主日礼拝

善い業が成し遂げられる

「善い業が成し遂げられる」伝道師 乾元美

・ 旧約聖書:詩編第138編8節
・ 新約聖書:フィリピの信徒への手紙第1章1-11節
・ 讃美歌:224、13、521

 本日から共に御言葉を聞きますのは、フィリピの信徒への手紙です。
 この手紙は、「喜びの手紙」と呼ばれています。
 パウロという人物から、50年の後半、または60年過ぎ頃に、フィリピという町にいてキリストを信じた人々に宛てられた手紙、つまり、フィリピの「教会」宛ての手紙です。
 しかし、この手紙はフィリピの教会だけでなく、その後、多くの教会で読まれてきました。この手紙は、キリストの恵みを伝え、教会の信仰を励まし、本当の「喜び」を伝えてきたのです。
 そして、手紙は新約聖書に納められて、何年も、何千年も教会で読まれ続け、わたしたちの教会にも届けられています。これから、パウロがフィリピの教会に伝えたかった、その「喜び」を、わたしたちも共に味わっていきたいと思います。

【牢獄からの喜びの手紙】
 さて、この手紙は、「喜びの手紙」とも呼ばれるほど、何度も「喜び」という言葉が出てきます。
 差出人のパウロには、何をそんなに喜ぶことがあったのか、どんなに良いことがあったのだろうかと思います。自分も喜んでいるし、あなたたちも、喜びなさい、と、手紙の中で、何度も繰り返して言うのです。
 「喜び」には、祝いごと、とか、うれしく感じること、楽しく思うこと、という意味があります。みなさんは、喜びの手紙を書いたことがあるでしょうか。わたしの最近の喜びの手紙は、3月に無事に神学校を卒業したことと、横浜指路教会に遣わされるということを、手紙であちこちに報告しました。自分に関する良い出来事の知らせであったり、誰かへのお祝いであったり、喜びを手紙で伝える時は、何かウキウキするような出来事や、状況があると思うのです。

 ところが、この手紙の差出人パウロの状況は、実は喜びとは全く程遠い状況にありました。
 パウロは、キリストの福音を宣べ伝えていたために、捕えられて牢獄に繋がれていました。しかも、殺されてしまう危険もありました。その牢獄の中で、この手紙は書かれたのです。
 自分に命の危機が迫っている時、自由を奪われ、虐げられているような時、そのような時に、うれしさや楽しさなど、どうやって感じることが出来るのでしょうか。しかも、いつ殺されるか分からない、死に直面している状況です。むしろ、恐れや不安が溢れだしてきてもおかしくないように思います。
 しかし、パウロはそのような絶体絶命の状況の中で、フィリピの人々のことを思い出し、また喜びをもって祈りながら、手紙を書いている、というのです。
 パウロは、どうして、喜ぶことが出来るのでしょうか。

【どうして喜べるのか】
 4節に、この手紙の一番目の「喜び」という言葉が出てきます。少し前の3節から読みますが、「わたしは、あなたがたのことを思い起こす度に、わたしの神に感謝し、あなたがた一同のために祈る度に、いつも喜びをもって祈っています」と、書かれています。
 その祈りの内容は、9節以下に、「わたしは、こう祈ります」と言って、祈りの内容が述べられています。それはまた、次回に見ていきたいと思いますが、その祈りの内容を述べる前に、パウロは、なぜ、自分がフィリピの人々のことを神に感謝し、そしてなぜ喜びをもって祈っているのかを、伝えています。

 パウロが喜んでいる理由は、5節から述べられます。
 「それは、あなたがたが最初の日から今日(こんにち)まで、福音にあずかっているからです。」
 最初の日とは、初めてフィリピの人々に、キリストの福音が宣べ伝えられた時のことです。

 ここで、パウロとフィリピの人々の出会いを、少し説明したいと思います。
 パウロは、ユダヤ人で、初めはキリスト教を熱心に迫害していた人でした。しかし後にキリストを信じる者に変えられて、今度は真逆に、熱心にキリストを伝える伝道者になりました。
 パウロは、手紙の差出人に名前を連ねている、若いテモテを連れて伝道旅行をしました。その時、神様の導きによって、今まで伝道していた地域から、海を越えてマケドニア州という地域に行くことになりました。そこで、一番最初に入った町が、フィリピの町だったのです。このことは、使徒言行録の第16章に詳しく書かれています。
 フィリピの町の人々は、キリストの救いを受け入れ、そこに信仰者の群れ、教会が誕生しました。これは、それまで伝道していたアジアの地域から、海を越えて、初めてヨーロッパに誕生した第一号の教会なのです。

