主日礼拝

キリストを身にまとって

「キリストを身にまとって」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第42編2-7a節
・ 新約聖書:ローマの信徒へ手紙 第13章11-14節
・ 讃美歌:301、474、509

品位ある生き方が求められている
 ローマの信徒への手紙第13章13節に「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか」と語られています。この手紙を書いた使徒パウロは教会の人々、キリストを信じて生きている信仰者たちに、キリストによる救いにあずかって生きている者としての品位を持ちなさい、と語りかけているのです。それは私たちへの勧めでもあります。キリストを信じる者としての品位ある生き方を身に着けることが私たちにも求められているのです。それはどのような生き方なのでしょうか。キリスト信者として持つべき品位とはどのようなものなのでしょうか。
 しかしこの品位という言葉は気を付けて使う必要があります。ある国語辞典で「品位」を引いたところこのように語られていました。「身だしなみや言葉つき、態度のりっぱさや姿の美しさなどから総合的にくみ取られる、育ちの良さや社会的ランクの高さ」。品位という言葉にはこういうイメージがあります。つまりそれは「育ちの良さや社会的ランクの高さ」、それに伴う上品さや洗練された様子と結びついている面があるのです。しかしキリストを信じて生きる者の品位を「育ちの良さや社会的ランクの高さ」と結びつけてはなりません。そのようなことをしてしまうと、この品位は、この世において人間どうしの間に存在する色々な意味での上下関係、ランクづけに巻き込まれていき、その結果、この品位をめぐってキリスト信者がお互いを比べ合い、優越感や劣等感を感じたり、裁き合ったりすることが起ります。パウロがキリスト信者としての品位を持ちなさいと言っているのは、上品で洗練された振舞いをしなさいということではありません。この「品位」という言葉は、「相応しい振舞い」という意味です。それは社会的地位に相応しい振舞いということではなくて、主イエス・キリストによる救い恵みに相応しい振舞いです。神の子であられる主イエス・キリストが私たちのために十字架にかかって死んで下さったことによって神が与えて下さった罪の赦しという救いの恵みに相応しい振舞いをすること、それがキリスト信者が身に着けるべき品位なのです。それはどのような振舞いなのか、本日はそのことをこの箇所から示されたいのです。

酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ
 13節の後半においてパウロは「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て」と言っています。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」、こういうことがキリスト信者としての品位を失わせるのであって、それらを捨て去ることを求めているのです。非常に具体的なことが示されていて分かりやすいのですが、しかしこの勧めを表面的にのみ捉えてしまうと、結局先程言ったこの品位を「上品で洗練された振舞い」と捉えるのと同じことになってしまいます。つまり例えば「酒宴と酩酊」について、それは酒を飲んで騒ぐことだ、だからクリスチャンは酒を飲んではいけない、宴会の席に加わってはならない、そういうことを避けることがクリスチャンとしての品位だ、ということとしてこれを理解してしまうと、そこには、酒を飲んだりする人はクリスチャンとしての品位に欠ける、自分はそんなことをしないから品位を保っている、と人を裁き批判するようなことが起ります。それは、自分の上品さを誇り、他の人を下品だと蔑むのと同じことです。キリスト信者としての品位が、自分を誇り、人を裁き見下すための手段になってしまうのです。「淫乱と好色」も同じです。その言葉によって言い表されている乱れた性的な関係は確かに罪ですが、この言葉を、そういう罪に陥っている人を、そうでない人が「あの人はクリスチャンとしての品位がない」と裁くために用いてしまうなら、それはやはり上品な人が下品な人を馬鹿にしているのと同じです。そのように自分と人との品位を比べようとするなら、次の「争いとねたみ」においてこそそれをすべきでしょう。ねたみの思いを抱き、それによる憎しみや争いに陥ることはクリスチャンとしての品位に欠けることなのです。しかしそういう思いを抱くことがない人などいないでしょう。「酒宴と酩酊」や「淫乱と好色」においては、自分はそんな生活はしていないから品位を保っている、それに比べてあの人は品位がない、と人を裁くことができたとしても、「争いとねたみ」においては、自分だって品位がない者だということを認めざるを得ないのが私たちなのではないでしょうか。

