主日礼拝

誘惑に遭わせず

説教題「誘惑に遭わせず」 牧師 藤掛順一

創世記 第3章1~7節
マタイによる福音書 第6章13節

試みには遭いたくない
 主イエス・キリストが「このように祈りなさい」と教えて下さった「主の祈り」を礼拝において順番に読んできました。本日はその最後の祈り、「わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください」です。私たちが祈っている言葉では「われらを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」です。私たちが「試み」と言っている言葉が聖書では「誘惑」となっており、私たちが「悪より」と言っているところが「悪い者から」となっています。
 「試み」あるいは「誘惑」と訳されている言葉は、「試験する、テストする」という言葉から来ています。試験、テストをすることによって、ちゃんとしているか、本物であるかを確かめるという意味です。「試み」という言葉は「試験」の「試」という字ですから、これは相応しい訳だと言えるでしょう。「われらを試みに遭わせず」とは、私たちをテストして成績を明らかにしないで下さい、という願いなのです。誰だってテストされることはいやです。しかし人生にはいろいろなテストがあります。学生時代は勿論のこと、社会人になってからも、いろいろな資格を得るためにテストを受けることがあります。そういう文字通りのテストではなくても、私たちはある意味でいつも周囲からテストされているのではないでしょうか。仕事の上での業績をいつもテストされているし、家庭でも、よい夫であるか、妻であるか、よい父、母であるか、あるいはよい子どもであるか、ということをいつも問われているのです。いつもはそんなに意識していなくても、何かがあると、仕事における、あるいは家庭における真価が問われ、テストされる、ということが人生にはあります。そういうことにはできるだけ遭わずにすませたいと私たちは思います。つまり「試みに遭いたくない」と私たちは思っているのです。

信仰における試み
 しかしこの祈りは、「試みに遭わせないで」ということを神に祈り求めています。つまり、神から来る、神との関係における「試み」が見つめられているのです。神との関係、信仰においても試みがあります。その試みによって、信仰の真価が問われ、信仰が本物かどうかが試されるのです。信仰を持って生きることにもそういう試みがついてまわります。いや信仰の生活は日々試みの連続だと言った方がよいかもしれません。そういう現実が見えて来れば来るほど私たちは、「私たちを試みに遭わせないでください」という祈りを、日々真剣に祈らずにはおれなくなるのです。

苦しみによる試み
 信仰における試みはどのようにして起るのでしょうか。神を信じてその恵みに感謝して日々を平穏無事に過ごしている時には、試みは感じません。しかしひとたび何かつらいこと、苦しいこと、悲しいことがあると、そこに信仰の危機が訪れます。それは一言で言えば、神の恵みがわからなくなる、という危機です。平穏無事な生活の中では神の恵みが感じられていたのに、その平安が失われると共に、神の恵みを見失ってしまうのです。そこに試みが起り、信仰の真価が問われ、信仰が本物であるかどうかが試されます。本物の信仰であれば、そのようなつらい時、苦しい時、悲しい時にも、いやそういう時にこそ、神を信じ、神に寄り頼み、そこに支えを見出していくはずです。平穏無事な時にだけ神を信じているというのは、自分の平穏な生活のために神を利用しているだけです。それは私たちにも分かります。しかし私たちは、苦しみにあう時に、やはり神の恵みが分からなくなってしまう。それが感じられなくなってしまうのです。そしてさらには、神など本当にいるのだろうか、神を信じたのは一時の気の迷いだったのではないか、などと思うようにもなってしまうのです。苦しみがそのようにして信仰の試みとなるのです。

