創立記念

過去、現在、将来

2026年9月13日 教会創立記念礼拝 
説教題「過去、現在、将来」

詩編 第17編1~15節
マタイによる福音書 第23章25~39節

「幸いの教え」と「悲しむべき偽善」が対になっている
 マタイによる福音書第23章で主イエス・キリストは、律法学者やファリサイ派の人々に対して、「あなたがた偽善者に災いあれ」と言って厳しく批判しておられます。そういう言い方が、13節から本日のところにかけて7回繰り返されているのです。「災いあれ」と訳されている言葉は、原文においては「ああ」とか「おお」という嘆き悲しみを表す言葉なのだ、ということを先週申しました。主イエスは、彼らに災いがあるように、と呪いの言葉を語ったのではなくて、彼らの偽善を嘆き悲しんでおられるのです。そういう言葉が7回繰り返されているわけですが、このことは、この福音書の5章3節以下の「心の貧しい人々は、幸いである」に始まる8つの「幸いの教え」を思い起こさせます。5~7章のいわゆる「山上の説教」は、この福音書において主イエスの教えがまとめて語られている最初の部分であり、23〜25章は、その最後の部分です。両者はいろいろな点で対になっています。5章には8つの幸いが、23章には7つの災い、と言うか嘆き悲しむべき偽善の姿が語られている、ということもその一つです。
 幸いの教えが8つなのに、偽善の姿は7つであることに気づいて、偽善を一つつけ加えて8つにした人がいたようです。実は23章には14節がありません。聖書の写本の研究において、14節は後から書き加えられたものであると考えられており、今は本文から外されて、この福音書の後の59頁に置かれています。その14節にはもう一つの偽善の姿が語られているのです。それが書き加えられたのはおそらく、5章の幸いの教えと数を揃えるためでしょう。23章の偽善を5章の幸いの教えと対応させてよむことが、かなり早くからなされていたことがこのことから分かります。
 しかし無理に数を揃えなくても、この二つの教えは内容においてまさに対になっています。5章の幸いの教えはどれも、私たちが何かを持っているとか、力があることが幸いなのではなくて、むしろそういうものを全く持っていない貧しい者が、ただ神に依り頼み、神にのみ望みを置いて生きるところにこそ幸いがある、ということです。それに対して、23章の律法学者やファリサイ派の人々は、自分が律法を守っている正しい者であることを人に見せ、それを人に認められ、褒められようとしています。彼らは神に依り頼むのではなく、自分の正しさ、立派さに依り頼んでおり、神の前で、神のまなざしの下で生きるのではなくて、人の前で、人の目を気にしながら生きているのです。それは5章に語られている「幸い」とはまさに正反対の姿です。そういう律法学者、ファリサイ派の人々のことを主イエスは「偽善者」と呼んで、嘆き悲しんでおられるのです。

外側と内側
 偽善の根本にあるのは、23章の5節に語られていた「そのすることは、すべて人に見せるためである」ということです。本日の25節以下にも、彼らのそういう姿が指摘されています。25節には、「杯や皿の外側は清めるが、内側は強欲と放縦で満ちている」とあります。外側はきれいに、見栄えよくしているが、内側は汚れに満ちている、それはまさに「人に見せるため」に生きているということです。律法を守って正しく生きているという外側の姿を人に見せながら、心の中には、神を敬うよりも自分が立派な人と見られ尊敬されることを願う思いが満ちているのです。そのことが27節では、「白く塗った墓」とたとえられています。イスラエルの人々にとって死者、死体は汚れたものでした。旧約聖書には、死体に触れた者は汚れると語られています。だから死体を葬る場所である墓は汚れた場所でした。それが白く塗られているというのは、外側は美しく見えるが、内側は実は汚れに満ちているということです。「このようにあなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法とでいっぱいである」、そういうことが批判されているのです。

ある意味で必要な偽善
 このように、外側と内側が違うことが偽善であることは私たちにもよく分かります。私たちは誰もが、多かれ少なかれ、そういう偽善に生きていると言わなければならないでしょう。しかしそれはある意味で必要なことでもあります。私たちは誰もが、心の中に悪い思いや罪への衝動を持っています。つまり人を愛するよりも傷つけてしまう思いがあるのです。そういう私たちが人と良い交わりを築いていくためには、その悪い思いをコントロールしなければなりません。それはある意味では、内側にある悪い思いを抑えて愛に生きる者を演じていく、ということです。それは人を騙していると言うよりも、自分の中にある罪と戦って、人との関係を築いているのです。ですから、罪人である私たちが人との交わりを築いていこうとする時には、ある意味偽善者になることが必要だとも言えるのです。

