主日礼拝

喜びの手紙

「喜びの手紙」 伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編 第32編1-11節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙 第4章21-23節
・ 讃美歌:208、416、476

<喜びの手紙の結びの挨拶>
 わたしが主日礼拝を担当させていただくとき、月一回のペースでフィリピの信徒への手紙のみ言葉を共に聞いてきました。約2年がたち、今日でいよいよ、最後になります。

 手紙の著者は、キリストの福音を宣べ伝えているパウロで、宛先は、パウロが伝道して生まれた、フィリピの地にある教会の人々です。パウロが手紙を書いた場所は、他の地の牢獄の中だと考えられています。伝道をしているために、捕えられたのです。
本当なら、苦しみや、悔しさや、絶望を感じるような状況に違いありません。しかし、この手紙には一貫して「喜び」が溢れています。この手紙が、「喜びの手紙」と呼ばれていることは、一番はじめの説教でも、お伝えしたことです。

今日、読んでいただいたのは、その最後、手紙の結びの挨拶の部分です。
この結びの挨拶は、単なる形式的な挨拶ではありません。これは、これまでパウロが手紙の中で語ってきた「喜び」が凝縮されている挨拶だと言うことが出来ます。キーワードは「聖なる者たち」です。

手紙というのは、そもそも一気に読むものです。この手紙をパウロから受け取った教会の人々も、「あのパウロさんから手紙が来たぞ!」と言って、みんながこのように一か所に集まり、代表の人が、1:1の部分から、「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから、フィリピにいて、キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち、ならびに監督たちと奉仕者へ。…」と読み上げてくれるのを、じっと耳を傾けて聞いたのでしょう。
そうやって、はじめから最後まで一気に読んだはずです。ですから、この結びの挨拶は、そこまでの手紙の本文の内容を聞いた上で、最後の締め括りに読まれる言葉です。
今日は結びの部分だけ取り上げるのですが、皆さんもまた、時間がある時にでも、一息に手紙全体を読んで、それで最後の結びの挨拶を味わっていただけたらと思います。
さて、この「喜びの手紙」の「結びの挨拶」は、どのようなものでしょうか。

<聖なる者たち>
 そこにはまず、4:21に、「キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たちに、よろしく伝えてください。」と書かれています。パウロは、フィリピの教会の信徒たちのことを、「聖なる者たち」と呼んでいます。

 私たちも、教会で礼拝を守って、イエスさまを信じて、信仰を告白して洗礼を受けるなら、皆「聖なる者」と呼ばれます。
私が「聖なる者」だなんて、とんでもない、と思うでしょうか。私たちは「聖なる」という言葉を、清らかさとか、潔白さとか、特別な立派さだと考えがちです。
そうすると、教会に来ているけど、とても清らかなんかじゃないし、後ろめたいこともあるし、いい人にもなれないし、心にはついどす黒いものが浮かんできてしまう。「聖なる者」という言葉からは程遠い生活をしてしまっている自分がいる。そんな自分は「聖なる者」なんて言われる資格がない…そんなふうに感じます。
私たちの姿は、確かにその通りです。どう転んでも、清らかにも、潔白にも、立派にもなることが出来ませんし、はっきり言って、何の資格もありません。
 それなのに、私たちが「聖なる者」と呼ばれるのは、どうしてなのでしょうか。

<聖=分離>
 それを丁寧に知るためには、聖書における「聖」の意味を知る必要があります。
旧約聖書に出て来るヘブライ語の「聖」という言葉は、「分離する」という言葉が語源だと言われています。これは、絶対的に他のものを排除する、隔絶する、というような、強い意味があります。ですから、「聖」であるのは、本来、まことの神だけです。人間とは全く隔絶されて、絶対的に「聖」である方は、ただ神お一人なのです。

