主日礼拝

人の目と神の目

「人の目と神の目」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第33編1-22節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第12章38-44節  
・ 讃美歌:338、432、512、79

律法学者に気をつけなさい
 この礼拝においてご一緒に読む聖書の箇所は、マルコによる福音書第12章38節以下です。既に主イエス・キリストのご生涯の最後の一週間に入っています。主イエスは11章のはじめのところで、人々の歓呼の声に迎えられてエルサレムに入られました。しかしその週のうちに捕えられ、十字架につけられたのです。11章から12章にかけてのところには、主イエスと、エルサレム神殿の祭司長、ユダヤ人の宗教指導者である律法学者たちとの間でなされたいくつかの論争、議論が語られています。12章の終りである本日の箇所の前半には、主イエスが律法学者たちを鋭く批判してこのように語られたと記されています。「律法学者に気をつけなさい。彼らは、長い衣をまとって歩き回ることや、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを望み、また、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」。律法学者たちに対するこのような激しい批判のゆえに、主イエスは十字架につけられていったのです。  ここに語られている律法学者たちの姿は、世間の人々から尊敬され、重んじられることを求めているという姿です。「長い衣をまとって歩き回ること」とありますが、長い衣は彼らが律法学者であることを示す、いわゆる「ステイタス・シンボル」です。その衣をまとっていると、人々が尊敬して頭を下げるのです。「広場で挨拶されること」ともありますが、町の広場は市が立つ所でもあり、様々な市民生活が営まれる場です。そこに集まる多くの人々の間で、特別な人として尊敬され、みんなに「先生」と呼ばれて挨拶されることを彼らは好んでおり、逆に自分のことを「先生」と呼ばない人がいると、「失礼だ」と怒ったりしているのです。「会堂の上席」というのは、ユダヤ人たちの礼拝の場であるシナゴーグと呼ばれる会堂において、聖書を納めた箱の前の席だそうです。その席は一般の人々の席に向かい合っており、礼拝を司る人の席です。私たちのこの礼拝堂で言えば、講壇の上の、説教者と司式者の席と思えばよいでしょう。律法学者たちは常にその席に座ることを望んでいるのです。そして会堂においてのみでなく宴会の場でも、彼らは上座を求めています。結婚式の披露宴で言えば、主賓のテーブルに席を求めているのです。彼らがそのように人々から尊敬を求め、上席に着くことを求めるのは、必ずしも彼らの個人的な名誉欲だけによることではありません。彼らは、自分たちが神様のみ言葉である律法を研究し、それに従う生活をし、人々にもその律法に従う生活を教えている立場にいることを常に意識しているのです。その彼らが尊敬され、尊重されるというのは、本来は、神様のみ言葉が尊ばれ、大事にされるということです。神様のみ言葉を大事にするなら、それを教えている人を大事にするのは自然であり当然のことです。しかしそのように基本的にはみ言葉への尊重のゆえに尊敬を受けていた律法学者たちでしたが、いつのまにか、自分たちを尊敬し、重んじることを求めるようになってしまったようです。長い衣をまとって歩き回ること、広場で挨拶されること、上席に着くことを彼らが「望み」とあることにそれが現れています。み言葉を教えるという働きの結果として尊敬を受けるのではなくて、自分個人に対する尊敬を要求するようになってしまったのは、彼らが名誉欲に捕われていることを示しているのです。  また彼らは「やもめの家を食い物にし」ているとも語られています。「やもめ」は多くの場合、「みなしご」と並んで社会的弱者、貧しい者の代表として聖書に出てきますが、この場合の「やもめ」は、夫の遺産を受け継いだ金持ちのやもめたちのことです。律法学者たちはそういうやもめたちの所に出かけて行って金を出させるのです。それは自分のものにするためではなくて、いろいろなことに寄付をさせたのでしょう。いわゆる慈善の行為をさせたのです。そういう行為はユダヤの人々において大変立派なこととして尊ばれ、尊敬されていました。そういうことをさせることによって、そのやもめも人々に尊敬されるようになり、そのように彼女たちを指導した彼らの名声も高まったのでしょう。そのようにして、やもめたちの財産を食い物にして自分たちの名声を高めようとしている、ということを主イエスは言っておられるのだと思います。また彼らは「見せかけの長い祈りをする」ともあります。これはマタイによる福音書第6章5節に「偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」とあるのと同じように、彼らが、自分の祈っている姿を人に見せたがる、ということです。人前で長い祈りをすることで、あの人は敬虔な人、信仰深い立派な人だという評判を得ようとしているのです。