夜は更け、日は近づいた
 パウロがキリスト信者の品位ということを語ったのは、このように私たちがお互いの品位を比べ合って裁き合うためではありません。12節で彼は「夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」と言いました。それに続いて「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか」と言っているのです。つまり、「品位をもって歩む」というのは、「夜は更け、日は近づいた」ということを弁えて、日の光の中を歩むように生きることです。日の光の中を歩むように生きるとは、闇の中にいる者としての行いを脱ぎ捨てて生きることです。その「闇の行い」の代表として、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」が挙げられているのです。ですからそこでパウロが根本的に問うているのは、あなたは闇の中にいる者として歩んでいるのか、それとも、「夜は更け、日は近づいた」ことを弁えて、日の光の中にいる者として歩んでいるのか、ということです。そこに、品位ある歩みとそうでない歩みの分かれ目があるのです。
 夜は更け、日は近づいた。このことを弁えて生きることが、キリストを信じる信仰者の品位ある生き方です。パウロはそのことを11節で、「あなたがたは今がどんな時であるかを知っています」と言い表しています。キリストを信じて生きている者は、今のこの時がどんな時なのかを知っている。今は、「夜は更け、日は近づいた」という時なのだ。そのことを弁えて生きるところに、キリスト信者としての品位ある歩みが生まれるのです。

主イエス・キリストによる救いが既に与えられている
 「夜は更け、日は近づいた」ということを意識して生きる。それは第一には、今は真夜中だ、ということを知っているということです。夜の深い闇が私たちを包んでおり、夜明けのほんの僅かな兆候すらまだ見えていない、それが現在の目に見える現実なのです。この世界も、私たちの人生も、人間の罪の深い闇の中にあるのです。「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」は、特別にけしからん連中の話ではなくて、私たち一人ひとりの現実なのです。だからこれは、こんな汚らわしいことをする人にならずに品位を保とう、ということのためではなくて、自分自身がこういう闇の行いに深く捕えられていることを私たちが自覚するために語られているのです。しかしその深い暗闇の中でキリスト信者は、日は近づいている、夜明けは確実に近づいている、ということを知っています。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいている」ことを知っているのです。何故そのように言うことができるのか。それはひとえに、神の独り子主イエス・キリストが既に私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったからです。キリスト信者は、主イエスの十字架の死によって、自分の深い罪が既に赦されていることを知っているのです。その救いは、私たちが「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」を捨てて清く正しい者となったことによって実現したのではありません。神がその憐れみによって独り子イエス・キリストを人間としてこの世に遣わして下さり、主イエスが私たちの罪を全てご自分の身に背負って、私たちの身代わりとなって十字架にかかって死んで下さったことによって、つまりただ神の恵みによって、私たちは罪を赦され、救いにあずかったのです。洗礼を受け、主イエス・キリストと結び合わされたキリスト信者は、神によるこの救いの恵みをいただいて生きているのです。さらに父なる神は主イエスを死者の中から復活させ、永遠の命を生きる者として下さいました。それによって神は、私たちも将来、世の終わりの時に、主イエスの復活にあずかって、永遠の命を生きる新しい体へと復活すると約束して下さったのです。キリストを信じ、洗礼によってキリストと結び合わされた信仰者は、自分たちの罪による深い闇の中で、しかし主イエスによる救いの恵みを既に与えられている者として、その救いが完成する夜明けを待ち望みながら生きているのです。

