主日礼拝

耐え忍ぶ者の幸い

「耐え忍ぶ者の幸い」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:エレミヤ書 第7章1-15節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第13章1-13節  
・ 讃美歌:341、346、406、81

ペンテコステ
 本日はペンテコステ、聖霊降臨日です。復活なさった主イエスが天に昇ってから十日目のこの日、弟子たちに聖霊が降り、彼らは神様からの力に満たされて主イエス・キリストのことを宣べ伝え始めました。また、主イエスがお命じになった通りに洗礼を授けることが始まりました。そのようにしてこの世にキリストの教会が誕生したことを記念するのがこのペンテコステです。教会は、聖霊のお働きによって生まれ、今も聖霊によって導かれています。私たちが信仰を与えられ、洗礼を受けて教会に連なって生きているのも、また今信仰を求め、あるいは聖書や教会の教えに関心を持ってこの礼拝に集っている方々がおられるのも、全ては聖霊の導きによることです。その聖霊の恵みを覚え、それを新たに受けることを願い求めつつ、私たちはこのペンテコステの礼拝をささげているのです。  今私たちは礼拝において、マルコによる福音書を読み進めています。本日のこのペンテコステ礼拝においても、その続きを読むことにしました。第13章の始めのところです。ペンテコステにここを読むことの意味は、既に聖書朗読をお聞きになってお気付きの方もおられることと思います。おいおいそのことには触れていきたいと思いますが、先ずはこの箇所に語られていることを味わっていきたいと思います。

小黙示録
 マルコ福音書の第13章は、この福音書において主イエスの教えをまとめて語っている最後の部分です。次の14章からは受難の物語に入っていきます。その直前のこの13章は「小黙示録」と呼ばれます。「小さな黙示録」です。ということは「大きな黙示録」があるわけで、それは新約聖書の最後の「ヨハネの黙示録」です。そこには、この世の終わりに起る様々な苦難と、それらを通して、小羊として描かれている主イエス・キリストが勝利し、そのご支配が完成し、主イエスに従って生きた信仰者の救い、永遠の命が実現することが語られています。そのヨハネの黙示録と同じように、マルコ13章にも、この世の終わりのことが語られているのです。しかもここでは主イエスご自身がそれを語っておられます。捕えられ、十字架につけられる直前に、主イエスは最後の教えとして、世の終わりのことをお語りになったのです。

神殿崩壊の予告
 1?4節には、この小黙示録がどのようなに経緯で語られたのかが示されています。1節に「イエスが神殿の境内を出て行かれるとき」とあります。主イエスは弟子たちと共にエルサレムに来られ、神殿に入り、その境内で人々に教えを語り、また律法学者たちと論争しておられました。そのことが11章以来語られてきたのです。そのような一日が終わり、夕方になって神殿の境内を出て行こうとした時に、弟子の一人が「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と言ったのです。この弟子の言葉は正直な感想でした。当時のエルサレム神殿は、クリスマスの物語に出てくるあのヘロデ大王が何十年もの歳月をかけて改築したまことに壮麗なものでした。現在、ユダヤ人が祈っている姿が時々報道されるいわゆる「嘆きの壁」というのは、このヘロデの神殿の僅かに残っている下の方の壁の一部です。当時の壁は現在のものよりもずっと高くそびえ立っていたのです。ガリラヤの田舎から出て来て初めてこの神殿を見た弟子たちが、その壮麗さに息を呑み、圧倒されたとしても不思議ではありません。  けれども主イエスはこれに対して「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」とおっしゃいました。この壮麗な神殿が徹底的に破壊される時が来る、と主イエスは予告なさったのです。この予告は紀元70年に実現しました。ローマ帝国によってエルサレム神殿は徹底的に破壊され、神殿の歴史は終ったのです。今では「嘆きの壁」などごく僅かな遺跡としてしかその跡を偲ぶことはできません。そして神殿の中心部分があったと思われる場所には、今は「岩のドーム」と呼ばれるイスラム教のモスクが建っているのです。

