「塩と光」 伝道師 岩住賢
・ 旧約聖書:イザヤ書 第49章1-9節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章13-16節
・ 讃美歌:6、509、78
「あなたがたは地の塩である、あなたがたは世の光である」とイエス様は今この説教を聞いているわたしたちにお語りになっております。「あなたがたは地の塩である、あなたがたは世の光である」。しかしこの語りかけを自分に対するものとして聞く時、わたしたちは、「わたしはそんな大層なものではない」。と思うと思います。求道者の方だけではなくて、洗礼を受けた信仰者もまた、そのように感じると思います。 ここで言われている「地の塩」とは、この世の中にとって必要不可欠なものということです。どのように必要不可欠であるかというと、それは塩のこの世での用途を考えて見れば分かります。わたしたち人が、ある程度の塩分を取らなければ、生きていけないように、塩は生きる者の生命の維持のために必要不可欠です。また、塩は目には見えないけれども、食材の旨味を引き出します。また食材の腐敗を防ぐ力もあります。わたしたちが、生命を維持するために必要な食事を決定的に支えているのが塩です。そこでもう一度、振り返って「あなたがたは地の塩」であるとイエス様に言われことを思い出してみる時わたしたちは、「この世界に味をつけ、しっかりと支えるための働きをしなさいとイエス様はわたしたちに言われたんだ」と受け取るでしょう。 また「世の光」を考えてみても、これも、世の中を照らしだすために、この世の中が暗闇に陥らないように、しっかりと自分たちが輝いてこの世界や社会を照らしだす。そのような働きをイエス様はしなさいとわたしたちに求められている。16節でイエス様が「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。」と言われている。しかしそのように、イエス様に言われるとわたしたちは、「いや、ちょっと待って下さい、わたしたちはとてもそんな者ではありません」と言わずにはおれません。そう思ってしまう原因となっているのは、このイエス様が語られた「あなたがたは地の塩、である、あなたがたは世の光である」という言葉を、わたしたちが勘違いをして受け取っているからです。ここでわたしたちはイエス様のお言葉を正確に受け止めたいと思います。イエス様は、「あなたがたは地の塩、世の光になりなさい、そのために努力しなさい」と言われたわけではありません。わたしたちは、この言葉を聴く時、わたしたちは「わたしたちはそのような大層なものにはなっていないから、このようになれとイエス様は高い目標を設定してくださっているのだろう」と受け取っていると思います。イエス様は「あなたがたは地の塩である。あなたがたは世の光である」と言われたのです。これはイエス様の宣言です。つまり、このかつて言葉を聞かされた、山の上にいた弟子たち、群集たち、そして今この場で聞いているわたしたちは、「地の塩、世の光」であるイエス様に認められているということです。イエス様は、わたしたちの努力目標を設定されたのではなくて、イエス様に従っていくわたしたちがどのような者であるのか、どのような者とされているのかを宣言なさったのです。わたしたちが優れていたから、イエス様がそのように言ってくださっているのではありません。わたしたは弱さや欠けをもち、失敗もする。心貧しく、悲しんでばかりで、何が正しいかもわからない。しかしそれにもかかわらず、あなたは私の弟子、私に属するものだとイエス様は言ってくださり、そして、ただ、今イエス様の前にでてイエス様に従いたいと思い、イエス様と歩んでいるだけのわたしたちに「あなたがたは地の塩、世の光」とおっしゃってくださっています。 わたしたちがこの世において、塩になり、光となるのは、イエス様によってです。そして、そのように宣言を受けたわたしたちは既に世の塩であります。13節に「塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。」とあります。わたしたちは、もとは塩気のない塩でありました。塩の塩気がなくなるということは、常識的にも、科学的にも、起こりえないことです。ですがもし、この世界のすべての塩が、塩気を失えば、なにが塩気をつけるのでしょう。塩が存在しない世界で、塩気をつけるものはありません。この塩に塩気をもどすことができるのは、神様だけでありましょう。罪の支配の中にあったわたしたちは、塩気の失った塩だったといえるでしょう。わたしたちはかつて他者の味を引き出すような働きよりも、自分の味を引き出したいと思っていました。それは、自分に味がないと思っていたからです。わたしたちは他者が腐敗していくという現実よりも、自分が腐敗しているという現実をどのようにかして、食い止めないだめだと思って必死になっておりました。しかし、自分には塩気がないので、自分の塩気を付けることもできないし、自分で腐敗を止められないのです。