主日礼拝

主イエスの恵みによって

「主イエスの恵みによって」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; イザヤ書、第56章 1節-8節
・ 新約聖書; 使徒言行録、第15章 1節-21節
・ 讃美歌 ; 18、321、458
・ 聖餐式 ; 76

 
使徒言行録の分水嶺
 使徒言行録第15章は、使徒言行録を一つの山にたとえるなら、その峠に当たるような、あるいは分水嶺とでも言えるような所であると言われています。使徒言行録を前半と後半の二つに分けるならば、ちょうどここが境い目となると言うことができるのです。そのことを具体的に示しているのは、この15章を最後に、主イエスの一番弟子であり、初代教会の中心的指導者だったペトロが姿を消す、ということです。そしてこのあとは、もっぱらパウロの伝道のことが語られていくのです。使徒言行録はおおまかに言って、前半はペトロらを中心とするエルサレムにおける最初の教会の誕生とその歩みのこと、そして後半はパウロによる異邦人伝道のことを語っています。その前半と後半の境い目がここにあるのです。もっともパウロのことは、既に第7章から、彼がまだ教会を迫害する者であった頃のことから語られてきました。その彼が劇的な回心によってキリスト信者となり、さらには伝道者となったこと、そしてアンティオキア教会から遣わされて行なったいわゆる第一回伝道旅行のことを私たちは既に読んできました。そういう意味ではパウロの伝道の話はもう始まっており、この15章も、その一環であると言うこともできます。けれどもペトロがここを最後に姿を消すことは象徴的です。その点から、この15章を前半と後半の境い目とすることができるのです。
 しかしそれは、ペトロからパウロへの主要登場人物の交替のみによることではありません。ここには、初代の教会において行われた一つの会議のことが語られています。これを小見出しにありますように「エルサレムの使徒会議」、あるいは単に「エルサレム会議」と言います。紀元48、49年ごろに行なわれたと思われるこの会議は、生まれたばかりの教会における大変大事な出来事でした。ある意味でこの会議が、キリスト教会のその後の歴史に決定的な影響を与えたと言うこともできるのです。それゆえに、この会議をもって、使徒言行録の後半の始まりとすることができるのです。

アンティオキア教会
 このエルサレム会議が行われることになった経緯が1、2節に語られています。舞台はアンティオキアの教会です。この教会が生まれた事情は11章19節以下に語られていました。ステファノの殉教をきっかけにして起った迫害によって、エルサレムを追われた人々が、シリア州の州都であるこの町で伝道してこの教会が生まれたのです。この時エルサレムを追われた人々は、ギリシャ語を話すユダヤ人たちでした。つまり、外地で生まれ育ち、当時のギリシャ、ローマの文化や人々との接触が多かったユダヤ人たちです。その人々が、当時ローマとアレクサンドリアに次ぐローマ帝国第三のマンモス都市であり、様々な国の人々が住んでいる国際都市だったこのアンティオキアで、ユダヤ人以外の人々、つまり異邦人たちにも主イエス・キリストの福音を宣べ伝えていくようになったのは自然なことです。そのようにしてこの教会は、異邦人を主たるメンバーとする最初の教会となったのです。このアンティオキア教会に、エルサレム教会から派遣されて指導者となったのがバルナバであり、バルナバの抜擢によって迎えられたのがパウロです。バルナバとパウロがこの教会の中心的指導者となり、そして彼らがこの教会から派遣されていわゆる第一回伝道旅行を行い、キプロス島や小アジア地方に伝道をして、各地に信者の群れ、教会を生み出しました。それらの教会も、異邦人を中心とする群れです。そのようにしてアンティオキア教会は、異邦人伝道の根拠地として成長してきたのです。

