主日礼拝

まことの王を迎える

「まことの王を迎える」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; ゼカリア書 第9章9-10節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第12章12-19節
・ 讃美歌; 16、355、476

 
王を迎える
 本日の説教の題を「まことの王を迎える」としました。私たちが主イエス・キリストを救い主として心の内に受け入れる、キリストを信じて生きるとは、まことの王を迎えるということです。私たちの中には、既にキリスト者とされて、主イエスを救い主として受け入れているという方もいれば、求めつつもまだ受け入れていないという方もおられます。しかし、まことの王を迎えているかどうかというのは、ただキリスト者とされているかどうかという問題ではありません。キリスト者とされている者であっても、繰り返し、「まことの王」であるキリストをお迎えしていかなくてはなりません。王を迎えるというのは、その支配に服することです。私たちは御言葉を通して、キリストに接しますから、キリストを王とするとは、御言葉の支配に自らを委ねることを意味しています。しかし、私たちはなかなか、その支配に服することが出来ません。例えば、私たちは、聖書の御言葉に接して、自分が納得するキリストの姿は受け入れても、受け入れがたいと思うキリストの姿は受け入れないということがあるのではないでしょうか。自分でキリストのイメージを造り上げて、そのキリストを讃えているということもあるのです。キリストを受け入れているようで、自分が支配者になって、迎えるに相応しい王であるかどうかを判断していると言っても良いでしょう。自分の心の中を自分自身が支配していて、好ましくない王が入って来るのを拒んでいるのです。そこでは、まことの王の支配に服するのではなく、結局、自分が王となっているのです。

主イエスのエルサレム入城
 本日お読みした個所には、主イエスがエルサレムにお入りになった時のことが記されています。過越祭の時でした。この祭の最後の日に、主イエスは人々の手によって十字架に付けられることになるのです。十字架に付けられるためにエルサレムにお入りになる主イエスのお姿は、すべての福音書が記しています。本日の個所の表題の脇に、他の三つの福音書の並行個所が記されている通りです。これらを読み比べてみますと、ヨハネによる福音書は明らかに他の福音書と異なる特徴があります。それは、この福音書が主イエスを迎え出る群衆の姿を強調しているということです。他の福音書では、弟子に子ろばを準備させ、自ら手はずを整えてからエルサレムに入って行く主イエスの姿から描いています。それに対して、ヨハネは、最初に迎え出る群衆の姿を記すのです。12節には、次のようにあります。「その翌日、祭に来ていた大勢の群衆は、イエスがエルサレムに来られると聞き、なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして叫び続けた」。
 何故群衆は、主イエスを迎え出たのでしょうか。その理由は17節にあります。「イエスがラザロを墓から呼び出して、死者の中からよみがえらせたとき、一緒にいた群衆は、その証しをしていた。群衆がイエスを出迎えたのも、イエスがこのようなしるしをなさったと聞いていたからである」。ヨハネによる福音書は、第11章において、ラザロのよみがえりという主イエスのしるしを記していました。そして、エルサレム入城の記事も、ラザロのよみがえりと結びつけて記しているのです。しるしとは、主イエスが神の子、救い主であることを世に示すためのものです。主イエスは、ラザロをよみがえらせることによって、ご自身が、罪を滅ぼし、死の力に勝利される救い主であることを世にお示しになったのです。人々が、主イエスを迎え出たのは、この主イエスのなさったしるしを見ていた人々が、そのことを証ししていて、その証しを人々が聞いていたということによるのです。人々は歓喜のあまり、「ホサナ」と叫びつつ、主イエスを迎えました。「ホサナ」とは、「主よ、お救い下さい」という意味です。人々は、ラザロのよみがえりというしるしに接して、そこに確かな力を感じ取り、主イエスを救い主として受け入れたのです。