その聖なる神は、旧約聖書の時代に、世界のすべての人々を祝福するために、まず、一つの民族をお選びになりました。それが、イスラエルの民です。エジプトで苦しめられていたイスラエルを導き出し、この民と契約を結んで、ご自分の民とし、「聖なる国民」(出エジプト19:6)となさいました。
イスラエルの民は、聖なる神によって、他のあらゆる民族の中から、選ばれ、分離され、神のものとされることで、「聖なる国民」になったのです。だから、イスラエルの民は、聖なる神との関係があって、はじめて「聖」とされるのです。もし、聖なる神との関係が失われれば、イスラエルの民自身で、「聖なる民」でいることは出来ません。

ところが、イスラエルの民はその歴史の中で、神に逆らい、神に背き、神から離れようとします。神との関係はいらない、と言い出したということです。そのように、神から離れるということが「罪」ということであり、すべての人間が陥っている姿です。罪が行き付く先は、滅びです。世界をお造りになり、すべてのものに命を与えて下さる神から離れて、人は生きていくことは出来ないからです。

そのように散々罪を犯したイスラエルの民を、聖なる神は、それなら好きにして滅びればいい、と言って、お見捨てになったのでしょうか。そうではありませんでした。国は滅びてしまいましたが、民と結んだ関係を解消してしまおうとはなさいませんでした。神は、ご自分がお選びになった民を、愛しておられたからです。言うことを聞くから、真面目で熱心だから、民を愛しておられたのではありません。神に反抗し、そっぽを向き、自分勝手にしているにも関わらず、神はご自分が選ばれた民を、最後まで愛し抜かれるのです。

人の罪によって破れてしまった関係を回復し、神の祝福の中で生きていくことが出来るように、神は一方的に恵みを与える、新しい契約を立てて下さいました。世界のすべての人々が、世界を創造し、命を与え、すべてを支配しておられる真の神を知り、神と共に、神の恵みの中を生きるようにするためです。誰も、罪によって滅びることなく、神と共に永遠の命を生きる者となるためです。

<イエス・キリストに結ばれて>
この契約のために、神は、選ばれたイスラエルの民の中に、ご自分の独り子を救い主として遣わされました。その方が、主イエス・キリストです。
絶対的に聖なる方であり、完全に人間から隔絶されている、神の御子が、その身分を打ち捨てて、人の罪を赦すために、まことの人となって、世に来られ、救いの御業を成し遂げて下さったのです。
この聖なる方のへりくだりは、このフィリピの信徒への手紙2:6~8に語られていました。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」
これが、神の救いの出来事です。

この方の十字架の死によって、私たちは神に背いた罪を赦され、贖われました。そして、私たちは、もう滅びに渡されるのではないということ、主イエスが死から復活させられたように、私たちも永遠の命を与えられ、終わりの日に復活するとの約束を与えられたのです。
このことを信じ、洗礼を受けるならば、私たちは聖霊なる神のお働きによって、復活なさったキリストと一つに結ばれます。そうして、神との新しい関係を与えられます。そうして、一人の罪人は、罪に属する者から、キリストに属する者となり、神によって、選ばれ、分かたれて、「聖なる者」とされるのです。

 パウロは、1:1の手紙の書き出しの挨拶で、自分のことを「キリスト・イエスの僕であるパウロ」と言っています。聖なる者とされること、キリストに属するということは、キリストの僕である、ということです。自分は、この神の恵みに生きている者である、とパウロは最初にまず表明しているのです。
普通は、自分のことを「僕、奴隷」と呼ぶなんて、ちょっと卑屈に思えるし、私たちは、誰かの奴隷となることなんて、考えられないと思います。それは、誰かの所有物になるということであり、主人となる者に自由を奪われ、支配され、尊厳も権利も奪われることである、と思うからです。主人が人間であるならば、そのようになるでしょう。