ユダヤ人にならなければ?
 そのアンティオキア教会に、ある人々がユダヤから下って来た、と1節にあります。ユダヤから、とは具体的にはエルサレムから、ということです。エルサレムの、ユダヤ人たちの教会からアンティオキア教会にやって来た人々がいたのです。その人々は、「モーセの慣習に従って割礼を受けなければ、あなたがたは救われない」と語りました。念のために申しておきますが、この人々はエルサレムの教会に連なるクリスチャンです。イエス・キリストを信じる人々です。「あなたがた」とは、異邦人のクリスチャン、信仰者たちです。彼らは異邦人のクリスチャンたちに、「主イエス・キリストを信じるだけではだめで、割礼を受けなければ救われない」と教えたのです。割礼とは、男性生殖器の先端の皮を切り取るという儀式ですが、それはユダヤ人男子が生まれて八日目に必ず受けるものでした。割礼を受けているということが、ユダヤ人であることの印だったのです。ですから、異邦人がユダヤ教に改宗する場合には、この割礼の儀式を受けることによって初めてユダヤ人の仲間に加えられたのです。その割礼をあなたがたも受けなければ救われない、それは、救われるためにはあなたがたもユダヤ人にならなければならない、ということです。ユダヤ人というのはそういう意味では民族の名前ではありません。民族的、人種的にはどのような出身の人でも、ユダヤ教を信じ、割礼を受けるなら、ユダヤ人になれるのです。そのようにしてユダヤ人になることによって、神様の民となり、救いにあずかる者となることができる、というのがユダヤ人たちの常識でした。ですからこの人たちの言っていることは、ユダヤ人としては常識的なことであって、別に突拍子もないことではありません。クリスチャンが皆ユダヤ人である間は、何の問題もなかったのです。しかしこのことは、異邦人を主たるメンバーとするアンティオキア教会においては、大問題を引き起しました。アンティオキア教会に連なる多くの異邦人たちは、またパウロらの伝道によって生まれた各地の教会の人々もそうですが、割礼を受けずに、つまり異邦人のままで、洗礼を受けて教会に加えられ、主イエス・キリストを信じ、その救いにあずかる者として歩んでいたのです。その人々に対して、「あなたがたはそのままでは救われない、割礼を受けてユダヤ人にならなければならない」と言ったのですから、これはその人たちの救いを否定するような話です。主イエス・キリストを信じて洗礼を受けることによって救われると教えられ、そう信じてきたのに、それは間違いだったのか、ということになります。アンティオキア教会の人々は動揺しました。パウロやバルナバは当然彼らに反論しました。私たちの救いは、主イエス・キリストの十字架と復活による罪の赦しを信じることによって与えられるのであって、割礼を受けてユダヤ人にならなければ救われないなどということはない、異邦人は異邦人のままで、キリストの救いにあずかることができるのだ、というのが彼らの主張です。そのようにして両者の間に、激しい意見の対立と論争が生じたのです。その対立を収拾するために、エルサレムで会議が開かれたのです。

キリスト教とユダヤ教
 ここに、初代の教会が直面した最大の問題が示されています。その問題とは、アンティオキアの人々にとっては、救われるのは主イエス・キリストを信じることによってなのか、それとも割礼を受けてユダヤ人になることによってなのか、ということですが、それは言い換えるならば、主イエス・キリストを信じる信仰と、これまでイスラエルの民が受け継いできた伝統的信仰との関係の問題です。別の言い方をすれば、新約聖書の信仰と旧約聖書の信仰の関係、ということでもあります。あるいは新約聖書の神様と旧約聖書の神様とは同じ神様なのか、それとも違う神様なのか、と言うこともできます。それらを包括的に言うならば、キリスト教とユダヤ教との関係の問題です。このことこそ、初代の教会の直面した最大の問題であり、この問題をどう解決したかによって、その後の教会の、キリスト教の歩みの道が定まったとも言えるのです。エルサレム会議が、教会のその後の歴史に決定的な影響を与えたというのはそのためなのです。

