夕礼拝

あなたがたを遣わす

「あなたがたを遣わす」  伝道師 長尾ハンナ

・ 旧約聖書: 出エジプト記 第4章10-12節 
・ 新約聖書: マタイによる福音書 第10章16-25節
・ 讃美歌 : 534、471

私たちに対して
 本日は、共に マタイによる福音書第10章16-25節をお読みします。本日の箇所は、9章の終わりにあります「収穫が多いが、働き手が少ない。収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」という主イエスの御言葉から続いております。十二使徒が選ばれました。十二使徒が選ばれ、伝道のために派遣されるにあたって、主イエスからの御言葉の一部が本日の箇所です。この弟子たちへの派遣に際しての注意は10章の終りまで続いて、11章1節で締めくくられております。このように十二使徒の派遣が述べられていますが、これは私たちとはかけ離れた特別な人々への言葉ではありません。先週も申しましたが、十二という数字はイスラエルの十二の部族を表しています。つまり、ここでは全イスラエルが神に選ばれ、使命を与えられて派遣される出来事が述べられています。これはかつての古いイスラエルとは違って、イエスを救い主と信じ、その主イエスから選ばれている新しいイスラエルであるキリスト者の代表としての十二人のことなのです。キリスト教会の代表としての十二人のことであり、ここで語られている選びと派遣は、決して私たちとは関係のない次元のことではありません。むしろ私たち自身のことであります。私たちが、主イエスによって選ばれ、教会に招かれ、この私たちが祝福の祈りを受けて、それぞれに使命を与えられて、一週間のこの世の生活に向かって派遣されて出で行くのです。本日の箇所の最初の主イエスのお言葉である「わたしはあなたがたを遣わす。」とは、そのような意味が込められています。その場合の、主イエスの懇切な注意がここで、主イエスご自身から私たちに与えられているのです。
 しかし、このように十二使徒の派遣と主イエスの注意が述べられていますが、私たちとはあまりにもかけ離れた特別な人々への言葉であるとお考えになるかもしれません。自分はあのように、偉い使徒ではないと思われるかもしれません。そのような私たちが主イエスの一方的な恵みによって、主イエスを救い主と信じる信仰を与えられ、キリストの体なる教会へと召され、招かれました。教会を現す一つの伝統的な表現があります。教会は一つの、聖なる、使徒的な、普遍的な教会とあります。一つ、聖なる、普遍的ということと並んで、「使徒的」ということが教会の特色なのです。十二名の使徒が選ばれて、派遣されるという出来事は、使徒的な教会としての新しいイスラエルの出来事として読まなければならないのです。使徒という言葉は、「遣わされる」「派遣する」という言葉に由来します。つまり、「使徒」とは使命を託されて派遣される人、メッセンジャーという意味なのです。教会は使徒的な教会である、というの、教会とか神から選ばれ、使命を与えられて派遣された神のメッセンジャーだと言うことなのです。使徒とはギリシャ語でアポストロスと言いますが、この言葉の語源はアポステローは派遣、遣わすという言葉です。このアポステローのラテン語訳は「ミットー」という言葉ですが、この言葉が元で英語の「ミッション」という伝道を表す言葉が生まれました。使徒とは、ミッションの担い手、伝道者であり、使徒的な教会とは伝道的な教会ということなのです。これが教会の存在理由であり、使命です。教会は伝道するためにこそ存在するのです。伝道をするのは、いわゆる伝道者、牧師、教師だけではありません。それぞれの人がそれぞれの置かれた場所で、伝道をするのです。私たちがこのように日曜日ごとに神様から選ばれ、召された礼拝に集い、聖書の御言葉の糧を与えられ、祝祷を受けてこの世に派遣されていくのは、福音のメッセンジャーとして、伝道の使命を与えられているのです。そのようなことをマタイによる福音書第10章を通して示されております。主イエスがここで、本当に懇切丁寧に多くのことを教えておられます。本日の箇所も、伝道の使命を持って派遣されていく私たちに主が与えて下さる励ましとして、私たち一人ひとりに向けられているのです。

