夕礼拝

神の国は私たちのただ中に

説教題「神の国は私たちのただ中に」 副牧師 川嶋章弘

エレミヤ 第30章18-22節
ルカによる福音書 第17章20-37節(1)

二つの問いの関係に注目して
 ルカによる福音書17章20-37節をお読みしました。長い箇所ですので、本日と来週の二回に分けて読み進めます。またこの箇所は単に長いというだけでなく難しい箇所でもあります。み言葉がすんなり入ってこないと思える箇所ではないでしょうか。しかしそのような箇所だからこそ、私たちはじっくりみ言葉に聞いていきたいと思います。この箇所が私たちに語りかけていることを聞き取っていきたいのです。
 この箇所は大きく分けて20、21節と22節以下に分けられます。20、21節で主イエスは、ファリサイ派の人たちの「神の国はいつ来るのか」という問いに答えて語っています。つまり主イエスはファリサイ派の人たちに向かって語っているのです。それに対して22節以下では、冒頭に「それから、イエスは弟子たちに言われた」とあるように、主イエスは弟子たちに向かって語っています。ですから20、21節と22節以下では、主イエスが語りかけている相手が違うのです。さらに22節以下は、22-25節と26節以下で分けられると思います。22-25節では、「人の子の日はいつ来るのか」が語られ、26節以下では「人の子の日に何が起こるのか」が語られているからです。主イエスが誰に向かって語っているかに注目するならば、20、21節と22節以下に分けて読み進めるのが良いのかもしれません。しかし本日は、「神の国はいつ来るのか」と「人の子の日はいつ来るのか」という二つの問いの関係に注目して、20-25節を中心に読み進めたいと思います。
 「神の国はいつ来るのか」というファリサイ派の人たちの問いは、正確に言えば、神の国が何年何時何分に来るのかを問うているのではなく、神の国がいつ来るのかをどうやって知ることができるのか、を問うています。神の国がいつ来るのか、それが分かるどんな「しるし」があるのかを問うているのです。また22-25節でも「人の子の日はいつ来るのか」が語られているというより、人の子の日が来たことをどうやって知ることができるのかが語られています。「神の国」にしろ「人の子の日」にしろ、私たちはそれらが来たことをどうやって知ることができるのか、このことが見つめられているのです。

昇天より後の時代を見据えて
 先に22節以下、つまり「人の子の日」について見ていきます。22節で主イエスは弟子たちにこのように言われています。「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」。より分かりやすく訳すなら、「あなたがたが人の子の日を一日だけでも見たいと望むが、見ることができない時が来る」となります。「人の子」は主イエスがご自身を指して用いられた言葉ですから、「人の子の日」とは「主イエスの日」ということになります。そして「主イエスの日」とは、十字架で死なれ、三日目に復活され、天に上げられた主イエス・キリストが再び来られる日です。つまりここでは、弟子たちが主イエスの再び来られる日を一日だけでも見たいと望むが、見ることができない時が来る、と言われているのです。そうであれば主イエスは、ご自身が弟子たちと共に地上を歩めなくなるときを見据えて、ご自身の十字架と復活、昇天より後の時代を見据えて語っていることになります。ルカ福音書の続きである使徒言行録では、その冒頭1章9節で「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった」と言われています。主イエスが天に上げられると、弟子たちは主イエスを目で見ることができなくなるのです。本日の箇所の22節以下では、将来、弟子たちが主イエスを目で見ることができない時代に生きることを見据えて、今、共にいる弟子たちに語りかけているのです。

主イエスを見たいと切に願っているか?
 主イエスを目で見ることができない時代に生きているのは、私たちも同じです。そうであれば、「あなたがたが、人の子の日を一日だけでも見たいと望む時が来る。しかし、見ることはできないだろう」という主イエスのお言葉は、私たちにも当てはまります。私たちは今、主イエスが再び来られる日を一日だけでも見たいと望んでも、しかし見ることができない時を歩んでいるのです。しかしそのように言われても、私たちは今、主イエスが再び来られる日を見たい、とどれだけ望んでいるでしょうか。「見たいと望む」とは、知的好奇心から「人の子の日」が来るのを見てみたいと望むことではなく、どうしても見たいと切に願うことです。この福音書の22章15節では、いわゆる「最後の晩餐」の席で主イエスが弟子たちに「苦しみを受ける前に、あなたがたと共にこの過越の食事をしたいと、わたしは切に願っていた」と言われていますが、この「切に願っていた」が「見たいと望む」の「望む」と同じ言葉です。私たちは主イエスが再び来られる日を切に見たいと望んでいるでしょうか。それこそ「一日だけでも見たい」と望むほどに願っているでしょうか。この箇所のみ言葉が私たちにすんなり入ってこない理由の一つは、主イエスが天に上げられ、聖霊が降って教会が誕生した後の時代に、弟子たちが抱いていた「早く主イエスに帰って来てほしい」という切なる望みが、「早く主イエスを見たいという切なる望み」が、私たちにピンとこないことにあるのです。
 しかしピンとこないで済ませるわけにはいきません。それでは私たちの信仰は、いわば核を失ってしまうことになります。主イエスを信じて生きるとは、主イエスが再び来てくださることを、つまり主イエスの再臨を信じて生きることだからです。私たちが、主イエスを見たいと切に願っているか、と自分自身に問うことは、自分自身の信仰を問うことでもあるのです。