 パウロは苦労をして、大変な思いをして、「福音」をフィリピの人々に伝えました。
 それだけ苦労をして、報われて結果が出たのなら、それは満足するし、嬉しいだろうなぁと、わたしたちは、つい早合点してしまうかも知れません。実際わたしたちは、自分が何かしたことで結果が出たり、努力が報われた時には、喜びを感じるものです。
 パウロは、フィリピに教会が誕生したことは、もちろん嬉しかったでしょう。
 しかし、それは自分の達成感や、自分が行ったことの成果として喜んでいたのではありませんでした。

フィリピの人々が、最初の日から今日(こんにち)まで、つまり、福音が伝えられた時から、パウロがこの手紙を書いている現在に至るまで、ずっと福音にあずかっている。信仰がずっと守られている。そして、6節にあるように、そのことによる確信がある。
それが、パウロが喜んでいる理由であるというのです。

【福音とは】
 パウロの喜びの理由、「福音にあずかっている」とは、そもそもどういうことでしょうか。
 「福音」という言葉自体は「良い知らせ」という意味です。
 その「福音/良い知らせ」について、パウロ自身が、他の手紙の中で述べている箇所があります。それはローマの信徒への手紙1章16節です。(そのままお聞き下さい)
 「福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。」
 福音とは、神がわたしたちのために行って下さった、救いの業のことです。真の人となられた真の神の御子、主イエス・キリストが、罪を贖うために十字架で死なれたことであり、また死人の中から復活させられた出来事です。
 また福音とは、神から離れ、罪と死に支配されていたわたしたちを、永遠の命と復活の神のご支配のもとへ、入れてくださることです。

 そのような、わたしたちの存在そのものに関わる救いの出来事が、「福音」という「良い知らせ」を聞くことから、始まるのです。
 福音は、耳で聞いて、頭で理解したり、納得して、あぁ分かった!となるものではありません。また精神的な思想や、考え方ではありません。
 福音は、神ご自身が行われる救いの業、そのものなのです。
 「良い知らせ」によって、わたしたちに、神の救いの出来事が実際に起こります。
 「光あれ」という神の言によって、混沌の中に光が創造されたように、キリストの十字架と復活の福音によって、わたしたちの罪が死に、新しい命が始まるのです。
 福音にあずかるということは、神ご自身の救いの業が、わたしに起こる、ということなのです。
 
 しかも、これは個人的なことではありません。
 「福音にあずかっている」と書かれている、「あずかる」という言葉は、他に「交わり」という意味でも使われる言葉です。神の救いに入れられることは、交わりに入れられる、ということでもあります。福音は、わたしの福音、あなたの福音、ではなく、お一人の、主イエス・キリストの福音に共にあずかることです。

 ですから、福音にあずかった者は、同じ福音にあずかった者の共同体である、教会に繋がります。みな、同じ一つのキリストの体に結ばれているからです。
 冒頭の手紙のあて先で、パウロが「フィリピにいて、『キリスト・イエスに結ばれている』すべての聖なる者たち…」と書いているのは、フィリピの人々が、神によって同じ一つの福音にあずかった、一人のキリストに結ばれた共同体なのだ、ということなのです。

 フィリピの人々がキリストのことを初めて聞き、信じた時、それが福音にあずかった最初の日です。
 そして、教会が誕生し、今日(こんにち)まで、信仰の歩みが続いている。
 パウロがフィリピを離れた後も、確かにそこにキリストの命に生き続けている群れがある。
 フィリピの教会は、フィリピの人々が福音にあずかった日から、神がずっと信仰を守り支えて下さっているという、目に見える証なのです。

 それは、わたしたちの横浜指路教会もそうです。わたしたちも、パウロと同じ、フィリピの教会と同じ、一つの福音にあずかっています。
 この日本の地に福音が伝えられ、信じる者が起こされ、教会ができ、信仰の歩みが今日(こんにち)まで続いている。今日ここで、神を礼拝する群れがある。それは、神が確かに生きて働かれていることのしるしです。神が、キリストの福音による救いの業を始めて下さり、また神御自身が今日まで信仰を守り、導いて下さっている証です。
 この教会の存在そのものが、生きて働かれている神の御手の業として、父と子と聖霊なる神が、確かにおられることを、証しているのです。
 
【善い業を始められた方が、その業を成し遂げてくださる】
 神がフィリピの人々に信仰を与え、善い業を始めて下さいました。
 そしてパウロは、善い業を始めて下さった神ご自身が、この善い業、救いの業を「成し遂げてくださる」と、「確信している」と言います。
 この確信のために、パウロは神に感謝し、喜びに満たされて祈ることができるというのです。