教会における対立、論争
 この問題の内容に入る前に一つ考えておきたいことがあります。これは教会の中に、何が正しい信仰なのかということについて意見の食い違いが生じ、対立、論争が起ったということです。「激しい意見の対立と論争が生じた」とあります。この「激しい」と訳されているところは原文においては、「小さくない」という言葉です。口語訳聖書では、「少なからぬ紛糾と争論とが生じた」となっていました。相当厳しい対立が起こり、険悪なムードが教会全体にただよったのだと思います。教会には時としてこのようなことが起こります。何が正しい信仰なのか、あるいは救いは何によって得られるのか、ということについて、対立と論争が生じるのです。教会の内部にそのような対立があることは、伝道の妨げになります。教会に来てみたら、なんだかそのメンバーたちが対立して険悪なムードになっている、というのでは、せっかく新しく来た人も幻滅して来なくなってしまうでしょう。ですからこのような対立はない方がよいに決まっています。けれども、このような対立、論争がどうしても必要となる場合もあるのです。むしろこのような対立を通して、正しい信仰とは何かがはっきりとさせられていく、ということがあります。そしてそのことは、長い目で見ると、教会のさらなる成長、発展、伝道の進展に結びつくのです。教会の歴史はそういうことの繰り返しであり、これはその最初のケースであると言えます。ですから私たちは、教会における意見の食い違いや対立を過度に恐れる必要はありません。つまらない、どうでもよい事柄で対立するのは愚かなことですが、どうしても必要な対立を避けて通ってしまうこともまた、教会のためにならないのです。それは言い換えれば、教会の主であり、それを導いておられる主イエスと父なる神様をちゃんと信頼していない、ということにもなります。教会は神様のものであることを信じるがゆえに、主張すべきことはちゃんと主張し、対立すべきことは対立しなければならない、ということがあるのです。それゆえに、私たちがここから学ぶべきことは、教会の中にこのような対立は起さない方がよい、ということよりもむしろ、このような対立が起ったときに教会がそれをどのようにして解決したか、ということなのです。

会議において働く神
 教会は、会議を開き、そこでこの問題を解決したのです。会議を開くことは、もめごとを解決するための唯一の手段ではありません。もめごとへの対処の仕方は他にいろいろあります。会議を開くことはその中で必ずしもベストの方法とは言えません。特に私たち日本人は、会議でもめごとの解決をすることが苦手です。会議などするとかえって対立がこじれてどうしようもなくなるということが多いのです。もめごとを解決するためによく取られる手は、誰かが調整役になって、対立する双方の話を聞き、妥協点を探り、双方を説得して、これならお互いに納得できる、という「落とし所」へ持っていく、ということです。そういう水面下のいわゆる「根回し」をした上で、会議はそれを確認するためのセレモニーのように行う、だから会議の前に結論はもう決まっている、というのが上手な会議の仕方であって、そういう根回しなしに無前提で会議を開くのは愚の骨頂だ、ということになるのです。それは日本だけの話かというと必ずしもそうではない。国と国との外交交渉や首脳会談においてもそういうことが行われています。対立があるから会議を開く、というのは決して当然のことではないのです。しかし教会は会議を開き、そこでこの問題を解決しようとしました。そこに、教会の信仰が現れています。それは、会議において、教会の主なる神様がみ心を示し、行なって下さるという信仰です。教会が会議を行ない、そこで様々なことを決定していくのは、民主的に事を進めるためと言うよりも、会議において働かれる神様を信じ、その導きに委ねるという信仰によることなのです。

