主日礼拝

身を起こして頭を上げよ

「身を起こして頭を上げよ」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書: マラキ書 第3編1-5節
・ 新約聖書: ルカによる福音書第21章20-28節
・ 讃美歌:18、149、543

エルサレムの滅亡と神殿の崩壊
 今読み進めているルカによる福音書第21章には、この世の終わりに向けて起ることについて主イエスがお語りになったみ言葉が記されています。そのような話になったきっかけは、5節以下で主イエスが、エルサレムの壮麗な神殿に感心している人々に対して、この神殿の「一つの石も崩されずに他の石の上に残ることのない」ように徹底的に破壊される日が来る、と予告なさったことでした。ユダヤ人たちにとってエルサレム神殿は、信仰の拠り所、民族の存在のシンボルでした。それが崩壊することは、彼らにとっては全ての終わりを意味するような出来事だったのです。このことから話は一気に、この世界全体の終わり、終末についてのこと、その前兆や、どのような思いでそれに備えるべきか、という話になっていったのです。本日の20節以下もその続きですが、ここはもう一度、エルサレムの話に戻っています。エルサレム神殿が崩壊するということは、エルサレムの町が滅ぼされ、破壊されるということです。そのことがどのようにして起るのかが、20~24節に語られているのです。
 20節には、「エルサレムが軍隊に囲まれるのを見たら」とあります。つまりエルサレムは敵の軍勢によって攻め滅ぼされ、それと同時に神殿も破壊されるのです。このことは、この時から約40年後に実現しました。紀元70年に、ローマ帝国の軍勢に攻められたエルサレムは籠城戦の末に陥落し、徹底的に破壊されたのです。このルカによる福音書は、そのことが既に起ってから書かれたのか、それともそれ以前に書かれたのか、という議論があります。多くの学者は、それ以後に書かれたと主張しています。その根拠の一つがこの20節です。このような記述は既にそのことが起ったことを知っている者のみが書くことができる、というのです。逆に言えばその事実を知っていなければこんなことが書けるはずはない、というわけです。そういう前提で聖書を読むことが「学問的」とされるところに、学問的聖書研究というものの限界があるのですが、それはともかく、ここを読むことにおいて、ルカがローマによるエルサレム陥落を知っていたかいなかったかはどうでもよいことです。ルカが言いたいことの中心は、主イエスがエルサレム陥落を見事予告したということにあるのではなくて、むしろその後の21節の「そのとき、ユダヤにいる人々は山に逃げなさい。都の中にいる人々は、そこから立ち退きなさい。田舎にいる人々は都に入ってはならない」ということにこそあるのです。
 これには少し説明が必要でしょう。ここに語られているのは、エルサレムが敵の軍勢に包囲されたなら、その滅亡が近いのだからそこから逃げ出せという教えであって、私たちの感覚からすれば当然のこと、常識的なことのように思われます。けれどもこの当時、それは決して常識ではありませんでした。当時、戦争の最終段階はその国の首都をめぐる戦いでした。それを攻め滅ぼすことが戦争の勝利であり、負けた国はそれによって滅亡したのです。そして当時のこの地域の都市というのは全て城壁を巡らした要塞でした。城壁によって敵の襲来から守られた地域が都市だったのです。ですから普段城壁の外で畑を耕したりして働き、暮らしている人々も、いざ戦争になると城壁の中へと避難するのが普通でした。そしてその城壁の中に立て籠って敵の攻撃に耐え、あきらめるのを待つか、あるいは他国の援軍を待つという籠城戦がしばしばなされたのです。つまりここに語られている「山に逃げなさい」とか「都に入ってはならない」というのは、当時としては決して常識とは言えないのです。それに加えて、エルサレムには特殊な事情もありました。それが、神殿の存在です。天地の全てをお創りになり、イスラエルの民を選んでご自分の民とし、守り導いておられる万軍の主なる神様の神殿がここにはあるのです。つまりエルサレムは神様の町なのです。そのエルサレムが陥落し滅びるようなことがあるはずはない、という思いが人々の中にありました。だからエルサレムの市内にいれば安心だ、と多くの人は思っていたし、神殿の祭司たちもそのように言っていたのです。紀元70年にエルサレムがいよいよ陥落する時にも、神殿にいれば大丈夫だ、と言った人がおり、それで多くの人々が神殿に逃げ込み、そして焼け落ちる神殿と共に死んだということも伝えられています。エルサレムの町と神殿とがそのように、敵に攻められ滅亡の危機に瀕した人々にとっての最後の拠り所となっていたし、当時の宗教指導者たちはそのように語っていたのです。そういうことは私たちの国も経験していることです。太平洋戦争の末期、海軍はもうお手上げ状態でしたが、陸軍は本土決戦を叫びました。本土決戦というのは一種の籠城戦です。その背後には、大日本帝国は神の国であり絶対に負けるはずがない、神州不滅、という信仰があったわけです。それと同じようなことがエルサレムの滅亡においても起っていたのです。