日中を歩むように生きるとは
 「夜は更け、日は近づいた」ということを意識して生きるとはそういうことです。キリスト信者は、真夜中の暗闇の中にありながら、既に夜明けが来たかのように、日中を歩むように生きるのです。その信仰者の生き方が、この手紙の12章からのところに語られてきました。12章1節に、「こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」とありました。「神の憐れみによってあなたがたに勧めます」というのは、あなたがたは神の憐れみを既に受けているのだから、ということです。神の憐れみによって、主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しと、永遠の命の約束が既に与えられているのです。神の憐れみによるこの救いに既にあずかっているのだから、私たちは、自分の体を神にお献げして生きるのです。憐れみによって救いを与えて下さった神に自分を献げ、委ねて、神こそが自分の主人であると告白するのです。それが私たちの礼拝です。私たちは今こうして神を礼拝することによって、自分の体を神に喜ばれる生けるいけにえとして献げているのです。そしてそこには、12章2節に語られているような歩みが与えられていきます。そこには「あなたがたはこの世に倣ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい」とあります。「この世に倣ってはなりません」というのは、この世に埋没して、この世と同じ形になってしまってはならない、ということです。この世は夜の闇に支配されています。私たちは闇しか見えない現実の中で、その闇に相応しく歩んでしまうことによって闇に埋没してしまうのです。しかしその闇の中で主イエス・キリストが実現して下さった救いを信じ、その光を見つめて歩むところには、罪の闇に埋没してしまうことなく、闇の行いを捨てて日の光の中を歩む新しい生き方が実現していくのです。その新しい生き方は、「心を新たにして自分を変えていただ」くことによって与えられていきます。聖霊なる神が私たちの心を新しくし、造り変えて下さり、罪の闇の中で、既に日の光の中にいる者として生きる者として下さるのです。その聖霊によって与えられる新しい生き方において私たちは、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるように」なります。闇に支配されているこの世の感覚や常識に捕われ、埋没して生きていた私たちが、聖霊によって心を新たにされ、変えられて、神のみ心は何か、神がお喜びになることは何なのかをわきまえて生きる者となるのです。それが「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着け」ることです。そこに、キリスト信者としての品位ある歩みが与えられていくのです。

偽りのない愛に生きる
 「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえ」て生きる、その品位ある生き方が12章9節以下に様々な具体的な勧めとして示されていました。その土台は9節の「愛には偽りがあってはなりません」ということです。偽りのない、真実な愛に生きること、それこそがキリスト信者としての品位ある歩みの根本なのです。その「偽りのない愛」に生きるとはどのようなことかが10節以下でさらに具体的に語られていました。「兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」。愛に生きるとは、具体的な兄弟を愛して生きることです。そして兄弟を愛するとは、尊敬をもって相手を優れた者と思うことです。相手の罪や弱さや欠点ばかりを見て批判し、裁くのでなく、相手の優れたところを尊敬する思いをもって他の人との関係を築いていく、そのようにして兄弟となり、兄弟愛に生きていくことこそが、キリスト信者としての品位ある歩みなのです。12章11、12節には「怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい」とありました。これも、罪の暗闇の中で、主イエス・キリストの十字架と復活によって与えられた救いの光をしっかりと見つめ、その光の下に留まりながら、夜明けを信じて希望をもって待ち望みつつ生きることの勧めです。怠らず励み、霊に燃え、主に仕え、希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈る。このような生き方こそ、キリストの救いにあずかった者に相応しい品位ある歩みなのです。

善をもって悪に勝つ
 12章14節には「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」とありました。17節にも「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」とあり、19節にも「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」とあり、それらをまとめて21節に「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」と語られていました。悪に対して怒りをもって復讐するのでなく、そのことを神に委ね、善をもって悪に打ち勝っていくような歩み、それこそが、「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえ」て生きることであり、キリスト信者としての品位ある生き方なのです。

