主日礼拝

神の慰め、我らの力

「神の慰め、我らの力」  牧師 宇野信二郎(横浜大岡教会)

・ 旧約聖書:イザヤ書 第40章1-2節、27-31節
・ 新約聖書:コリントの信徒への手紙二 第1章3-7節
・ 讃美歌:352、140、469

わたしたちの主イエス・キリストの父である神、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように。 (二コリ一・三)

私たちの主、本当の主人は、イエス・キリストです。十字架によって殺されながら、死人の中から復活を遂げた唯一の方です。地上においても、来たるべき世においても、私たちの主、預言者たちの告げた救い主、キリストであり続けて下さるお方です。

天の神を私たちは、主イエスに倣って父、と呼びます。神を父と呼ぶことの出来るのは、本来主イエスただお一人です。その主イエスが、墓の中から復活を遂げられました。私たちの命を死から取り戻して下さいました。主イエスのおかげで今、私たちは天の神を、父よ、と呼ぶことが出来ます。

多くの呼び名を聖書は、父なる神に献げています。その中で今日の三節には、二つの呼び名が記されています。慈愛に満ちた父、そして、慰めを豊かにくださる神、です。慈愛に満ちた、との言葉は、他の場所では、神の憐れみ、とも訳されています。あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい(ルカ六・三十六)。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです(ヤコ五・十一)。というふうにです。憐れみ、という言葉は、聖書から離れた所では、人が他人に情けを掛けることや、人が相手よりも一段高い所に立って他人を見下ろす姿を連想させます。それに対して、主なる神が私たちに与えて下さる憐れみ。それは、私たちの罪を聖なる神御自身が引き受けて下さることです。父なる神は正しいお方ですから、私たちを裁いて滅びに定めることもお出来になりました。なのに私たちを断罪なさいません。それどころか私たちに代わって、ひとり子でいらっしゃる主イエスが、処罰されました。天の父に対しても、隣人に対しても、何の過ちも犯されなかったお方が、ローマの極刑である十字架を引き受けて下さいました。主の十字架に、神の慈愛、神の憐れみは極まっています。

神がほめたたえられますように、と主イエスの使徒は語ります。私たちの生活において、すべての教会において、慈愛に満ちた父、慰めを豊かにくださる神がほめたたえられますように、との祈りです。すべての国、すべての人の間で、わたしたちの主イエス・キリストの父である神が讃美されますように、との願いです。 神の国とは、どんな時も、どこにおいても、父なる神がほめたたえられる所です。私たちの世界においては、残念ながら、神への讃美の歌が途切れ途切れになってしまいます。それどころか、殆ど聞こえなかったり、絶えて久しかったりします。歌や音楽は溢れ返っているのですが、神を信じるよりも人間自身をたたえる歌の何と多いことでしょうか。 悲しい時にも神の御名を呼び、嬉しい時にも神の御名をほめたたえること。それは、主イエスを私たちが知る時、初めて知る生き方です。なぜなら、主イエスこそ、悩みの日にも、悲しみの深まる日にも、苦しみの極みの時にも、天の父をほめたたえて生き抜かれたからです。十字架にはりつけにされたその時においても、天の父を呼び求めながら、死んで行かれたお方だからです。教会のささげる讃美の歌は、かしらである主イエス御自身が与えて下さる歌です。

神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。 (二コリ一・四)

慰め、という言葉が繰り返されています。わずか五節の言葉の中に、九回も、慰め、という言葉が使われています。私たちの国の言葉では、漢字で、心、の上に、火熨斗(ひのし)を現す文字を置きます。皺の寄った布に当てて伸ばすために、炭火を入れて使う金属製の道具で、昔のアイロンが火熨斗です。火熨斗が布地や服を生き生きと美しくするように、心を和らげ、温め、生き返らせる業。それが、漢字によって現される、慰め、です。私たちはアイロンを自分で当てたり、人に頼んだりして、服や布地をパリッとさせることは出来ますが、私たちの魂を生き返らせることの出来るのは、主なる神お一人です。 主イエスの使徒が使っていたギリシアの言葉では、慰め、という言葉と、教会、という言葉は、極めて良く似た言葉です。慰め、と教会、は、同じ言葉から出て来た表現です。あり、同じ言葉から出て来た表現です。どちらも、呼ぶ、という言葉がもとになっています。神によって呼び集められた者たち、というのが、教会、という言葉です。神が私たち人間をそばに呼んで下さること、傍らに呼び寄せて下さること。それが、慰め、あるいは慰める、という言葉です。天の父が、私たちを呼び寄せて語りかけて下さる時。私たちの心には、神の命の息が吹き込まれます。天地創造の時以上に、熱く、血の通った、主イエスの血の通った神御自身の命が注ぎ込まれます。私たちの心は再び静かに、途切れることなく燃え立たせられます。神の慰めの注がれる時です。