 しかし、私の主人がイエス・キリストであるなら、それは全く違います。その方は、私を生かすために、支配されます。そのためには、僕にもなって下さる主人です。私のために、ご自分の命さえ捨てて下さる主人です。そして、復活し、死にすら勝利された主人です。私が約束を破っても、ご自分は最後まで誠実でいて下さる主人です。ですから、私たちはこの主人を信頼することが出来ます。この方のものにされてこそ、この方のご支配のもとでこそ、本当の安らぎと平安を生きることが出来るのです。

人は、何にも支配されずに、自由に生きることなんてできないと思います。私たちが考えている自由は結局、欲望や、利益や、自己実現など、自分勝手な、自己中心的な思いに、がんじがらめに支配されているのではないでしょうか。
 本当に人間らしく自由に生きるのであれば、神の許で生きるしかないのです。

パウロは、その生き方を知っており、自分のことを喜んで「キリストの奴隷」と公言します。パウロは、「生きるにも死ぬにもキリスト」と言うほどです。パウロの人生は、地上の人生のみではなくて、その先の、いつかくる死の向こう側にまでも、キリストの支配が及んでいるからです。
そして、フィリピの教会の人たち、あなたたちも、このキリストに選ばれ、キリストのものとされた「聖なる者たち」なのだ、ということなのです。

<喜び>
ここに、大きな喜びがあります。パウロはこの喜びを生きており、またパウロが伝道したフィリピの人々がこの喜びを共に生きていることを、喜んでいるのです。
そして、ここで礼拝をするために集まっている私たちも、皆「キリストの僕」なのであり、「聖なる者たち」なのであり、同じ喜びに与っています。

 簡単な喜びではありません。神の独り子、主イエス・キリストのへりくだりと、十字架の死によって与えられた喜びです。死者を復活させられる、神の力によって与えられる喜びです。滅びるしかない罪人を、永遠の命を生きる聖なる者へと変えて下さる、そんな聖霊の力によって与えられる喜びです。
人の手によっては得ることの出来ない、世のどんな喜びを積み重ねても得ることの出来ない、神によって与えられる喜びです。どんなに悲惨で、苦しくて、すべてを奪われるようなことがあっても、決して失われない喜びです。
パウロが手紙で、一言「キリスト・イエスに結ばれているすべての聖なる者たち」と呼びかけるとき、そこにはこれだけの神の恵み、神の御業がなければならないのです。  

<聖徒の交わり>
 さて、私たちはそのように、キリストに結ばれることによって「聖なる者」とされるのですから、「聖なる者」とされた者同士は、お一人のキリストによって、互いにも結ばれています。
 ですから、キリストを信じる者同士は、神の家族になるのです。

パウロは本日の箇所の4:21で「わたしと一緒にいる兄弟たち」と言っていますが、これはパウロの血縁者が一緒にいたわけではありません。血の繋がりのない仲間のことを、キリストによる繋がりによって、兄弟と呼ぶのです。ここにいる私たちも、互いに神の家族であり、兄弟姉妹と呼び合うことが出来ます。

また、「聖なる者たち」の間には、血筋どころか、もはや何の分け隔てもありません。国の違いも、身分の違いも、関係ありません。
例えば、次の22節には「すべての聖なる者たちから、特に皇帝の家の人たちからよろしく」とありますが、これはローマ皇帝に仕えている人たちのことだと思われます。
フィリピの1:13を見てみると「つまり、わたしが監禁されているのはキリストのためであると、兵営全体、その他すべての人々に知れ渡り」とあります。パウロが監禁されている兵営は、ローマ帝国の軍隊の兵営であったので、そこで仕えている者や兵士が「皇帝の家の人」と呼ばれている可能性があります。
 すると、その人たちがフィリピの教会に「よろしく」と言っているということは、パウロが監禁されている兵営で、パウロを監視し、権力で支配する立場であった兵営の者が、パウロから福音を聞いてキリストを信じる者となった、ということを想像することが出来ます。
 キリスト者になるのに、国の違いも、身分の違いも、監視する側も、される側も関係ありません。ただキリストが選んで、救いを与えて下さっただけなのです。ですから、キリスト者は、ただその一点の共通点で、一つになることが出来るのです。

