創立記念

神さまを礼拝して140年

「神さまを礼拝して140年」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第5章12-15節
・ 新約聖書:ルカによる福音書第13章10-17節 
・ 讃美歌:6、60、507

神さまを礼拝して140年  
 きのう、9月13日は、横浜指路教会のお誕生日でした。きのうで私たちの教会は140歳になりました。140年前の1874年、明治7年の9月13日にこの教会は生まれたのです。9月13日という日がはっきり分かっています。それは、この日に今日と同じように礼拝が行われて、その中で、これも今日と同じように洗礼を受けた人が、この日は7人いて、しばらく前に既に洗礼を受けていた人たちと合わせて18人でこの教会が生まれた、という記録が残っているからです。つまり140年前の9月13日は日曜日で、イエス様を信じる人たちが集まって神様を礼拝したのです。その日以来、この教会は、日曜日ごとに集まり、聖書を読み、イエスさまのお話を聞いて、讃美歌を歌い、お祈りをして、みんなで神様を礼拝してきました。そのようにして140年間ずっと、日曜日の礼拝を守ってきたのです。礼拝する場所は、最初はここではありませんでした。教会が生まれてから18年後の明治25年に今のこの場所に教会堂が建ちました。この場所で礼拝するようになってからは122年ということになります。礼拝する人数も、増えたり減ったりしました。太平洋戦争の最中などは、15人ぐらいしか礼拝に集まらなくなった時もありました。それでも毎週日曜日の礼拝は続けられたのです。140年の歴史の中で恐らく一日だけ、日曜日に礼拝が出来なかった日があります。それは、91年前、1923年、大正12年の9月2日です。前の日9月1日の土曜日のお昼に、関東大震災という大地震が起って、明治25年に建った立派な教会堂が完全に壊れてしまったのです。その翌日の日曜日だけは、どうしても礼拝ができませんでした。でもその次の日曜日、9月9日には、山手の共立女子神学校、今の横浜共立学園の講堂で、避難してきた人が沢山いる中で、何人かの教会員が集まって礼拝をしました。礼拝が行われなかった日曜日は、この年の9月2日だけなのです。そのように教会はこの140年の間、日曜日の礼拝を何よりも大切にしてきたのです。教会というのは、日曜日に神様を礼拝する群れです。教会の歴史は礼拝の歴史です。教会では、礼拝を「守る」という言い方がよくなされます。初めて聞いた人は、「礼拝を守る」って何だか変な言葉だと思うでしょう。でも教会は日曜日の礼拝を自分たちにとって一番大切なものとして、何があっても、まさに命がけで守ってきたのです。

第四の戒め  
 なぜ、そんなにまでして日曜日に礼拝をするのでしょうか。その理由はいくつかありますが、一つには、神様が与えて下さった十戒の第四の戒めに「安息日を心に留め、これを聖別せよ」とあるからです。教会学校の礼拝では、十戒を毎週唱えています。そして今教秋学校では丁度、十戒を一つずつ取り上げて毎週のお話がなされていて、今日は第四の戒めが取り上げられることになっています。お手もとの週報の中に「続明解カテキズム」問26の、第四の戒めについての言葉が書かれています。そこにはこの戒めの意味が、「神さまに造られたわたしたちは神さまのものなので、日曜日を礼拝するための特別な日として最も大切にしなければなりません」と語られています。教会学校では今日、この第四の戒めについて説教がなされることになっているのです。それは、創立140年を覚える私たちの教会全体にとって意味ある、相応しいことだと思いましたので、この総員礼拝でもそのテーマで説教をすることにしました。このカテキズムが語っているように、神さまによって造られ、命を与えられ、そして神さまによって教会へと招かれて、神さまのものとされている私たちにとって、日曜日は神さまを礼拝するための特別な日です。それを「安息日」と言います。日曜日を安息日としてしっかり守ることが、神様を信じて生きる私たちの信仰の生活の基本なのであって、教会は140年間、それをしてきたのです。