主の教会とは、天の父によって呼び集められた者たちの集まりです。主イエスによって罪の赦しを頂き、聖霊なる神を共に受けて一つにされた者たちが、教会です。主の教会とは、神のもとに呼んで頂いた者たち、神の慰めに共に与る者たちの集まりです。 慰めよ、わたしの民を慰めよと あなたたちの神は言われる。/エルサレムの心に語りかけ 彼女に呼びかけよ 苦役の時は今や満ち、彼女の咎は償われた、と。罪のすべてに倍する報いを 主の御手から受けた、と。(イザ四十・一~二)

この日旧約から与えられたのは、イザヤ書四十章の御言です。イスラエルの民、ユダの国を紀元前六世紀初め(五八七年に)征服したバビロニア帝国は、およそ五十年後(紀元前五三九年)に、ペルシャによって打ち負かされました。外国で捕虜となっていたイスラエルの民が解放され、懐かしい故郷に帰って来る喜びを、今日の御言は背景としています。一度は世界の中で失われたと思われた者たちが、今や、神の慰めを頂きます。 預言者は、イスラエルの民に向かって、祖国がバビロニアによって滅んだのは、自分たちの霊的な問題の故だ、と言います。造り主の方に心を向けて忠実に生きようとしなかったために、私たち自身が招いた結果だった、と語ります(二節)。歴史の中で、常に大国によって虐げられた民、地上で最も苛められた民族を、私たちは信仰の先達として与えられています。その中でイスラエルの民が、神の言葉を受け止め、神に対する自らの罪を悔い改めようとし続けた姿に学ぶことができます。正しい人間であるから神の慰めを受けるのではなく、神の呼びかけを頂き、神の赦しを頂かなければ生きられない人間であるからこそ、慰めを頂きます。イザヤの取り継いだ言葉に表された信仰は、主イエスによって、私たちの受け継ぐべき信仰です。

神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。 (二コリ一・四)

私たちが隣人に手渡すのは、私たちに与えて下さった、主イエス御自身の命です。主イエスによって与えられる罪の赦しです。主イエスの与えて下さる復活の約束です。主は、私たちさえもそばに呼び寄せ、天の神を父よ、と呼ぶ幸いを与えて下さいました。その主が、私たちの隣人を御自分の傍らに呼んで下さらないはずがない、と私たちは信じます。

キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいるのと同じように、わたしたちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれているからです。(二コリ一・五)

伝統的な私たちの国の葬儀では、帰り際に塩を頂くことがあります。これは本来の仏教とは関係の無い、日本独自の風習だと教わりました。人の死は嬉しくないこと、葬儀に出席することは穢れることだと考える隣人が、私たちの国では決して少なくありません。何より、私たち自身が、教会に来るようになる前は、苦しみや死を何とかして遠ざけようとして過ごしていたのではないでしょうか。人の死を忌み嫌う風習や社会の中では、キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいる、という五節の言葉は、嬉しくない言葉として素通りされるでしょう。本当は私たちにとって、キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいる、ということは、この上もなくありがたいことです。他には代えられないことです。私たちに救いをもたらす福音の中心です。なぜなら、主イエスが十字架につけられて流された血潮によって、私たちは清くされるからです。イスラエルの神殿の礼拝では、祭司は民の罪を執り成すために、犠牲の動物を屠り、いけにえの血を、祭壇の四隅の角に注ぎかけました(レビ四・十八)。生き物の命は血にあると律法にあります(レビ十七・十一)。私たちに代わって屠られた動物の血と引き替えに、私たちの命は神のものとされる、と信じられたからです。天の父は一度きり、御自分のひとり子キリストを、聖なる犠牲とされました。主イエスの十字架の苦しみによって、天の父が私たちを側に呼び寄せて下さるための道は開かれました。主イエスの苦しみによって、天の父の慰めは私たちに及び、私たちを浸し、満ちあふれます。

