主日礼拝

積極的に生きる

説教題「積極的に生きる」 牧師 藤掛順一

レビ記 第19章18節
マタイによる福音書 第7章12節

「だから」の意味?
「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」。これが今日私たちに与えられている主イエス・キリストのみ言葉です。この教えは「黄金律」とも呼ばれていて、聖書を代表する教えとされています。それを本日私たちは味わうのですが、12節の冒頭には「だから」とあります。ということは、この教えの根拠がその前のところに語られているということです。先週読んだ7~11節がその根拠なのでしょうか。そこには、「求めなさい。そうすれば与えられる」ということが語られていて、その最後の11節は、「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」でした。これが12節の教えの根拠なのでしょうか。しかし、天の父なる神が、求める者に良い物を下さる、ということと、人にしてもらいたいと思うことをあなたがたも人にしなさい、という教えはすんなりとはつながりません。この「だから」の意味はそう明確ではないのです。

「山上の説教」の構造
このことは実は、今読んでいる「山上の説教」全体の構造と関係しています。これまでにも何度か、山上の説教にはかなり周到に考えられた構造がある、ということをお話ししてきました。それは、中心部分があって、その前後がある対応関係をもってそれを包み込んでいる、さらにその前後に、それを包み込んでいる部分がある、という構造です。何重にも包み込まれているその構造の中心にあるもの、つまり山上の説教全体の核となっているのは、6章9〜16節の「主の祈り」です。主の祈りを含んで「施し、祈り、断食」について教えられている6章1〜18節が山上の説教の中心部分なのです。そこには、人に見てもらおうとしてではなく、天の父である神のまなざしの前で生きることが教えられていました。この中心部分を包み込んでいるのが、5章21〜48節と、6章19〜7章11節です。以前にお話ししたのですが、この二つの部分は長さが同じであり、その内容は、主イエスを信じてその弟子として歩む者に与えられる新しい生き方です。そしてこの部分をさらに前後から包み込んでいるのが、5章17〜20節と、本日の7章12節なのです。5章17〜20節と7章12節は繋がっています。5章17節以下に語られていたのは、主イエスが来られたのは、旧約聖書の律法や預言者の教えを廃止するのではなく完成するためであり、あなたがたの義が、律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ天の国に入ることはできない、ということでした。つまり主イエスは律法や預言者の教えを完成させようとしておられるのだということが語られていたのです。本日の7章12節には、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という教えが語られ、そして「これこそ律法と預言者である」とあります。つまり、律法と預言者の教えを完成させる主イエスの教えを一言でまとめるならば、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という教えになる、ということをこの12節は示しているのです。
ですから12節冒頭の「だから」は、11節のみを受けているのではなくて、5章21節以下に語られてきたことの全体を受けているのです。山上の説教の中心部分において主イエスが語って来られたこと、つまり、律法や預言者の教えを完成する新しい生き方の全てを受けて、それをまとめるように、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と言われているのです。ですからこの12節は山上の説教のいろいろな教えの中の一つではなくて、その全体を代表する教えなのです。そういう意味でこれは「黄金律」と呼ばれるのに相応しい教えなのです。

