主日礼拝

仕えるために来られた主

「仕えるために来られた主」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:イザヤ書 第51章9-11節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第10章32-45節  
・ 讃美歌:124、183、433

先頭に立ってエルサレムへ向かう主
 本日はマルコによる福音書第10章32節以下をご一緒に読むのですが、最初の32節の冒頭に「一行がエルサレムへ上って行く途中、イエスは先頭に立って進んで行かれた」とあります。主イエスと弟子たちの一行は今、エルサレムへと上る途上にあります。この旅は10章1節から始まりました。1節に「イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた」とあります。「そこ」とは、これまで主イエスが伝道してこられたガリラヤ地方です。ガリラヤ地方を去って、ヨルダン川の東側を経由して、南のユダヤ地方へと向かわれたのです。目的地はエルサレムです。神殿があり、ユダヤ人たちの信仰の中心地であるエルサレムへと主イエスはいよいよ上って行こうとしておられるのです。その旅において、主イエスは先頭に立って進んで行かれたのです。

第三回受難予告
 32節は、「それを見て、弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」と続いています。先頭に立ってエルサレムへと向かう主イエスを見て弟子たちは驚いたのです。彼らは何故驚いたのでしょうか。「従う者たちは恐れた」とあるように、この驚きは恐れを伴っています。主イエスが向かって行こうとしておられるエルサレムで、恐しいことが起ろうとしているのです。そのことを主イエスご自身がお語りになったのが32節後半から34節です。「イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。『今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する』」。これから上って行くエルサレムで何が起こるのかを主イエスははっきりと、詳細に話されました。人の子とは主イエスご自身のことです。主イエスはエルサレムで、異邦人の手で死刑に処せられるのです。主イエスはそのことを既に二度にわたって弟子たちに告げて来られました。最初は8章31節において、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日の後に復活することになっている」と語られました。二回目は9章31節で、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される、殺されて三日の後に復活する」とありました。過去二回のこのいわゆる「受難予告」に比べて本日の箇所の三回目は格段に詳しくなっています。このことがエルサレムにおいて起こることは、「長老、祭司長、律法学者たちから排斥され」ということにおいて既に暗示されていました。彼らの本拠地はエルサレムだからです。そのことがここではっきりと示されたのです。また「異邦人に引き渡される」ということが初めて語られ、異邦人が主イエスを「侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す」という具体的なことまで示されています。そしてここには十字架につけられて殺されることが暗示されています。十字架の死刑というのはユダヤ人たちの慣習ではありません。これは異邦人であるローマの死刑の方法です。主イエスはローマ帝国の総督に引き渡され、その判決によって十字架につけられるのです。そのようにしてご自分が殺される場所であるエルサレムに向かって、主イエスは今先頭に立って進んで行こうとしておられるのです。つまりご自分の意志で十字架の死へと歩んで行こうとしておられるのです。弟子たちや従う者たちはそれを見て驚き、恐れたのです。

ヤコブとヨハネの願い
 この驚き、恐れの中で、35節以下が語られています。ゼベダイの子ヤコブとヨハネが主イエスのもとに来て、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください」と願ったのです。ヤコブとヨハネの兄弟は、シモン・ペトロとアンデレの兄弟と共に、最初に主イエスの弟子となった人々でした。最古参の弟子としていつも主イエスの側近くにいたのです。この二人が主イエスに願ったことは何だったのでしょうか。「栄光をお受けになるとき」と彼らは言っています。主イエスがこれから栄光をお受けになる、と彼らは考えているのです。しかし主イエスはたった今、これから行くエルサレムで殺されることを予告なさったばかりです。どうしてそれが「栄光をお受けになる」こととつながるのでしょうか。ここに、主イエスがこれから受けようとしておられる苦しみと死とを弟子たちがどのように受けとめていたかが示されています。主イエスはこれでもう三度、ご自分がユダヤ人の宗教的指導者たちに排斥されて殺されることを予告してこられました。自分たちが信じ従っている主イエスがそのように殺されてしまうというのは大変なことです。そんなことになるなら、従って行っても仕方がないのではないか、主イエスの弟子であることをやめた方がよいのではないかとも思われます。しかし弟子たちはそうは思わなかったのです。それは、主イエスがこのような苦しみ、死を通して「栄光をお受けになる」と考えたからです。殺されてしまってそれでおしまい、ということはない、むしろそのことを通して、主イエスの救い主としての、神様が遣わして下さったメシアとしての力が現され、その栄光が示されて勝利するのだ、と思ったのです。彼らがそのように思った理由として、主イエスがこの三度の受難予告においていずれも最後に「三日の後に復活する」とお語りになったことがあったと言えるでしょう。彼らがこの「復活」を正確に理解していたとは思えませんが、しかし主イエスがこれから受けようとしている苦しみと死は、敗北と死で終ってしまうのではなくて、その先に主イエスの勝利がある。主イエスはこの苦しみを通して栄光をお受けになり、この世界と全て人々を支配なさるのだという希望を、彼らはこの「三日の後に復活する」というお言葉に見出していたのでしょう。つまり弟子たちは主イエスがエルサレムへと先頭に立って進んで行かれることを、驚いてはいますが、単に恐れてはいません。32節にも「弟子たちは驚き、従う者たちは恐れた」と、弟子たちとその他の従う者たちを区別しています。弟子たちは、主イエスがいよいよ先頭に立ってエルサレムに上って行かれるのを驚き、いよいよその時が迫っていると恐れもしましたが、この苦しみを通して主イエスが栄光をお受けになる時が来た、という期待をも抱いていたのです。それゆえにヤコブとヨハネはあのようなお願いをしたのです。

