夕礼拝

救い主がお生まれになった

「救い主がお生まれになった」 伝道師 川嶋章弘

・ 旧約聖書:イザヤ書 第9章1-6節
・ 新約聖書:ルカによる福音書 第2章10-12節
・ 讃美歌:252、258

私たちの恐れ  
 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」  
 「恐れるな。」主イエス・キリストの誕生を告げる天使の最初の言葉です。クリスマスに天使が私たちに告げる最初の言葉です。私たちは恐れているのです。不安を抱えていると言ってもよいでしょう。なにを恐れているのでしょうか。  
 年を重ねることへの恐れがあります。年を重ねていくことで、今までいとも簡単に出来ていたことが、なかなか思い通りにいかなくなります。人生の前半は、出来ることが増えていく歩みです。それは決して楽な歩みではありませんが、努力したら努力しただけ得るものがある、出来なかったことが出来るようになるのです。やり甲斐がある。頑張れば、多くの場合結果が出る。たとえ結果が出なくても、次はもっと頑張ろう、もっと工夫してみようと自分の気持ちを鼓舞することができるのです。しかし人生の後半は、出来ることが減っていく歩みです。かつて努力して頑張って出来るようになったいくつものことを手放していくのです。自分が持っていないものを得ることに恐れはないでしょう。しかし自分が持っているものを失うことに私たちは大きな恐れを感じるのです。年を重ねるとは、この恐れと向き合っていくことでもあります。このことは、自分が年を重ねることだけに当てはまるのではありません。自分の家族が、親しい人が年を重ねることを間近で見るとき、大切な人がかつて出来ていたことが出来なくなっているのを目の当たりにするとき、私たちは恐れを抱かずにはいられないのです。このような恐れを慰める言葉が世の中には溢れています。これらの言葉は私たちを少しは慰めてくれるかもしれませんし、いくらかの真実を私たちに与えてくれるかもしれません。しかしそうであったとしても、私たちは根本的に自分であれ親しい人であれ年を重ねることを恐れているのではないでしょうか。  
 健康に対する恐れがあります。私たちの生きる社会は、健康を過剰なほどに重んじています。もちろん健康であるのは望ましいことに違いありません。しかし健康に対する際限のない執着は、それを失うことへの恐れ、病への恐れと表裏一体です。病はその人の人生に大なり小なり影響を与えます。今まで歩んできた人生の軌道を修正しなくてはならないからです。時には今まで歩んできた道とは別の道を歩まなければならないこともあります。健康であれば、こんなことにはならなかったのに、と思わざるをえないのです。病が健康を失ったことを意味するのであれば、健康を重んじれば重んじるほど病への恐れも大きくなるのです。このことも、自分だけに当てはまるのではありません。自分の家族が、親しい人が病になることを私たちは恐れずにはいられません。  
 年を重ねることへの恐れや健康に対する恐れのように具体的でないとしても、漠然とした将来に対する恐れがあります。私たち一人ひとりの将来の見通しが立たないということがあります。それだけでなく、この社会が、この国が、この世界が将来どうなるか分からない、そのような漠然とした不安を多くの人が抱えています。私たちもこの世界の歩みも根無し草のように拠り所を失い、風が吹けば翻弄されるように思えるのです。

