夕礼拝

主イエスの名による洗礼

「主イエスの名による洗礼」 伝道師 乾元美 

・ 旧約聖書:エゼキエル書 第36章25-28節
・ 新約聖書:使徒言行録 第18章24-19章10節
・ 讃美歌:56、406

 本日は、18章と19章にまたがって聖書をお読みしました。
 18章の部分は、アポロという人物がエフェソに登場し、伝道して、その後にアカイア州、つまりコリントへ行ったということが語られています。
 そして19章は、そのアポロがエフェソを去った後に、第三回目の伝道旅行に出かけたパウロがやって来て、そこで何人かの弟子に会う、という出来事が語られています。
 共通点は、どちらもエフェソという場所での出来事であり、そして、アポロも、パウロが出会った十二人ほどの弟子たちも、はじめは「ヨハネの洗礼」しか知らなかった、ということです。
 そして、今日の箇所を通して特に覚えたい大切なことは、「主イエスの名による洗礼」と「聖霊が降る」、ということです。
 これは、今、教会に連なるわたしたちも受けたものであり、また、これから、神に救いへと招かれ、キリストを信じる者たちも受けるものです。ヨハネの洗礼ではない、主イエスの名による洗礼がどういうものか、ということを、今日の聖書箇所から、共に聞いてまいりましょう。

<アポロ>
 まず、アポロです。18:24には「アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た」と書かれています。彼は、学問都市であるアレクサンドリアで教育を受け、聖書に精通しており、学識、教養がある人物でした。
 彼は25節で「主の道を受け入れていた」と書かれています。これは、イエス・キリストを信じる信仰を持っていた、ということです。そして、主イエスのことについて熱心に語り、正確に教えていました。主イエスが救い主である、ということを人々に語っていたのです。
 しかし、アポロは「ヨハネの洗礼しか知らなかった」とあります。

 そこに、プリスキラとアキラというキリスト者夫婦がいました。彼らは、パウロと一緒にエフェソに来て、パウロが去った後もそこに留まっていました。
 そして、アポロが教えていることを聞いて、彼らは「もっと正確に神の道を説明した」とあります。それはつまり、アポロは「ヨハネの洗礼しか知らなかった」のですから、彼に、「主イエスの名による洗礼」について教えた、ということでしょう。

 重要なことを教えられたアポロは、アカイア州、つまりコリントへ渡ることを望みました。そこで、エフェソの兄弟たち、プリスキラとアキラをはじめ、共にキリストを信じるエフェソ教会の人々が、アポロを励まし、コリントの教会にアポロを歓迎してくれるようにと手紙を書いて送り出したのです。
 アポロはそこへ着くと、既に恵みによって信じていた人々を、つまり、以前パウロが伝道した時に誕生したコリントの教会を、大いに助けた、とあります。アポロは、聖書に基づいて、メシアはイエスである、救い主はイエスという方だ、ということを公然と立証し、激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せたのです。

 パウロが書いたコリントの信徒への手紙では、コリント教会でパウロ派、アポロ派、という人たちが出て来るほど、アポロが教会で大きな役割を果たしたことが語られています。
 パウロが福音を述べ伝え、アポロが後から来て教会を大いに助けました。アポロは決してパウロと敵対したり、競争して、自分の派閥を作ろうとしたのではありません。
 パウロは自分とアポロのコリントでの伝道の働きについて、「わたしは植え、アポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です」と手紙で語ります。パウロとアポロは、共に同じお一人のキリストに仕え、福音を証しし、宣べ伝えたのであり、実りをもたらして下さったのは神である、と言って、教会の人々に分裂せず一致するように語っているのです。
 これは、働きや、キャラクターが違っても、パウロもアポロも共に、同じお一人の主イエスを土台とし、信じ、仕えているから、つまり「主イエスの名による洗礼」で一致しているからこそ、そのように言えるのです。

<エフェソの十二人>
 さて、次に19章を見てみましょう。アポロがエフェソを去ってコリントにいたとき、次にパウロがエフェソにやって来ました。
 そこで、パウロは何人かの弟子に出会いました。パウロは彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と尋ねました。
 どうしてパウロはこのようなことを聞いたのでしょうか。それはおそらく、パウロがこの弟子たちの信仰生活や、在り方に、何か不自然なもの、足りないものを感じたのかも知れません。
 それは、先ほど雄弁家で聖書に精通しているアポロが、熱心に、正確に主イエスのことを教えていたにも関わらず、プリスキラとアキラが「もっと正確に神の道を説明」しなければならない、と感じたことと似ています。

