主日礼拝

羊飼いの声を聞き分ける

「羊飼いの声を聞き分ける」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 詩編 第82編1―8節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第10章22-42節
・ 讃美歌 ; 6、357、447

 
神殿奉献記念祭で
本日朗読された箇所には、「そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった」とあります。「神殿奉献記念祭」とは、現在も、クリスマスの頃に祝われているユダヤ人の祭りです。この祭りの起源は紀元前2世紀前半に遡ります。当時、ユダヤは、シリアの属国で、迫害に苦しんでいました。シリアのアンティオコス・エピファネスという王が、ギリシア的な宗教を強要し、エルサレム神殿にゼウスの像を立てさせていたのです。更に律法を守ることも禁止し、割礼を受けること等を許しませんでした。ユダヤ人の信仰の中心である、神殿と、律法が、異邦人達の手によって荒らされていたのです。ユダヤの祭司達はこれに反抗し、礼拝の自由、ユダヤの独立を求めて闘争を展開し、紀元前164年にマカバイオスのユダが率いる軍勢が、エルサレム神殿を奪回しました。そして、神殿からギリシア的な神々の像を排除し、新しい祭壇を備えたのです。そのことを記念して祝うのがこの祭りです。口語訳聖書ではこの祭りが「宮きよめの祭り」と訳されていましたが、それは、エルサレム神殿から、異邦人の神々を追放したことによるのです。神殿とは、神が現臨する場所です。ユダヤ人達にとって、神殿は、神が共におられる確かなしるしであったに違い有りません。神殿が荒らされるということは、その確かなしるしが失われるということです。ですから、神殿が奪回され、宮きよめがなされたことは、ユダヤ人達にとって、神が導いて下さっているということを覚える、大きな喜びの経験となったことでしょう。その時以来、この事を覚え祝っているのです。そのような祭りが本日の箇所の背景です。この祭りの最中、主イエスは、エルサレム神殿の中にある「ソロモン回廊」を歩いていました。これは神殿の東側にあった回廊で、人々が集まって教えを聞くことが多い場所であったようです。人々はそこで、主イエスを見かけるや否や、周りを取り囲んだのです。そして、24節にあるように、「いつまで、わたしたちに気をもませるのか。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と問いつめたのです。

気をもませる
ここで、「気をもませる」と訳されている箇所には、「持ち上げる」という意味の言葉が用いられています。直訳すると「魂を持ち上げる」となります。持ち上げられると、宙づりにされたようになります。足が地面に付かず、しっかりと立つことが出来なくなります。ここでは、魂が宙づりにされて落ち着かない状態が見つめられているのです。この箇所を、次のように訳す聖書があります。「いつまでわれわれの魂を中途半端にしておかれるのか」。主イエスが、自分たちの魂を中途半端なままにしていると言うのです。中途半端にしておかれていると感じる原因は、「もしメシアなら、はっきり言いなさい」という要求にも現れているように、主イエスが、ご自身をメシアだと言わなかったからです。メシアとは、キリストをヘブル語で言ったもので救い主を意味しています。主イエスが御自分のことをキリスト、救い主であると言わなかったために、魂が中途半端になっているというのです。
この「気をもませる」「魂を持ち上げられる」状態というのは、私達も経験することではないでしょうか。キリスト者として生きるということは、ナザレのイエスが、キリストであるということを信じることです。主イエスこそ、私の救い主、キリストだと受け入れることです。しかし、そのことの確信が持てないことがあります。礼拝には、主イエスをまだ信じていないけれども、救いを求めて教会に来られている方々がいます。そのような方の中には、キリスト教について関心を持ち、そこにある救いを求めてはいるけれど、主イエスのことを救い主として受け入れることが出来ないでいる。もっと、はっきりと、主イエスがキリストだということを示してほしいと思う方がおられるかもしれません。確信を得ることが出来るような何かを示してほしいと思われることがあるでしょう。又、キリスト者として歩んでいる者でも、信仰生活を送っていく中で、主イエスこそキリストであるという信仰が揺らいでしまうことがあります。主イエスがキリストとして信じられなくなってしまう。そこで、何か、はっきりとした確信を得たいと思うこともあるでしょう。そのような時、私達は、ここでのユダヤ人たちのように、主イエスに、向かって「はっきりと言いなさい」と詰め寄っているのです。はっきりとした確信が得られない中で、自分を納得させる答えを求めて問いただしているのです。この世で歩む限り、私達は、この問いを繰り返しつつ歩んでいると言ってもいいかもしれません。