わたしたちが悩み苦しむとき、それはあなたがたの慰めと救いになります。また、わたしたちが慰められるとき、それはあなたがたの慰めになり、あなたがたがわたしたちの苦しみと同じ苦しみに耐えることができるのです。(二コリ一・六)

私たちが悩み苦しむことが隣人の慰めと救いになる、これはイエスを主として仰ぐ時に起こる出来事です。同じ主イエスに結ばれた者たちの間で、本当に起こる出来事です。悩み苦しむ、とは、人が上から強く押さえつけられる姿を現します。キリスト者が悩み苦しむ、とは、主イエスの軛を背負うがゆえの苦しみです(マタ十一・二十九)。家畜が荷馬車を引いたり、鋤を引いて田畑を耕したりする時。主人によって担がされたのが、軛です。私たちが信仰を与えられることは、キリストのしもべになることです。もう少しはっきりと言うならば、キリストの奴隷にされることです。神のために、私たちを滅びから救い出(いだ)して下さった天の父のために、喜び勇んで働くのが、キリストを主人と仰ぐ者たちです。安楽な任務ではありません。どんな地上の役割でも、真剣に担おうとすれば労苦を伴うように、主イエスに従うことは、キリストの軛を負うことですから、それなりの労苦があります。自分のために悩み苦しんでいたのが、主イエスを知る前の私たちの人生でした。主イエスのために役割を背負うようになるのが、新しい私たちの歩みです。
私たちが主のために真剣に生きようとし、主をほめたたえながら生きようとする時。同じキリストのしもべたちにとっての慰めと救いになります。一人の神のしもべの証しは、他のしもべたちが改めて神の呼びかけを聞くきっかけとなります。天の神を知らなかった隣人にとっては、神を父よと呼ぶ手掛かりとなります。一つの教会の信仰の戦いは、他の教会が今一度神の呼びかけを聞き、立ち上がるための励ましとなります。私たちの歩みは、主イエスにあって決して無駄にはなりません。それどころか、他の肢体を生かす業にさえ、されます。病ゆえの苦痛も、社会で働く中での労苦も、私たちの誰もに今、少しずつ迫って来ている地上の旅の終わりも、すべてが天の父の慰めの中に置かれています。十字架の上で御自分の命をささげて下さった主イエスが、私たちの苦しみを引き受けて下さっているからです。

私たちの伝えていく信仰。それは、主の名によって私たちが背負う役割に耐えるための、天の父が与えて下さる力です。伝道にしても宣教にしても、嬉しい、楽しいという言葉のみで彩られ、飾られるようになる時。私たちは立ち止まるべきでしょう。キリスト者とされることは、主イエスの焼き印を身に負うことです。主の軛を背負うことであり、己の十字架を背負うことです。私たちの十字架は既に、主イエスが代わって背負い、磔になって下さいました。主イエスによって私たちは、私たちの死と呪いとを引き受けて頂きました。地上において、私たちの主は何の栄光もお受けになりませんでした。私たちも、あらゆる栄光を捨てるべきです。教会はその初めから、主イエスを証しする役目を背負い続け、忍耐をしようとして来ました。私たちも、主イエスの名のゆえに先達たちが担い、キリストのしもべたちが今忍耐をもって背負っている、福音に生きる働きを、共にすることが出来ますように。聖霊なる神は私たちを支えて下さいます。

預言者イザヤは、語りました。主は、疲れた者に力を与え 勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが 主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上(のぼ)る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない(イザ四十・二十八~三十一)。

主のしもべたちの道は、絶えず神が御自分のそばに私たちを呼び寄せ、私たちの傍らを歩いて下さる道です。どんなにうねっているようでも、険しく思えても、救いへとつながっている道です。主イエスが私たちのすべての重荷を引き受け、十字架もろとも滅ぼして下さったからです。主イエスに望みを置く時、天の父が私たちに絶えず御言を語りかけ、聖霊なる神が私たちを持ち運んで下さいます。

あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです。(二コリ一・七)