 このように「聖なる者」とされた者たちの、キリストにおける互いの関係が、私たちが今日も告白をした『使徒信条』では、「我は聖霊を信ず」との告白の中で、「聖徒の交はり」を信ず、と言っていることです。聖霊を告白する中で語られているのは、私たちにキリストを信じさせ、信仰を告白させ、キリストに一つに結び合わせて下さるのは、聖霊なる神のお働きだからです。

<同じ思いで、賜物を分け合う>
 この「聖徒の交はり」を告白する時、教会に繋がる私たちは、互いに、同じお一人のキリストに結ばれ、同じキリストの恵み、同じ富にあずかっている群れだということを信じます。
この群れの頭は、キリストただお一人です。そのキリストの思いを、私たちは教会という体の隅々、一人一人にまで行き渡らせて、神の御心に従って、キリストに思いを一つにして、歩んで行くのです。「同じ思いになりなさい」とは、パウロが手紙の中で繰り返し語ったことでした。

 「同じ思い」とは、キリストがへりくだられ、十字架で死なれた、その恵みに立つ、同じ思いです。このキリストに生かされる者として、互いにへりくだり、キリストに向かって一致していく思いです。教会という神の民の群れにあって、私たちは思いを一つにして、それぞれの役割を果たし、互いに助け合い、祈り合い、信仰を励まされ、慰められ、強められながら、神に従って、兄弟姉妹と共に歩んでいくのです。一人で信仰生活をしていく、という歩みは、キリスト者にはあり得ません。聖なる者となるということは、聖なる神の民になる、神の家族になる、ということだからです。  

ですから、それぞれ一人一人に与えられている賜物も、群れ全体のために、与えられているものです。自分一人のものとして取っておいたり、出し惜しみをしたり、自慢をするために与えられているのではありません。また、他と比べて見劣りがするとか、少ししか与えられなかったと嘆くものでもありません。キリストの交わりにあっては、皆がこの賜物を共有しているのです。この一人一人が与えられた賜物を喜んでささげ、補い合い、分かち合い、ますます豊かな交わり、主の体となっていくように、神が与えて下さったものなのです。

<永遠の交わり>
 また、この「聖徒の交わり」の視点は、ある一つの教会、例えばこの横浜指路教会の兄弟姉妹だけのことを見つめているのではありません。時を同じくして、他の場所で神を礼拝している教会が、世界中の教会が、同じお一人のキリストに結ばれているのであり、一つの霊に与っているのであり、一つの交わりの中にあります。

 また実は、それはこの今の時代だけのことだけでもありません。
 キリストに結ばれた者がすべて「聖なる者」であり、皆が一つに結ばれているのなら、キリストを信じて、先にこの地上を去った者たちとも、私たちは、キリストにあって一つの交わりにあるのでしょう。またこれから、神の国が来るまでにキリストを信じて群れに加えられていく、未来の「聖なる者」もまた、このお一人のキリストとの交わりにあるのでしょう。
 時間も場所も越えて、キリストは永遠の命を生きる方です。私たちは、この方の永遠の命に属しているのであり、復活の主イエス・キリストの体に結ばれているのです。

 「聖なる者」とされるということは、このキリストと永遠に共にあるということであり、永遠に神を礼拝し、永遠に神を賛美する者たちの交わりに入れられているということです。この地上で、限りのある肉の体を持ちながら、その永遠を生き始めているということなのです。地上に生きながら「わたしたちの本国は天にあります」と言うことが出来るのです。
 そして、主イエスが再びこの地に来られる終わりの日、私たちも主イエスと同じ、復活の体を与えられることを、待ち望んでいるのです。

