夕礼拝

わたしは主に仕える

「わたしは主に仕える」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:ヨシュア記 第24章1-33節
・ 新約聖書:使徒言行録 第4章5-12節
・ 讃美歌:299、510

ヨシュアの遺言
 私が夕礼拝の説教を担当する日には、旧約聖書ヨシュア記からみ言葉に聞いています。本日はその最後の章、24章を読みます。
 ヨシュア記は、エジプトを出てから四十年間荒れ野を旅してきたイスラエルの民が、モーセの後継者として主なる神がお立てになったヨシュアに率いられて約束の地カナンに入り、そこに住んでいた人々と戦い、打ち破ってその地に定着していったことを語っています。そしてイスラエルの十二の部族それぞれにカナンの土地が分け与えられたのです。ヨシュア記の後半にはその土地や町のリストが長々と語られています。そして本日の最後の章、24章には、ヨシュアがイスラエルの民を集めて語った遺言と、彼が死んで葬られたことが語られています。ヨシュアの死をもってヨシュア記は終わっているのです。

契約の再確認
 ヨシュアが遺言を語ったと申しましたが、彼がここでしたのは、25節にあるように、イスラエルの民と契約を結んだということでした。25節に「その日、ヨシュアはシケムで民と契約を結び、彼らのために掟と法とを定めた」とあります。ヨシュアが民と契約を結んだと書かれていますが、実際にはこの契約は、主なる神とイスラエルの民との契約です。ヨシュアはその仲介者、仲立ちをしているのです。このような、神と民との契約ということが、聖書の中心的なテーマです。新共同訳聖書の後ろの付録に「用語解説」があります。その中の「契約」という項目をぜひそれぞれで読んでおいていただきたいと思います。そこに語られているのですが、主なる神とイスラエルの民の間の契約は基本的には、「人間を神のものとするために神が全く自由に結ばれた契約」です。イスラエルの民は、神が自由に、ということはつまり恵みによって、結んで下さった契約によって神のもの、神の民とされたのです。その契約の中心は、出エジプト記に語られている、シナイ山における「シナイ契約」です。エジプトでの奴隷の苦しみから主が解放して下さった、その救いを前提として、主がイスラエルの民をご自分の民として下さり、イスラエルの神となって下さったのです。そのシナイ契約において与えられたのが「十戒」でした。主なる神の民となったイスラエルが守り行うべき律法の中心として十戒が与えられたのです。本日の箇所でヨシュアを仲介者として結ばれた契約は、その場所の名を取って「シケムの契約」と呼ばれます。その内容はシナイ契約の再確認です。シナイにおける契約によって結ばれた主なる神とイスラエルの民の関係がもう一度確認され、新たにされたのです。

シケムにおける契約
 シケムにおける契約はこの24章のみに語られているのではありません。シケムという町は、これも付録の地図の3「カナンへの定住」を見ていただくと、丁度真ん中あたり、マナセとエフライムの境目のところに、北にエバル山、南にゲリジム山があるその間にシケムの町があります。そこで思い出すのは、ヨシュア記8章30節以下です。そこにはシケムという町の名は出て来ませんが、ゲリジム山とエバル山の間と語られていますから同じ場所です。そこで行われたのも、シナイにおける契約の再確認でした。主の契約の箱、つまり十戒の石の板を入れた箱を挟んで民が立ち、祝福と呪いが語られたのです。それは、イスラエルの民が主との契約を守り、主に従って歩むなら祝福にあずかるが、契約の恵みを忘れて主から離れるなら、そこには呪いが現実となる、ということです。シケムはこのように、主なる神とイスラエルの契約の再確認の場所、あるいは契約更新の場所です。約束の地に入り、シケムにおいて契約の再確認がなされたことが、ヨシュア記のクライマックスなのです。