世界共通の教え?
しかしこの教えが「黄金律」と呼ばれているのは、特定の信仰を前提としなくても、全ての人々に通用する普遍的な教えだと思われているからでもあります。クリスチャンでなくても、この教えはその通りだと思うのです。日本の格言にも、「汝の欲せざるところを人に施すことなかれ」というのがあります。世界の各地に、同じような教えがあるのです。まさにこれは、人種や宗教を超えた世界共通の教えである。そういう意味で「黄金律」と呼ばれているのです。
消極的な教えと積極的な教え
しばしば指摘されており、私もそのようにお話ししたことがあるのですが、日本に伝えられている「汝の欲せざるところを人に施すことなかれ」と、主イエスの「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という教えとでは、語り方が違います。前者は、人からされていやなことは人にもするな、という否定的、消極的な教えですが、主イエスの教えは、人にしてもらいたいことを人に対してしなさい、という肯定的、積極的な教えなのです。一言で言えば、「悪いことをするな」と「良いことをせよ」という違いです。それは結局は同じことですが、後ろ向きか前向きか、消極的か積極的か、という違いがあります。その点で、主イエスの教えはより前向きな、積極的な教えだと言えます。主イエスはこのように、前向きに、積極的に生きることを教えておられる、そこに主イエスの教えの優れた点がある、と言えるかもしれません。
けれども、事はそんなに簡単ではありません。前向きに、積極的に、良いことをしなさい、という教えの方が、悪いことをしないように、という教えよりも優れており、より人々の幸せにつながる、と私たちは思いがちですが、実際には必ずしもそうではないのではないでしょうか。良いことをしよう、という善意によってなされることによって周りがかえって迷惑を受ける、ということがあります。本人は親切のつもりでも、独りよがりな善意なので、受ける人には有難迷惑になる、ということがあるのです。そういうことは個人と個人の間だけでなく、国と国との間、国際政治のおいても起こります。正義の名による介入が一方的な正義の押し付けになり、かえって悲惨な事態を生む、ということは歴史において繰り返されています。戦争はたいていそうやって起るのです。そのように、積極的に良いことをしようとすることが必ずしも良い結果を生まないことも多々あります。それは、私たち人間は、良いことをしようとする時にこそ、最も罪を犯すからです。これが良いことだと思い込み、自分の思いを人に押し付けてしまうのです。本人は良いことをしているつもりなので、それが相手を苦しめていることになかなか気づきません。そういう迷惑をこうむると、良いことはしなくていいから、悪いこと、迷惑をかけることだけはしないで欲しいと思ったりします。つまり、「人からされていやなことは人にもするな」という消極的な教えの方が、人間の現実に即した有効な教えなのかもしれないのです。人に対して良いことをするより前に、先ずは、自分がされていやなことは人にもしない、ということこそが大切なのではないでしょうか。それこそが、戦争をやめさせ、またそれが起こるのを防ぐことになるのではないでしょうか。

「人にしてもらいたい」時とは?
しかしここでの問題は、良いことをしようとすることと、悪いことをしないようにすることのどちらがよいか、ということではありません。主イエスが言っておられるのは、良いことをしようと積極的に生きる方が、悪いことをしないようにという消極的な生き方よりもよい、ということではありません。この教えにおいて見つめるべきなのは全く別のことです。「人にしてもらいたいと思うことは何でも」と主イエスはおっしゃいました。私たちが人に何かをしてもらいたいと思うというのはどういう時でしょうか。それは、自分が何かで困っている時、悲しんでいる時、苦しんでいる時でしょう。そういう時に私たちは、あの人がああしてくれたらいいのに、この人にこうして欲しい、と思うのです。そしてそういう時に私たちがしばしば体験するのは、周りの人たちが、自分が本当に願っていることをしてくれない、こうしてくれたら、という願いが通じない、自分の期待通りに人が動いてくれない、ということです。その時私たちは不満を覚えます。いらだちます。そして、自分の苦しみはその人が助けてくれないからだ、とその人を恨んだりするのです。そのようにして、苦しみ悲しみ嘆きがより大きくなっていくのです。「人にしてもらいたいと思う」というのは、自分がそういう苦しみ悲しみ嘆きに陥るということだと考えるべきでしょう。つまりこの教えは決して抽象的な一般論として、人に親切にしましょう、と言っているのではありません。むしろこれは、私たちが苦しみ悲しみ嘆きの中でどのように生きるか、ということを見つめている教えなのです。