神殿に頼ることの虚しさ
 主イエスは、数十年後に起るこの神殿の崩壊を予告なさったわけですが、私たちはこれを、主イエスには予知能力があったとか、時代の流れを見抜く敏感な感覚があった、というようなこととして捉えてしまってはなりません。そこにはもっと深い意味があります。その第一は、主イエスはここで、神殿の持っている問題性を見つめておられた、ということです。神殿とは、神様がそこでご自分の民と出会って下さり、そこへ行けば神様を礼拝することができる場所です。それはもともとは、イスラエルの民のただ中に主なる神様がいて下さる、神様が民と共に歩んで下さる、という恵みを覚えるための場所でした。ところがその意味が次第に逆転してしまって、神殿があるから、神は我々と共におられるのだ、神殿がある限り、我々には神の守りがあるのだ、と考えられるようになっていったのです。本日共に読まれた旧約聖書の箇所、エレミヤ書第7章にも、神殿があるから大丈夫、という安易な思いへの警告が語られていました。「我々には主の神殿がある、という虚しい言葉に依り頼んではならない。主に真実に従うことなしに、ただ神殿に依り頼んでもそれは虚しい。そのような神殿を主は滅ぼすだろう」と言われているのです。どのような立派な建物であっても、いや立派な建物であればある程、人間の思いが神様に向かうのではなくてその建物に向かっていってしまうことが起る、神様に信頼し、依り頼むのでなく、立派な建物を見つめてそれによって安心を得ようとすることが起る、主イエスはそういう思いを厳しく戒め、壮麗な神殿に頼ることの虚しさを教えておられるのです。これが、主イエスのこのお言葉の第一の意味です。

神殿での礼拝の終わり
 しかしさらにもっと深いことがこのみ言葉には込められています。主イエスは、神殿における礼拝そのものの終わりを見つめておられるのです。神殿は礼拝の場ですが、その礼拝は、動物の犠牲を献げることを中心としていました。動物の命を身代わりとして献げる礼拝によって、神様に罪を赦していただき、神の民として歩み続けることができる、それが、イスラエルの民が神殿において行なってきた礼拝でした。しかし、神様の独り子であられる主イエス・キリストが来られ、まもなくご自分の体を、私たちの罪の赦し、贖いのための完全な犠牲として、十字架の上で献げて下さろうとしているのです。この主イエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪の赦し、贖いは完成し、犠牲の動物による贖いはその意味を失うのです。つまり主イエスが来られたことによって、礼拝は、動物を献げることによってではなく、主イエスによる救いを宣べ伝えるみ言葉を聞き、主イエスとの交わりを与えられることによってこそ成り立つようになったのです。神殿崩壊の予告は、神殿における礼拝の終わり、神殿はもはや礼拝のためには不要となった、ということを語っているのです。

世の終わりはいつ?
 この神殿崩壊の予告を聞いたペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレの四人の弟子が、主イエスにひそかに質問をしたことが3節以下に語られています。彼らは、「おっしゃってください。そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」と尋ねました。彼らはこの問いによって、単に、エルサレム神殿の崩壊はいつ起こるのか、ということを問うているのではないでしょう。彼らは、神殿の崩壊を、この世の終わりに起こる出来事として捉えているのです。ですから、「そのことはいつ起こるのですか」とは、この世の終わり、終末はいつ来るのですか、ということであり、「そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」とは、いよいよこの世の終わりが近づいたということを、何によって知ることができるのですか、ということです。神殿の崩壊を語った主イエスのお言葉を彼らはこのように、この世の終わりの予告として聞き、それについて質問したのです。この質問への答えとして「小黙示録」は語られたのです。私たちは小黙示録を読む時に、このことを常に頭に置いておかなければなりません。これは弟子たちの問いへの答えとして語られたことです。世の終わりにはこういうことが起こるぞ、ということを主イエスが人々に積極的にお語りになったのではないのです。ですからここを読む上で大切なのは、弟子たちのどのような問いへの答えとしてこれらのお言葉が語られたのかです。弟子たちは何を思ってこの質問したのでしょうか。

破局による終わり
 そもそも弟子たちは、主イエスの神殿崩壊の予告を、世の終わりの予告として聞いたのです。そこに彼らの根本的な問題があったと言うことができます。それは彼らがやはり神殿の建物の壮麗さに目を奪われていたことの現れです。このような素晴しい建物が破壊されてしまうなんて、それはもうこの世の終わりだ、と彼らは感じていたのです。そういう感覚は私たちも持ちます。とてつもなく大きな事件や災害などが起こると、もうこの世の終わりか、と思うのです。この世界は破局へと向かっているという漠然とした恐れを抱いているのは当時の人々も私たちも同じです。今日は、地球環境破壊、温暖化、また核兵器の存在、さらには原子力発電所の存在によって、その恐れはかなり現実味を帯びてきています。実際あの原発事故も、一歩間違えば、首都圏にも人が住めなくなるような事態に至る可能性があったのです。エルサレム神殿の崩壊は、弟子たちにとって、それと同じような事態として意識されたでしょう。そうなったらもうこの世の終わりだ、と彼らは思ったのです。それで彼らは主イエスに、「そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」と尋ねたのです。それは、世の終わりの破局がいつ訪れるのか、その前兆、徴を見極めて、前もってその時期を知っておきたいということです。それは私たちも思うことです。関東にも大地震がいつ起こっても不思議でない、と言われています。それが何時かを前もって知ることができれば、いろいろと対処することができます。あと百年は起きないのであれば、当面は安心していられます。明日かもしれないし百年後かもしれない、それが分からないから不安なのです。「そのことはいつ起こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」という弟子たちの問いは私たちの問いでもあります。