喜べない現実  
 恐れを抱えて生きている私たちに、天使は「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と言います。毎年クリスマスを迎えると、このみ言葉が語られてきました。ですから私たちは聞き慣れてしまっていて、このみ言葉に立ち止まることがなくなっているかもしれません。私たちは天使が告げるこの「大きな喜び」を自分のこととして本当に喜んでいるのでしょうか。この「大きな喜び」とは、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」ことです。このことは私たちの現実に「大きな喜び」をもたらしているのでしょうか。この一年を振り返るならば、私たちの現実はとても喜べるものではなかったのではないかと思います。大きな自然災害がありました。自然の脅威の前に、私たちはなすすべもありませんでした。心を痛める事件がいくつもありました。人が人の命を奪うことも少なくありません。不条理としか言えないこと目を覆いたくなること耳を塞ぎたくなることがありました。この私たちの現実に神さまは本当に関わってくださっているのか、と思わざるをえないのです。主イエス・キリストがお生まれになったことは、私たちの現実にどう関わっているのか。「大きな喜び」を告げると言われても、クリスマスに喜べない方々が多くいらっしゃるのです。  
 この聖書箇所について、ある説教の中で次のように語られています。「だが今、私どもの耳に聞きなれた知らせの言葉が響きます。あの降誕の福音書の言葉であります。野宿する羊飼いたちと共に天使の知らせを聞きます。飼い葉桶に眠る乳飲み子についての心動かす物語であります。この乳飲み子こそ、民全体に喜びと救いをもたらすというのであります。――何百年にもわたって、ここから慰め、喜び、そして望みが汲み取られてまいりました。だが今日、恵みの時は過ぎ去ったかのようにさえ思われます。これらすべてのことは、なるほどなお私どもの耳を捕らえはするものの、人間の心を現実に揺り動かすほどの強さ、力をもはや十分に持っているとは思えず、むなしい響きをしかたてていないようにさえ思われるのです。」この説教は第二次世界大戦中の1944年12月24日に、ある強制収容所で語られたものです。75年ほど前に語られた説教を、しかも特別な歴史的背景を持つ説教を、そのまま現代の私たちに語られていると受けとめることはできません。この75年ほどの間に私たちの生活は大きく変わりました。技術は大きく進歩し、人間の生活はずっと便利で快適になりました。戦争がなくなったわけではありませんが、それでも世界大戦と呼ばれる規模の戦争は起きていません。それにもかかわらず、「人間の心を現実に揺り動かすほどの強さ、力をもはや十分に持っているとは思えず、むなしい響きをしかたてていないようにさえ思われる」というのは、私たちの現実でもあるのではないでしょうか。天使が告げた「大きな喜び」が私たちの心を現実に揺り動かすほどの強さ、力をもはや十分に持っているとは思えないのです。むなしい響きしかたてていないようにさえ思えるのです。しかし75年前のこの説教は、そのように思える理由が現実の厳しさにあるとは語りません。「人間が、自分の人生を神抜きで営むことに慣れ切っている」からだと語るのです。

神なき生活  
 私たちは恐れと不安を抱えて生きています。私たちの現実は喜べるものではないかもしれません。けれども私たちが自分の恐れや不安や喜べない現実に心を完全に奪われてしまって、神さまが私たちの現実に、この世界に関わってくださることを信じられなくなっているならば、私たちも自分の人生を神さまなしに考え、神さまなしの生活を過ごしてしまっているのです。神さまなしの生活は、神などいないとその存在を否定することではありません。いわゆる無神論ではないのです。神さまがいることは信じている、あるいは神さまを知っているけれども、その神さまが自分の日々の生活とは関わりがない、遠く離れた神さま、知識や思想としてだけ知っている神さま、今も生きて働かれているのではない、死んだ神さまとなっているとき、私たちは神さまなしの生活を過ごしています。そのとき、神さまではなく私たちが自分の人生の主人となっているのです。神さまが日々の生活に関わってくださらないのなら、私たちは自分の力で自分の人生をどのようにしても良いかのように、あるいはどうにかしなければならないかのように思えます。自分の力で自分の人生を切り開くというのは、格好良く聞こえるかもしれません。しかしそれは自分の人生を自分のものとしてしまうことです。自分を中心として、自分の力を頼みとして、自分を主人として生きるとき、私たちは神さまから離れています。このように神さまから離れることこそ、神さまに背くことであり、私たちの罪にほかなりません。神さまなしの生活とは、罪の力に捕らわれてしまっている生活であり、罪の支配の下にある生活です。  
 確かに私たちの抱いている恐れや不安は小さいものではありません。私たちの現実も深刻であるに違いありません。もし私たちが、自分が抱いている恐れや不安に打ち勝つなにかを、喜べない現実を喜ぶためのなにかを自分の中に探そうとするならば、なにもありません。神さまなしの生活をいくら過ごしてみても私たちの中にはなにも見つからないのです。そのなにかは、私たちの外から与えられなければなりません。神さまが関わってくださらなければ、罪に捕らわれてしまっている私たちの現実は変わることはありません。私たちは自分の力で、罪の支配から抜け出すことはできないのです。しかし神さまはそのような私たちに関わってくださいました。クリスマスは、神さまが私たちに関わってくださった出来事にほかなりません。「恐れるな」と、神さまは私たちに命じられます。それは、私たちの内からわきあがってくる「恐れない」という決意表明のようなものではありません。私たちの外から神さまが与えてくださっている命令です。「恐れない」のは、私たちの中に、あるいは私たちの日々の生活や現実の中に恐れなくてよい理由が見いだせるからではありません。神さまが「恐れるな」と命じるから、私たちは恐れなくてよいのです。「わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」と、神さまは私たちに言われます。それは、私たちの内からわきあがってくる喜びではありません。私たちの外から神さまが与えてくださっている「大きな喜び」です。この喜びも、私たちの中に、あるいは私たちの日々の生活や現実の中に見いだせるのではありません。この「大きな喜び」が、「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」ことであり、「この方こそ主メシアである」ことなのです。