 パウロの問いに、彼らは「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と答えました。そして、パウロが「それなら、どんな洗礼を受けたのですか」と聞くと、彼らは「ヨハネの洗礼です」と言いました。
 もしかすると、この十二人は、かつてアポロに主イエスのことを教えられた人たちかも知れません。アポロがエフェソで教えていた時、アポロは「ヨハネの洗礼しか知らなかった」からです。
 そのように「ヨハネの洗礼を受けた」という弟子たちに、パウロは19:4にあるように「ヨハネは、自分の後から来る方、つまりイエスを信じるようにと、民に告げて、悔い改めの洗礼を授けたのです」と言いました。

<ヨハネの悔い改めの洗礼>
 さてここで、彼らが受けたという「ヨハネの洗礼」がどういうものであったかが教えられています。
 洗礼者ヨハネは、旧約聖書の時代から預言されていた、救い主の道備えをするために遣わされた人でした。
 福音書にはそれぞれ、洗礼者ヨハネのことが書かれていますが、マルコによる福音書の1:4には、旧約聖書のイザヤ書に、救い主が来られる準備をする者、主の道備えをする者が遣わされることが預言されている、ということが示され、その預言のとおりに、「洗礼者ヨハネが荒れ野に現れて、罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と書かれています。
 そして洗礼者ヨハネは、人々にこのように宣べ伝えていました。
 「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは、かがんでその方の履物のひもを解く値打ちもない。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる。」
 洗礼者ヨハネは、救い主が自分の後に現れることを指し示し、自分は水で悔い改めの洗礼を授けているが、後から来られる救い主は、聖霊で洗礼をお授けになる、と語ったのです。

 悔い改めとは、自分の失敗や間違いを反省して、これからは気を付けよう、と決心するというようなことではありません。「悔い改め」と訳されている言葉は、方向転換をする、という意味で、神様から離れ、神様の方を向いていなかったのを、神様の方へ正しく向き直ること、神様に立ち帰ることを、悔い改めと言います。
 そうして、悔い改め、罪を告白した者に、神に立ち帰ったしるしとして、洗礼を授けたのが、ヨハネの洗礼です。そして、来たるべき方を信じるようにと、告げ知らせていたのです。

<主イエスの名による洗礼>
 その洗礼者ヨハネが、来たるべき救い主として告げ知らせていた方が来られました。イエス・キリストです。預言されていた神の救いのみ業は、主イエスによって成就しました。主イエスは、神の御子でありながら、まことの人となり、すべての人の罪を担い、十字架に架かって死なれました。そうして、すべての人の罪をご自分の命で償って下さったのです。そして、十字架で死なれ、葬られた主イエスを、神が復活させられました。

 使徒言行録の1章は、復活された主イエスが、四十日間に渡って弟子たちに現れたことが記されています。
 そして、主イエスご自身が「前にわたしから聞いた、父の約束されたものを待ちなさい。ヨハネは水で洗礼を授けたが、あなたがたは間もなく聖霊による洗礼を授けられるからである」と語られたのです。
 そして、復活の主イエスは天に上られました。
 その後、使徒言行録の2章で、ペンテコステの出来事が書かれます。聖霊が弟子たち一同に降ったという出来事です。
 聖霊が弟子たちに降り、弟子たちは神の偉大な業、つまり主イエス・キリストの救いの御業を語りはじめました。そして、聖霊に満たされたペトロが説教を語り、この福音を受け入れた人々が、キリストの名によって洗礼を受けたのです。ペトロは、2:38で「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます」と人々に告げました。
 主イエスの名による洗礼は、聖霊の力によるものであり、また聖霊の賜物を与えるものです。道備えをしたヨハネの洗礼とは違い、救いのみ業を成し遂げて下さった主イエスの名による洗礼は、そこに聖霊が働かれます。そして、主イエスの十字架と復活による、罪の赦いと、新しい命を得させるのです。

 「洗礼」という言葉は、「浸す」という意味の言葉です。言葉の通り、当時の洗礼は水の中に全身をすべて浸します。今もそのように行う教会がありますし、わたしたちの教会は、頭に水をつける仕方で洗礼を行います。
 しかしどちらにせよ、主イエスの名によって洗礼を受ける時、洗礼はただの形式的な儀式なのではありません。その見えるしるしを通して、何が起きているかを知ることが重要です。