主イエスの栄光にあずかる
 彼らが願ったのは、主イエスが勝利して栄光をお受けになり、全世界を支配なさる時に、自分たちを右と左に座らせてください、ということです。つまり主イエスが王座に着かれる時に、自分たちを一番の側近として、右大臣、左大臣の地位を与えて下さいということです。彼らはそこで、他の弟子たちとの間の序列を考えています。主イエスのすぐ右と左の座を得る、それは他の弟子たちよりも高い地位、より栄光ある立場を得たいということです。それゆえに、彼らがこのようなことを願ったことを知った他の弟子たちは、41節にあるように、彼らのことで腹を立てたのです。彼らが自分たちを差し置いて抜け駆けをして一番よい地位を得ようとしたことに怒ったのです。それは彼らの中にも同じような願いがあったということです。彼ら弟子たちが今、エルサレムへと進んで行く主イエスに従っているのは、この先に待ち構えている苦しみを経て、主イエスが栄光をお受けになる、その時自分たちも、その栄光にあずかることができると考えているからなのです。先週読んだ28節でペトロが「このとおり、わたしたちは何もかも捨ててあなたに従って参りました」と言ったのも同じような思いからです。いろいろなものを捨てて主イエスの弟子となり従って来た、そのことには報いがあるはずだ、という思いです。ヤコブとヨハネは、栄光を受ける主イエスの右と左の座という報いを望んだのです。

主イエスの栄光にあずかることを願っている私たち
 このヤコブとヨハネに代表される弟子たちの思いは、私たちが信仰をもって生きようとする時に共通して抱く思いなのではないでしょうか。それは要するに救い主イエス・キリストの勝利と栄光にあずかりたい、という思いです。私たちが主イエス・キリストを信じて従っていくことの根本にある動機はこれなのではないでしょうか。信仰に入るきっかけや具体的な動機はそれぞれ皆違っています。悩みや苦しみからの救いを求めていく中で神様と出会い、信仰を与えられる人もいます。自分の醜さや弱さに嫌気がさして、あるいは人生の虚しさを感じて、そこからの救いを求めていく中で信仰を得る人もいます。あるいはそういう明確な動機はなしに、家族や友人やその他の誰かに連れられて教会に来て礼拝を守っているうちに、なんとなく自分も神様を信じる思いを与えられたという人もいます。そのようにきっかけや動機は様々ですが、しかし私たちが信仰を持って生きようと決心する時に必ず思っているのは、自分の人生を、日々の生活を、信仰によってより充実したもの、平安と慰めのあるものとしたい、あるいは暗い日々を明るくしたい、前向きな思いで生きたい、ということでしょう。つまり私たちは誰でも皆、広い意味で、主イエスの勝利と栄光にあずかりたいと願って信仰者になるのです。私自身のことを振り返って見ても、信仰者となり、伝道者となったのはそのような思いによってだったと思います。牧師の家庭に育ちましたから、もともとそういう環境の中にいたわけで、何か特別な出来事によって回心したわけではありません。ある意味自然に信仰を与えられていったのですが、その歩みにおいて私が感じたことは、教会で語られる聖書の教え、主イエス・キリストの福音が、自分自身の、また人間全体の罪や弱さや汚れの深みを照らし出しており、そこに人間の力を超えた神様による救いを告げている、ということです。一言で言えば、聖書に語られていることは真実だ、ということです。その真実のみ言によって生きる者となりたい、さらにはその真実のみ言葉を語る者となりたいと思うようになったのです。そこには、イエス・キリストによる救いという真実を身に帯びて、その栄光を映し出す人生を歩みたいという思いがあったのです。