人一倍厳しい裁き
 律法学者たちはこのように、自分たちが人よりも尊ばれ、重んじられ、名誉ある者とされることをいつも求めていました。神様のみ言葉である律法も、祈りも、つまり信仰も、そのための道具になってしまっていたのです。それは私たちが考えても、まことにいやらしい、偽善的な姿です。主イエスはそのような彼らを批判して、「このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」とおっしゃいました。ここには主イエスの一種のユーモアがあります。彼ら律法学者たちは自分たちが一般の人より高い尊敬を受けることを求めている、それなら、神の裁きにおいても、より高い、人一倍厳しい裁きを受けるのが当然だろう、と言っておられるのです。つまりこれは彼らが人よりも高い地位を求めていることへの皮肉なのです。

群衆の喜び
 私たちはこの主イエスのお言葉に快哉を叫び、「そうだそうだ」と思うのではないでしょうか。そしてそれは当時の人々も同じだったのです。律法学者たちの姿をいつも見ていた当時の人々は、彼らの鼻持ちならない姿にうんざりさせられながらも、しかし律法の教師である彼らを尊重しないわけにはいかない、という思いでいたのです。その人々にとって主イエスのこのお言葉は、まことの胸のすくものだったでしょう。12章の37節の後半、前回読んだ箇所の最後のところに「大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた」とありました。この言葉は、37節に含められてはいるけれども、むしろ本日の箇所、38節以下と結びつけて読んだ方がよいのではないかとも言われています。人々が主イエスの教えを喜んで聞いていたのは、彼らが心の中で思っているが表立って言うことができないでいることを主イエスがはっきり言ってくれている、と思っていたからでしょう。

私たち自身のこと
 そのように、主イエスのこのお言葉に快哉を叫ぶ人は当時からいたし、私たちもそれに合わせて「そうだそうだ、この偽善者め」と思うわけです。しかし私たちはそこで立ち止まって考えなければなりません。主イエスのこのお言葉は、律法学者たちに対して、その偽善を批判するために語られたのではないのです。38節の冒頭に「イエスは教えの中でこう言われた」とあるように、主イエスが語っておられる相手は律法学者たちではなくて、教えを聞くために集まって来ている人々です。その人々に向かって主イエスは、「律法学者に気をつけなさい」とおっしゃったのです。「気をつけなさい」ということは、あなたがたも律法学者たちを同じようになってしまわないように注意しなさい、ということです。ですからこれは、律法学者たちのことを「何といやらしい偽善的な連中だ」と批判していれば済むことではないのです。彼らのこの姿は、よくよく気をつけていなければ、私たち自身が陥っていく姿なのです。

人の目を気にして生きている私たち
 私たちはどのようにして律法学者たちと同じになっていくのでしょうか。私たちは何に気をつけなければならないのでしょうか。律法学者たちがしていることは、人に尊敬され、人よりも上席、上座に着くことを求め、自分の名誉、名声を人よりも高めるようとすることでした。「見せかけの長い祈り」も、人に見せるための、人の評判を得るための祈りです。このように彼らの行動はすべて「人」が動機となっています。人に対して自分をどう見せるか、人の評価、評判をどう得るかということが彼らの関心事であり、人から高く評価され、尊敬され、重んじられることが願いだったのです。つまり彼らは常に人と自分とを見比べながら生きています。人と自分を比べて、自分の方が少しでも上だと思えればそれで安心する、しかし自分より上の人がいるとしゃくにさわり、ねたみや憎しみが起ってくるのです。そのように、人との間での自分の相対的な位置が非常に気になり、自分はあの人にはかなわないがあの人よりは上だ、というランクづけをいつもしている。そしてそういうランクづけは自分一人で思っているだけではだめなので、他の人が自分のランクを認めてくれないと不安になるのです。だから彼らは人から「あなたは立派だ、偉い」と言われることを常に求めています。そのために自分を少しでも良く見せようとしています。それだけならまだよいですが、逆に他の人が良く見られないようにするために、人のあら探しをし、何かというと人を批判、攻撃するのです。そのように常に人の目を気にして、人と自分をいつも比較し、自分を少しでもよく見せようとしているということにおいて、私たちは律法学者たちと同じなのではないでしょうか。偽善とは、人に自分を実際より良く見せようとすることですが、それは人の目、人の評価を気にしているところに生じます。私たちも、偽善者であることにおいて、律法学者たちに決してひけを取らないのではないでしょうか。