主イエスの再臨に望みを置き、現実に向き合って生きる
 弟子たちが「主イエスが再び来られる日を一日だけでも見たい」と切に願うようになるのは、彼らが困難な現実に直面して生きることになるからです。主イエスの十字架と復活によって救われた後も、彼らはなお困難な現実を生きることになります。とりわけ彼らは、使徒言行録に語られているように、主イエスを信じるゆえに迫害を受けることになるのです。
 私たちは迫害を受けることはないかもしれません。しかし私たちも主イエスの十字架と復活による救いにあずかっているにもかからず、なお多くの苦しみや悲しみに覆われている現実を生きています。この世界では戦争や災害が大きな苦しみと悲しみをもたらしているし、私たち一人ひとりの現実も、絶え間ない困難の中にあるのではないでしょうか。そのような現実の中で、私たちが主イエスの再臨ではなく、そのほかのものに望みを置くならば、私たちは結局地上の生涯に望みを置いて生きるしかないのです。この箇所の27節ではノアの時代の人々が「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた」と言われ、28節ではロトの時代の人々が「食べたり飲んだり、買ったり売ったり、植えたり建てたりしていた」と言われています。食べたり飲んだり、買ったり売ったりすること自体が悪いわけではありません。私たちは日々食べたり飲んだり、買ったり売ったりして生きているのです。しかしこれらの営みにかまけて、主イエスの再臨を切に願わないなら、私たちは困難な現実に、苦しみと悲しみに満ちている現実に耐えることができず、現実逃避するしかないのです。実際、この社会には私たちの目を現実から逸らすためのものが溢れています。それらのすべてが悪いなどと言うつもりはありません。いっとき現実から離れて気分転換することも大切に違いありません。しかし現実から目を逸らすものに心を奪われ、それを支えとし、それに望みを置いて生きるとき、私たちは現実に向き合うことができず、現実逃避して生きるようになるのです。けれどもそうであってはならない。私たちは主イエスが再び来られる日を見たいと切に願い、地上の生涯ではなく、地上の生涯を越えた主イエスの再臨に望みを置いて生きます。使徒言行録で主イエスが天に上げられ、弟子たちの目から主イエスが見えなくなったとき、弟子たちは天を見上げてただ立っているしかできませんでした。しかしその弟子たちに主の使いは「あなたがたから離れて天に上げられたイエスは、天に行かれるのをあなたがたが見るのと同じ有様で、またおいでになる」と告げたのです。弟子たちがそうであったように、私たちもこの約束を信じ、この約束の実現を切に願って生きるのです。そのように生きるときにこそ私たちは、今、直面している現実にしっかり向き合って歩んでいくことができるのです。

本来の信仰の歩みから離れてはならない
 とはいえ主イエスが再び来られるのを切に願って生きれば、それで自動的に今をしっかり生きることができるというわけではありません。主イエスが再び来られる日を見たいと切に望んで生きるときにも、いえそのように生きるからこそ、現実から目を背けてしまうことがあるのです。このことが23節以下で見つめられています。23節で主イエスは、ご自身が天に上られた後、困難な現実の中で主イエスの再臨を切に望みつつ生きるようになる弟子たちに、このように言われています。「『見よ、あそこだ』『見よ、ここだ』と人々は言うだろうが、出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない」。主イエスが再び来られる日を切に願う時代には、「見よ、あそこに再臨のキリストがいる、いや、ここにいる」、と言う人たちが現れるのです。しかし「あそこだ、ここだ」と言われて、そこに行けば、人の子の日を見ることができるのではありません。そのようにして私たちは人の子の日が来たのを知ることはできないのです。だから主イエスは「出て行ってはならない。また、その人々の後を追いかけてもいけない」と命じています。「出て行く」は「離れ去る」と訳せる言葉ですから、「あそこだ、ここだ」と言う人たちに惑わされて、私たちは本来の信仰の歩みから離れ去って、そのような人たちの後を追いかけてはならない、と言われているのです。