棕櫚の葉
 しかし、主イエスのしるしを見た人々が、真の救い主として主イエスを迎えていたかと言えばそうではありませんでした。ここで、群衆は皆なつめやしの枝を手にして主イエスを迎えました。なつめやしの枝というのは、かつて使っていた口語訳聖書では、棕櫚の葉となっていました。主イエスがエルサレムに入ってから十字架で死なれるまでの最後の一週間、受難週に入る日曜日を棕櫚の主日と言います。それは、本日の場面で人々が、棕櫚の葉をもって、主イエスを迎え出たことによるのです。「なつめやしの枝」を人々が手にして主イエスを迎えたことにはどのような意味があったのでしょうか。なつめやしの木はこの地方に多く生えていて、イスラエルの人々にとって身近な植物でした。エルサレム近郊のエリコの町は「なつめやしの町」とも呼ばれていたようです。更に、エルサレム神殿の壁には、このなつめやしの葉の模様が刻まれていました。日本人にとって最も身近で親しみのある木は桜であると言って良いでしょう。日本中どこでも桜を見ることが出来ますし、全国各地の寺院には目を見張るような立派な木が植えられています。又、とりわけ桜が多くある地域は、桜という言葉を用いた地名が付けられています。丁度、日本人にとって桜がそうであるように、イスラエルの人々にとってなつめやしは民族感情と深く結びついていた植物なのです。更に、このなつめやしの枝を持ってエルサレムに迎えるということには特別な意味がありました。それは、ユダヤ人たちの過去の記憶と結びついた行動だったのです。紀元前2世紀前半に遡りますが、ユダヤは、セレウコス朝シリアの属国でした。アンティオコス・エピファネスという王が、ギリシア的な宗教を強要し、エルサレム神殿にゼウスの像を立てさせていたのです。更に律法を守ることも禁止し、割礼を受けること等を許しませんでした。ユダヤ人の信仰の中心である、神殿と、律法が、異邦人達の手によって荒らされていたのです。ユダヤの祭司達はこれに反抗し、礼拝の自由、ユダヤの独立を求めて闘争を展開し、紀元前164年にマカバイオスのユダが率いる軍勢が、エルサレム神殿を奪回しました。そして、神殿からギリシア的な神々の像を排除し、新しい祭壇を備えたのです。このマカバイオスのユダがエルサレムに入城する時、人々はなつめやしの枝を持って迎えたのです。

主イエスを迎える人々の思い
 主イエスの時代、ユダヤ人達は、アンティオコスが統治するシリアよりも更に強大なローマ帝国の支配の中にありました。人々は、主イエスを、かつてシリアの支配が覆し、神殿を取り戻したマカバイオスのユダのような指導者として迎え入れ、ローマの支配から救い出してくれることを期待したのです。つまり、人々は主イエスを、力によって、支配者の圧政から解放する王として迎え入れたのです。人々は口々に叫び続けます。「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」。ここで、「イスラエルの王に」という言葉の背後には、主イエスこそローマ帝国の支配から解放する政治的な王であるとの思いがあるのです。
 このような民の声は、自分の思いを実現させるために、主イエスを担ぎ上げる声です。主イエスは、人々の心がどのようなことを願っているのかを既に見抜いておられました。主イエスを自分の望む救い主として祭り上げようとする民の思いは、既に、この福音書の6章14節に記されていました。「そこで、人々はイエスのなさったしるしを見て、『まさにこの人こそ、世に来られた預言者である』と言った。イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた」。主イエスがパンの奇跡をなさった後のことです。そのしるしを見た人々が、主イエスを王にしようとしたのです。しかし、そのような人々の思いを避けるようにして山に行かれたのです。主イエスは繰り返し、自らが救い主であることをしるしによって証しして来ました。しかし、どれだけ、しるしを示しても、人々の、主イエスを自分の望む王として祭り上げようとする思いはおさまることはありませんでした。むしろその思いは増幅していったのです。そのため主イエスは時に群衆から身を引き、退いていたのです。しかし、この時は違います。主イエスは、人々がご自身を王として祭り上げようとしている中に自ら入って行くのです。この群衆の叫びが、真に人間の思いに支配されたものであること、それ故に、すぐに、自分を十字架につけよとの叫びに代わっていくものであることを知りながら、その中へと入って行くのです。いよいよ主イエスが十字架に向かうべき時が来たからです。