貧しいやもめの献げ物
 本日の箇所の後半、41節以下には、その人の目、人の評価に全く左右されずに生きている一人の女性のことが語られています。エルサレム神殿には、賽銭箱がありました。神様に献げるお金を入れる箱です。その賽銭箱は「婦人の庭」つまり「異邦人の庭」からもう一つ内側に入った、ユダヤ人の女性はここまで入ることができるとされていた場所に置かれていました。一説によれば、この賽銭箱の傍らには祭司がいて、人々がそこに入れる献金を記録に留め、そして周囲の人々に聞こえるように、「誰々さんがいくら献金なさいました」と告げていたのではないかと言われています。主イエスはその賽銭箱の向かいに座って、人々がそれに金を入れる様子を見ておられました。「大勢の金持ちがたくさん入れていた」とあります。祭司がその人たちの名前と献金額を読み上げる、すると人々の間から「おお」と感嘆の声があがる、そのようにして金持ちたちは大いに面目を施していたのです。主イエスがそのような様子を見ておられるとそこに、一人の貧しいやもめがやって来ました。この人は、先程の、律法学者たちに食い物にされるような金持ちのやもめではなくて、「貧しいやもめ」です。その日その日を、爪に火を灯すようにして生きている人です。そのやもめが賽銭箱に、「レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランス」を入れたのです。それはどれくらいの金額なのでしょうか。新共同訳聖書の後ろの付録には、聖書に出て来るいろいろな単位の換算表があります。そこで「レプトン」を調べると、「ローマの銅貨で、1デナリオンの1/128」と書かれています。つまりレプトン二つ、一クァドランスは、1デナリオンの六十四分の一ということになります。一デナリオンが、一人の労働者が一日働いてもらう賃金でしたから、その六十四分の一ということで、この献金が当時としてもかなり小額だったことが分かります。このやもめはそういう献金をしたのです。記録する祭司はおそらく、「こんなはした金を献げるなんて、何を考えているんだ」という軽蔑の目で彼女を見たのでしょう。そして金持ちたちの献金を報告するのとは全く違う、冷たい声で彼女の名と献金額を告げる、すると周囲の人々からは「あきれた」「よく恥ずかしくないね」などという冷たい反応が起る、そんな光景を思い浮かべることができます。

収入に対するパーセンテージ?
 しかし主イエスは弟子たちを呼び寄せてこうおっしゃいました。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである」。貧しいやもめが献げたレプトン二枚の方が、金持ちたちの多額の献金よりも、神様の前ではたくさんの献げものなのだ、と主イエスはおっしゃったのです。それは、金持ちたちは「有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたから」です。私たちはこのお言葉を間違って受けとめてはなりません。献金の価値は金額の大小によって決まるのではなくて、その金額がその人の財産、収入の中で占める割合によって決まる、例えば一千万円の収入がある人が十万円を献げてもそれは1%だが、十万円の収入の中から一万円を献げるならそれは10%になるので、この場合には十万円よりも一万円の方が十倍の価値がある…、主イエスのお言葉から献金についてのそういう教えを導き出すのは間違いです。そのように収入に対する献金のパーセンテージの計算を始めるなら、そこには、誰の献金は誰のよりもパーセンテージが高いとか低いという比べ合いが再び起り、そして人よりも高いパーセンテージの献金をすることによって称賛、名声を得ようとするということになり、結局あの律法学者たちの姿が繰り返されていくことになるのです。

神の恵みに身を委ねる
 主イエスが見つめておられるのはそういうことではなくて、このやもめが、自分の全てを神様に献げ、委ねたことです。彼女は、乏しい生活費を全部神様に献げてしまったのです。それは、自分の生活を全て神様の恵み、養い、導きにお委ねしたということです。そこには、人と自分を見比べて、自分は生活費をも含めて百%を神様に献げている、この自分に敵う人はいないだろう、と誇るような思いはこれっぽっちもありません。そのような思いが少しでもあったら、このような献げ物はできなかったでしょう。なぜなら、そのように自分を誇ろうとする思いは、基本的に自分で自分を守ろうとする思いであり、自分の安心を自分で確保しようとする思いだからです。私たちが自分で自分を守り、自分の安心を自分の手の内に確保しておこうとしている限り、全てを神様に献げることはできません。自分のもとに確保しておくものが全く無くなってしまうことには耐えられないからです。だから自分のものを確保した上で、余ったものを献げる、ということになるのです。ですから彼女が生活費も含めた全部を献げたということは、彼女が、自分で自分の安心を確保しようという思いから完全に自由になり、神様の恵みに全てをお委ねしているということを示しているのです。