はっきりメシアと言いなさいv ユダヤ人達は、「もし、メシアなら、はっきりそう言いなさい」と言っています。「自分がキリストであるとはっきり言え」というのです。ヨハネによる福音書を読んでいますと、主イエスが、様々な言葉をもって、ご自身のことを示されたのが分かります。すぐ前の箇所では、主イエスは羊の譬えを語り、「わたしは良い羊飼いである」「わたしは門である」と言われています。他にも「わたしは道であり、命であり、真理である」「わたしは命のパンである」とも言われています。しかし、どれを取っても、比喩的で、間接的な表現です。主イエスは、このように言うことで、自分は神の下から来た救い主であると語っているのです。しかし、主イエスが直接的に「わたしはキリストである」と語られることはありませんでした。何故でしょうか、その理由の一つは、「キリスト」という言葉によって、人々が考えていたことが、主イエスが「キリスト」であると言う時の「キリスト」とはかけ離れていたからではないでしょうか。彼らが「キリスト」という時、それは丁度、マカバイオスのユダが、シリアの軍勢から、エルサレム神殿を奪回したように、武力的に民族を救ってくれる王のことでした。主イエスの時代、ユダヤ人達は、アンティオコスが統治するシリアよりも更に強大なローマ帝国の支配の中にあったのです。人々は、この神殿奉献記念祭の中で何を思っていたのでしょうか。おそらく、かつて、覆されることが不可能であるかに見えた、シリアの支配が覆され、神殿を取り戻した時のことを思い起こしていたのではないでしょうか。そして、マカバイオスのユダのような政治的な指導者が救い主として現れ、ローマの支配から救い出してくれることを待ち望んでいたのです。主イエスに対して「もしかしたら、マカバイオスのユダのような救い主、キリストかもしれない」とかすかな希望を持ったとも考えられます。主イエスがエルサレムに入城された時、人々は、棕櫚の葉をかざし、口々に「ホサナ」と言って迎えました。それは、マカバイオスのユダが神殿を奪回した時に人々が彼を迎えた時と同様の仕方であったようです。そのことからも人々が、どのようなキリストを求めていたのかが分かります。主イエスは、確かにキリストでありながら、この時、ユダヤ人たちが言う意味でのキリストではなかったのです。ですから、主イエスは、「わたしはキリストである」とは語らなかったのです。

主イエスを「私のキリスト」にしようとする。
私たちが「キリスト」という時、それが必ずしも真の救い主を意味しているとは限りません。主イエスをキリストであると告白する人は大勢います。しかし、そこで「キリスト」という時に、真の救い主が見つめられているとは限りません。人々が、「キリスト」という時に、自分の宗教的な願望や理想が思い描かれることが多いのです。主イエスは、ご自身がキリストであるとはっきり言われませんでした。主イエスに向かって「メシアならはっきり言いなさい」と詰め寄る人々に、自身がキリストであると語ることによって、主イエスは、実際のキリストとは異なるものとして受け入れられてしまうからです。ここで、人々の、まるで、自分が聞きたい答えを言わせようとする誘導尋問のように主イエスに詰め寄る態度の背後には、主イエスが、自分が求めているキリストであるかどうかをはっきりさせようという思いがあります。自分が、主イエスと対等な関係に立って、信じるべきキリストかどうかを判断しようとしているのです。主イエスが、自分が思い描くキリストであるならば、その人を救い主として選んで信じようという思いがあるのです。そこでは真のキリストが求められているのではなく、自分の思い描くキリスト像に主イエスを無理矢理合わせようとしているのです。自分の思いが先にあり、その自分の思いに主イエスを従わせようとしているのです。自分から、主イエスに詰め寄って「もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」と問いつめる時というのは、大抵、自分の心にあるキリストに、主イエスを結びつけようとしている時なのです。そして、もし、主イエスが自分の望む救い主と一致するのであれば、主イエスを自分のキリストとして選び取ろうとしているのです。しかし、そのような態度でいる限り、決して、主イエスがキリストであるということは示されることがないのです。示されないことの結果が、本日お読みした箇所のすぐ後31節に記されています。「ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた」とあります。自分でキリストを選ぼうとしていた人々は、結局、主イエスを殺そうとするようになるのです。自分の思い描く救いを成し遂げてくれるキリストを求める所では、それとは異なる救い主に対する殺意が生まれるのです。