預言者の墓を建て、正しい人の記念碑を飾る
 主イエスが悲しむべき偽善として見つめておられるのは、内側と外側が違う、ということよりも、むしろ次の29節に語られていることだと思います。そこには、「あなたがたは預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしている」とあります。ここに悲しむべき偽善があるのです。それはどういうことでしょうか。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ることによって彼らは、30節にあるように、「もし先祖の時代に生きていたなら、預言者の血を流す側には付かなかったであろう」と言っています。つまりこの預言者や正しい人というのは、神のみ言葉を語り、また神に従って正しく生きたために人々に憎まれ、迫害を受けて殺された人々です。その人々の墓や記念碑を整えることによって彼らは、自分ならこの人たちを殺したりはしなかった、彼らの語る神の言葉に耳を傾け、彼らの教えに聞き従っただろう、と人にアッピールしているのです。しかし主イエスは31節で「こうして、自分が預言者を殺した者たちの子孫だと、自ら証明している」と言っておられます。殺された預言者や正しい人の墓や記念碑を建てることによって、自分がその人たちを殺した者たちと同類でありその仲間であることを明らかにしている、と言っておられるのです。それはどうしてでしょうか。墓や記念碑を建てることは、その人たちを尊敬し、その教えを大切にしようとする思いの現れではないのでしょうか。どうしてそれが、彼らを殺すのと同じことになってしまうのでしょうか。

愛する者の墓を建てることの意味
 このことを理解するためには、墓や記念碑の持つ意味を深く考えなければなりません。愛する家族の墓を建て、そこに、私たちの場合は遺骨を丁重に納めることによって私たちは、愛する人との地上における別れの悲しみに区切りをつけ、新しく歩み始めます。愛する人との別れを受け入れるためには、ある期間、遺骨を手許に置いておくことが必要でもありますから、すぐに埋葬しなければならない、ということはありません。しかし、亡くなった人の思い出にいつまでもしがみついていたのでは、前を向いて生きていくことができません。つまりその人の死を受け入れて、その人の思い出を大切にしつつ、人生を新たに歩み出すために、埋葬ということがなされるのです。愛する家族の墓を建てることにはそういう意味があり、それは必要なまた大切なことです。

預言者の墓を建てることにおいて起っていること
 このように、愛する家族などの墓を建てることは、私たちが前向きに生きるために必要なことです。しかし、預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾る、というのは、それとは全く別のことだと言わなければなりません。それは表面的には、預言者や正しい人を敬い、彼らの語った神の言葉を大切に記念しているように見えますが、そこで実際に起っているのは、預言者の語った神の言葉や正しい人の教えを、過ぎ去った過去のものとして葬り去り、もう終わったこととして、自分とは切り離してしまう、つまりそのみ言葉や教えによって自分が変えられ、悔い改めを求められることが起こらないようにしてしまう、ということなのではないでしょうか。主イエスが見つめておられるのはそういうことです。律法学者、ファリサイ派の人々は、預言者の墓を建て、正しい人の記念碑を飾ることによって、彼らを敬い大切にしていることをアピールしながら、彼らの教えを自分に対して語られた神の言葉として聞こうとはしていないのです。表面的には神の言葉を大切にしているように見せながら、自分がそれによって変えられることを頑なに拒んでいるのです。だから、預言者たちが語っていた救い主メシアとして来られた主イエスを受け入れようとしないのです。預言者を敬っているように振る舞いながら、彼らが語った神の言葉を聞こうとしない。そこに彼らの偽善があります。それは彼らだけの話ではないでしょう。私たちも、聖書を通して神が語りかけておられるみ言葉をそのように扱ってしまってはいないでしょうか。聖書の教えはすばらしい、今日は良いみ言葉を聞いて慰められた、などと言いながら、実は自分の思いや考えに合うことだけを、自分が求めている慰めだけを受け止め、それ以外のことには耳を傾けようとしていない、聖書を通して今自分に語りかけておられる神のみ言葉によって自分が変えられることは頑なに拒んでいる、そういうことはないでしょうか。