鳩のように素直に
 16節において「わたしはあなたがたを遣わす。それは狼の群れに羊を送り込むようなものだ。」と述べられています。「狼の群れに羊を送り込むようなもの」だとあります。羊の群れの中に羊飼いを送るようなことではないのです。このように派遣は実に容易ならない覚悟を私たちに求めます。伝道の使命を与えられ、派遣されるということは、このように恐れを覚えることです。恐れと不安があるから、伝道などということはまだまだ考えられないと誰もがつい思ってしまうのではないでしょうか。恐れや不安がなくなり「狼」がいなくなった段階になったら、伝道のことを真剣に考えれば良いのであって、まだまだ自分には時期が早すぎると考えても無理がありません。しかし、伝道の使命が与えられて、恐れや不安がなくなるということは、あり得ません。恐れや不安が満ちているこの世にこそ、神の御業と御言葉を伝えなくてはならないのです。恐れと不安のないところには、伝道は必要ないのです。
 恐れや不安がなくなるまで、伝道は止めておこうと言うのであれば、おそらく伝道に向かって踏み出す機械は到底めぐって来ません。あるいは、万が一、恐れや不安がなくなって、さあ伝道しょうと言うのであれば、その時こそ教会にとって一番危険な時です。そのような自信により頼んで伝道することは、少なくても神の御業としての伝道はなく、人間の業としての伝道になってしまいます。本当に神の御業である伝道に参加をさせていただくためには、人間の可能性に依り頼むのではなくて、ただ神の可能性にだけ依り頼むことが求められます。伝道への派遣はまさに信仰の冒険への招きです。ですから、主イエスは18節においては「心配してはならない。」と私たちに励ましを与えて下さいます。人間の小さな力からなる、人間的な自信によってではなく、主イエスの励ましによってのみ伝道へと出で行くことが可能になるのです。もう一度、16をお読みします。「わたしはあなたがたを遣わす。それは狼の群れに羊を送り込むようなものだ。だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい。」
 まず、「だから、蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」とあります。「蛇」は、旧約聖書以来「賢い」ものの代表です。その賢さは創世記第三章で、最初の人間アダムとエバを欺いて、神様に背かせ、禁断の木の実を食べさせてしまうように仕向けた蛇の「ずる賢い」です。狼の群れの中の羊である弟子たちは、狼たちに食われてしまわないように、上手にずる賢く立ち回らなければならない、ということでしょうか。しかし続いて、「鳩のように素直になりなさい」とあります。蛇のようにずる賢く、上手に立ち回ることと、鳩のように素直に生きることとは矛盾することです。

神にのみ依り頼んで
 しかし、この言葉は「蛇のように賢く」と「鳩のように素直に」という二つの教えではなく、両者で一つの教えなのだと言われます。つまり、あなたがたの蛇のような賢さは、鳩のような素直さでなければならない、ということなのです。私たちは、主イエスの弟子、信仰者として、この世に遣わされていきます。弟子たちの派遣は彼ら十二人のみのことではなく、教会の、つまり私たちのことです。その私たちが遣わされていく場所は「狼の群れの中」で、私たちはその狼の群れの中に送られる羊です。そのような状況の中で私たちは、自分の身を賢く守ろうと考え、そこでは「蛇のような賢さ」が生じるのです。しかし主イエスはそのような「賢さ」ではなく「鳩のような素直さ」に生きよと教えておられます。「鳩のような素直さ」とは自分の力に依り頼む歩みではなく、神様に身を委ねて、神様を信頼して歩むことです。つまり先程の9、10節にあったように、全く無防備に、何の備えもなしに出かけていくことが「鳩の素直」さです。10節の終りには、「働く者が食べ物を受けるのは当然である」とありました。それは神様が、ご自分の働き手を必ず守り導き養って下さるということです。神様の守りを信頼して、自分の力による計画や策略によってではなく、御心に委ねて歩む、それが主イエスの言われた「鳩のような素直さ」です。