驚くべき教え
人にしてもらいたい、助けてもらいたい、そういう苦しみ悲しみ嘆きを抱えている時に、主イエスは私たちにどのように生きることを教えておられるのでしょうか。人が手を差し伸べて、自分のして欲しいことをしてくれて、助けてくれたなら、自分も同じことを人に対してしなさい、と言っておられるのでしょうか。そうではありません。人がそれをしてくれたならそのお返しに、ということはどこにも語られていないのです。語られているのは、自分がして欲しいと思ったら、そのことを何でも人にしなさい、ということです。人がしてくれるかくれないかは関係がないのです。いやむしろ、人が自分の願うこと、して欲しいことをしてくれない、助けてくれない、そういう現実の中で、それなら自分も人に何もするものか、人を助けたりするものか、自分のことだけ考えて生きていくんだ、というふうにならないで、そこでなお、自分がして欲しいと思うことを人にしていく、人からは与えられなかった助け、慰め、励ましを自分は人に与えていく、そういうことを主イエスは私たちに求めておられるのです。だとするとこれは、自分がされたら嬉しいと思う親切をいつも人にするように心がけなさいという、誰もがその通りだと思う普遍的な、言い換えれば常識的な教えではありません。また、下手をすれば余計なお節介を生み、有難迷惑になるような教えでもありません。私たちの薄っぺらい善意ではとうてい追いつかない、決して当たり前でも常識的でもない、むしろ驚くべきことを主イエスは語っておられるのです。
この教えを「黄金律」と呼ぶことは、この教えのそういう本当の意味を見失わせてしまうと思います。この教えの意味を深く理解するなら、私たちはそれを、誰もが尊ぶ黄金の教えとは言えないでしょう。これが黄金の教えだとしたらそれは、ずっしりと重くて簡単には持ち上げられない、という意味なのかもしれません。
敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい
苦しみ悲しみ嘆きの中で、人からして欲しいと願うことを、たとえ人がそれをしてくれなくても、人に対してしていく、それは全く常識的ではない、驚くべき教えです。しかし、主イエスがこれまでこの山上の説教で語ってこられたことは全てそういうことだったのではないでしょうか。5章21節以下で、「律法にはこう命じられている、しかしわたしは言っておく」という形で語られた教えはどれも皆そうでした。「右の頬を打たれたら左の頬をも向けなさい」と主イエスは言われました。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」と言われました。これらの教えは、この12節と同じことを言っているのではないでしょうか。苦しみの中で、助けて欲しいと思っても人が助けてくれない時に、私たちはその人を恨み、この苦しみはその人のせいだと思ってしまいます。つまりその人が自分の敵になるのです。しかしその敵を憎んで生きるのではなくて、むしろ敵を愛し、敵のためにも、自分が求めているものを与えてくれないその人のためにも祈ることが求められているのです。つまり「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にする」ためには、「敵を愛し、迫害する者のために祈る」必要があるのです。主イエスはこれまでにもそういうことを教えて来られたのです。それらの教えのまとめとしてこの12節が語られているのです。「敵を愛しなさい」というまことに非常識な、驚くべき教えが語られて来た、そのまとめが、「人に親切にしなさい」というごく常識的な教えで済むはずはありません。12節が山上の説教のまとめであるならば、そこにはこれらの、私たちの常識を超えた主イエスの教えが全て込められているのです。
そしてこれらの主イエスの教えにこそ、本当の意味で積極的に生きるとはどういうことなのかが示されているのです。本当に積極的に生きるとは、悪いことをしないようにするだけでなく、前向きに良いことをしようとすることではありません。それは先ほど見たように大した違いではないし、むしろそういう善意の中で人間の罪がより大きく表れることも多いのです。本当に積極的に生きるとは、人が親切にしてくれない、助けてくれないところでも、恨みや怒りに生きるのではなく、人を助け、親切にし、敵をも愛し、自分を迫害する者のために祈ることなのです。