惑わされるな
 そのような中で主イエスは、エルサレムは滅び、神殿は徹底的に破壊される、だから町に逃れるのではなくて山に逃げよ、あなたがたが救われる道は、エルサレムやその神殿にではなく、そこから離れ逃げることにある、とおっしゃったのです。つまり主イエスは、エルサレムが滅亡し神殿が破壊されても、それで全てがおしまいになり、世の終わりが来るのではない、その先になおあなたがたが生きる道があるのだ、ということをお語りになったのです。これが、ここに語られていることの中心です。そしてそれは、これまで読んできた所に語られてきたことのポイントでもありました。世の終わりに向けてどのような徴、前兆があるのか、という話の中で主イエスは、戦争や暴動、地震や飢饉や疫病というようなことが必ず起る、しかしそういうことによってこの世が終るのではない、とおっしゃいました。エルサレムの滅亡と神殿の破壊もその一つなのです。そういうことは起るが、それによってこの世が終わるわけではない、だから脅え、慌ててはならない、とおっしゃったのです。主イエスは8節で、偽者の救い主に惑わされるな、ともおっしゃいました。偽者の救い主は、これらの危機の中で人々の不安を煽り、自分のもとに来れば大丈夫だ、と言って人々を従わせるのです。エルサレムと神殿は大丈夫だ、と言っていた当時の宗教指導者たちも、神州不滅を叫んでいた人々も、人を惑わし破滅へと誘っていたのです。

歴史の教訓に耳を傾けた者の言葉
 そういう人々が大勢いる中で主イエスは、エルサレムや神殿は決して救いの拠り所にはならないからそこから逃げよとお語りになったわけですが、それは決して驚くべきことではありません。何故なら同じことは既に数百年前に起っていたからです。イスラエルの民にとって、この時代の神殿は「第二神殿」と呼ばれるものです。「第一神殿」は、紀元前6世紀に、バビロニア帝国によって南ユダ王国が滅ぼされた時に既に破壊されていました。いわゆるバビロン捕囚と共に起ったことです。つまりユダヤ人たちは既に、エルサレムの陥落と神殿の崩壊を歴史の中で経験しているのです。その歴史をちゃんと学べば、エルサレムの町や神殿が決して不滅のものではないこと、神様の怒りによって滅ぼされることもあり得ることが分かるはずなのです。ですから主イエスのお言葉は、驚異的な予知能力によって語られたと言うよりも、歴史を踏まえ、その教訓に耳を傾けた者の言葉であると言うことができます。狂信的な人々、あるいは自分の考えに凝り固まってしまっている人々は、歴史をねじ曲げ、あるいは自分に都合のよいことのみをそこに読み込もうとするのです。そのようにして人々を惑わし、破滅へと誘うのです。そういう者たちに惑わされないようにと主イエスは語っておられます。そのためには、エルサレムや神殿が破壊されてもなおこの世界は続いていくし、その苦しみの中で神様の民の歴史も前進していくのだということをしっかりと見つめることが必要なのです。