わたしは言ったがあなたたちは信じない
ご自身を取り囲み、問いつめる人々に対する、主イエスの答えが25節に記されています。「わたしは言ったが、あなたたちは信じない。わたしが父の名によって行う業が、わたしについて証をしている。しかし、あなたがたは信じない」。もう既に、ご自身がキリストであるということは示されていると言うのです。直接、「わたしはキリストである」と語ったのではありません。しかし、主イエスが父なる神の名によって行ってきた業によって、そのことが証されているというのです。主イエスは、決して、人間の自分勝手な求めに応じて、ご自身を示すことはありません。しかし、その業によってご自身がキリストであることを示されているのです。大切なのは、私たちが、主イエスはキリストであるという確かさを新たに求めようとするのではなく、主イエスによって既に示されている業によって、この方がキリストだと信じるかどうかということなのです。わたしたちが、主イエスはキリストだと知らされるのは、私達が問いつめて、納得の行く答えを聞き出すことによってではなく、主イエスが、私たちに示しておられる業を知らされ、そのことから、この方こそ、真のキリストだと信じるとういことにおいてなのです。なぜなら、ここで「あなたがたは信じない」と繰り返し言われているように、「メシアだとはっきり言え」と問いつめる人々は、自分の思い描く救い主を求めているために、主イエスをキリストだとは信じることはないからです。

主イエスの選びによって
主イエスは、この人々が、「信じない」ということの理由を「わたしの羊ではないからである」と記します。主イエスを信じるかどうかは、主イエスの羊かどうかということにかかっていると言うのです。27節において「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける」と言われています。主イエスの声を聞き分ける者が、主イエスの羊なのだと言われているのではありません。もし主イエスの羊であれば、主イエスの声を聞き分けることが出来るが、羊でなければ、聞き分けることが出来ないと言われているのです。ここには、神の選びということが語られています。選ばれて、羊とされている者に信仰が与えられるのです。そのことは続けて、「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う」と言われていることからもはっきりします。この記述は、少し前に記されている14節を受けています。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」。14節では、羊飼いと羊がお互いを知っていることが語られています。しかし、27節においては、主イエスの方が羊を知っているということのみが見つめられています。私たちが主イエスを知るということよりも先に、主イエスが、私たちを知っていて下さるのです。信仰において、大切なのは、キリストの方が私たちを選んで、御自分の羊として下さり、その羊のことを知って下さるということなのです。私達が飼い主を知り、飼い主を選ぶのではなく、キリストが羊を選び、羊を知って下さるのです。
このようなことを聞くと、信仰というのは、「主イエスの羊」であるかどうかということであるならば、主イエスに選ばれ、その羊とされている者は、信仰を得て救われるのに対して、主イエスの羊とされていない者は、いくら努力しても救われないことになり、不公平だと思うかもしれません。又、まだ、受洗をされておらず、ためらっている方は、私は選ばれていないのだから、いくら求めても、周りの信仰を持っている人のように信じることが出来ないのだと思うかもしれません。しかし、神の選びとはそのようなことを言っているのではありません。他者と比較して、ある人は選ばれていて、ある人は選ばれていないということが見つめられているのではないのです。神の選びによって信仰が与えられるという時、それは、主イエスこそキリストであると知らされるのは、私たちの業にではなく神の恵みによってであると言っているのです。自分が納得し、自分で理解しようとして、主イエスに問いつめる時、私達は、自らの業として信じようとしているのです。神の選びとは、キリストを信じる信仰は、人間の業、人間の選択ではないと信じることなのです。