ろばの子を見つけて
 ご自身のことを誤解して、歓喜のあまりに叫び続けながら、出迎える人々に対して、主イエスはろばの子を見つけてお乗りになります。他の福音書では、エルサレムにお入りになる前に主イエスの方から弟子たちに子ろばを準備させ、それにお乗りになってエルサレムにお入りになるのです。しかし、ここでは人々の出迎えを受けて、エルサレムにお入りになってから、子ろばにお乗りになります。主イエスは、人々の民族意識と結びついた歓喜の声を上げる人々に対して、はっきりとご自身がどのような者であるかをお示しになったのです。
 この世の王は鍛え抜かれた馬に乗るものです。当時、馬は力強さ、武力の象徴でした。しかし、主イエスはここで馬ではなく、ろばにお乗りになったのです。馬が、体が立派で人を乗せて早く走ることが出来るのに対して、ろばは、馬ほど大きくなく、力もありません。戦争の時にろばにまたがって戦うということはありません。馬が力強さの象徴であるのに対し、ろばは無力さの象徴と言って良いでしょう。しかも、ここでは、ただのろばではなく、「子ろば」とあります。主イエスは、大人一人を乗せて歩くにはあまりにひ弱すぎる子ろばに乗って、よたよたと道を進むのです。ここにははっきりとしたコントラストがあります。武力的な解放をもたらす力に満ちた救い主を迎え入れようとする大勢の群衆の歓喜の声の中を、ひ弱で、今にもくずおれてしまいそうな姿で、主イエスは道を進まれるのです。棕櫚の葉をかざす人々と、ろばに乗る主イエスの間には、人間が思い描く救い主に対する思いと、実際のキリストとの対照がよく示されています。
 14節には、このことが、旧約聖書の預言の成就であることが記されています。「シオンの娘よ、恐れるな。見よ、お前の王がおいでになる、ろばの子に乗って」。この個所は本日お読みした旧約聖書ゼカリヤ書第9章の御言葉です。「見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者/高ぶることなく、ろばに乗って来る/雌ろばの子であるろばに乗って。わたしはエフライムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ/諸国の民に平和が告げられる」。ここでは、ろばに乗るということが「高ぶらない」という謙遜さ、柔和さと結びつけられています。戦車、軍馬を絶ち、真の平和を告げる王の姿が描かれているのです。このことを通して、主イエスが、力によって民の上に君臨し、戦車や軍馬を従えて諸国を制圧するような王として来られたのではないのです。むしろ、そのような支配を終わらせるために来たのです。

主イエスの十字架と復活によって
 しかし、この時、誰も、旧約聖書の意味することも、ここで主イエスが子ろばに乗ったことが何を意味するのかも分かりませんでした。16節には次のようにあります。「弟子たちは、最初これらのことが分からなかったが、イエスが栄光を受けられたとき、それがイエスについて書かれたものであり、人々がそのとおりにイエスにしたということを思い出した」。ヨハネによる福音書において、主イエスが栄光を受ける時というのは、主イエスの十字架と復活のときです。弟子たちは、この後主イエスの十字架と復活を経験し、ろばに乗るへりくだった王の姿を思い出し、そこにこそ、まことの王としての主イエスのお姿があったということに気が付いたのです。ヨハネによる福音書は、繰り返し、「思い出す」という言葉を使います。これは、「分かる」とも訳される言葉です。例えば、すぐ後の13章には、主イエスが弟子の足を洗ったことが記されていますが、そこでも7節の所で、「今あなたがたには分かるまいが、後で、分かるようになる」とあります。主イエスの栄光を受ける前には、分からなかったことが、受けた後で分かるようになったと言われるのです。
 「ホサナ」と叫びつつ、主イエスを出迎えた群衆は、この六日後に「十字架につけろ」と叫ぶようになります。人々がののしり、叫ぶ声の中で、主イエスは十字架に付けられたのです。主イエスが、自分たちが期待していたようにローマ帝国からの解放をもたらしてくれるような王ではなかったからです。人々は、主イエスを迎えたように見えながらも、実際は、自分の思い描く救いを実現する王として期待していただけでした。主イエスが、その期待に添う限りは、王として讃えることはあっても、期待から外れてしまったら、十字架に付けてしまうのです。主イエスは、そのような人々の自ら支配者たろうとする思いの中に入って来られて、その思いに逆らうことなく、主イエスは十字架に付けられます。そして、その十字架を通して、人々の罪を贖ってくださったのです。棕櫚の葉をかざす人々の中で、ろばに乗ることによって示されたお姿は、この十字架でのへりくだりを示しているのです。自分が支配者となって君臨し続けようとする者の罪を贖い、その救いを成し遂げるためにこそ、神はこのような無力さに生きられたのです。栄光とはほど遠い救い主の姿の中に、真に力ある全能の神による救いが示されているのです。