救い主がお生まれになった  
 「救い主がお生まれになった」と告げられます。「救い主」という言葉は、皇帝アウグストゥスにも用いられました。助ける人、救う人は誰であれ、この言葉で呼ばれたようです。しかしここでお生まれになった救い主は、誰を何から救う方なのでしょうか。それは、私たちを罪から救う方にほかなりません。私たちを罪の支配から救い出すために御子はお生まれになったのです。私たちが恐れや不安を抱き、喜べない現実の中で、神さまなしの生活へと後退しそうなとき、「救い主がお生まれになった」と告げられるのです。神さまから離れ、神さまに背いて歩んでいる私たちを救うために御子はお生まれになりました。「救い主がお生まれになった」と告げられます。クリスマスにお生まれになった御子は、すでに私たちの救いのために歩み始められているのです。御子は、いろいろな歩みを経て「救い主」となったのではありません。お生まれになった御子が「救い主」なのです。それは、生まれたときから、つまりクリスマスの出来事において、すでに御子の十字架の死が見つめられているということです。なぜなら私たちの救いは、主イエス・キリストの十字架の死において実現するからです。私たちの救いは、ほかのところでは実現しないのです。「救い主がお生まれになった」と御子の誕生が告げられるとき、その救いが実現する御子の十字架の死が見つめられているのです。

来るべきメシア  
 この「救い主」が「メシア」であると告げられます。「救い主がお生まれになった」の「救い主」という言葉が、助ける人、救う人であれば誰にでも用いられたのと違って、「メシア」は特別な言葉です。この言葉は、旧約聖書のもともとの言葉で「油を注がれた者」という意味ですが、来るべき救い主を指し示すようになりました。旧約聖書ではメシア到来の預言が語られていますが、本日共にお読みしたイザヤ書第9章1~6節もその一つです。5節に「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、『驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君』と唱えられる」とあります。ここで語られている「ひとりのみどりご」「ひとりの男の子」が来るべきメシアなのです。イザヤがこの預言を語ったのは、シリア-エフライム戦争の時代だと考えられています。ダビデによるイスラエル統一王国は、その息子ソロモンの時代の後に北と南に分裂しました。イザヤの時代、北王国も南王国も強力な力を持ったアッシリアの脅威にさらされていました。外圧を受けながら、国家の存亡のために北も南も政治的外交的な手段に頼ったのです。シリア-エフライム戦争はそのような中で起こった戦争です。北王国がアラムの王と反アッシリア同盟を結び、南王国をその同盟に参加させようとして攻めこんだのです。しかし南王国はアッシリア王に助けを求めました。この戦争がきっかけとなって、北王国は滅ぶことになります。このように北王国と南王国の間に緊張関係があり、アッシリアの脅威にさらされ、戦争が起こり、北王国が滅んでゆく時代にあって、イザヤは「ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた」と、メシアの誕生を預言するのです。そしてそのとき「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた。あなたは深い喜びと 大きな楽しみをお与えになり 人々は御前に喜び祝った」と告げます。イザヤが生きていたのは、いぜんとして人々が闇の中を歩み、死の陰の地に住んでいる現実です。大いなる光を見、光が輝き、深い喜びと大きな楽しみが与えられることなど、まったく起こりそうにない現実の中にあったのです。それにもかかわらずイザヤは、メシアが誕生するとき、闇の中に、死の陰の地に光が輝き、人々に深い喜びと大きな楽しみが与えられると、預言したのです。イスラエルの民は、イザヤの預言が成就するのを長い間待ち続けました。来るべきメシアの到来を待ち望んできたのです。お生まれになった救い主が「メシア」であるとは、御子においてイザヤの預言が成就し、御子こそイスラエルの民が待ち望んでいた、来るべきメシアだということにほかなりません。御子の誕生において、「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」のです。人々は「深い喜びと大きな楽しみを与えられ、御前に喜び祝った」のです。私たちはすでにイザヤの預言が成就した時代に生きています。来るべきメシアがすでに到来した時代に生きているのです。しかしそれでも私たちはなお闇の中を歩んでいるのではないか、死の陰の地に住んでいるのではないかと思わされる現実を生きています。本当に、イザヤの預言は成就したのだろうか、来るべきメシアは到来したのだろうか、と疑いすら抱きます。確かにこの預言の成就の完成は終わりの日に起こることです。ですから私たちは、この預言の成就を部分的に味わいつつ生きていると言わざるを得ません。イスラエルの民が来るべきメシアを待ち続けたように、私たちもキリストが再び来てくださり、この預言の成就を完成してくださること、つまり救いを完成してくださることを待ち望んでいるのです。しかし御子の誕生において、すでに私たちが生きる現実の中に光と喜びが与えられ始めています。私たちは、闇の中にあっても、喜べない現実の中にあっても、すでに御子の誕生によって光と喜びが与えられていることを信じて良いのです。お生まれになった救い主がメシアであるとは、このことを告げているのです。