労せずして得たもの
 主なる神とイスラエルの民の契約の再確認のためにヨシュアが先ず語ったのは、主がこれまでイスラエルに与えて下さった数々の恵みです。それが2節以下に「主はこう言われた」という形で語られています。そこには、イスラエルの最初の先祖アブラハムが主の召しによって旅立ったことから始まり、その孫ヤコブとその子らがエジプトに下ったこと、そこで奴隷とされ苦しめられたが、主がモーセとアロンを遣わして導き出して下さったこと、追ってきたエジプトの軍勢が葦の海に呑まれたこと、そしてヨシュア記に語られて来た、カナンの地に入り、多くの民との戦いにおいて勝利を与えて下さり、この地を得ることができたことが語られています。そのしめくくりが13節です。「わたしは更に、あなたたちが自分で労せずして得た土地、自分で建てたのではない町を与えた。あなたたちはそこに住み、自分で植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑の果実を食べている」。ここに語られているのは、イスラエルの民が今得ているものの全ては、自分の力で得たのではない、主なる神が与えて下さったものだ、ということです。勿論イスラエルの民はこの地を得るために戦ったのだし、ぶどうやオリーブの収穫を得るためにはやはり汗水たらして働いています。民が何もしていないわけではない、一生懸命努力しているのです。しかしそのような努力、働きができる前提となるものは主が与えて下さったのです。主がこの地を与えると約束して下さったから、彼らは勇敢に戦い、勝利することが出来たのです。ぶどうやオリーブを得るための果樹園は彼らが開墾したものではなくて、先住民から受け継いだもの、つまり神が与えて下さったものだったのです。このことは私たちの人生においても言えることでしょう。私たちは、この世を生きるためにいろいろなことを努力し、苦労を負っています。しかしその努力や苦労の前提となる命や体や能力は自分で造り出したものではなくて、神が与えて下さったものです。主イエスが語られた、ぶどう園に農夫が雇われるたとえ話を思い出します。ぶどう園を造り、整えたのは主人である神です。私たちは神が整えて下さったぶどう園において、努力し、苦労して働いているのです。それが私たちの人生であると言えるでしょう。

神の恵みに応えて生きる
 イスラエルの民はこのように、主なる神の恵みの中を歩んで来たのです。その恵みの頂点として、主は彼らと契約を結び、彼らをご自分の民として下さったのです。その神の恵みに応えて生きることがイスラエルの民に求められています。そのことをヨシュアは14節でこのように語っています。「あなたたちはだから、主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え、あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々を除き去って、主に仕えなさい」。主を畏れ、真心を込め真実をもって主に仕えること、それが契約の恵みを与えられた神の民のなすべきことです。十戒を中心とする律法はそのために与えられています。先程の25節に、ヨシュアが民のために掟と法を定めた、とありました。シナイ契約において十戒が与えられたように、シケムの契約においても、神の民となった人々がなすべきことを定めた掟や法が与えられたのです。神の契約の相手となり、神の民として生きることにおいては、しなければならないこと、してはならないことがある、守るべき掟があるのです。それが十戒です。ですからシケムの契約においても、十戒が再確認されたのです。しかしシナイ契約においてもシケムの契約においても、十戒を中心とする律法は、神の契約の民となるための条件ではありません。先ず見つめられているのは、主なる神が恵みによってイスラエルの民を選び、救いを与え、契約を結んでご自分の民として下さったことです。この恵みに応えて、主を畏れ、真心を込め真実をもって主に仕えていくところに、十戒を中心とする律法の出る幕があるのです。つまり聖書における信仰は、人間が努力して良い行いをすることの見返りとして神が救いを与えてくれる、というものではなくて、神の救いの恵みが先に与えられ、それに対する感謝の応答として人間は良い行いをしていく、というものなのです。

他の神々を除き去れ
 契約を結んで下さった主の恵みへの感謝の応答としてヨシュアが民に求めていることの大事なポイントは、「あなたがたの中から他の神々を除き去れ」ということです。主なる神との契約に生きるとは、主こそが自分たちの神であり、自分たちは主の民であるという、主との特別な関係に生きることです。そこには他の神々の入り込む余地はありません。主の契約の民として生きる者は、他の神々を捨て、自分の生活から他の神々を除き去るのです。ヨシュアは15節でその決断を民に求めています。「もし主に仕えたくないというならば、川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々でも、あるいは今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々でも、仕えたいと思うものを、今日、自分で選びなさい。ただし、わたしとわたしの家は主に仕えます」。自分が仕える神を自分で選び取る、そういうはっきりとした決断が求められているのです。それは人間が神を見比べてどれかを選ぶことができるということを言っているのではなくて、神を信じ、仕えることにおいては、どっちつかずということは許されない、ということです。主にも仕えるが、同時に他の神々にも心惹かれ、そちらにも何かを期待するということはあり得ないのです。主の契約の民として生きるなら、他の神々とは決別しなければならないのです。