主イエスの恵みによって
 さて、パウロとバルナバと、その他に数名の者がアンティオキアからエルサレムに上り、そこでエルサレム教会の使徒たちと長老たちとの会議に臨みました。彼らは、4節にあるように、「神が自分たちと共にいて行われたことを、ことごとく報告した」のです。つまり、異邦人たちが、異邦人であるままで、主イエス・キリストを信じ、洗礼を受けて教会に加えられ、神様の民として喜んで歩んでいること、そのような伝道が進展して、あちこちに、異邦人をメンバーとするキリストの教会が生まれていることを報告したのです。しかしそれに対して、ファリサイ派から信者になった人たちが、「異邦人にも割礼を受けさせて、モーセの律法を守るように命じるべきだ」と主張しました。アンティオキアでの対立、論争がここでも繰り返されたのです。そのような議論が重ねられた末に、この会議の結論を導き出す決定的な発言したのは、ペトロとヤコブでした。二人とも、エルサレム教会を代表する人物です。先ずペトロがこう言いました。「兄弟たち、ご存じのとおり、ずっと以前に、神はあなたがたの間でわたしをお選びになりました。それは、異邦人が、わたしの口から福音の言葉を聞いて信じるようになるためです。人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした。それなのに、なぜ今あなたがたは、先祖もわたしたちも負いきれなかった軛を、あの弟子たちの首に懸けて、神を試みようとするのですか。わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」。ペトロはここで、自分が異邦人への伝道のために神様に選ばれて用いられたことを振り返っています。それは第10章にあった、ローマの軍人コルネリウスへの伝道のことです。コルネリウスは勿論異邦人でしたが、ペトロが神様の導きによって彼らに御言葉を語っていると、彼らに聖霊が降ったのです。それは神様が彼らを受け入れて下さったということの印です。これを見てペトロは彼らに洗礼を授けました。彼らは異邦人であるままで、神様の救いにあずかる者とされたのです。ペトロは、自分自身が体験したこの神様の救いのみ業を語りました。割礼は神様がイスラエルをご自分の民として選んで下さった恵みの印です。彼自身もそれを受けており、その光栄を感謝しています。しかし今や、その神様が独り子イエス・キリストをこの世に遣わして下さり、その十字架の死と復活によって新しい救いのみ業を行なって下さったのです。今や旧い律法や割礼に代って、主イエス・キリストを信じる信仰によって、神様はご自分の民を結集しようとしておられるのです。そしてその恵みに、異邦人をも加えて下さっているのです。ペトロ自身も、その事実を受け入れるのには時間がかかりました。しかし彼は、自分がそれまでこうだと思ってきた常識や確信の中に閉じこもって、神様が現に行なっておられる救いの事実に心の扉を閉ざすような愚かなことはしませんでした。彼はむしろこの体験を通して、神様の救いの恵みをより深く知らされていったのです。それを言い表しているのが11節の言葉です。「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われると信じているのですが、これは、彼ら異邦人も同じことです」。「わたしたちは、主イエスの恵みによって救われる」、この単純な一言に、ペトロに与えられた、神様の救いの恵みの深い認識が込められています。そこには先ず、救いは、割礼という印によって与えられるのではない、ということが語られています。そしてそれは、私たちに置き換えてみるならば、救いは洗礼という印によって与えられるのではない、ということでもあります。私たちは、洗礼によって救われるのではなくて、主イエスの恵みによって救われるのです。洗礼は、その主イエスの恵みによる救いの印として与えられるものです。私たちは、主イエスの恵みによる救いを信じて洗礼を受けるのです。もしも私たちが、洗礼を受けているから自分は救われる、と思ってしまうとしたら、それは、ユダヤ人が、割礼を受けているから自分は救われる、と思っていたのと同じことになってしまうのです。またこの一言には、救いは、私たちがよい行ないをし、神様に忠実に従う信仰深い立派な者になることによって与えられるのではない、という意味も込められています。私たちの中にある何らかの条件によってではなく、ただ主イエスの恵みによって救われるのです。そうでなければ、主イエスを三度「知らない」と言って裏切ったペトロも、教会を迫害していたパウロも、救いにあずかることはできません。まして私たちはなおさらです。「主イエスの恵みによって救われる」とは、私たちは、自分の中に、救われるに相応しい条件など何も持っていないし、持つ必要がない、ということなのです。それなのに、もしも私たちが、救われるための条件が整っているかと自分の心の中を覗き込んでばかりいるとしたら、それは割礼を受けているから救われるのだと思っていたユダヤ人と同じことになっているのです。
 このようにペトロは、神様が現に行なっておられる救いの事実に心を開くことによって、主イエスの恵みによる救いをより深く知らされました。彼はこのように、それまでの自分の考えや常識に固執せず、神様の新しいみ業に心を開いたがゆえに、この会議で決定的な発言をすることができたのです。神様が会議においてみ心を示し、行なって下さるという信仰は、具体的にはこのような姿勢を生むのです。