教会創立記念礼拝
 この礼拝は、この教会の創立152周年の記念礼拝です。今日9月13日がまさにこの教会の創立記念日です。この記念日の礼拝において、「あなたがた偽善者に災いあれ」という主イエスの厳しいお言葉が繰り返し語られているこの箇所を読むことにしたのは、教会の創立を祝い、152年の歴史を振り返って感謝している私たちが、「預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったり」しながら、今私たちに語られている神の言葉を聞こうとせず、み言葉によって自分が変えられることを拒むような偽善に陥らないようにしたいと思ったからです。この教会の歴史にはいろいろな困難があったし、人間の罪や弱さに陥ったことも多々ありましたが、基本的に主の豊かな恵みに支えられてきたと言えます。礼拝出席者の数で見るならば、「コロナ禍」になる直前が過去最高となっています。もう大分前から教勢が衰退してきている日本の教会においてこれは珍しいことです。そういう恵まれた歴史を私たちは振り返り、記念しているわけですが、そのことを喜び感謝しつつ、今自分たちに語りかけられているみ言葉を聞いて、それによって変えられていこうとする姿勢を失ってしまうならば、私たちがしている記念も、「預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったり」と同じことになってしまうのです。

今自分に語られているみ言葉を拒むなら
 今自分に語られている神の言葉を聞く姿勢を失うと、どういうことが起るのでしょうか。それが32節以下に語られています。34節に「だから、私は預言者、知者、学者をあなたがたに遣わすが、あなたがたはそのうちのある者を殺し、十字架につけ、ある者を会堂で鞭打ち、町から町へと迫害して行くであろう」とあります。昔の預言者や正しい人を敬っているように見える者たちが、今彼らにみ言葉を語るために神がお遣わしになった人を迫害し、殺すということが起こるのです。そうなるのは、彼らが、自分の思いや気持ちに合う言葉は神の言葉として受け入れるけれども、いざそれが自分の罪を指摘し、悔い改めを求め、自分に変わることを求めてくると、耳を塞ぎ、徹底的に拒否するからです。主イエスが十字架につけられたのもそのためでした。35節には、「こうして、正しい人アベルの血から、あなたがたが聖所と祭壇の間で殺したバラキアの子ゼカルヤの血に至るまで、地上に流された正しい人の血がことごとく、あなたがたにふりかかってくる」とあります。主に喜ばれる捧げ物をしたアベルは兄カインに妬まれて殺されました。また「聖所と祭壇の間で殺されたバラキアの子ゼカルヤ」というのは、歴代誌下の24章20節以下のエピソードです。正しくは「神殿の庭で石で打ち殺された、祭司ヨヤダの子ゼカルヤ」ですが、この人はユダの人々に、あなたがたは主なる神の戒めを破り、主を捨てたので、主もあなたがたを捨てる、と語ったために殺されたのです。これらの正しい人々の血が、今み言葉を拒んでいるあなたがたにふりかかってくる、と主イエスはおっしゃいました。今自分に語られている神の言葉を聞こうとせず、今の自分の生活、生き方がみ言葉によって新たにされ、変えられていくことを拒むならば、彼らを殺した人たちに対する神の怒りが、私たちの上に下るのです。

エルサレムのための嘆き
 37節以下は、そのような罪に陥っているエルサレムのための主イエスの嘆きの言葉です。エルサレムは、「預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者」となっています。今自分に対して語られている神のみ言葉を聞こうとせず、それを語る者たちを殺し、迫害しているのです。そのエルサレムに、主イエスはこれまで何度も恵みのみ手を差し伸べて来られました。それが37節後半の「めんどりが雛を羽の下に集めるように、私はお前の子らを何度集めようとしたことか」というみ言葉です。親鳥が翼を広げて雛をその下に集め、守りはぐくもうとするように、主イエスは人々をご自分のもとに招こうとなさったのです。このみ言葉の背後には、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、詩編17編8節があります。「瞳のように私を守り/あなたの翼の陰に隠してください」という祈り願いです。主イエス・キリストはこの願いを実現して下さったのです。けれども37節の続きには、「だが、お前たちは応じようとしなかった」とあります。神が預言者たちを遣わし、今やその独り子をすらも遣わして招いて下さったのに、エルサレムはそれに応えようとせず、主イエスの言葉に耳を傾けず、主イエスを十字架にかけようとしているのです。そのエルサレムは、見捨てられて荒れ果てる、38節に語られているこの神の裁きは、この数十年後に、ローマ帝国によるエルサレムの破壊と神殿の崩壊において実現しました。しかし私たちはこれを、私たちに対する警告として聞くべきでしょう。今自分に語りかけておられる神のみ言葉を聞こうとしないなら、私たちもこのエルサレムと同じことになるのです。