バビロン捕囚の苦しみの中で
 そしてヨシュアはここで、あなたがたがどの神を選ぼうとも、私と私の家は主に仕える、と宣言しています。ここにヨシュアの主なる神への固い信仰の決意を見ることができるわけですが、なぜこういうことが語られているのかを考えてみる必要があります。多くの人々が他の神々を選ぶ中で、自分は主なる神にのみ仕えるという決断が求められる現実があったということです。それはヨシュアの時代と言うよりも、ヨシュア記が書かれた時代の現実です。ヨシュア記は、その前の申命記と密接な関係があり、ヨシュア記、士師記、サムエル記、列王記と続く一連の歴史書の最初のものです。これらをまとめて「申命記的歴史」と言います。申命記に語られている考え方に基づいてイスラエルの民の歴史を解釈し、評価しつつ語られているのでこのように言われるのです。申命記の考え方は、先ほどの「祝福と呪い」に典型的に現れています。イスラエルの民が主なる神との契約を守り、主に従って歩むなら祝福が、背いて他の神々に心を向けるなら呪いが実現する、そういう信仰に基づいてイスラエルの歴史を語っているのが申命記的歴史です。そしてこの一連の歴史が書かれたのは、いわゆるバビロン捕囚の現実の中でです。つまり、イスラエルの民は主の契約を守ることができずに、他の神々に心を向けてしまった、その結果、呪いを受け、国を滅ぼされ、バビロンに捕え移されてしまっている、その苦しみの現実の中でヨシュア記も書かれているのです。ですからここに「川の向こう側にいたあなたたちの先祖が仕えていた神々」とあるのは、実は昔の先祖たちの話ではなくて、今自分たちが川の向こうのバビロンにおいて、他の神々に仕える民に支配されて生きている、その現実を見つめているのです。主なる神の民であった彼らが今、バビロニアに国を滅ぼされて捕囚となっている。それは当時の人々の感覚で言えば、バビロンの神々が主なる神に勝った、バビロンの神々の方が主なる神よりも強かった、ということになります。だったら、もはや主なる神を信じ仕える必然性はあるのか、むしろバビロンの神々に仕えた方がよいのではないか、国の滅亡と捕囚の苦しみの中でイスラエルの民はそのようなシビアな選択を迫られているのです。そしてそれは私たちにもいつも問われていることでしょう。私たちの周囲にも、多くの神々がいます。私たちはその中で、主なる神を信じ、仕えようとしています。しかし主を信じていれば全てがうまく行くわけではありません。信仰を持って生きていても苦しみに陥ることもしばしばあります。その時私たちは、主を信じていることに意味があるのだろうか、いっそ別の神に乗り換えた方がよいのではないか、あるいはそもそも神などというものはこの世にはいないのではないか、という思いに捕われていくのです。バビロン捕囚の中でイスラエルの民は、どの神に従い仕えたらよいのだろうか、という切実な問いの前に立たされていたのです。それは私たちにとっても切実な問題です。その現実の中で、ヨシュアは「わたしとわたしの家は主に仕える。あなたがたはどうするのか」と問い掛けているのです。

土地にまつわる神々
 この問いに直面している私たちは、主なる神と他の神々との違いがどこにあるのかを見極める必要があります。他の神々のことは14節で、「あなたたちの先祖が川の向こう側やエジプトで仕えていた神々」と言われています。それは2節の「あなたたちの先祖は、アブラハムとナホルの父テラを含めて、昔ユーフラテス川の向こうに住み、他の神々を拝んでいた」を受けているのであって、「川」とはユーフラテス川です。先程申しましたように、イスラエルの民が捕え移されているバビロンはまさにこのユーフラテス川の向こうの地です。「他の神々」とは、このユーフラテス川の向こうの地の神々、あるいはエジプトの神々のことです。また15節には「今、あなたたちが住んでいる土地のアモリ人の神々」ともあります。これはカナンの地の先住民であるアモリ人の神々のことです。このように、「他の神々」はどれも、ある土地と結び付いているのです。それらの神々は元々、それぞれの土地に住んでいる人々の守り神のような存在だったのでしょう。その土地の人々が、自分たちの所有している畑の豊作を願い、豊かさと繁栄を求めて、また飢饉や天変地異などによる災いが起らないようにという願いをもって、その地にまつわる神に祈り、その神を祭る祭儀を行うようになった、そのようにしてそれぞれの土地に、自然発生的に、多くの神々が生まれていったのです。それぞれの地域に、それぞれの民族に神々がいるのはそういう事情から起っていることです。つまりこれらの土地にまつわる神々というのは、そこに住む人々の思い、願いの投影されたものです。だから人々がその神々に祈り願うことは、豊年満作であり、天地の安泰であり、個人の生活においては家内安全、商売繁盛、学業成就などの幸福なのです。「他の神々」とは、これらの人間の願いを受け止める神々なのです。