苦しみを耐え忍んで従う真面目な信仰者
 様々なきっかけや動機によって、主イエスこそ救い主であると信じた私たちは、主イエスによる救いの恵みを身に帯びて、その栄光を映し出す者として生きようと努力していきます。そこにはいろいろな苦しみも伴うということは誰でもすぐに分かります。その苦しみを背負って、忍耐しつつ頑張って努力していくことによってこそ、主イエスの勝利と栄光にあずかることができる、主イエスの右と左に座ることができるような立派な信仰者になれる、それを目指して歩もうとするのです。苦しみと死とが待ち受けるエルサレムへと向かう主イエスに、それでも弟子たちが従って行こうとしているのはそういう思いによってでしょう。ヤコブとヨハネも、そういう思いで主イエスにあのお願いをしたのです。そのことは主イエスが彼らに、「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか」と問われたのに対して「できます」と答えていることから分かります。主イエスの飲む杯を飲み、主イエスが受ける洗礼を受けるというのが何を意味しているのか、彼らにはまだはっきりと分かってはいなかったでしょうが、しかし主イエスと共に苦しみを受け、それを忍耐して従い通すことだということは分かっていたでしょう。彼らはこの「できます」という言葉で、主イエスと共に苦しみを受け、忍耐して従い通す、という決意を表明しているのです。つまり彼らは単に早い者勝ちで良い席をキープしておこうとしているのではなくて、頑張って努力して主イエスに従って行くことによって主がお受けになる栄光にあずかろうとしているのです。自分では何の努力もせずにちゃっかりうまくやろうとしているのではなくて、苦しみを引き受けて頑張って努力しようとしているのです。つまりこの二人は、主イエスが栄光をお受けになることを信じて、その栄光にあずかるために、苦しみをも耐え忍んで従って行こうとしている真面目な信仰者なのです。そしてそれは私たちの姿です。私たちも、信仰をもって生きるとは基本的にこのように生きることだと思っています。いや、自分はそんなに真面目な信仰者として生きていない、と思っている人もいるでしょう。しかし、このように日曜日の礼拝に集っているというのは基本的にそういう真面目さに生きようとしていることの印です。自分が出来ているかどうかはともかく、私たちは、信仰をもって生きるためには、このように苦しみをも耐え忍んで従って行く真面目さが必要であって、そのようにして主イエスの栄光にあずかることを求めていくべきだ、と思っているのではないでしょうか。ヤコブとヨハネが願っていることを、私たち一人一人も心の中で願っているのです。

共に十字架にかかって死ねるか?
 主イエスはこの二人に38節で「あなたがたは、自分が何を願っているか、分かっていない」とおっしゃいました。主イエスが栄光を受ける時にその右と左に座るとはどういうことなのか、根本的なことをあなたがたは分かっていないとおっしゃるのです。そして先程申しましたように「私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受けることができるか」と問われました。このお言葉は、この10章の17節以下で、「永遠の命を受け継ぐには何をすればよいでしょうか」と尋ねた人に主イエスが、「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。それから、わたしに従いなさい」とおっしゃったあのお言葉と重なると思います。自分の善い行いによって永遠の命を得ようとしたあの人に主イエスは、財産を全て売り払い、無一物になって私に従いなさいとおっしゃったのです。「私が飲む杯を飲み、私が受ける洗礼を受ける」というのもそれと同じ意味です。つまれこれは、私はこれから十字架にかかって死のうとしている、あなた方も私と一緒に十字架にかかって死ねるのか、ということです。主イエスの十字架の左右に二人の犯罪人が共に十字架につけられるわけですが、栄光を受ける主イエスの右と左に座るためには、主イエスの右と左で十字架にかかることが必要なのです。17節以下のあの人は、全財産を捨てることができずに悲しみながら立ち去りました。ヤコブとヨハネは、その意味が分かっていなかったので、「できます」と威勢良く答えています。しかし彼らはこの後、主イエスが捕えられた時には逃げ去ってしまいます。主イエスの飲む杯を飲み、主イエスの受ける洗礼を受けることなど、彼らにはできないのです。つまり主イエスはこのお言葉によって、苦しみをも耐え忍んで従って行く真面目さによって主イエスの栄光にあずかろうとしている彼らに、それはあなたがたには不可能だし、そのようなことを求めること自体が間違っているのだ、ということを示そうとしておられるのです。