世の終わりの徴
 主イエスはこの問いに答えて「小黙示録」をお語りになりました。主イエスがそこで先ずお語りになったのは「人に惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」ということです。ここには、世の終わりの到来を示す徴としていくつかのことが挙げられています。一つは「人を惑わす者」の出現です。「わたしの名を名乗って『わたしがそれだ』と言う者」、つまり偽の救い主、偽キリストが現れて、私こそ救い主だ、と言って人々を集めるのです。もう一つは「戦争の騒ぎやうわさ」です。これも世の終わりの一つの徴とされています。けれども、これらのことははっきり言ってあまり特別なことではありません。偽の救い主は、主イエスの時代にもいたし、今日も様々な仕方で、「ここにこそ救いがある」と言って人々を惑わす者がいます。戦争の騒ぎやうわさも、それがなかった時代などありません。ですから、主イエスの時以来、これらの徴は常に存在しているのであって、これらは世の終わりがいつかを知る手がかりにはならないのです。そして主イエスご自身も、これらの徴を、終わりの時が何年後に来ることを知るための徴とは言っておられません。「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と言っておられるのです。つまり、これらのことは世の終わりの徴として必ず起こるが、それが世の終わりなのではないのです。  次の8節にはさらに、いろいろな苦しみや天変地異が世の終わりの徴として挙げられています。「民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に地震があり、飢饉が起こる」のです。これらはどれも、私たちに襲いかかってくる大きな苦しみです。世の終わりの徴は基本的に苦しみであると言われているのです。しかしこれらの苦しみも、終わりそのものではありません。「これらは産みの苦しみの始まりである」とあります。つまり、これらの苦しみは確かに、世の終わりの始まりを示しているが、それが終わりそのものではないし、いつ終わりが来るのかは分からないのです。これは先程の「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と通じるものです。つまり、既に世の終わりの徴は現れており、終わりは始まっているが、いつ終わりが来るのか、それまでにどれだけの苦しみを経なければならないのかは、誰も知ることができない、と主イエスはおっしゃったのです。

神を計算に入れることはできない
 つまり主イエスは、終わりの時がいつ来るのか、その時期を知りたいという弟子たちの願いに答えることを拒まれたのです。弟子たちは、そして私たちも、終わりの時がいつ来るのかを知って、それに応じて自分の計画を考えたいと思います。もっと一般化して言えば、これからの人生の見通しを立てたいと思うのです。けれども主イエスは私たちに、そのような見通しを立てることをお許しになりません。私たちは世の終わりが何時来るかを知ることはできないのです。つまり将来のこと、これから起こることを自分の計画の中に組み入れてしまうことはできないのです。それは主なる神様によってもたらされるものだからです。私たちは、神様を自分の計画や予定の中に組み入れてしまうことはできません。それは神様を支配しようとする人間の傲慢です。神様のみ業は、人間の計算に入れたり計画の中に組み込んだりするべきものではなくて、心して待つべきものです。主イエスはそのことをここで教えておられるのです。

産みの苦しみ
 それと同時に、この主イエスの言葉は、世の終わりに、様々な惑わしや苦しみが襲いかかって来ることをも教えています。偽の救い主が現れるし、戦争の苦しみも、天変地異による苦難も起こるのです。その意味では、弟子たちが、そして私たちが感じている、世の終わりに恐ろしい破局が訪れるという恐れは正しいのです。世の終わりに向かう中で私たちはそれらの苦しみを体験していくのです。しかし主イエスがここではっきり語っておられるのは、そのような苦しみ、破局は確かに起こるが、それが世の終わりではない、それは産みの苦しみの始まりである、ということです。苦しみ、破局が終わりなのではなくて、それを経て、神による救いが与えられるのです。苦しみは、救いの完成に至るために通らなければならない道なのです。だから、そのような苦しみが襲いかかって来る時に、慌てふためいてパニックに陥るのではなくて、忍耐して、神様による救いの完成を待つことが大切なのです。