人間関係における試み
 信仰の試みとなる苦しみは、病気とか事故とか災害とかによって起ることもあるし、人間関係において起ることもあります。教会の外の、世間における人間関係の中でだけそれが起るわけではありません。信仰者どうしの交わりにおいて傷ついてしまうことが起ります。そこにはより深刻な試みがあります。私たちはみんな罪人であり、その罪は、神の独り子イエス・キリストが十字架にかかって死んで下さらなければ赦され得ないほどに大きいのです。そういう罪人だからこそ、そして主イエスがその罪を赦して下さったからこそ、私たちはこうして教会に集まり、信仰者として共に生きているのです。そのことはみんな知っているはずです。それなのに、「あの人に傷つけられた、赦せない」という思いが起る。それはまさに信仰の試みです。そこで私たちの信仰の真価が問われているのです。先週の礼拝では、主の祈りの第五の祈り、「われらに罪を犯す者をわれらが赦すことく、われらの罪をも赦したまえ」を読みました。この第五の祈りを心から祈ることができるかどうかを、私たちは試みの中で問われているのです。この祈りは祈れないと言ってしまうならば、私たちは神による罪の赦しの恵みよりも、自分の思い、自分の恨みや憎しみを優先させて生きているということになります。私たちは日々そういう信仰の試みを受けているのです。

蛇の誘惑
 つまり試みというのは単なる苦しみではなくて、私たちを信仰から、神と共に生きることから引き離そうとする誘惑です。試みが誘惑とも訳されるのはそのためです。誘惑と言うと、悪いことへと誘われる、ということをイメージしがちですが、私たちが受ける最も深刻な誘惑は、神のもとで生きることをやめさせようとする誘惑なのです。その誘惑のことが、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、創世記第3章に語られています。最初の人間アダムとエバが蛇の誘惑によって罪に陥った話です。私たちが受ける試み、誘惑の根本がここに描かれているのです。
 蛇はまずこう語りかけています。「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか」。神は、エデンの園に人を住まわせ、そこに生えている木の実を自由に食べてよいとおっしゃいました。ただ、園の中央にある「善悪の知識の木」の実だけは食べてはいけないとお命じになったのです。このことは、神の下で生きる人間の本来のあり方を象徴的に表わしています。神の下で生きている人間は、神の豊かな恵みに養われており、「どの木からも食べてよい」という大きな自由を与えられていたのです。しかしそこには、「この木の実だけは食べてはいけない」という一つの小さな禁止がありました。神の下で人間は、大きな自由を与えられているけれども、そこには一つの小さな禁止が、ここを踏み越えてはならないという一線があるのです。神と共に生きるとはそういうことです。しかし蛇はわざと、「園のどの木からも食べてはいけない」と神が言っているかのように語りかけて来るのです。神はそんなひどいことを言っているのか、神と共に生きることはなんて窮屈な、がんじがらめに縛られた生活なのか。そんな生活はさっさとやめたらいい、と蛇は言っているのです。人間はこの誘惑に最初は抵抗して、「いえ私たちは園の木の実を自由に食べることができるのです。ただ、善悪の知識の木の実だけは食べてはいけないと言われています」と言いました。すると蛇は今度は、善悪の知識の木の実を食べても「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」と言います。神がそれを食べてはいけないと言っているのは、それを食べると、あなたがたも善悪を知る者となり、神と肩を並べる者になってしまうからだ。神はあなたがたをいつまでも自分の下に奴隷のように縛りつけておこうとしているんだ。だからそんな束縛から逃れて自由になったらいい。この実を食べれば、あなたがたは神から自由になって、自分の思い通りに生きることができるようになるのだ。それが蛇の誘惑です。神の下での不自由な生活から抜け出して、神から自由になって、自分の思い通りに生きなさい、ということです。人間はこの誘惑に負けて、禁断の木の実を食べてしまったのです。

誘惑の根本
 私たちは様々なことによって試みを受けますが、その根本にはこの誘惑があるのです。苦しみ悲しみ不幸にあう時に、神の恵みが見えなくなってしまい、神なんて本当にいるのだろうかと思ってしまう、そこには、神を信じていてもつらいことばかりで何もよいことはない、そんなことはやめてしまえという誘惑があります。教会における人間関係で傷ついてしまうところには、教会になど行かない方が嫌な思いもしなくてすむ、という誘惑があります。あるいはそこで「われらに罪を犯す者をわれらが赦すごとく、われらの罪をも赦したまえ」と祈るのではなくて、「あの人は赦せない」という思いに囚われていくなら、それは神のみ心に従うのではなくて、自分の思いに身を任せて生きようとしている、ということで、それは蛇の誘惑によってアダムとエバが、神に従うことをやめ、自分が主人になって、神から自由になろうとしたのと同じことです。そのように、私たちを神から引き離し、神のもとで生きることをやめさせ、自分が主人となって、自分の思い通りに歩ませようとする誘惑を、私たちは日々受けているのです。