人との比較からの解放
 そして同時に彼女は、人の目を気にして、人と自分を見比べていく一切の思いからも解放されているのです。金持ちたちが多額の献金をしている中で、レプトン銅貨二枚をさし出すことは、人の目を気にして、人と自分を見比べて生きている者には到底出来ないことです。あの人のあんな立派な献げ物の後で、こんなみすぼらしい、ちっぽけなものを献げるなんて恥ずかしい、と思ってしまうのです。しかし彼女は、周囲の冷たい目、軽蔑のまなざしにもかかわらず、レプトン二枚を献げました。それは彼女が、人の目、人からの評価、評判によってではなくて、自分を見つめておられる神様の目、神のまなざしの中でこそ生きているから出来たことなのです。彼女は、自分に注がれている神様のまなざしの中で、レプトン二枚を献げたのです。神のまなざしは、人の目とは違って、彼女と他の人を比べてどちらが上だとか下だとか、どちらが優れているとか劣っているなどという評価を下すことはありません。彼女の献金が収入の何パーセントだという計算をしてその価値を量ることもなさいません。神のまなざしは、彼女が神様を心から愛し、信頼し、その養いと導きに依り頼み、自分の全てを委ねている、その彼女の心を見つめておられるのです。その神の目の前に立ち、神の目をまっすぐに見つめ返しているがゆえに、彼女は、人の目を気にすることから、人と自分を見比べて喜んだり悲しんだりすることから、解放されているのです。

神のまなざしの中で
 私たちが、人の目、人の評価に左右されずに、自分の名誉や誇りを守ろうとする思いから解放されて、あの律法学者たちのようにではなく、このやもめのように生きていくことは、単に人の目などもう気にしない、人からどう評価されようとどうでもいい、人から重んじられることを求めることをやめる、という決意をするだけでは実現しません。そのような決意は、やせ我慢でしかないし、そこにはかえって我が儘で傍若無人な生き方が生まれたりもします。私たちは、一人で生きていくのではなくて、この社会の中で、人々と共に生きるのです。人と共に生きている以上、人の目が気になり、人が自分をどう評価しているかを気にすることも、また人に評価され、褒められることを求めていくことも自然なことです。つまりこの律法学者たちの姿は、人間の自然な姿を描き出していると言うこともできるのです。つまり自然のまま、ありのままの私たち人間の姿というのは、人の目を気にして生きている、優越感と劣等感、誇りと妬みが表と裏のように分ち難く存在している、偽善に満ちた、決して幸せとは言えない姿なのです。そのような生まれつきの私たちを、人の目を気にすることから解放し、優越感と劣等感、誇りとねたみの狭間で苦しむことから解き放って下さるのは、私たちに注がれている神様のまなざしです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所は詩編第33編ですが、その13~15節にこうあります。「主は天から見渡し/人の子らをひとりひとり御覧になり/御座を置かれた所から/地に住むすべての人に目を留められる。人の心をすべて造られた主は/彼らの業をことごとく見分けられる」。主なる神様が天から私たちの一人一人を御覧になっておられ、目を留めておられるのです。この神様のまなざしの中で、16節以下が語られていきます。「王の勝利は兵の数によらず/勇士を救うのも力の強さではない。馬は勝利をもたらすものとはならず/兵の数によって救われるのでもない。見よ、主は御目を注がれる/主を畏れる人、主の慈しみを待ち望む人に」。神様の恵みのまなざしが注がれている中で、兵の数や力の強さ、馬の数など、人の目が見比べて依り頼み、一喜一憂している事柄を越えて勝利が与えられることがここに歌われているのです。人が比べ合っている力や誉れではなく、神様が目を注いでいて下さることこそが、私たちのまことの支えなのです。

主イエスのまなざしの中で
 主イエスは、このやもめがレプトン銅貨二枚を心を込めて神様に献げるその姿を、じっと見つめておられました。そのまなざしは慈しみと恵みとに満ちていたでしょう。それと同じまなざしをもって、主イエスは今私たち一人一人の歩みを、私たちの信仰と奉仕と、献げ物の全てを見つめておられるのです。その主イエスは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、罪の赦しを与えて下さった救い主です。その主イエスのまなざしは、私たちの信仰や奉仕や献金を採点し、誰と比べて何点高いとか低いとか、平均点より上だとか下だとか、偏差値がいくらだと評価するようなことはないのです。むしろ主イエスは私たちの罪を、欠けを、弱さを、ご自分の苦しみと死とによって償って下さり、罪人である私たちを喜んで受け入れ、用いて下さるのです。その主イエス・キリストの慈しみに満ちたまなざしが、人の目、人の評価、人からの誉れを越えて、私たちを支え、生かし、力づけるのです。これからあずかる聖餐は、主イエスの慈しみに満ちたまなざしがこの自分に注がれていることを、私たちがこの体をもって感じ取るために与えられるしるしです。主イエスのこのまなざしの中で生かされることによって私たちは、このやもめのように、人の目、人の評価から自由になって、自分の力、持っているものを、それがどんなにちっぽけな、取るに足りないものであっても、心をこめて神様にお献げすることができるのです。

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