真の平和を実現する王
 ここに平和を実現する柔和な王である主イエスによる救いの御支配があります。聖書において平和というのは、何よりも先ず、神との関係における平和です。本来、神と向かい合って立つことが赦されない罪人である人間が、その罪の思いの故に、主イエスを十字架へと追いやることにおいて、かえってその罪が贖われることとなり、神との平和が実現されたのです。そして、この神との平和を実現してくださる方を王として迎える時に、私たちは、自分が王となって歩むことから解放されます。そして、自分の思いが神によってうち砕かれ、罪が赦されるということにおいて、隣人との間にも平和が生まれるのです。私たちが、自分の思う救い主を受け入れようとしている時、そこには、表面的には神の救いが語られながらも、人間の思いが主張されるということがおこります。様々な民族感情が入って来たりします。又、宗教による対立が生まれたりするのです。それらは、真の王を迎えていないからです。ただ、真の王を迎えることにおいて、私たちと神さまとの間の平和が保たれる時、私たちの間でも真の平和が実現して行くのです。

まことの王を迎えて
 私たちも繰り返し、この時の弟子達と同じ経験をするのではないかと思います。私たちは、聖書を通して、主イエスの姿に接する時、そこに何か人間の思いを越えた、神さまの御心を感じつつも、はじめのうちは良く分からないということがあります。しかし、主イエスの十字架と復活のお姿を通して、そこで語られていることの意味に後になって気が付くということがあるのではないでしょうか。
 自分が王のようにして振る舞い、キリストをまことの王として受け入れようとしていない時、私たちは、御言葉を通して示されるお姿の内、受け入れやすいものは、喜んで受け入れるのに対して、受け入れがたいものには耳を閉ざしてしまうことがあります。又、聖書を自分の人生に目的を与え、豊かにしてくれるものとして読んだり、倫理的な教えや、正しい生き方を求めて、御言葉に接しようとしたりということもあります。そのような時、私たちは少なからず、自分の思いに主イエスを従わせようとしています。そして、自分の思いに合うキリストを求めて、「ホサナ」と叫びつつ、真の救い主に対しては、小さな支配者となって「十字架につけろ」と叫んでいるのです。しかし、そのようにして、御言葉に接しようとする、私たちの下に、主イエスの方が入って分け入って下さり、十字架のお姿を示して下さるのです。それを受け入れる時に、そこに、神の救いのご計画があり、罪人たちの反抗に対抗することなく、へりくだって自らを委ねることを通して、その罪を赦してくださったことを知らされるのです。その時、聖書が語る恵が自らを生かしているということを経験するのです。王を迎えようとしない者の信仰の道は、常に、そのようなことを繰り返しつつ深められていくのです。
 私たちは、主イエス・キリストの十字架と復活に、真の救いを見出します。そのことが証しされている御言葉を聞きます。その証しに触れる中で、私たちも、真の救い主として来られた方を王として迎えたいと思います。ヨハネの黙示録第7章9~10節には、次のようにあります。「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊のものである』」。主イエスの前であらゆる国民、種族、民族から集められた人々が、なつめやしの枝を持って、キリストにこそ救いがあることを叫んでいるのです。ここに、私たち救いに与った者の礼拝が示されています。王となって歩んでしまう者たちを救うために、謙った姿で、その支配に身を委ねつつ、救いを実現された、主イエスの姿から、この方以外に真の救いを約束し、平和を実現する方がいないことを示されて「ホサナ、主の名によって来られる方に、祝福があるように、イスラエルの王に」と讃美の声を上げつつ、主イエスを迎え入れるのです。

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