 本日の18:5で、エフェソの弟子たちは、パウロの言葉を聞いて、「主イエスの名によって洗礼を受けた」とあり、そしてパウロが彼らの上に手を置くと、聖霊が降り、その人たちは異言を話したり、預言をしたりした、と書かれていました。
 「主イエスの名によって洗礼を受けた」というのは、正確に訳すと、「主イエスの名の中へと洗礼を受けた、浸された」となります。「名前」というのは、その人そのものを表します。つまり、彼らが洗礼を受けた時、彼らは主イエスご自身の中へとすっかり浸されて、主イエスと一つになった、ということなのです。そこに聖霊のお働きがあります。目に見える「洗礼」という出来事の中で、聖霊によって目に見えない出来事が起こっています。洗礼は、この霊的な現実を指し示しているのです。
 主イエスを信じて洗礼を受けるということは、わたしの罪のために主イエスが十字架に架かり、死んで下さったその救いの御業を信じ、その主イエスの十字架の死に与って、罪の自分が死ぬということです。そして、主イエスの復活の命に結ばれて、新しく生まれること。主イエスに与えられた新しい命を生き始めるということです。
 このように、わたしたちを、十字架と復活の救いの御業を成し遂げて下さった、天におられる主イエス・キリストと結び合わせ、救いの恵みに与らせて下さるのが、聖霊なる神のお働きです。
 わたしたちが「主イエスの名によって洗礼を受ける」という時、このように、聖霊のお働きによって、救い主となって下さった主イエスと一つに結ばれ、罪赦された者として、神の子として、新しく生きる者とさせられるのです。

<キリストを証しさせる聖霊>
 そして、主イエスの名によって洗礼を受け、パウロが手を置くと、聖霊が降り、その人たちは威厳を話したり、預言をしたりした、とあります。初代教会は、これらを聖霊の賜物として受け止めていましたが、今わたしたちにおいて、何かそのような特別なことに限定されていると考える必要はありません。聖霊を受けた者は、神をほめたたえ、キリストの恵みを証しする言葉が与えられ、喜んでキリストに仕えていく力が与えられる、ということです。それこそ賜物です。それは、神の恵みの中で、罪赦され、生かされている者の、喜びに満ちた証言であり、神に仕える働きです。

 もし、聖霊によって自分が主イエスと一つにしっかり結ばれ、罪を赦され、新しくされている、ということがなければ、救いの確信がなければ、それは活き活きと恵みを語る信仰にはならないでしょうし、どこかに不安の影がよぎったり、神に頼り切ることが出来ずに、自分の力に頼ろうとしてしまうことが出て来るのではないでしょうか。
 パウロが、エフェソの弟子たちと出会った時に「聖霊を受けたのだろうか」と疑問に思ったのは、そのような信仰の在り方だったのではないかと思います。聖霊が与える活き活きとした、喜びの信仰を感じられなかったのです。
 ヨハネの悔い改めの洗礼は、罪を告白し、神のもとへ立ち帰るしるしでした。そして、彼らは、救い主がイエスという方だ、ということを知っていても、主イエスが復活し、天に上げられた後で、約束されていた聖霊が降ったこと、そして、神が召し集められた、信じる者の群れである教会が誕生し、人々に主イエスの名による洗礼が与えられたことまでは知らなかったのでしょう。
 だから、ヨハネの悔い改めの洗礼のもとで、しっかり悔い改めなくては、神にしっかり身を向けていなければと、神の裁きを恐れ、自分を正していくような信仰生活を送っていたと思われます。彼らの信仰生活は、聖霊によって全身が主イエスの恵みに浸されて、まったく新しくされ、恵みを喜んで証言し、賛美するような、そのような信仰生活ではなかったのです。

 しかしこのことは、今のわたしたちに、もう悔い改めが必要なくなったという意味ではありません。ペトロも、「悔い改めなさい。めいめい、キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい」と言っています。神の方を見なければ、わたしたちは救いを知ることは出来ないし、神様からそっぽを向いたままで、恵みを受け取ることも出来ません。
 しかし今や、神が救いの御業を成し遂げて下さり、すべての恵みを、キリストご自身を、目の前に差し出して下さっているのです。罪の赦しを宣言し、救いの実現を主イエスにおいて、すべて示して下さったのです。その恵みの中で、神に呼ばれ、招かれて、わたしたちは神の方をやっと向いて、差し出された恵みを受け取るのです。恵みの中で、神から離れ、罪に捕らわれていた自分を知り、悔い改めるのです。そのような罪の赦しを宣言される中での悔い改めは、恐れではなく、感謝と賛美に満ちたものとなるでしょう。

 今や、救い主は来られ、十字架と復活によって救いの御業は成し遂げられました。そして、約束の聖霊を送って下さいました。
 今や、約束は成就し、その差し出された救いを、ただ信じ、受け入れなさいと、神はわたしたちを招いておられるのです。
 主イエスによって、罪は赦されました。主イエスによって、死は打ち破られました。主イエスによって、わたしたちは新しい永遠の命に与ります。
 この救いの恵みを信じ、この方の中に飛び込んでいく。主イエスの中にわたしの存在すべてが浸され、聖霊によって、主イエスと結び合わされ、新しく生きる者とされる。主イエスに生かされ、主イエスの恵みを証しする者になる。それが、「主イエスの名による洗礼」であり、聖霊が降る、聖霊を受ける、ということなのです。
 このキリストの恵みに浸されるわたしたちの人生は、信仰生活は、聖霊に満たされ、神を賛美し、キリストを証しする、活き活きとしたものとされるのです。

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