もう一度来られる主イエス
 しかしこの神による裁きの予告に、主イエスは不思議な言葉をつけ加えておられます。39節です。「言っておくが、お前たちは、『主の名によって来られる方に、祝福があるように』と言うまで、今から後、決して私を見ることはない」。これはいったい何を言っているのでしょうか。謎のような言葉です。しかし一つわかることは、「お前たち」つまり今主イエスを受け入れず、神の語りかけを聞こうとしていないエルサレムの人々が、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と言う時が来る、ということです。そしてこの言葉は、21章の始めのところで、主イエスがエルサレムに入られた時に、人々が主イエスを喜び迎えた時の言葉です。「主の名によって来られる方」とは主イエスです。ですからこのみ言葉が語っているのは、「今から後、決して私を見ることがない」とおっしゃってこの世を去ろうとしておられる主イエスが、もう一度来られること、そしてその時には、今は主イエスに敵対し、受け入れず、十字架につけようとしている人々をも含めた全ての人々が、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と言って主イエスを喜び迎えるのだ、ということです。神から遣わされた独り子である主イエスを受け入れず、今自分に語られている神のみ言葉を聞こうとしない人々によって、それは私たちのことでもありますが、主イエスは十字架につけられて殺されます。しかしその主イエスは、三日目に死人の内より復活し、天に昇り、全能の父なる神の右にお座りになるのです。そして将来、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたもうのです。そのいわゆる再臨の時には、今は隠されている主イエスの神の子、救い主としてのご支配、権威が顕わになり、誰もがその前に膝をかがめ、「主の名によって来られる方に、祝福があるように」と言って主イエスを賛美するようになるのです。主イエスはそのように、将来必ずもう一度来られる。その主イエスによって神の国、神のご支配が確立し、私たちも死の支配から解放され、復活と永遠の命を与えられる。そのようにして私たちが救いが完成することがここに宣言されているのです。

過去、現在、将来
 だから私たちがなすべきことは、主イエス・キリストを、昔おられた方として、その記念碑を建てて業績を偲ぶことではなくて、主イエス・キリストが、将来、私たちのところに来て下さることを待ち望むことです。その時には、今主イエスを受け入れようとしていない全ての者も、そのみ前にひれ伏して賛美するようになるのです。その時には、主イエスは神の子としての力をもって私たちとこの世界を支配し、救いを完成させて下さるのです。つまり主イエスは、過ぎ去った過去の人ではなくて、今も生きておられ、将来再び来られる方です。本日の説教の題を「過去、現在、将来」としました。時間の流れとしては、過去、現在そして未来となるでしょう。しかし私たちは、「未だ来たらず」という未来に向かって歩んでいるのではありません。「将に来たらんとしている」主イエスを待ち望んでいるのです。主イエスを、過ぎ去った過去の人にしてしまうのでなくて、そのみ言葉を今自分に語りかけられている神の言葉として聞くことができるのは、主イエスが将来もう一度来て下さることを待ち望んでいくことによってこそです。つまり私たちの教会創立152周年の記念は、将来もう一度来て下さる主イエスを待ち望むことにおいてこそ、相応しくなされるのであって、それなしには、その記念は「預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾る」のと同じ偽善に陥るのです。教会は、今は目に見えない主イエスが、将来もう一度来て下さって、救いを完成して下さることを信じて待ち望みつつ、神のみ言葉を常に新たに聞き、それによって新しくされていく群れです。今日洗礼を受ける方々は、その群れに新たに加えられるのです。ここにおいてこそ私たちは、人の目を気にして生きる偽善から解放され、主イエスが教えて下さったあのまことの幸いに生きる者となることができるのです。

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