倫理道徳の教えではない
私たちはこの、全く常識的でない、驚くべき積極的な教えをどのように受け止めたらよいのでしょうか。これを倫理道徳の教えとして、努力目標として掲げても何にもなりません。「人からしてもらいたいと思う親切を人にもしましょう」という抽象的な教えを努力目標としたところで、私たちの現実は何も変わらないでしょう。しかしこの教えは、苦しみ悲しみ嘆きの中で、人からして欲しいと思うことをたとえ人がしてくれなくても、自分は人に対してそれをしていく、ということです。これは私たちの努力で実現できることをはるかに超えています。主イエスは倫理道徳の教えとしてこれを語られたのではないのです。

天の父の子として生きるため
それではこの教えは何のために語られたのか。それは私たちが、主イエスと共に生きることを通して、天の父なる神の下で生きるためです。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」という5章44節の教えも、その後に「あなたがたの天の父の子となるためである」と言われていました。敵を愛し、敵のためにも祈る者となるというのは、立派な聖人君子になることではなくて、天の父なる神の子となることなのです。天の父なる神が、私たちを子として愛していて下さり、養い、守り、導いていて下さる、その父の愛と守りと導きのもとに子として生きていくところに、敵への憎しみ、自分を迫害する者への復讐の思いから解放された新しい生き方、敵をも愛することができる生き方が与えられていくのです。「人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にしていく」というのもそれと同じように、天の父なる神の恵みの下で生きるところにこそ与えられていくことです。そういう意味で、12節は11節と繋がっていると言うことができます。「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」このことを受けて、「だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」と教えられているのです。この「だから」の意味は明確でないと最初に申しました。12節を、常識的な、人にして欲しい親切を人にしなさい、という道徳的教えとして読むなら、この「だから」はつながりません。しかし、天の父なる神が、私たちに必ず必要なもの、良いものを与えて、守り導き養って下さることを信じ、その父なる神の子として生きるなら、私たちは、苦しみ悲しみの中で、人にして欲しいと思うことを人がしてくれなくても、なおそこで、それを人に対してしていくという本当の意味で積極的な生き方をすることができるのです。

本当に積極的な生き方
それは主イエス・キリストが私たちのためにして下さったことです。主イエスは人となられた神の独り子であられました。その主イエスを喜んで迎え、尊び、従っていくことが人間の本来なすべきことです。しかし人々は、主イエスを尊敬せず、服従せず、むしろ十字架の死へと追いやったのです。二千年前の人々がそうだったというだけではありません。私たちも同じように、主イエスを無視し、そのみ言葉を真剣に聞こうとせず、自分の思いや願いばかりを追い求めて生きています。私たちも、主イエスを十字架の死へと追いやっている者なのです。しかし主イエスはその私たちのために、私たちの罪を引き受けて苦しみを受け、死んで下さいました。私たちが主イエスをないがしろにして、捨ててしまう、その苦しみの中で、敵である私たちを愛し抜いてくださったのです。この主イエスの、敵をも愛する愛によって、神は私たちを子として下さり、私たちの天の父となって下さいました。私たちは主イエスに対して、なすべきことをしなかったのに、主イエスが私たちのために全ての恵みのみ業をして下さったことによって、私たちは、天の父なる神の愛と恵みの下で生きる者となることができたのです。この天の父なる神の恵みの中でこそ、私たちは、「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい」という教えに生きる者となることができます。本当の意味で積極的に生きる者となることができるのです。5章21節から7章11節に至る、山上の説教の中心部分に教えられているのは、この、天の父なる神の下での本当に積極的な生き方です。その核となっているのは「主の祈り」です。「天におられるわたしたちの父よ」と神に呼びかけ、祈る、その神との交わりの中でこそ私たちは、「人にしてもらいたいこと思うことを何でも、人にしていく」ことができるのです。「我らに罪を犯す者を我らが赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」と祈っていく中でこそ、敵を愛し、迫害する者のために祈ることができるのです。主の祈りを祈りつつ、主イエス・キリストによって天の父となって下さった神の下で生きていくことによって、私たちは、自分自身を愛するように隣人を愛し、人にしてもらいたいと思うことは何でも、人にしていくという、本当に積極的な生き方を学んでいくことができるのです。

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