迫害の苦しみ
 9節以下には、その苦しみが迫害として襲いかかって来ることが語られています。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。またわたしのために総督や王の前に立たされ」るのです。「わたしのため」、つまり主イエス・キリストを信じる信仰のゆえにです。12、3節にも、「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる」とあります。主イエスのみ名のゆえに、つまり信仰のゆえに、最も近い家族、親族の間にも、不和が起ったり、憎まれるという苦しみを味わうことになるのです。そのような信仰による迫害の苦しみも、世の終わりの徴です。そしてこのような迫害も、主イエスの時代から今に至るまで、形はいろいろと違ってきますが、ずっと続いているものです。今日の私たちには表立った迫害はないかもしれませんが、信仰のゆえに、周囲の人々と様々な軋轢が起こることは誰もが体験します。そのようなことにおいても、私たちは既に世の終りの始まりを体験しているのです。そして主イエスは、私たちが受けるその迫害の苦しみが、意味のある、目的をもった苦しみなのだと言っておられます。9節の終わりに「また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」とあります。迫害は同時に、証し、つまり主イエス・キリストのことを人々に宣べ伝えていくための機会となるのです。信仰のゆえに憎まれ、迫害を受けることは、それ自体が信仰の証しの機会となるのです。その機会を捕えて私たちが主イエス・キリストを証ししていくことによって、10節の、「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない」という神様のみ心が実現していくのです。神様は、主イエス・キリストの福音を今よりももっと多くの人々に伝え、人々を救いにあずからせたいと願っておられます。信仰者は、そのみ心のために用いられるのです。私たちが受ける迫害の苦しみが、伝道の前進という実りを生むのです。それゆえにこの苦しみは「産みの苦しみ」と呼ばれているのです。それは信仰による新しい命を生み出すための苦しみ、救いの前進のための苦しみ、希望のある苦しみです。信仰のゆえに受ける苦しみを私たちはそのように受け止めて、最後まで耐え忍ぶ者でありたいのです。

聖霊の働き
 迫害の苦しみの中で、耐え忍んで信仰を守り通し、主イエス・キリストを証ししていく、そのようなことがこの私に出来るだろうか、と思います。しかし主イエスは11節でこのように約束して下さっています。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ」。聖霊はこのように働いて下さるのです。私たちは自分の力で、迫害に負けずに信仰を貫き、どんな時でも主イエスを証ししていくなどということはできません。それを私たちにさせて下さるのは聖霊なのです。聖霊は、迫害を始めとする様々な苦しみの中にいる私たちに、その苦しみを経て世の終わりに実現する神様の救いを見つめさせて下さるのです。その聖霊の働きによって私たちは、苦しみの中で耐え忍んで信仰を守ることができ、そして主イエスを証ししていく言葉を与えられるのです。  この聖霊が、父なる神と主イエス・キリストのもとから降り、弟子たちに与えられたのがペンテコステの出来事です。ペンテコステにおいて教会が誕生したことと、小黙示録において、世の終わりに向かう苦しみの中にある私たちを支える聖霊の働きについて主イエスがお語りになったことは深く結びついています。聖霊が降り、教会が誕生したことによって、この世界の終わりに向かっての、言わばカウントダウン、秒読みが始まったのです。聖霊が働いて下さることによって私たちは、そのカウントダウンの終わりが、主イエス・キリストによる救いの完成であることを見つめる目を開かれるのです。そして、そこに向かう途上においては様々な苦しみが襲って来るけれども、それらは産みの苦しみであり、それらを経て主イエス・キリストの救いが完成することを証しする言葉を与えられるのです。聖霊が降って教会が誕生したというのも、世の終わりに完成する救いを見つめつつ、今のこの世の苦しみを耐え忍び、主イエスを証しする群れが誕生した、という出来事でした。その聖霊が今この教会にも、私たち一人一人にも注がれているのです。聖霊は私たちの目を開き、この世の終りに主イエス・キリストによる救いが完成することを見つめさせて下さいます。その終りの日に至るまでの道には苦しみや悲しみ、迫害がありますけれども、私たちは耐え忍んで信仰を守り抜き、主イエス・キリストの福音が全ての民に宣べ伝えられるための証しに用いられていくのです。

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