<聖なるものへの参与>
 なんだか話が壮大になってきました。永遠とか、神の国、と聞くと、なんだか現実から離れてしまって、精神論や、思想のようなものに感じてしまうかも知れません。
 しかしこれは、実は目に見える現実よりも確かな、神の恵みの現実です。この恵みがあるために、私たちは傷ついても、打ちのめされても、恐れても、悲しんでも、決して絶望することはないのです。
しかし、弱い私たちは、ついつい目に見えるもの、感じることが出来るものに、引っ張られて、不信仰に陥ったり、神を疑ったり、挫けたりしてしまいます。
 しかし、その恵みを確かにして下さるのもまた、神ご自身です。

 実は、使徒信条の「聖徒の交はり」という言葉は、ラテン語において「聖なるものへの参与」というふうに訳すこともできます。
つまり、「聖徒の交はり」は、礼拝で語られる神の聖書の御言葉や、洗礼や聖餐の聖礼典に、私たちが与かる、ということも意味しているのです。御言葉を聞くこと、洗礼に与ること、そして、聖餐の食卓に与ることは、神との交わりです。そして、この神との交わりを中心にして、「聖なる者たち」、神の民が興され、聖徒の交わりが築かれていく。共に御言葉を聞き、共に主の食卓に与る、神を礼拝する群れが、築かれていくのです。

 ですから、今も、ここに神を礼拝し、御言葉を聴く「聖なる者たち」の群れがあることは、ここに復活のキリストがおられる確かなしるしです。ここに確かに、生きておられる神がおられる。主イエスが臨在しておられる。聖霊なる神が働いておられる。その、確かなしるしなのです。

また、それは特に主の食卓と言われる、聖餐によく表れているでしょう。パンと杯という目に見えるしるしを通して、キリストの体と血に与っていることを、しっかりと味わい知り、繰り返し神の恵みを伝えるために、教会に与えられています。また、これは終わりの日の神の国の食卓を先取りしています。私たちは、すべての聖徒たちと一緒に席につく、永遠の喜びの食卓を、この地上で、すでに垣間見ているのです。
神は、私たちの弱い、疑い深い信仰をよくご存知です。
ですから、み言葉を語りかけ、この目に見える交わり、目に見えるしるしを与え、この体全体で恵みを味わうことが出来るようにして下さり、弱い信仰を強め、励まし、慰めて下さるのです。

<喜んで歩む>
 このような神との交わり、聖なる者たちの交わりにあって、教会にあって、私たち一人一人は本当に喜んで生きることが出来ます。キリストが再び来られる日、復活の日を待ち望みつつ、全身を向けて、目標を目指して、ひたすら走っていくことが出来るのです。  

 手紙の最後には、「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊と共にあるように。」とあります。これは、祝福の言葉です。祈りの言葉です。「霊」とは、私たちの存在全体、心も、体も、思いも、魂も、すべてであると言って良いでしょう。そこに抱える罪も、弱さも、傷も、脆さも、何もかもを復活の主イエスが恵みで覆って下さり、あなたはわたしのものだ、と関係を結んで「聖なる者」として下さり、ご自分の命に結び合わせてくださいました。この喜びに、しっかりと留まり続けることが出来るように、という祈りです。
本日の詩編には冒頭に「いかに幸いなことでしょう/背きを赦され、罪を覆っていただいたものは。いかに幸いなことでしょう/主に咎を数えられず、心に欺きのない人は。」とあり、最後にはこうありました。「神に逆らう者は悩みが多く、主に信頼する者は慈しみに囲まれる。神に従う人よ、喜び踊れ。すべて心の正しい人よ、喜びの声を上げよ」。
 このとてつもない喜びに、パウロも、フィリピの教会の人々も、そして今ここにいるわたしたちも与っているのです。
わたしたちもこのすべての聖なる者たちと共に、喜びの声を上げて、神を礼拝しましょう。いつも喜んでいましょう。

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