低きにくだる神  
 お生まれになった救い主がどのような方なのかを指し示すしるしが私たちに与えられています。「布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」です。生まれた赤ちゃんを布にくるむのは当時普通のことでした。ですからこのことは、神さまの独り子である主イエス・キリストが、ほかの赤ちゃんとまったく同じにお生まれになってくださったことを意味します。神さまの独り子が私たちとまったく同じ人となってくださったことを告げているのです。乳飲み子は無力な弱い存在です。自分一人で生きることができず、誰かの助けを必要としています。凍え死んでしまわないように布にくるまなくてはなりません。餓死しないようにお乳を与えなくてはなりません。私たちが皆そうであったように、御子はそのような力のない弱い乳飲み子としてお生まれになったのです。私たちが御子のところへ上っていったのではありません。御子が私たちのところまで下ってきてくださったのです。「主は豊かであったのに」私たちのために「貧しくなられ」ました。御子は低きにくだってくださったのです。そのようにして神さまは独り子を遣わしてくださいました。主イエス・キリストが私たちのところまで低く下ってくださったことは、私たちのすぐ近くまで来てくださったことでもあります。御子は私たちから遠く離れておられるのではありません。私たちの現実と関わりのないところに来られたのではなく、私たちの現実の真っただ中に来てくださったのです。  
 乳飲み子を「飼い葉桶の中」に寝かせるのは当時でもあり得ないことでした。このことは、御子がこの地上に居場所を持っておられないことを示しています。本来、天におられる神さまの独り子は、この地上に居場所を持ちません。ですから当時の人たちが、そして私たちも寝かされることのない「飼い葉桶」に、御子は寝かされたのです。御子は、私たちのところまで低く下ってくださった、弱くなってくださったのにとどまりません。私たちの誰よりも低くなってくださり、弱くなってくださったのです。私たちは自分の居場所がないと感じることがあります。しかし御子はそのような私たちと共にいてくださり、私たちを支えてくださいます。それは、ほかならぬ御子が、この世に居場所を持たなかったからです。その御子のゆえに、私たちは居場所がないと感じるときですら、「キリストと共にいる」という居場所が与えられているのです。私たちの誰よりも、低くなり弱くなってくださった主イエス・キリストは、その十字架の死において、最も低くなり弱くなってくださったのです。しかしその低さ弱さの極みにおいて、私たちの救いが実現しました。主が豊かであったのに私たちのために貧しくなられたのは、主の貧しさによって私たちが豊かになるためです。「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」は、私たちのところまで、そして私たちの誰よりも低きに下った主イエス・キリストを指し示しているのです。その低さの極みである十字架の死において実現した私たちの救いが見つめられているのです。

今日、あなたがたのために  
 「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」御子の誕生を告げるこの天使の短い言葉の中に、繰り返し「あなたがた」と語られています。「あなたがたのために救い主がお生まれになった。」「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。」「これがあなたがたへのしるしである。」御子は、ほかならぬあなたの救いのためにお生まれになったのです。私ではない誰かのためではなく、この私のために御子は来てくださったのです。恐れと不安を抱えている私たちのところへ。喜べない現実を生きている私たちのところへ。闇の中を歩み、死の陰の地に住んでいる私たちのところへ来てくださったのです。主イエス・キリストは、私たちの現実の真っただ中に来てくださいました。私たちはクリスマスに、恐れや不安を抱えていても良いのです。喜べなくても良いのです。闇の中にあって希望を持てなくても良いのです。そのようなクリスマスを過ごしている私たちのところへ、「今日」御子は来てくださいます。私たちの中にはまったく見当たらない、光と喜びをたずさえて御子は私たちのところに来てくださいます。この御子がもたらす本当の光と喜びによって、私たちは不安や恐れ、闇の外へと踏み出すことができるのです。「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。」この大きな喜びが私たちに与えられています。この大きな喜びが私たちの現実に突入し、私たちの心を激しく揺り動かし、私たちに希望を与え続けるのです。

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