使徒パウロは、現在のギリシア南部の港町コリントに、一年六ヶ月の間留まって福音を宣べ伝え、教会が誕生しました。パウロは一度コリントを立ち去り、手紙を書き送って教会を励まし、やがて再びコリント教会を訪問します。残念なことに、二度目の訪問の時はあまり歓迎されませんでした。むしろ悲しみを背負うことになります。主と使徒たちの言葉に反発し、違う教えを説く人々が入り込んで来たからです。 わたしたちはあなたがたを広い心で受け入れていますが、あなたがたは自分で心を狭くしています(六・十二)。手紙の中にあるこんな言葉から、使徒とコリント教会との間に生じた溝、断絶の大きさが伝わって来ます。落胆をする中で、パウロは心を決めて、この第二の手紙を書き記します。最初の福音を受け入れない人々が出て来る中で、何とかして教会として立ち続けてほしい、キリストのしもべとして生き続けて欲しい、と願って、時には厳しい言葉も、共に主イエスに結ばれた者として、敢えて書き送ったのでした。

使徒は、コリントの教会に希望を抱いていたことを語ります。同じ主の教会としての希望です。イエス・キリストを主とし、かしらとして仰ぐ者たちが共に抱いている希望です(三節)。主イエスによって天の神を父と仰ぐ者としての希望です(三節)。

同じ志を持って生きる者同たちのことを、一般的には同士、と言ったり、仲間、と言ったりしますが、教会ではもっと強い結びつきをもって語られます。キリストの体、主イエスをかしらとする一つの体の部分、として語られます。主イエスがぶどうの木の幹で、キリスト者はその枝と語られます。主イエスを信じることによって一つの体とされた者たちは七節にあるように、苦しみを共にしていると共に慰めをも共にしている、と語られます。

苦しみを共にする、ということは、最初に言われているように、キリスト者同士であれば、真っ先に直面することです。現実に私たちが体験することなので分かりやすい面もあります。外国で生まれた最初の教会の一つであるコリントの教会の人々もまた、主の日ごとに礼拝を守る戦いにいきなり直面しました。多くの外国の風俗や文化、流行がなだれ込んでくる最先端の都市で、聖書の言葉に従って生きようとする時。葛藤がありました。隣人との議論があり、信仰者としては誘惑に晒されました。同じ教会の中でも、他の町や他の国にある教会の人々とも苦しみを共にする、ということは、心を燃やせる部分があります。苦しみを共にすることを大切な使命として、私たちは心に覚えようとするからです。
その一方で、慰めを共にする、ということにおいて、実は教会同士、キリスト者同士は、意外に困難を覚えています。現代もそうです。主イエスを共にかしらと仰ぐ者たちの間で、教会どうしの間で、慰めについての理解が異なっていると、祈りは一致しません。礼拝で語る言葉も一致しません。教会同士、キリスト者同士の分裂が少しずつ進んで行きます。
使徒はここで、自分たちとは違う歩みを始めようとしていたコリント教会に対して、分裂状態にある教会に対して、勇気をもって、最後の力を振り絞って、私たちとあなたがたとは、慰めを共にしている、と語ります。国や場所は離れていても、同じ神の民として、同じキリストの教会として歩む上で、慰めを共にしていることが、一つの土台だと信じていたからです。

私たちの教会が大切に受け継いできた信仰問答の一つ。ハイデルベルク信仰問答は、その冒頭において、生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか、と問いかけます。生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。この問いかけに対する応答として、わたしがわたし自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主 イエス・キリストのものであることです、という信仰の言葉が告白をされます(吉田隆訳、新教出版社)。私たちが主イエス・キリストのものであること。主イエスの血潮によって、命を買い取られ、神のものとされたこと。天の父が私たちすべての人間に与えることを願っておられる宝、キリストのものとされるという宝。それが神の慰めです。

共にする、との七節の言葉から、交わり、という言葉も生まれて来ました。キリスト者とは、キリストの十字架の苦しみに共に与り、キリストの慰めに共に与る交わりを与えられた者たちです。聖徒の交わりは、地上においても、やがて主イエスの来られたのちにも続いていきます。共に復活させられ、新しい体を与えられる者同士の交わりです。

慰めを共にすることは、神をほめたたえながら、主イエスによって一つとされて生きることです。一つの慰めを頂くことは、慰めを分かち合う生き方へ共に歩み出すことです。日頃過ごす場所は異なっても、同じ慰め主によって一つとされ、一人の主の命を頂きながら、生きることが出来る恵みを、主なる神に感謝を致します。

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