「終わり」に直面している私たち
 25節からは再び、この世の終わりに現れる徴の話になっています。太陽と月と星に徴が現れ、地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥るのです。「海がどよめき荒れ狂う」という所は口語訳聖書では「海と大波とのとどろきにおじ惑い」となっていました。海の上での大嵐というだけでなく、大波が人々の命と生活とを根こそぎさらっていく、東日本大震災における大津波のようなことが見つめられていると言えるでしょう。あのような現実に直面する時、私たちは、「なすすべを知らず、不安に陥る」のです。また、「この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失う」のです。前にも申しましたが、あの大津波とそのもたらした被害は、私たちに「終わり」を意識させます。これまでの歩みは終わり、もはやこれまで通りに生き続けることはできない、という思いです。自分は被害に遭わなかったからといって、その終わりと向き合おうとしないならば、それこそこの震災で亡くなったり行方不明になった二万人に及ぶ人々の死を無駄にすることになります。しかしこのような終わりに直面することは、なすすべのない不安と恐怖を覚えさせられることでもあります。だから出来れば向き合いたくない、という思いにもなるのです。そのように私たちは今、この21章に語られているのと同じような事柄に直面させられているのです。それゆえに、主イエスがここでお語りになったことをしっかりと受け止めることが大切です。それは、先ほども申しましたように、これらの恐ろしい出来事が起こっても、それが世の終わりではない、ということです。そういう恐ろしい出来事とそれによる苦しみの中でも、神様の民の歩みは終ることなく進んでいくのだ、ということです。だから、脅え慌てるな、そして偽りの安心を語る者たちに惑わされることなく、むしろ逃げ出せ、と言っておられるのです。

逃げ出せ
 「脅え慌てるな」と「逃げ出せ」とが結びつけられていることが大事です。まだ世の終わりではないから脅え慌てるな、という教えは、だから今のままに留まっていればよいのだ、ということではありません。今のままに留まっていればよい、と言っているのは、エルサレムに留まっていれば安心だ、神州不滅だ、と言っている偽りの安心を語る人々です。主イエスはむしろ、このままではだめだから行動を起せと言っておられるのです。エルサレムも、神殿も、滅びて行くものなのだから、それにしがみついているのではなく、それらが滅びてもなお続いて行く神の民の歴史、神様の導きを信じて、新たな道へと、新たな可能性を求めて旅立つようにと勧めておられるのです。
 主イエスはこのように、滅びていくものに捕われていることから解放されて、新たに旅立つことを勧めておられます。いやそんな格好のよいことではなく、このままでは滅亡することをきちんと見つめ、そこから逃げ出し、山に逃れよと言っておられるのです。これは東日本大震災に直面している日本の社会に対するみ言葉であるのみでなく、私たち日本の教会に対する勧めでもあるのではないでしょうか。エルサレムと神殿は、イスラエルの民の歴史において確かに大きな意味を持っていました。ダビデが選び首都を置いたこの町で、神様は大きな恵みのみ業を行い、イスラエル王国を守り保ってきて下さいました。そして神殿において神様への礼拝が捧げられてきました。それらの歴史は決して無意味ではなく、間違ったことでもありません。まさにそのようにして神の民は歩んできたのです。しかし神様の救いは、エルサレムと神殿とによって与えられているわけではありません。神殿がなければ神様を礼拝できないわけではないのです。神の民の信仰の歩みのために用いられてきたエルサレムであり神殿ですけれども、その使命は今や終わり、神の民の新しい歴史が、神様ご自身によって開かれているのです。そのみ業は、神様の独り子主イエス・キリストがこの世に来られたことによって始まりました。その主イエスの十字架と復活と昇天とによって、神様の民の歩みは、そこで行われる礼拝は新しくなったのです。ユダヤ人という血統による神の民が、主イエス・キリストを信じる信仰による神の民へと転換し、神殿において動物の犠牲を捧げる礼拝は、唯一のまことの犠牲としてご自身を捧げて下さった主イエスの救いにあずかり、本日も行われる聖餐において主イエスとの交わりに生きる礼拝へと転換したのです。だから私たちはエルサレムに行かなくても、また神殿がなくても、神様を礼拝し、主イエスと共に生きることができるのです。しかしその私たちの歩みにおいても、当時のユダヤ人にとってのエルサレムや神殿と同じ意味を持っているものがあると思います。私たちにとってはそれはこの建物でもあるだろうし、私たちが今行っているこのような礼拝の形式でもあるだろうし、この教会で行なわれてきた様々な営みでもあるでしょう。神様はそれらを用いて私たちに救いの恵みを与え、信仰の生活を導いてきて下さいました。その意味でそれらのものは私たちが感謝をもって受け止めるべきものです。しかし、それらのものが私たちを救うわけではないし、それらがなければ礼拝ができないわけではありません。それらは時代の移り変わりと共に変わっていくものだし、変わっていってよいのです。私たちの信仰の歩みにおいて、何が救いをもたらす根本であり、何がユダヤ人たちにとってのエルサレムや神殿に当るものなのか、それをしっかり見極めていくことが大切です。そうしないと、「終わり」に直面させられる危機の中で慌て、脅え、惑わされて、しがみつくべきでないものにしがみついて、そこから逃げ出すことができないということになるのです。