耐え忍びなさい
 賢く立ち回って身を守っていくのではなく、鳩のような素直さに生きていく時に、弟子たちは苦しみを受けます。狼の群れに羊が送られるならば、羊は食い殺されてしまいます。羊が狼の群れの中で賢く立ち回っても身を守れません。狼の群れに羊を送り込むということは、その羊が食い殺されることを前提としているのです。弟子たちも、信仰者たちも、この世へと遣わされていき、そこで苦しみを受け、ついには殺されてしまうのです。そのことが17節以下に語られていきます。「人々を警戒しなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれるからである。また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる」。「地方法院に引き渡され、会堂で鞭打たれる」という苦しみを弟子たちは受けるのです。そしてそういう苦しみの中で、総督や王の前で、あるいは異邦人に対して、証しをするのです。主イエス・キリストを宣べ伝え、主イエスによって実現している神様のご支配、救いを語っていくのです。そしてそれを語っていくことによってさらに苦しみ、迫害を受けていくのです。更に21、22節にありますように、このことのために、家族、兄弟の間にも不和が起こります。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」。「わたしの名のために」とは主イエス・キリストを信じることのために、家族の間でも対立が生じ、「全ての人に憎まれる」ということが起こり、殺されるという事態さえ起こるのです。弟子たちが世に遣わされていって、主イエス・キリストのみ言葉を語り、み業を行っていくと、そういうことが起るのです。つまり、この世に遣わされていく弟子たち、信仰者たちは、人々に受け入れられず、かえって憎まれ、苦しみを受けるのです。そのことを、主イエスはここではっきりと予告し、弟子たちに、私たちに、その覚悟をさせておられるのです。

どの場所でも
 主イエスはここで必ず起るその苦しみ、迫害の中で、どう歩むのかということを教えらます。22節には「最後まで耐え忍ぶ」ことが求められています。苦しみ、迫害の中で、忍耐をしていくのです。自分を苦しめる者に対して、自分も狼になって対抗していくのではなく、羊として、鳩のように素直な者として、苦しみを耐え忍んでいくのです。23節には「一つの町で迫害されたときは、他の町へ逃げて行きなさい」と教えられています。忍耐する、というのは、あくまでもそこに踏み留まることではありません。逃げ出して別の所へ行ってもいいのです。大切なことは、どの場所でも、証しをし続け、主イエスによって遣わされた者として歩むことです。逃げることが信仰者であることをやめることではありません。ある場所、ある領域での証し、伝道の業がうまくいかない時に、その場所、領域を変えて別のこと、別の仕方に切り替えることです。そのようにして、かえって幅広く、伝道がなされていくのです。しかし、これらのことは下手をすると結局、私たち人間の伝道における戦略の問題になってしまいます。つまり、苦しみや迫害の中で、「蛇のように賢く」やっていこうとすることにもなりかねないのです。私たちの賢さは、そのような私たちの計画や戦略の賢さではなく、「鳩のような素直さ」でなければなりません。それは具体的にはどのようなことなのでしょうか。そのことを教えているのが、19、20節のみ言葉です。「引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」。弟子たちがこの世へと遣わされていくのは、証しをするためです。主イエス・キリストを宣べ伝える言葉を語っていくためです。どのような言葉を語ることができるか、が彼らの、そして私たちの勝負なのです。しかしここで主イエスが教えておられることは、まさにその言葉そのものを、あなたがたは自分で用意しなくてよい、ということです。語るべきことは、その時その時に、父なる神様の霊、聖霊によって与えられるのです。このことは、主イエスが弟子たちに、お金も、旅のための装備も何も持っていくなとお命じになったこととつながります。遣わされていくに当って、何の備えもいらない、必要なものはすべて父なる神様が与えて下さる、その恵みに信頼して歩めと教えられたのです。そのことが、語るべき言葉においても貫かれているのです。証しの言葉においても、何の備えもいらない、自分の中に、証し、伝道の言葉を蓄えていかなくてもよい、そういう、自分が持っている言葉、自分の力によって語る言葉によってキリストのことを証しし、伝道をすると思うな、ということです。そこにおいても、父なる神様の霊が必要な言葉を与えて下さるのです。

弟子は師にまさるものではなく
 信仰者はこのように、この世において、苦しみの中で、忍耐しつつ生きるのです。それが当然であり、自然なのだということが、24、25節にさらに語られていきます。「弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになれば、それで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」。弟子と師、僕と主人という譬えが用いられています。弟子や僕が勿論弟子たち、信仰者です。師、主人が主イエス・キリストです。弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。それは、弟子や僕は師や主人を超える必要はない、それ以上になる必要はない、ということではなくて、弟子や僕は、自分の師あるいは主人が受けたのと同じ扱いを受けるものであり、それが当然だ、ということです。ですからそれを受けて、「家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう」と続いていくのです。「家の主人」が主イエスのことです。その主イエスが「ベルゼブル」と言われる、それは、既に9章34節に語られており、この後12章22節以下に詳しく語られていくように、ファリサイ派の人々が、主イエスの悪霊追放のみ業は、悪霊の頭ベルゼブルの力によるのだと言ったということです。主イエスのすばらしい癒しの奇跡、恵みのみ業に、彼らは神様の恵みの力を見るのではなく、悪霊の親玉の力を見ているのです。人々を悪霊の支配から解放し、救った主イエスが、そんなひどいののしりを受けているのです。師であり、主人である主イエスがそんな扱いを受けるなら、その弟子であり、僕であり、家族の者である弟子たち、信仰者たちが、苦しめられ、拒絶され、迫害されるのはむしろ当たり前です。だから私たちは、このような苦しみを受けることを、とんでもないこと、あってはならないことと思ってはならないのです。むしろその苦しみこそが、私たちが主イエスの弟子であり、僕であることの印なのです。私たちが受ける苦しみは、全て主イエスが先に、師として、主人として受けておられる苦しみなのです。