救いの完成を願うからこそ惑わされる
 主イエスのお言葉はまったくその通りだと思います。しかし「見よ、あそこだ」、「見よ、ここだ」と言われて惑わされるのは、それだけ困難な現実に、大きな苦しみと悲しみに覆われた現実に直面しているからです。現代にあっても、再臨のメシアを名乗って人々を集めようとする人たちがいますが、その人たちは困難な現実から逃れたい、苦しみや悲しみから解放されたいという人々の切実な思いにつけ込んでいるのです。その切実な思いは、私たちの思いでもあるのではないでしょうか。私たちも自分が、あるいは自分の大切な人たちが、少しでも苦しみや悲しみから解放されることを心から願っているのです。だから「あそこだ、ここだ」と言われて、出て行ったり、その人たちについて行ったりするなんて愚かだ、などと私たちは言えないのです。主イエスが再び来てくださり、救いが完成するときに、私たちは主イエスをこの目で見ることができます。あらゆる苦しみや悲しみからも解放されます。困難な現実の中で、「あそこだ、ここだ」と言われて、私たちが惑わされるのは、この救いの完成にあずかりたいと願うからです。しかし主イエスは惑わされて出て行っても、そこに再臨の主イエスはいないし、救いの完成もない、と言われるのです。「あそこだ、ここだ」という人たちの言葉に振り回されるならば、結局私たちは現実から目を背けて、現実逃避して生きることになるのです。

主イエスの十字架の苦しみに目を向ける
 では主イエスは、困難な現実から逃れたい、苦しみと悲しみから少しでも解放されたいという私たちの切実な思いに何も応えてくださらないのでしょうか。そうではありません。主イエスは25節で、「しかし、人の子はまず必ず、多くの苦しみを受け、今の時代の者たちから排斥されることになっている」と言われています。原文の順序で訳せば、「しかしまず、人の子は必ず、多くの苦しみを受け」となります。「まず」とは、「その前に」ということです。人の子の日が来るのを見たいと望む時代が来る前に、まず、主イエスが多くの苦しみを受け、人々から排斥され、そして十字架に架けられて死なれるのです。このことにこそ目を向けなさい、と主イエスは言われます。人の子の日が来るのを見たいと望む時代にあって、困難な現実に直面する中で、私たちが目を向けるべきなのは、私たちが苦しみを受けるよりも前に、主イエスが多くの苦しみを受け十字架で死なれたことです。私たちは現実から目を逸して、再臨のキリストはあっちだろうかこっちだろうかと、苦しみや悲しみからの解放はあっちにあるのだろうかこっちにあるのだろうか、と心ここにあらずの状態で、地に足がつかない状態で生きるのではなく、主イエスが十字架で苦しみを受けられたことをしっかり見つめて生きるのです。この私の救いのために、主イエスが十字架でまことに大きな苦しみを負ってくださったことを見つめることを通して、私たちの苦しみの意味が変わっていくからです。主イエスが私たちのために計り知れない苦しみを負ってくださったことに気づかされるとき、私たちもそれぞれの苦しみに向き合っていくよう導かれます。現実逃避するのではなく、困難な現実に向き合って生きるよう導かれるのです。

主イエスの十字架こそが救いの完成の確かな保証
 主イエスを信じて生きるとは、主イエスの再臨を信じて生きることだ、と申しました。しかし主イエスの再臨を信じて生きるとは、主イエスが再び来てくださるのをどのように知ることができるのかとか、いつどこで人の子の日を見ることができるのかとか、そのようなことに心を奪われて生きることではありません。そうではなく主イエスの十字架の苦しみと死を見つめて生きることなのです。なぜなら主イエスが再び来てくださり救いを完成してくださることの確かな保証は、主イエスの十字架にこそあるからです。主イエスの十字架の死と復活による救いの実現が、主イエスの再臨と救いの完成の約束を私たちに保証しているのです。