再臨の予告
 主イエスはここで、恐れや不安の中で慌て、脅え、惑わされそうな私たちに、本当に見つめるべきものは何かを示して下さっています。それが27節です。「そのとき、人の子が大いなる力を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る」。このことをこそ見つめなさい、と主イエスは言っておられるのです。「人の子」とは主イエスがご自分のことを呼ぶ言葉です。主イエスが、大いなる力を帯びて、雲に乗って来るのを人々は見る、と言われているのです。しかしこれを語っているのは主イエスなのだから、主イエスはもう既にこの世に来ており、人々はその姿を見ているではないか、と思うかもしれません。この「来る」は、主イエスがこの後捕えられ、十字架につけられて殺され、三日目に復活し、四十日後に天に昇られたことを前提としています。天に昇り、今は父なる神様の右に座しておられる主イエスが、将来、もう一度この世に来られるのです。それを「キリストの再臨」と言います。その予告がここに語られているのです。そのキリストの再臨こそ、恐れや不安の中で慌て、脅え、惑わされそうになっている私たちが見つめるべきものなのです。

本当に終りをもたらすもの
 それはどういうことなのでしょうか。キリストの将来の再臨を見つめることが、今この世を生きる私たちにとってどのような意味を持つのでしょうか。「人の子が大いなる力を帯びて雲に乗って来る」という言葉にもう一度注目しましょう。「大いなる力を帯びて」とあります。ここに、キリストが最初にこの世に来られた時のお姿と、もう一度来られるお姿との違いがあります。最初に来られた時、つまりクリスマスの出来事において、主イエスは何の力も持たない小さな赤ん坊として、しかも貧しい夫婦の間に生れ、飼い葉桶の中に寝かされました。その日、救い主がお生れになったことは、神様によって特別にそれを示されたほんの僅かな人々の他は、世界の誰も知らなかったのです。しかし主イエスがもう一度来られる時の様子はそれとは全く違います。主イエスは「大いなる力を帯びて」来られるのです。その「大いなる力」とは、神としての力です。神としてこの世界の全体を支配し、そして全ての人々を審く力です。審くというのは、救われる者と滅びる者とを分けることです。裁判官が裁判において有罪か無罪かを決めるように、審きにおいて人の救いと滅びとを決める、そういう権威と力をもって主イエスはもう一度来られるのです。その主イエスの大いなる力を帯びての再臨において最後の審判が行われ、それによってこの世は終るのです。つまり主イエスがここで見つめさせようとしておられるのは、この世界は何によって終るのか、ということです。これまで、戦争や暴動や地震や飢饉や疫病、天体に徴が現れるとか、海がどよめき荒れ狂うといったことが、世の終わりに向かって起こることとして見つめられてきました。そして、それらによってこの世が終るのではない、神の民の歩みはなお続いていく、本当に終りをもたらすものは別にある、と語られてきました。それでは本当に終りをもたらすものとは何か、それがこの主イエス・キリストの再臨による最後の審判なのです。この世界は、主イエスが大いなる力を帯びてもう一度来られることによってこそ終る、そのことをこそ見つめよと主イエスは言っておられるのです。