悪い者とは
 ですから、試みとか誘惑によって私たちが陥るのは、何か悪いことをしてしまうことではありません。試みや誘惑は、私たちを神から引き離すのです。具体的に悪いことをしなくても、心が神から離れ、神なしに、神と関わりを持たずに生きていこうとするなら、そこで私たちは試み、誘惑に陥っているのです。そのことを見つめる時に、この祈りの後半の「悪より救い出したまえ」の意味が分かってきます。これは単に何かの悪、悪いことをしてしまわないように、という祈りではないのです。聖書では、「悪い者から救ってください」となっています。原文の言葉は「悪」とも訳せるし、「悪い者」とも訳せます。しかし内容から言えばこの祈りは、「私たちを神から引き離そうとする悪い者の誘惑から守ってください」ということなのです。その場合の「悪い者」は、「悪人」というよりも、まさにアダムとエバに語りかけたあの蛇に象徴されているサタン、悪魔のことです。悪魔は、様々な機会を用いて、私たちの心に、神を信じることは束縛でしかない、神から自由になって、自分の思い通りに生きたらいい、とささやきかけてくるのです。そういう悪魔の誘惑から救い守ってくださいというのがこの祈りなのです。

私たちの信仰の弱さのゆえに
 主イエス・キリストは私たちが、試み、誘惑に遭わせず、悪い者から救ってくださるように神に祈り求めるためにこの祈りを教えて下さいました。それは、主イエスが、私たちの弱さ、信仰の脆さ、不確かさをよくご存じであり、そのために心を配って下さっている、ということです。試み、誘惑に「遭わせず」という言葉にそのことが現れています。試み、誘惑に打ち勝つ力を与えて下さい、ではなくて、試み、誘惑に「遭わせないで下さい」と祈るのです。試みに打ち勝つところに信仰の成長がある、という考え方からすれば、試みから逃げるのではなくて、積極的に試みと戦わなければだめだ、ということになるかもしれません。しかし主イエスは、私たちの信仰が弱く脆いものであることをご存じなのです。弱い者に、その力以上の訓練を与えても、強くなる前につぶれてしまいます。主イエスは私たちのためにそういう配慮をして下さっているのです。この祈りを、イザヤ書第42章3節の「傷ついた葦を折ることなく、暗くなっていく灯心を消すことなく」という言葉と合わせて説き明かしている説教がありましたが、その通りだと思うのです。

誘惑に打ち勝って下さった主イエス
 しかし、それだけで問題は解決しません。主イエスは私たちの弱さを思いやって下さって、「試みに遭わせないで下さい」という祈りを教えて下さいました。しかしそう祈れば私たちの歩みから試み、誘惑がなくなってしまうわけではありません。私たちが神を信じ、主イエスに従って生きていこうとする時に、そこには必ず様々な試み、誘惑が襲いかかって来るのです。それならば、この祈りを祈る意味はどこにあるのだろうか、と思います。その意味はただ一つ、私たちが試み、誘惑にさらされつつ生きていくその歩みに、主イエス・キリストが共にいて下さるため、ということなのです。
 主イエスは、いよいよ十字架の苦しみと死とに向かおうとしておられた時、ゲツセマネという所で、「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られました。それは、迫って来ている苦しみと死とに遭わせないで下さいということです。十字架の死は、主イエスにとっても厳しい試みだったのです。まさに主イエスが、神の子として、父なる神に従って歩めるかどうか、その真価が問われる場面だったのです。その試みを前にして主イエスも、「試みに遭わせないで下さい」と父なる神に祈られたのです。つまりこの祈りは、主イエスが私たちのために教えて下さった祈りであるだけではない、主イエスご自身の祈りでもあるのです。私たちは、主イエスご自身が苦しみの中で真剣に祈ったその祈りを、主イエスと共に祈っていくのです。そして主イエスは、このように祈りつつ、父なる神のみ心に従って、十字架の苦しみと死とへの道を歩み通されました。つまり試み、誘惑に打ち勝ち、父なる神への信仰を、服従を貫かれたのです。そのことによって、私たちの救いが実現しました。私たちの救いは、主イエスが試み、誘惑に打ち勝って神への服従を貫いて下さったことによって与えられたのです。