契約を結ぶ主なる神
 それに対して、聖書に語られている主なる神は、ある土地と結びついた神ではありません。主なる神は、ユダヤの地やエルサレムの神だと思っている人がいるかもしれませんがそうではありません。主は、ユーフラテス川の向こうに住み、他の神々を拝んでいたアブラハムに語りかけ、生まれ故郷、父の家を離れて旅立つことを求め、知らない地へと、神が示し与える約束の地へと向かわせたのです。そしてカナンの地を彼とその子孫に与えて下さったのです。そのように主なる神は、人をその故郷から旅立たせ、その旅路において共にいて、導き、守り、あるいは試練を与えて鍛えて下さる神なのです。主なる神とその民との関係は、民が自分たちの地の豊作や繁栄や安全を願い、神がそれを叶えることにおいて成り立つのではなくて、神が与えて下さる契約において成り立っているのです。契約による関係とは、人格的な関係です。人格的な関係とは、お互いが意志を持った、心を持った人格として相手に語りかけ、相手からの語りかけに応えるという対話の関係です。愛と信頼による関係と言ってもよいでしょう。主がアブラハムに語りかけ、彼がそれに応えて旅立ったことが示しているのは、信頼と決断による交わりです。主はご自分の民との間にそういう関係を築き、育てて行くために、彼らと契約を結ばれたのです。ですからある土地に住んでいる者が自然に主なる神の民となる、ということはありません。主が契約を結んで下さることによってこそ神の民となるのです。それは、人間の方も、主のみ心を意識し、受け入れ、自分も主の民として生きて行く決断をするということです。勿論その契約は、神が恵みと憐れみによって与えて下さるものですが、その恵みを信じて受けるという決断が人間に求められているのです。

熱情の神
 主なる神の契約の民として主に仕えるとは、このように、契約によってご自分の民との人格的な関係を結んで下さる神と共に生きることです。その関係は、自分の願いが叶うかどうかによって成り立つものではありません。願いが叶うかどうかによって成り立つ関係は人格的な関係ではないのです。なぜならその場合には、相手は誰でもいいからです。あちらの神の方が願いを叶えてくれそうならそちらに乗り換える、ということになるし、多くの神々に願っておいて、どれかが叶えてくれればいい、ということになるのです。人格的な関係においてはそういうことはできません。そこでは、相手を愛すること、信頼関係を築くことが求められます。相手に対して誠実であることが大切であり、不誠実なこと、相手を裏切り傷つけることは罪として問われるのです。「主を畏れ、真心を込め真実をもって彼に仕え」なさいというのはそういうことであって、主なる神に対する誠実さを求めているのです。イスラエルの民は、ヨシュアのそういう求めに答えて、「わたしたちも主に仕えます。この方こそ、わたしたちの神です」と言いました。しかしヨシュアは、イスラエルの民が将来、主との契約の関係を裏切る罪に陥ることを予告しました。19節です。「ヨシュアはしかし、民に言った。『あなたたちは主に仕えることができないであろう。この方は聖なる神であり、熱情の神であって、あなたたちの背きと罪をお赦しにならないからである』」。先程も申しましたようにこれは、ヨシュア記が書かれた時、既に現実となっていることです。イスラエルは既に国を滅ぼされ、バビロンに捕囚となっているのです。ヨシュア記の著者、即ち申命記的歴史家は、その苦しみの現実の中で、これは熱情の神であられる主のみ業だ、と語っています。「熱情の神」は以前の口語訳聖書では「ねたむ神」と訳されていました。相手の心が他の者に向かってしまうなら「ねたみ」を覚える、それほどの熱情をもって、主なる神はイスラエルの民との人格的な関係を求めておられるのです。だからイスラエルの民の裏切り、背きの罪に対しては主はお怒りになり、裁きをなさるのです。それによってバビロン捕囚という現実が起ったのです。だからそこには、主がイスラエルの民を、人格を持った者として、ご自分と対話し、交わりに生きることができる者として認め、熱情をもって民との交わりを求めて下さっているみ心が現れているのです。主なる神は、契約を結んでご自分の民として下さったイスラエルの民との人格的な関係を回復することを、熱情をもって求めておられるのです。この主の熱情にこそ、国を滅ぼされて捕囚の苦しみの中にあるイスラエルの民にとっての、希望の唯一の拠り所があるのです。

主イエス・キリストによる救い
 人間の願望の投影によって生み出された神々は、そのような希望を与えてはくれません。熱情をもってご自分の民との間に人格的な関係を結ぼうとなさる主なる神こそが、人間の思いにおいては絶望でしかない現実の中でも、希望を与え、人を生かし、支えるのです。主なる神の熱情は今私たちに向けられています。主はその熱情によって、独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さいました。そして主イエスは、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さることによって、罪の赦しによる救いを打ち立てて下さいました。神に背き、神との関係を失ってしまっている私たちと人格的な関係を回復したいという主なる神の熱情によって、独り子イエス・キリストの十字架と復活による救いが実現したのです。主イエス・キリストによって私たちをご自分の民として下さる神の熱情を受け止め、それを信じて生きるところに私たちの救いがあります。本日共に読まれた新約聖書の箇所、使徒言行録第4章12節でペトロは「ほかのだれによっても、救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と言いました。ここに、「わたしとわたしの家は主に仕えます」というヨシュアの言葉が受け継がれています。私たちも、ほかのだれによっても得ることのできない、主イエス・キリストによってこそ与えられる、主なる神との人格的な関係に、決断をもってあずかりたいのです。

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