安息日  
 安息というのは、仕事などを休んで神さまの恵みによる平安を得ることです。神様がこの世界を造って下さった時から、一週間に一日、そのための日が与えられているのです。この安息日は、仕事や学校を休んで自分の好きなことをするための日ではありません。そのように言うと、日曜日に自分の好きなことをしてはいけない、と言っているように聞こえるかもしれませんが、そうではなくて、私たちが本当に安息を、つまり休み、平安を得ることができるのは、自分のやりたいことをすることによってではないということです。神さまのみ前に出て、神さまの恵みをいただくことによってこそ、私たちは本当に休むことができるのだし、慰めを受け、平安を得ることができるのです。そのために神さまは一週間の内の一日を、私たちが礼拝に集うための日として、他の日とは区別して下さったのです。

安息日の癒し  
 安息日は、私たちが本当に休むことができ、慰めを与えられ、平安を得るためにあるのだということが、先程朗読された新約聖書の箇所、ルカによる福音書第13章の10節以下を読むと分かります。イエス様が、ある安息日に、会堂で教えておられました。安息日に会堂で礼拝がなされていて、そこでお話をしておられたのです。その場に、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた、と書かれています。この人は病気の霊に取りつかれていたために、腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかったのです。これはお年寄りになって腰が曲がってきていた、というのとは全然違うことです。体が曲がってしまったまま、まっすぐにできないという状態で十八年この人は生きてきたのです。十八年という時を想像してみて下さい。生まれつきそういう状態だったとしたら、生まれてから十八歳になるまでずっとそういう障碍を負って生きてきたということです。その苦しみや悲しみは、私たちの想像をはるかに越えていると言わなければならないでしょう。イエス様はその人を見て、その苦しみ悲しみを誰よりも深く感じ取って下さったのです。そしてその人をご自分のもとに呼び寄せて、「婦人よ、病気は治った」とおっしゃって手をその人の上に置かれました。するとその人はたちどころに腰がまっすぐになって、神様を賛美し始めたのです。イエス様が癒して下さったことによって、この人は十八年間の苦しみから解放されました。すばらしい救いのみ業がイエス様によって、この礼拝の中でなされたのです。  
 ところが会堂長は、つまり教会で言えば牧師に当たるような人ですが、イエス様がなさったこのことに腹を立てました。そして礼拝に集まっている人々に「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない」と言いました。つまり、今日は安息日だから、働いてはいけない、仕事は休まなければいけない、病気の人を治すのも仕事だ、それは今日してはいけないことだ、と言ったのです。イエス様はそれに答えてこうおっしゃいました。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか」。この頃は、どの家も牛やろばなどの家畜を飼っていました。そういう生き物は、毎日水を飲ませたり餌を食べさせたりして世話をしなければなりません。それも一仕事です。安息日はお休みだからと言って、その日に餌も水もあげなかったら、家畜は弱ってしまいます。だからそういうことは、安息日でもしてよかったのです。そのことを確かめた上でイエス様はこうおっしゃいました。「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか」。「アブラハムの娘」というのは、神様の民であるイスラエルの仲間、ということです。その人が十八年間病気の霊に、つまり神様の恵みから人間を引き離そうとするサタンに縛り付けられて身動きがとれないでいたのを、その束縛から解き放ち、神様の恵みにあずかることができるようにすることは、安息日であってもするべきことではないか、いやむしろこれこそ、安息日を与えて下さった神さまのみ心にかなう、神様が本当に喜んで下さることではないか、とイエス様はおっしゃったのです。

安息日は何のためにあるのか  
 ここに、安息日は何のためにこそあるのかが示されています。安息日は、私たちが、神様の恵みによる本当の休みを、慰めと平安を与えられてこの人生を歩んでいくためにあるのです。生まれつきの私たちは、神さまなんていらない、神さまなしでも生きていけると思っています。そのように自分の力で、自分の思い通りに生きようとしている時には、神さまはむしろ自分を縛り付けて自由を奪おうとしている敵のように感じてしまうのです。でも実はそのように思ってしまうことこそ、神様の恵みを見えなくして、そこから引き離そうとするサタンに支配され、縛られてしまっていることの現れです。本当は、私たちに命を与えて下さり、いろいろな賜物を与えて下さり、毎日の歩みを守り導いて下さっているのは神様です。その神様と良い交わりをもって、いつも神様と共に歩んでいくことによってこそ、私たちは本当に安心して、苦しみや悲しみの中でも支えられて、慰めと平安を与えられて歩むことができるのです。自分の力で、自分の思い通りに生きようとしているところには本当の安息はありません。そこには、自分の思い通りになかなかならないという苛立ちと、自分の力が足りないことへの不安が募っていくのです。自分のやりたいことをしていくことで平安を得ることはできないと言ったのはそのためです。安息日に、自分のやりたいことをしていくのではなくて、神様を礼拝するために集って、そこで神様のみ言葉を聞いて、神様に祈ることによってこそ、私たちは神様が自分に与えて下さっている恵みを味わい知ることができます。その恵みを知ることによって、苛立ちや不安から抜け出すことができるし、苦しみや悲しみによって縛られて身動きできなくなっているような状態から解放されていくのです。また神様に背き逆らう罪から抜け出していくことも、この礼拝の恵みの中でこそ与えられていくのです。