死の彼方を見つめて生きる
 本日の箇所の最後の14節の後半には、「欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」とあります。「肉に心を用いる」ことがキリスト信者としての品位を失わせる、とパウロは語っているのです。「肉に心を用いる」とはどのようなことなのでしょうか。この「心」と訳されている言葉の元の意味は「前もって知る、先のことを予知する」ということです。それを生かしてここを訳すならば、「先のことを予知することを肉に対して用いるな」となります。私たちは、先のことを予知しながら生きています。「こうすればこうなるだろう、ああすればああなるだろう、だからこうしよう」といつも考えて生活しているのです。そういう予知を的確にして歩むことを「先見の明がある」と言うわけです。私たちはそのようにこれから先のことを見つめながら、それにしっかり備えていこうとしています。例えば、大地震が起った時のために、避難経路を確認したり、備蓄をしたり、ということです。問題は、私たちがそのような先を見てそれに備える思いを、肉のことにのみ用いているのではないか、ということです。肉のことというのは、まさに自分の肉体のこと、健康のこと、老後の生活のことであり、さらにはこの世の人生における豊かさ、充実感、喜びのことです。健康のために配慮するとか、老後の生活に備えるとか、豊かさや充実を得るためにいろいろな計画を立てる、というようにこの世の人生における欲望を満たそうとして心を用い、先のことを一生懸命考えているのが私たちです。しかしパウロはここで、そのようにこの世の人生のことばかりに心を用いることによって、キリスト信者としての品位が失われるのだ、と言っているのです。あの「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」は、心がこの世の人生における楽しみ、欲望のみを求めており、また他の人が自分より良いものを持っていることをねたみ、それによって争いが生じるということです。私たちの生き方から品位を失わせるこれらのことは、私たちが肉にのみ心を用い、この世のことにおいてのみ先を見て歩もうとしていることから生じるのです。しかしキリストを信じる信仰によって私たちは、この世のこと、この世における人生のみを見つめるのではなくて、もっと先までを見つめる目を与えられているはずです。主イエス・キリストの十字架と復活による救いにあずかった私たちは、自分の肉体の死のさらに先に、主イエスの復活によって神が約束して下さっている復活と永遠の命が与えられることを見つめて生きているのです。信仰によって、私たちの人生を見つめる視野は、肉体の死の先にまで大きく広げられています。死を超えた先に約束されている復活と永遠の命を見つめるという広い視野を持ってこの世を生きるところに、キリストを信じる者の新しい生き方の土台があるのです。先ほど12章の様々な勧めを通して見つめたキリスト信者としての品位ある生き方は、この土台によってこそ支えられているのです。

キリストを身にまとって
 パウロはここで信仰者たちに、キリストを信じる者としての品位ある生き方を身に着けることを求めています。そのためには、「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみ」に代表されるような「闇の行い」を脱ぎ捨てなければなりません。しかし最初の方で申しましたように、このことは、自分はこれらのことを脱ぎ捨てて品位ある生き方をしていると誇り、「あの人は信仰者としての品位が足りない」と人を裁くようなこととは違います。そこではキリスト信者の品位は「育ちの良さや上品さ」と同列のものになり、この世における人間どうしのランクづけの中に取り込まれてしまうのです。闇の行いを自分の力で脱ぎ捨てることができると考えているとそういうことが起るのです。しかしここでは、闇の行いを脱ぎ捨てると共に、「光の武具を身に着けましょう」と勧められています。闇の行いを脱ぎ捨てることは光の武具を身に着けることと一つなのです。同じことが「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといなさい」においても語られています。私たちが身に着けるべき光の武具とは主イエス・キリストです。主イエス・キリストを身にまとうことによってこそ、キリスト信者としての品位ある歩みが私たちに実現するのです。主イエス・キリストという光の武具は、それを身に着けることによって強くなって人を批判したり攻撃できる、というものではありません。主イエス・キリストはまさに、12章で語られていた偽りのない愛に生きて下さった方です。罪人であり、神に敵対している私たちを愛して、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さった方です。私たちの悪に対して悪をもって復讐することなく、むしろその悪による苦しみをご自分の身に引き受けて、善をもって私たちの悪に打ち勝って下さった方です。このキリストを身にまとうことによって、キリストと結び合わされ、一つとされて生きることによって、私たちの生き方は新しくされるのです。
 キリストを身にまとうことは、コートを着たり脱いだりするように出来ることではありません。それは神が、聖霊のお働きによって私たちに起こして下さるみ業です。だから私たちは、神にそれを祈り求めていくしかありません。聖霊が私たちに注がれ、キリストを身にまとって生きる者として下さるように祈りましょう。罪の闇に支配されて本当に愛することができなくなっている私たちの心が新たにされ、造り変えられて、何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえて生きることができるように、偽りのない愛をもって互いに愛し合う、品位ある者として生きることができるように、聖霊のお働きを祈り求めていきたいのです。

関連記事

TOP