主に家族の者と呼ばれ
 そして大事なことは、ここで主イエスがご自分と私たち信仰者のことを、「家の主人とその家族の者」と呼んで下さっていることです。これは、師と弟子、主人と僕という言い方を越える言葉です。私たちは、主イエス・キリストに従っていく弟子や、仕える僕であるだけではありません。主イエスという家の主人のもとにいる家族とされているのです。主イエスは私たちを、ご自分の家族と呼んで下さっているのです。私たちは、主イエス・キリストを中心とする新しい家族、家庭の一員とされているのです。その家族を結びつける絆は何か。それは、主イエスがお受けになった無理解や迫害の苦しみを私たちも共に受けることです。主イエスに遣わされた者として、この世において、狼の群れの中の羊のような存在として歩むことです。そしてそこで、自分の賢さ、力、自分の持っている言葉に寄り頼むのでなく、主イエスの父なる神様の守りと導きに身を委ねて歩み、聖霊が与えて下さる言葉を語っていくことです。そのような歩みこそ、私たちと主イエス・キリストを結びつけ、一つの家族とする絆なのです。
 私たちが信仰者としてこの世へと遣わされ、そこで受ける苦しみは、私たちを家族と呼んで下さる家の主人である主イエス・キリストの受けた苦しみにまさるものではありません。主イエスが受けた苦しみは、十字架の死にまで及ぶものでした。それは自らの罪のゆえではなく、私たちの全ての罪を身に負って下さり、神様に背く罪人である私たちの身代わりとなって死んで下さるという苦しみでした。その主イエスの苦しみと死とによって、私たちは罪を赦されて、主イエスのもとでその家族とされたのです。私たちは、主イエスが私たちのために受けて下さった大きな苦しみの下で、その主イエスの弟子として、僕として、そして家族として、自らに与えられる苦しみを耐え忍びつつ、救い主イエス・キリストを証ししていくのです。

人の子が来る
 23節後半には、「はっきり言っておく。あなたがたがイスラエルの町を回り終わらないうちに、人の子は来る」とあります。「人の子が来る」とは、主イエスが再び来られ、この世が終わる、いわゆる再臨と終末のことです。弟子たちがイスラエルの町を回り終わらないうちに、つまりもう間もなくその終末が来るという意味に読めるのです。しかしそれからもうニ千年が経とうとしていますが、いまだにこの世の終わりは来ていません。この主イエスの言葉は実現しなかったのでしょうか。しかしこの言葉にはもう少し別の意味が込められていると考えることができます。「あなたがたがイスラエルの町を回り終らないうちに」、それは、弟子たちが主イエスから託された使命をまだ完全に果たし終わらないうちに、ということです。まだやり残したことがある、使命を全うしていない、ということです。しかし、人の子が来るのです。それは神様が、ご自分の救いを完成して下さるということです。つまり、私たち遣わされた人間の働きはまだ不十分であり、まだまだやり残したことが沢山ある、それでも、神様は救いを完成させて下さる、ということをこのみ言葉は語っていると言えるのです。私たちの働きが、神様の救いを完成させるのではありません。私たちの働きが足りなければ、救いも不完全なもののままである、ということはないのです。主イエスに遣わされてこの世を歩む私たちの働きは、まことに不完全なものです。またそこで襲って来る苦しみを私たちは十分に忍耐することができず、それに負けてしまう者です。主イエスの家族として共に負うべき苦しみにおいても、私たちはまことに不完全、不十分な者です。主イエス・キリストはそのような私たちのために命を捨てて下さいました。その主イエスに信頼してこの一週間を歩みましょう。

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