解放と自由を記念する日  
 今日は申命記第5章12節以下に語られている十戒の第四の戒めを読みました。そこには、神様が安息日を守るようにとお命じになった理由がこのように語られています。15節です。「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起さねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」。申命記によれば、安息日は、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの人々が、主なる神様の御手と御腕によって解放された、その恵みを覚えるための日なのです。奴隷とされて苦しめられていた人々を、神様が解放して下さり、無理やり働かされてくたくたになっていた人々に休みを与え、慰めと平安を与えて下さったのです。奴隷であった者が解放されて自由を与えられたのです。その自由を感謝して、二度と奴隷の鎖に繋がれてしまうことがないために、神様が与えて下さった自由をしっかりと守って生きるために、安息日はあるのです。そのためにイスラエルの人々は、安息日ごとに神様のみ前に集まり、礼拝をしていったのです。それは命令されて仕方なくしていたことではありません。奴隷の苦しみから解放された人々が、その自由を喜び、自由に生きるために、自由な者として、礼拝を大切にしていったのです。

主イエスの十字架と復活による解放の記念日  
 私たちの日曜日の礼拝もそれと同じです。私たちも、エジプトで奴隷とされていたイスラエルの人々と同じように、罪の奴隷とされ、その鎖に縛られていました。私たちを縛りつけているサタンはとても悪賢いので、罪の奴隷となっている者は、自分が奴隷にされていることに気付きません。むしろ自由な自分を神様が奴隷にしようとしていると思ってしまうのです。そのように奴隷なのにそのことに気付かないでいる私たちは、自分の力で自由になることが出来ません。神様の独り子であるイエス様が、私たちと同じ人間となってこの世に来て下さり、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、救いを与えて下さったのです。イエス様が死んで下さったことによって、そして三日目に復活して下さったことによって、私たちを奴隷にしている罪の力は打ち破られ、私たちはその支配から解放されたのです。そしてイエス様の復活にあずかって、神様の子どもとされ、新しく生きることができるようになったのです。私たちの安息日はこのことを記念するためにあります。私たちの安息日は日曜日です。それは一週間の始めの日、イエス様の復活の日です。旧約聖書の時代の安息日は、週の七日目の土曜日でした。イエス様の復活によって、日曜日が安息日になったのです。私たちはイエス様の十字架の死と復活によって、罪を赦され、その支配から解放されて、神様の子として新しく生きる者とされたことを喜び、イエス様によって与えられた自由に生きるために、日曜日に礼拝を守るのです。

礼拝・洗礼・聖餐  
 その礼拝の中で、140年前の9月13日もそうだったように、今日もまた、洗礼が授けられます。イエス様の十字架と復活による罪の赦しを信じて、神様の救いにあずかる人を、神様が選び、召し集めて、洗礼によって教会に加えて下さるのです。そして洗礼を受けた人たちは、礼拝の中で今日も行われる聖餐にあずかります。聖餐のパンと杯は、十字架の上で裂かれたイエス様の体と、そこで流された血とを私たちがいただき、それによる救いの恵みに体ごとあずかるために与えられています。洗礼を受けて、日曜日の礼拝を守り、その中で神様のみ言葉を聞き、聖餐にあずかって生きていく人々の群れ、それが教会です。神様はその教会を、140年前にこの地に誕生させて下さり、今日まで、毎週の礼拝を導いてきて下さり、多くの人々に、本当の安息を与えてきて下さいました。そして今、ここに集っている私たち一人一人をこの礼拝へと招いて下さっています。教会はこれからも、この安息日、日曜日の礼拝を大切に守っていきます。その歩みに、さらに多くの方々が加えられ、神様を礼拝する群れである教会に加えられていくことを、心から願っています。

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