すでに神の国が来ていることに目を向けて
 このように将来、主イエスが再び来てくださり救いを完成してくださることを待ち望んで生きるとは、すでに主イエスが十字架において救いを実現してくださったことに目を向けて生きることです。このことは、「神の国」という言葉を用いるならば、このように言い換えることができます。「将来、主イエスが再び来てくださるときに神の国が完成することを待ち望んで生きるとは、すでに主イエスが十字架において神の国を実現してくださったことに目を向けて生きることである」、と。それゆえ私たちは20、21節に目を向けるよう導かれます。20節でファリサイ派の人たちは、「神の国はいつ来るのか」と尋ねていました。それは神の国がいつ来るのかをどうやって知ることができるのか、という問いでした。その前提にあるのは、ファリサイ派の人たちが神の国はまだ来ていない、と考えていたということです。彼らの目にはローマ帝国によるユダヤ人支配の現実しか見えませんでした。神の国が来ているとは思えなかったのです。だからどんなしるしを見れば、神の国がいつ来るか分かるのか、と尋ねているのです。しかし主イエスは「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われました。神の国は見える形では来ない、神の国がいつ来るか知るしるしはない、と主イエスは言われたのです。そして主イエスは、神の国はいつ来るのか、それを知るのにどんなしるしがあるのかと言っているファリサイ派の人たちに対して、実は、もうすでに神の国は来ている、と言われたのです。
 私たちはすでに神の国が来ていることにこそ目を向けます。主イエスの昇天より後の時代に、将来、主イエスが再び来てくださることを切に願って生きる私たちは、すでに主イエスにおいて神の国が来たことに目を向けるのです。神の国とは神のご支配のことですから、私たちはすでに自分たちが神のご支配のもとに生かされていることに目を向けます。そのことによって私たちは地に足をつけて、困難な現実の中にあっても、神のご支配の完成を待ち望みつつ生きるのです。私たちは神の国はいつ来るのか、それにはどんなしるしがあるのか、そのようなことばっかりを見て、心ここにあらずの状態で現実逃避して生きるのではありません。すでに神のご支配のもとに生かされていることに足場をおいて、将来、神のご支配が完成することに望みをおいて、今、直面している現実にしっかり向き合って生きていくのです。

神の国は私たちのただ中に
 主イエスは「実に、神の国はあなたがたの間にある」と言われました。聖書協会共同訳では「実に、神の国はあなたがたの中にある」と訳されています。しかしこの「神の国はあなたがたの中にある」という訳は誤解を生みやすいと思います。神のご支配がこの世界に実現しているのではなく、私たちの心の中だけで実現していると受けとめてしまいかねないからです。神のご支配の実現を私たちの心の問題にすり替えてしまいかねないのです。日々の生活の中では神のご支配が実現しているように思えなくても、信じられなくても、自分の心の中は神がご支配くださっているから大丈夫、問題ないと考えるのです。しかしこのように神のご支配の実現を心の問題、精神的な問題にすり替えることも、一種の現実逃避でしかありません。ここで主イエスは神のご支配の実現を心の問題として語っているのではないのです。「神の国はあなたがたの間に、あなたがたのただ中にある」と宣言しているのです。それは、どういうことなのでしょうか。私たちはキリスト者が集まるところに、そのただ中に神の国が実現している、と受けとめたくなります。しかしここではそうではありません。なぜなら主イエスはこのことを弟子たちに向けてではなく、ファリサイ派の人たちに向けて語っているからです。主イエスは、今、ファリサイ派の人たちと共におられます。その主イエスがファリサイ派の人たちに、「神の国はあなたがたのただ中にある」と言われているのです。それは、主イエスが共にいてくださるところに神の国は実現している、ということにほかなりません。主イエスはファリサイ派の人たちに、「今、自分があなたたちと一緒にいるところに神の国が実現している、このことを信じなさい」、と言われているのです。
 私たちはこのことを信じるのです。主イエスは十字架で死なれ、復活され、天に昇られましたが、今、聖霊のお働きによって私たちと共にいてくださいます。そこに神の国が実現していると、神のご支配が実現していると信じるのです。この世にあって聖霊のお働きによって主イエスと共に生きる私たちのただ中に、神の国は実現しているのです。たとえ困難な現実の中にあっても、たとえ苦しみや悲しみに覆われている現実の中にあっても、主イエスが共にいてくださるゆえに、私たちはその現実のただ中に神の国が実現していると信じます。職場や学校や家庭で、あるいは教会で問題にぶつかり、困難に直面するときも、まさにそこに神の国がすでに実現していると信じ、神の御心を求めて生きるのです。
 「神の国はいつ来るのか」。主イエスにおいてすでに神の国は来ています。「人の子の日はいつ来るのか」。いつ来るのかに目を向けるのではなく、すでに神の国が私たちのただ中に来ていることに目を向け、将来、神の国が完成することを待ち望んで生きます。すでに神の国が私たちのただ中に実現していることを信じ、将来、神の国が完成することに望みを置いて生きるときにこそ、私たちはあらゆる現実逃避に陥ることなく、今をしっかり生き、今、直面している現実にしっかり向き合い、責任を持って生きていくことができるのです。

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