誰も彼らを私の手から奪うことは出来ない
もし、私たちが自分で判断して、飼い主を選ぶのであれば、いつでも、その飼い主から離れることが出来ます。しかし、羊飼いに選ばれているのであれば、私たちがどんなに不確かで中途半端な思いであったとしても、羊飼いの下で養われ続けることが出来るのです。この信仰が与えられる時、私たちは、主イエスが28節で語られている御言葉を、私たちへの確かな恵として受け止めることが出来るのです。「わたしは彼らに永遠の命を与える。だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」。主イエスが選び、主イエスが信じるものとして下さっている。そうであれば、誰も、私達を主イエスから奪うことが出来ないというのです。
ここでは、直前の箇所で語られていた羊の譬えにおける「盗人」や「強盗」が見つめられています。主イエス・キリストの救いから私達を引き離そうとするもののことです。私たちは、それらの力に翻弄されることがあります。しかし、だれも主イエスの手から私たちを奪うことは出来ないのです。たとえ、私達自身がこの方の下を離れようとしても、主がご自身の羊として下さっているということが覆されることはないのです。私たちが、主イエスをキリストと信じることが出来ず、主を捨てる時にも、十字架と復活によって、私たちの罪を赦して下さり、「わたしは彼らに永遠の命を与える」と言われているように、永遠の命を与えて下さるのです。
主イエスは、更に、「わたしの父がわたしにくださったものは、すべてのものより偉大であり、だれも父の手から奪うことはできない。わたしと父とは一つである」と言われています。ここで、主イエスの羊というのは、父なる神が主イエスに与えたものであると言われています。そして、主イエスの羊が、主イエスから奪い去られることがないのと同じように、父なる神からも奪い去ることが出来ないと言われているのです。主イエスの羊とされて歩むということは、神の選びによって、父なる神の手から奪われることがないという確かさの中で、歩むことなのです。

神の臨在を確かめようとする人間
私たちは、主イエスに詰め寄ってメシアであることをはっきりさせろと迫ることがあります。自分で主イエスが救い主だと言う確信を持とうとするのです。しかし、そこで起こることは、自分が思い描くキリストに主イエスを当てはめようとするのです。そして、自分でキリストを選び取ろうとしているのです。しかし私達が、そのように主イエスに迫りつつ、救い主を求めたとしても、そこで真の救いは与えられません。そのような求めは、無駄な努力に終わることでしょう。そればかりか、主イエスに石を投げるということになるでしょう。
私たちは、私たちの自分の救い主を求めようとする営みの中で、主イエスがなしておられる神の御業を目を向けるのです。私たちにとっての主イエスの業というのは、十字架と復活です。主イエスを自分の思いに従わせようとする中で、結局主イエスを殺してしまう者の罪を贖うために、自ら十字架にかかり、そこから復活されることによって、死に勝利されている。そのことによって私たちの罪を赦し、永遠の命を与えて下さるのです。
ユダヤ人たちは、主の神殿を建てることで神がおられると信じました。又、律法によって自らの行いを整えることによって、神様に救われているということを主張しました。しかし、救いの確かさは、神殿にあるのでも、人間の正しい行いにあるのでもありません。ただ神が、私たちを選んで下さり、主イエスの十字架と復活によって私たちの罪を赦し、その御業を信じる者として下さることによって、私たちは、永遠の命が与えて下さるのです。主が選んで下さる故に、主なる神と、主イエスから、だれも私たちを奪うことは出来ないのです。そこに、私達の信仰の確かさ、救いの確かさがあります。

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