そのような、自分の味や、自分の腐敗を食い止めようと必死な、塩気のない塩であるかつてのわたしたちは、この世の中にとって、なんの役にも立たず、ただ外に投げつけられ、人々に踏みつけられる存在であったとイエス様は13節の後半で語っております。しかし、この13節の言葉を、今のわたしたちは、まったく逆の言葉として、受け取ることができるのです。それは、わたしたちは今「塩気のある塩」として、イエス様に味付けされたからです。それが、「あなたがたは地の塩である」という宣言です。「あなたがたは、今、わたしによって、塩気を付けられた。だから、あなたはもはや無意味なものではないし、外に投げ捨てられることもない。さらに、あなたがたは今まで、自分に塩気をつけようと必死であったが、そこで必死になる必要はない。あなたは腐っていく自分ばかり気にしていたが、もはやそこを心配する必要はない。なぜならば、わたしがあなたがたの塩として、あなたに塩気を付けたからだ。わたしがあなたを腐らせないし、あなたを塩気のある、意味ある塩とした。」と13節でイエス様は言われているのです。わたしたちは、今、イエス様によって、塩気が付けられ塩となっています。それは、わたしたち自身が、自分で自分に旨味を付けることも、腐敗を食い止めることに必死にならなくても大丈夫だということです。また、自分に必死にならなくても良い塩であるわたしたちが、今度は、隣人に塩気を付ける者となります。イエス様は、今度はわたしたちを用いて、この世界に塩気をつけようとされているのです。最初の塩は、二千年前のこの世に来て下さったイエス様という塩です。その命の塩であるイエス様が、弟子たちと群集たちと出会い、彼らに塩気が付けられ、塩となりました。その弟子たちが多くの人と出会い、塩気を付けていきました。イエス様は時代を超えて、人々に塩気を付けるために、塩気を付けられた人を集め、教会をたてられました。その教会という、塩の集まり、塩の塊が、今、わたしたちと出会い、イエス様の塩に与っているのです。今わたしたちが、イエス様に塩気を付けられたわたしたちが、今度はこの教会の一部となって、塩の塊の一部となります。その塩であるわたしたちが、この世に出ていき、 隣人を生かす、隣人の存在を支えるものとなるのです。塩ですから、この世の中で生きる時に、姿を隠しています。料理の中に、塩が入っていても、塩は目には見えません。見えているほど入っていれば、塩辛すぎになっているといえるでしょう。塩は、食材の味を生かすために、姿を隠して支えています。姿が見えないほどの量です。それは少量です。他者を引き立てるために、この世界を保つために、自分を献げるということがこの塩に表わされています。少量で目に見えない故に、時に塩は、不必要なものと見られるときがあります。しかし、塩は必要不可欠なのです。それがわたしたち「地の塩」であるものです。 わたしたちは、「世の光」でもあります。この光も、塩気がイエス様によって付けられたように、この光もイエス様によって与えられています。15節で「ともし火」とあるように、わたしたちはイエス様に「ともし火」付けていただいたものです。わたしたちは時に、世の光として、隠れられないことがあります。それは14節でイエス様が「山の上にある町は、隠れることができない」と言っているようにです。わたしたちは時に、誰からも見られていない所で、隠れて塩としての働きをしますが、時には、誰の目に見える場所に立たされるということになります。イエス様は、「ともし火を升の下に置く者はいない」と言われています。この当時、ユダヤ人は、室内を暗くする時には穀物を量る土製の升で灯火を覆うのが習慣でありました。ともし火を付けたのに、すぐ升で覆うものはいないというのは、ともし火を灯されたから、「そのあなたがたをわたしは隠したままにはしない」とイエス様が言っているということです。それは何のためなのか、それは「家の中のものすべてを照らす」ためであるとイエス様は言われます。それは、その光によってこの世にあるものすべてを、照らすためであるということです。わたしたちが、付けられたともし火によってこの世を照らすということは、塩で置き換えるのならば、隣人に塩気を付けるということです。そのために、「燭台の上に置く」つまり、塩の例えでいうならば、この世にわたしたちを送り出すというということです。塩も、食材との出会いがなければ何の役にもたちません。塩も、買ったままで袋の中にあったままであるのならば、なんの意味もありません。そのように、光であるわたしたちも、塩であるわたしたちも、それぞれがこの世でその用途を果たすためにそれぞれの場所におかれていきます。光は、他者を照らすためです。隣人の存在を明らかにするということです。わたしたちも、かつては暗闇の中にいました。かつてわたしたちは、自分の存在がなんなのか、なんのために生きているのか、わたしとはいったいなんなのか。わたしはこの世界から必要とされてないのではないか、無価値なのものではないか。と真っ暗闇の中で悩みながら生きていました。暗闇の中では、自分自身も認識できません。また暗闇の中にいた故に、もがき、隣人を恐れ、隣人を敵だと思い攻撃し、隣人や愛する人を傷つけることもありました。