異邦人の間では
 彼らの願っていること自体が間違っていることは、他の十人の弟子たちが腹を立てたことによって示されています。栄光を受ける主イエスの右と左に座ろうとする彼らの願いは、先程見たように、苦しみをも耐え忍んで努力して主イエスの栄光にあずかろうとする真面目な思いでしたが、しかしそれは結局他の弟子たちよりも偉くなろう、上に立とうとする、つまり人間の間での序列を競うようなことを生み、他の人たちとの交わりを破壊する思いなのです。そして他の弟子たちが腹を立てたということは、他の弟子たちも彼らと同じように、お互いの序列を競う思いを抱いていたことを示しています。主イエスはそのようにお互いに対して腹を立てている弟子たちを呼び寄せて語りかけておられます。「あなたがたが抱いている思い、自分の頑張りによって主イエスの栄光にあずかろうとする思いは結局のところ、偉い人が他の人々に権力を振るっていくような、誰かが上に立って他の人を支配するような関係を生んでいく。それはまことの神を知らない異邦人と同じあり方だ。私の弟子であるあなたがたの交わりは、それとは違うものであるはずだ」。そして主イエスがお命じになったのは「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、すべての人の僕になりなさい」ということでした。このお言葉を間違って受けとめてはなりません。これは、皆に仕える者となり、すべての人の僕となる人こそが、一番高い地位に就くことができる、ということではありません。つまりこのお言葉は、どうしたら人より偉くなれるか、いちばん上になれるか、ということを語っているのではなくて、むしろそのような思いを捨てて、仕える者、僕となりなさいと言っているのです。

主イエスによる救いの恵みをいただくのみ
 そしてこの教えの根拠、土台となっているのが45節です。「人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである」。主イエスご自身が、私たちによって仕えられるためではなくてむしろ私たちに仕えて下さるために、十字架にかかって死ぬことによって、罪に捕えられ支配されている私たちを解放するための身代金としてご自分の命を献げて下さるために、この世に来て下さったのです。しかしこれも間違えてはなりません。だからあなたがたも主イエスに倣って仕える者、人々の僕となりなさい、そうすれば救いにあずかることができる、と言っているのではありません。それだったら結局、誰が一番主イエスと同じように人々に仕えているか、僕となって生きているか、という話になっていき、やはりお互いの序列を競い合うようなことになります。そういうことではなくて、主イエスが十字架にかかって死んで下さることによって私たちに仕えて下さったことによって、私たちは罪を赦され、主イエスの命という身代金によって罪の支配から解放された、その恵みの中で生きることが大切なのです。主イエスによるその救いの恵みは、私たちの努力や、苦しみをも耐え忍んで頑張って従って行く真面目さによって得られるのではありません。私たちは皆、威勢のいいことを言っていても結局、主イエスの飲む杯を飲むことができない、主イエスの受ける十字架の洗礼を共に受けることのできない者です。そのような弟子たちと私たちのために、主イエスはお一人でその杯を飲み、その洗礼を受けて下さったのです。罪人である私たちに仕え、私たちの罪が赦されるために身代金としてご自分の命を献げて下さったのです。私たちはその救いの恵みを、ただいただくことしかできません。そのことを認めて、その恵みをいただくことが大切なのです。

主イエスと共に生きる
 主イエスは39節でヤコブとヨハネに「確かに、あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる」と言っておられます。彼らも、他のどの弟子も、主イエスと共に十字架にかかることは出来ませんでした。主イエスはお一人で十字架にかかって死んで下さったのです。しかしこの主イエスの十字架の死と、父なる神様の力による復活によって、罪の赦しと新しい命という救いが、ただ神様の恵みによって与えられたのです。その救いの恵みをいただいたことによって彼らは、後に、主イエスが飲んで下さった杯を飲み、主イエスが受けて下さった洗礼を受ける者とされていったのです。つまり主イエスが仕えられるためではなく仕えるために、また多くの人の身代金として自分の命を献げて下さったように、彼らも苦しみを背負って主イエスに従い、人々の僕となって仕え、人のために犠牲を負う者とされていったのです。それはもはや、そうすることによって主イエスの右と左の栄光にあずかるためではありません。40節に「しかし、わたしの右や左にだれが座るかは、わたしの決めることではない。それは、定められた人々に許されるのだ」とあります。主イエスに従って同じ苦しみを背負って歩んだからといって、それで主の右と左に座ることができるわけではありません。誰がどういう栄光を受けるかなどということはもはや問題ではないのです。私たちに仕えるために、私たちのための身代金としてご自分の命を献げるためにこの世に来て下さった主イエス・キリストが招いて下さり、主イエスと共に歩むことができることこそが、私たちの最大の喜びであって、その喜びの中で私たちは、皆に仕える者、すべての人の僕となっていくのです。

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