主イエスのご支配の完成
 そんな荒唐無稽な話は誰が信じることができるか、と思うかもしれません。しかしこのことは、この世界は主イエス・キリストのご支配の完成をもって終る、ということです。つまり最終的に支配し、力を振るうのは、主イエス・キリストだ、ということです。そしてその主イエス・キリストは、私たちのために、しかも神様に背き逆らっている罪人である私たちのために、既にこの世に来て下さり、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さり、復活して新しい命の先駆けとなって下さった方です。主イエス・キリストによる罪の赦しと新しい命、永遠の命の約束が、主イエスを信じて洗礼を受け、聖餐にあずかりつつ生きている者には与えられているのです。その主イエスのご支配の完成をもってこの世は終る、それはこの世の終わりに主イエスによる救いの完成がある、ということです。キリストの再臨によるこの世の終わりを信じるとは、このように、キリストの十字架と復活による救いの完成がこの世の終わりに与えられることを信じる、ということなのです。このことを信じ、待ち望みつつ生きることによってこそ、またそのことによってのみ、私たちは、戦争や暴動や地震や飢饉や疫病、天体に徴が現れ、海がどよめき荒れ狂い、全てのものを押し流していくというこの世の現実の中で、慌てることなく、脅えることなく生きることができるのではないでしょうか。しかもそれが、偽りの安心を語る言葉によって惑わされ、「このままでよいのだ」と、滅びていくもの、しがみつくべきでないものにしがみつくのでなく、このままでは滅びる、という危機をしっかりと見つめて行動を起す、逃げ出すべき所から逃げ出し、離れるべきものから離れ、神の民の歴史を新たに展開して下さる神様の導きを信じて、新たな道へと、新たな可能性を求めて旅立っていく、ということへとつながっていくことができるのは、主イエス・キリストによる救いの完成がこの世の終わりに約束されていることを信じることによってこそなのです。

身を起こして頭を上げよ
 28節には、「このようなことが起り始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ」とあります。「このようなこと」とは、世の終わりに向けて起こる様々な苦しみ、戦争や暴動や地震や飢饉や疫病、天体に徴が現れ、海がどよめき荒れ狂う、ということです。私たちを不安に陥れ、脅え慌てさせ、絶望させるこれらのことの中で、しかし主イエスの再臨を信じ、主イエスによる救いが世の終わりに完成することを待ち望みつつ生きる者は、身を起こして頭を上げることができるのです。身を起こして頭を上げて生きる、それはこの世の人生を堂々と生きることです。様々な悩みや苦しみや悲しみ、不幸、また不安や恐怖をもたらす事柄と正面から向き合い、それらをしっかりと受け止めつつ生きる姿です。私たちは、自分自身の力でそのように生きることはできません。しかし、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して永遠の命を生きておられる主イエスが、世の終わりにもう一度来て下さり、私たちの救いを完成して下さる、その主イエスのご支配の完成を信じ待ち望むならば、身を起こして頭を上げつつ生きることができるのです。

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