それが、暗闇の支配の中にいる時のわたしたちでした。これは言葉を変えれば、罪の暗闇の支配といってもいいでしょう。わたしたちは自分自身の持つ罪に支配されており、暗闇の中にいたのです。そこに、光がたらされるとどうなるか。初めて隣の人の顔を見て、初めて隣人を認識することができるようになります。そして自分がどのような場所いたのかわかるようになる。そして自分の輪郭がはっきりして、自分を知る。もし光に照らされた人があの闇の中でおそれ故に暴れていた人ならば、傷ついている隣人を見、その人を自分が傷つけてしまっていたことを知る。光そのようにはわたしたちに悔い改めを起こさせます。また光は、わたしたちを、その暗闇の支配に、恐れなくてよいようにしてくれます。この光こそがイエス様です。わたしたちは、かつて罪による暗闇の中にいました。そのわたしたちをイエス様の光で照らしてくださり、わたしたちのまわりとわたしたち自身を光で満たしてくださいました。そのとき、暗闇の支配、つまり罪の支配は終わったのです。光の中に入れられ、光に生きる、光の子、つまり神の子としてくださったのです。光によって、悔い改め、光によって、恐れなくてよくなり、光によって、自分も隣人もちゃんと見つめることができるようになったのです。わたしたちは、光に照らされた者です。しかし、照らされているだけの者ではありません。イエス様によって、わたしたちは、ともし火を付けられたのです。それは、ただ照らされているだけのものではなく、今度は照らすものとなったということです。イエス様の光を、わたしたちは、分けて頂いています。イエス様がわたしたちのために、犠牲にとなって、身を献げ、示して下さった救いの出来事、罪と闇の支配からわたしたちを救い出して下さったその出来事。その福音がわたしたちの光です。その福音によって、わたしたちの回りにいる暗闇の中を生きる人が、光を知り、暗闇の支配が終わっている事を知り、その救いの業に感謝し、その救いの業をなして下さった父なる神様をあがめるようになるのです。それが、16節で語られている「そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」ということなのです。「あなたがたの光」とはつまり、救いの福音のことです。ここで、「あなたがたの立派な行い」を見てと書いてありますが、これはわたしたちが信仰者として、道徳的に優れているとか、どれだけ自分を犠牲にしているかということを言いたいのではありません。それは、ただ地の塩として、福音に生かされる者になり、世の光として福音を宣べ伝える者になるということです。 ただ、イエス様に塩味を付けられた者として、隣人を無意味なものとせず、隣人に向き合っていく、そして神様の用いる「地の塩」として、隣人に塩気を付け、その人を味のある者に、腐って滅びない者になるように関係をもっていく。そこで、彼らは塩味つけられるでしょう。それが、イエス様という塩とのその人の最初の出会いとなるでしょう。そして、今度は「世の光」として、福音に生きる。それはつまり暗闇の支配におびえている時の生き方を捨て、神様の支配に与っている喜びと感謝に生きていくことです。それはまた、他者を恐れ、傷つける生き方ではなくで、隣人を赦し愛する生き方になるということです。そのように罪の支配から解き放たれたわたしたちが、その喜びの生活をこの世で生きることが、それが福音を宣べ伝えることになるのです。 イエス様の光に照らされたものは、世に怯える必要はありません。14節で「山の上にある町」とありますが、聖書が語る「山」は神様の守りがあるところです。わたしたちが世に、光を照らす時に、時にはその光を嫌がり迫害するものもいます。しかし、神様は、神様の守りの内で、その光を照らさせてくださっているのです。だから、わたしたちが世に出て「地の塩」「世の光」として生きていくことに恐れる必要がありません。神様は無責任に「迫害されてこい」と言われません。わたしたちが世に出ていても、そこは神様の守りの内です。 わたしたちは「地の塩」として、隣人のために隠れて働くものとして、今日また世に戻ります。またわたしたち「世の光」として、罪の支配ではなくて神様の救いが訪れたという福音に生かされ、救いの光を身に帯びて、福音を述べ伝えに世にでてまいります。その塩と光を与えてくださっている方、わたしたちを塩としわたしたちを光としてくださっている方は、イエス様です。その方から、離れてしまえば、わたしたちは、何のためにも、なんの益にもなりません。ですが、わたしたちはイエス様から離れることは出来ません。なぜならば、イエス様がわたしたちを離さないからです。イエス様はわたしたちを捕らえ続けてくださるから、わたしたちが世のどこにいる時も、共にいてくださり、傍らにいてくださるから、わたしたちは自分は無価値だと思う必要もなく、他のものを恐れる必要もないのです。イエス様はわたしたちにむかって「地の塩であり、世の光だ」と宣言してくださっています。恐れることなく、この世に味をつけ、この世に救いの福音を宣べ伝えて参りましょう。