神からも捨てられつつ墓の中へと赴いて下さったのです。私たちが、汚れた霊から解放されるためには、この犠牲があるのです。主イエスの十字架を見る時、自分の救いと共に、汚れた霊に支配される中で自分が犯した罪の大きさというのを知らされます。私たちは自分の罪、人間の罪をどれだけ正確に知りうるのでしょうか。自分のなした些細な悪事や、傷つけてしまった出来事を顧みても、歴史の中で人間が犯してきた、様々な罪を並べてみても、それで罪を知ることが出来るのではありません。私のために、神の独り子が犠牲にならなければならなかったという事実を前にして、私たちは自分の罪深さを知られるのです。その時にこの恵みに感謝しつつ、主イエスの救いのご支配にのみ頼るものとされるのです。

「自分の家に帰りなさい」
 集まって来た人々は、成り行きを見ていた人からこの出来事を聞いて、イエスに出て行ってほしいと願ったとあります。主イエスを恐れたのです。この恐れは、主イエスに対する畏敬の念ではありません。もしかしたら、豚が死んだことによる損失、被害を知らされて、こんな男が傍にいられたらかなわないと思ったのかもしれません。神の子としての主イエスの救いに触れていないのです。主イエスを自分達の傍から去らせようとする。主イエスと関係を持たずに生きようとする思いがここにもあります。しかし、主イエスはその願いを聞くかのような形で、この地方から帰って行くのです。その際、主イエスに従うことを望んだ汚れた霊から解放された人をこの地においていくのです。主イエスはご自身の後についていきたいと願う、悪霊に取り付かれた人の願いを退けます。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と命じるのです。この人は、神に救われたものとして、平安の内に自分の家に帰ります。そのことによって神様の働きをなすものとされたのです。「その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広めた」とあります。主イエスが、語らなくても、主イエスによって神のご支配の中に生かされるものによって、主イエスのことが語られるのです。ここで、「言い広める」といわれている言葉は「宣教する」という意味の言葉です。主イエスに救われたものとして、主イエスのなさった業を「知らせる」時に、それは、主イエスの福音の宣教となるのです。神様のご支配が示されることになるのです。彼が死の力から救われた身をもって墓場から自分の家に帰って行くことによって、主イエスがなしてくださったことを身をもって証する中で、神様のご支配が示されるのです。「自分の家に帰りなさい」それは、神様の支配に生かされたものに命じられていることです。 私たちは、礼拝において、主イエスの下に座ります。この方の十字架を示されつつ、救いのご支配を受け入れるのです。この方に罪を赦されたものとして、この方を受け入れて歩む時に、私たちは様々な罪への誘惑から解放されるのです。神様に愛されているものであることを知らされつつ、この方の救いのご支配を望みつつ歩むものとされるのです。主イエスによって私たちの下に及んでいる神様のご支配に委ねつつ、それぞれが与えられた生活の場に帰って行くものでありたいと思います。

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