聖書の言葉によって
 ペトロに次いで、ヤコブも発言しました。このヤコブは、主イエスの弟であるヤコブで、十二弟子の一人ではありませんでしたが、エルサレム教会の中心人物となっていた人です。彼は旧約聖書の言葉を引用して語りました。彼が引用したのはアモス書第9章11、12節です。そこには、主なる神様の救いが、「わたしの名で呼ばれる異邦人」たちにも与えられることが語られていました。ヤコブは、ペトロが今語った異邦人の救いの出来事は、この預言の言葉の実現だったのだ、と語ったのです。旧約聖書に既に、主なる神様の救いが異邦人にも及んでいくことが予告されています。本日共に読まれたイザヤ書56章もその代表的な個所です。それらの個所に、異邦人にも救いの恵みを与えようとしておられる神様のみ心が示されています。ヤコブは旧約聖書の言葉からそのことを証ししたのです。つまりヤコブは、ペトロが自分の体験を通して語った救いのみ業を、聖書の言葉によって裏付けることによって、それが確かに神様のみ業であることを証明したのです。教会の会議において神様がみ心を示し行なって下さることを信じて歩む時に大切なことがここにも示されています。私たちは、教会の会議において、いつも神様のみ言葉に、聖書に立ち戻り、そこから聞いていく必要があるのです。そのことなしに自分の思いを主張していくと、単なる人間の思いを、「これが神様の新しいみ心だ」と勘違いしてしまうことが起こります。常にみ言葉に立ち帰り、み言葉に聞きながら、神様の新しいみ業に従っていく、という姿勢こそ、教会の会議が正しく実りあるものとなるために必要なのです。

世界宗教への道
 このペトロとヤコブの発言によって、エルサレム会議はこの問題の結論を正しく出すことができました。つまり、異邦人がキリスト信者となり、教会に加えられることにおいて、割礼を受ける必要はない、ということです。それは要するに、ユダヤ人になる必要はない、ということです。教会は、古い神の民であるイスラエルの歴史を受け継いでいるものです。旧約聖書の信仰と新約聖書の信仰とはつながっており、別の神様を信じているのではありません。しかしその神様が、独り子主イエス・キリストによって今や新しい救いの恵みを実現して下さり、ただ主イエスの恵みによって救われる新しい神の民を興して下さっているのです。それゆえに私たちは今や、ユダヤ人になることによってではなく、主イエスを信じる信仰によって、神様の民とされ、救いにあずかることができるのです。このことが、このエルサレム会議において確認されたのです。それは同時に、キリスト教が、ユダヤ教の一分派ではなく、ユダヤ教の歴史を受け継ぎながらも、それとは一線を画する教えとして自己を確立したことを意味します。このことによって、キリスト教は、ユダヤ人の民族宗教という枠を超えて、全ての人々に開かれた、世界宗教への道を歩み出したのです。この道が定められたことによって、キリスト教は当時のローマ帝国の全域に広まっていき、ついにはローマの国教になり、そしてローマ帝国滅亡後は中世ヨーロッパ社会の屋台骨となり、宗教改革を経て新大陸アメリカ建国の土台となり、そして19世紀後半には、まだ切支丹禁制の時代のこの日本へ、横浜へと伝えられて来ることができたのです。私たちが今、こうして教会に集い、洗礼を受けて主イエス・キリストの救いにあずかる者として歩むことができるのは、このエルサレム会議の決定によると言うこともできるのです。

扉を開き、世に向かって宣べ伝える教会
 私たちは何によって救われるのか、ということをめぐって教会の中に起った対立、論争は、「主イエスの恵みによって救われる」という真理を教会がより深くはっきりと示される契機となりました。そして教会の会議が、そこにおいてみ心を示し働かれる神様への信頼のもとに行なわれたことによって、信仰の真理を正しく受け止める決定をなすことができ、それによって教会は、全世界へとみ言葉を宣べ伝えていくことができるようになったのです。本日は4月の第一主日、新年度の教会の歩みが始まりました。私たちはこの年度、「扉を開き、世に向かって宣べ伝える教会」という主題を掲げて歩もうとしています。エルサレム会議においてみ心を示し、働いて下さった神様が、私たちにも、同じようにみ心を示し、働いて下さるように、祈り求めていきたいと思います。

関連記事

TOP