 信仰の歩みは、目的なくだらだらと続くのではありません。
 始まったものには、終わりがあります。
 キリスト・イエスの日、キリストが再び来られる日に、神は、始められた善い業を、成し遂げてくださいます。
 それは、最後の審判でわたしたちが罪赦された者として立ち、永遠の命を与えられ、復活させられる約束が、実現することです。
 わたしたちは確かな希望をもって、その日を待ち望んでよいのです。

 その最後の日、救いの御業の完成の日向かって、信仰の歩みはまだこれから続いてゆきます。
 しかし、わたしたちが世を生きている中では、様々な戦いがあります。
 わたしたちは、自分がその戦いに耐えられるかどうかと、心配になることがあるのではないでしょうか。もしこうなったら、もしこんなことが起きたら、自分は信仰を失ってしまうのではないだろうかと、不安になったことはないでしょうか。
 もし自分がパウロのように捕えられ、拷問を受け、牢獄に繋がれて殺されそうになったら、どうなるだろうか。
 そうでなくても、実際わたしたちや、また身近な人に襲いかかる、困難な出来事、大きな災害、心の悩みや苦しみ、体の痛みや病、不安や恐怖。目の前の現実は、いつもわたしたちを支配しようとします。

 しかし、いつも神がわたしたちに示して下さっていることは、ただ御子主イエス・キリストの十字架です。審きや怒りではありません。わたしたち、すべての造られた者が、御子の命によって救いにあずかり、罪と死から解放されて、神の支配の中で、神と共に生きることを望んで下さっている、ということです。
 
 救いは、神ご自身が始めてくださった善い業です。わたしたちにとって、もっとも善いことが成し遂げられると信じて、罪も、死も、あらゆる重荷や苦しみも、キリストにお委ねすることがゆるされているのです。キリストにお委ねし、祈りつつ、忍耐しつつ、希望を持つことができるのです。
 救いは、わたしたちが必死になって掴んでいなければならないとか、鋼の精神で守りとおさなければならない、というものではありません。そんなことは、できません。神が、信仰を与え、守り、支えてくださるのです。

 フィリピの教会のように、またこの横浜指路教会のように、ここに集う一人一人のように、様々なことを乗り越えて、今日まで、神によって守られた、現実に生きる信仰の歩みがあります。ここに教会がある。毎週、礼拝を捧げる神の民がいる。この神の御業の現実に、善い業が成し遂げられるという、将来の約束の確かさが裏打ちされているのです。
 だから、パウロは「確信している」と言うことが出来るのです。

 救いの業を始めて下さったのが神ならば、完成させて下さるのも神です。
 神がなさることは、わたしたち人間がすることのように、何かを始めて、上手くいかずに中断したり、気分が変わって変更したり、途中で放棄したりするようなことは、絶対にないのです。必ず成し遂げてくださいます。わたしたちの不誠実にも関わらず、神はまことに誠実な方です。
 
 パウロは、フィリピの人々を、この神に委ねているのです。
 そして、もちろん、パウロ自身もこの神の業に自らを委ね、希望を置いているのです。
 手紙の冒頭でパウロは、「キリスト・イエスの僕であるパウロとテモテから」と、自己紹介をしています。パウロは、自分のことを「キリストの僕」と言います。
 僕とは、奴隷のことです。奴隷は、主人の所有物です。自分が誰かの所有物である、というのは、わたしたちの感覚では、全く誇らしいことではなく、不自由であり、自尊心を奪われるような、卑屈な気持ちになるような、そのような表現であるように思います。
 しかし、パウロはそうではありません。堂々と、誇らしく、自分はキリスト・イエスに所有されているものなのだ、キリストの奴隷なのだ、と名乗ります。
 なぜならキリストは、ご自分の僕から、奪ったり、搾取したりする主人ではないからです。キリストは僕のために最も善い業をしてくださる方、キリストは、ご自分に従う人々に、すべてを与えてくださる、御自身の命さえも惜しまず与えてくださる、そのような主人だからです。自分が神のものであるということは、これ以上ない、慰めと平安です。

 だからパウロは、牢獄に捕えられていても、他のものに支配されず、ただ自分に善い業を成し遂げてくださろうとしている、主なる神を見上げて、喜ぶことができるのです。
また、同じキリストに結ばれて、共に福音にあずかっているフィリピの人々のことを、救いの完成の恵みに共にあずかる者として、感謝し、喜びをもって祈ることができるのです。
 この手紙には、そのような、神の救いが完成される確信と、その喜びが満ちています。

 わたしたちも神の僕であり、神のものとされています。わたしたちもまた、同じ福音にあずかっており、ここで礼拝が守られていること、神が確かに働いてくださっていることによって、同じ確信を持つことができます。共に喜ぶことができます。
 神は、わたしたちの中で、善い業を始めて下さり、これからもわたしたちの信仰を守り、キリスト・イエスの日までに、その善い業を成し遂げて下さるからです。

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