誘惑に負けてしまった弟子たち
 主イエスの弟子たちは、この祈りを教えられて、主イエスと共にこの祈りを祈りつつ歩みました。しかし彼らは、いよいよ主イエスが捕えられ、十字架につけられる時、つまり主イエスに従っていくことによって自分の身にも危険が及ぼうとした時、みんな、主イエスを見捨てて逃げ去ってしまいました。彼らは試みに打ち勝つことができなかったのです。わが身かわいさのあまり、主イエスに従っていく信仰を捨ててしまったのです。主イエスの十字架の死は、その弟子たちの罪を背負い、それを赦して下さるための死でもありました。復活した主イエスは、試みに負け、誘惑に陥ってしまった弟子たちの罪を赦して、もう一度弟子として、主イエスに従い、その救いを宣べ伝える者として立て、遣わして下さったのです。試み、誘惑に打ち勝った主イエスが、それに負けてしまった弟子たちを救って下さったのです。 

試みに満ちた人生を、主イエスに支えられて生きる
 私たちもこの弟子たちと同じです。私たちも、主の祈りを教えられ、それを祈りつつ人生を歩みます。しかしそこには様々な試み、誘惑があり、神を信じることは束縛であり、神から離れて生きるところにこそ自由があるのだと思わせようとする力が働いています。その力の前で、私たちはまことに弱く脆いものです。「自分は最後まで主イエスへの信仰を貫き通すことができる」などと言える人はいないでしょう。あのペトロもそのように言っていたけれども、結局三度主イエスを「知らない」と言ってしまったのです。私たちはそのように弱い者です。自分の力で試みに打ち勝てる者ではありません。そのような私たちのために、主イエス・キリストは独り、試みに打ち勝って十字架の死への道を歩み通して下さったのです。試みに負けてしまう私たちは、この主イエスの十字架の死によって、赦され、信仰者として立てられていくのです。「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」という祈りは、試みに満ちたこの世を、この主イエス・キリストと共に歩んでいくための祈りです。主イエスが教えて下さり、主イエスご自身も祈りつつ歩まれたこの祈りを、私たちも祈りつつ歩むことによって、私たちの信仰の歩みは、主イエスに支えられた歩みとなるのです。この祈りを祈ることなしに生きるならば、私たちは、様々な試み、誘惑と自分一人で戦っていくことになります。その戦いに勝ち目はありません。アダムとエバも、蛇の誘惑に負けたのです。ペトロを始めとする弟子たちもそうだったのです。彼らに出来なかったことを、私たちが出来るはずはありません。けれども、そのことを成し遂げて下さった方がただ一人おられます。それが主イエス・キリストです。主イエスはただ一人、試み、誘惑を退けて、父なる神のみ心に従い通されたのです。この主イエスが共にいて支え導いて下さることを祈り求めつつ生きることによって、私たちは、試み、誘惑と戦っていくことができるのです。あるいは、その戦いに敗れてしまうことがあっても、もう一度神のみもとに立ち返ることができるのです。私たちは弱い者ですから、試みを受けることによって神の恵みを見失ってしまうことがあります。神と共に生きることを不自由や束縛と感じてしまうことがあります。しかしそのような私たちのために、そのような私たちに代って十字架にかかって死んで下さった主イエス・キリストによって、神の恵みは確かに私たちに注がれているのです。主イエスの父である神が、私たちの父となって下さり、「天にまします我らの父よ」と呼びかけて祈ることを許して下さっているのです。この天の父なる神のもとでこそ、私たちは本当に自由な、生き生きとした人生を、伸び伸びと生きることができます。天の父である神に、「我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」と祈りつつ生きることによって、試みに満ちている私たちの人生に、神の恵みによる確かな支えが与えられていくのです。

関連記事

TOP