主日礼拝

信仰による励まし

「信仰による励まし」 牧師 藤掛 順一

・ 旧約聖書; イザヤ書、第35章 1節-10節
・ 新約聖書; テサロニケの信徒への手紙一、第3章 1節-10節

アドベント
 本日よりアドベント、待降節に入りました。アドベントとは、「到来」という意味です。救い主イエス・キリストの誕生を祝うクリスマスは、私たちのところに、神様の救いが到来したことを喜ぶ時です。その救いの到来を待ち、それに備えていく思いを、このアドベントの四週間の歩みの中で整え、高め、深めていきたいのです。
 私が前におりました富山の教会では、毎年アドベントになると、教会の玄関のところに手造りのアドベントクランツを飾りました。アドベントに入る前の週に、教会員の方が持っている山へ行って杉の葉を切って来るのです。それをお盆の上に敷き詰め、四本のろうそくを立てます。そしてアドベント第一の主の日、つまり今日、その内の一本に火を灯します。第二週には二本、第三週には三本と火を灯すろうそくを増やしていって、四本全部に火が灯ると、クリスマスがやって来るのです。そんなのはただの飾りだと言ってしまえばそれまでですが、そのようにして主イエスのご降誕を待ち、それに備える心を整えていくことを表現するのはなかなかよいものだと思います。救いの到来を覚え、それを待ち、そのために備えることは、アドベントに限らず、私たちの信仰の根本です。クリスマスは、主イエス・キリストの第一の到来を記念し、感謝する時です。その第一の到来は既に二千年前にユダヤのベツレヘムの馬小屋で起ったことです。そういう意味では私たちはアドベントに、主イエスのご降誕を待ったり、それに備えるわけではありません。私たちが本当に待ち、備えていくべきなのは、主イエスの第二の到来、即ちその再臨です。復活して天に昇られた主イエスが、いつかもう一度私たちのところに来て下さる、それによって私たちの救いが完成し、この世は終わる、そのことを覚え、待ち望み、主の再臨に備えていくのが私たちの信仰なのです。アドベントは、クリスマスに備えると共に、主イエスの第二の到来、再臨に備える思いを整えていく時でもあるのです。

救いの到来を待ち望む
 本日共に読まれた旧約聖書の個所、イザヤ書第35章は、救いの到来を待ち望む思いを歌った代表的な個所です。その5、6節に、「そのとき」とあります。「そのとき、見えない人の目が開き/聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れる」。この「そのとき」とは、2節の終わりに「人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る」と言われている時です。また4節の後半に、「敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる」とあるその時です。神様が来られ、その栄光とご支配があらわになり、救いが完成するのです。その時には、荒れ野、荒れ地、砂漠も、喜びの地となり、野ばらの花が一面に咲く花畑となるのです。その時には、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き、歩けなかった人が鹿のように躍り上がり、口の利けなかった人が喜び歌うのです。荒れ野、荒れ地であった所に聖なる道が整えられ、主御自身がその民を先導してそこを歩んで下さるのです。その民とは、主に贖われた人々です。国を滅ぼされ、いわゆるバビロン捕囚によって敵の地に連れ去られていた人々が、主なる神様によって贖われ、救われて、この聖なる道を通って、主に先導されて喜び歌いつつ故郷シオンに帰って来る、そういう救いの到来を切に待ち望む思いをこの詩は歌っているのです。それは、主イエスの再臨によって神様のご支配があらわになり、救いが完成することを待ち望みつつアドベントを歩む私たちの思いと重なると言えるでしょう。

苦しみ多い世界の中で
 このイザヤ書35章は、喜びの調べです。「喜び躍れ」「喜び、花を咲かせよ」「大いに喜んで、声をあげよ」「口の利けなかった人が喜び歌う」「とこしえの喜びを先頭に立てて、喜び歌いつつシオンに帰り着く。喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」。このように、喜びが歌われています。アドベントからクリスマスの讃美歌がそうであるように、救いの到来を待ち望むこの歌は喜びの歌なのです。けれどもそこで見落としてはならないのは、この喜びは、今喜び楽しみがある、という現在の喜びを歌っているのではないということです。イザヤ書35書を歌った人が見つめている現実は、決して喜びに満ちた、何の悲しみも憂いもない幸せなものではありませんでした。むしろ彼が見つめていたのは「荒れ野、荒れ地、砂漠」です。「熱した砂地、渇いた地、山犬がうずくまるところ」とあるように、人間が安心して生きることのできない、脅かす力に満ちたところです。またそこにいるのは、「弱った手、よろめく膝、心おののく人々」です。目が見えない、耳が聞こえない、歩くことができないという様々な苦しみを負った人々です。悲しみと嘆きが支配している、そういうつらい現実のただ中にこの人はいるのです。だからこそ彼は、救いの到来を切に待ち望み、期待しているのです。主イエス・キリストの第二の到来を待ち望みつつアドベントを歩む私たちの置かれている現実もそれと同じです。私たちは、クリスマスをただ楽しいお祭りとして喜び祝っているわけにはいかないのです。それぞれの生活においても、様々な悩みや苦しみ、問題があります。またもっと広く社会や世界全体のことに目を向ければ、本当に心暗くなるような出来事ばかりです。かつてこの社会に暗黙のうちにあった倫理的、道徳的常識がもはや崩壊し、何が起ってもおかしくない世の中になってしまっていることを痛感させられます。そして世界の各地で憎み合い、殺し合いが繰り返され、多くの人が傷つき、死んでいっています。先日もテレビで、イスラエルがいわゆるヨルダン川西岸の占領地の自分たちの入植地をゲリラの攻撃から守るために壁を築いているということを報道していました。しかしその壁の内側には、パレスチナ人も住んでいるのです。パレスチナ人は、突然造られた壁によって生活を分断され、壁を乗り越えて通勤や通学をせねばならなくなり、壁を何キロも迂回しなければ医者に行けない、などということが起こっているそうです。ベルリンの壁は崩れたのに、また新たにそのような壁が築かれ、人と人を分断し、憎しみと敵対を深めていくようなことが始まっている。この世界は今なおまさに荒れ野、荒れ地、砂漠であり、嘆きと悲しみに支配されているのです。そのような中で私たちがクリスマスを喜び祝うとはどういうことなのでしょうか。つらい、悲しいことの多い世の中だから、せめてクリスマスのシーズンぐらい、明るく楽しく過ごして苦しみを一時忘れようということでしょうか。そうではありません。私たちがクリスマスを喜び祝うのは、到来する救いへの待望においてです。主イエスの第二の到来、再臨において、神様の栄光とご支配が現され、私たちの救いが完成する。そのとき、荒れ野に水が湧きいで、荒れ地に川が流れ、熱した砂地は湖となり、乾いた地は水の湧くところとなる、山犬がうずくまるところは葦やパピルスの茂るところとなる、そのような救いが実現されることを望み見つつ私たちは喜びの歌を歌うのです。その喜びの実現を約束しているのが、主イエスの第一の到来、クリスマスの出来事です。主イエスが一人の幼な子としてこの世に生まれて下さった、その出来事のゆえに、この暗い、苦しみの多い世界のただ中で、希望をもって、喜びに生きることができるのです。

テモテの派遣
 さて私たちは今、礼拝においてテサロニケの信徒への手紙一を読み続けています。本日はその3章1節以下を読むのですが、ここには、この手紙がどのような情況の中で書かれたのかを知るための大切な情報が語られています。1節から2節に、「わたしたちだけがアテネに残ることにし、わたしたちの兄弟で、キリストの福音のために働く神の協力者テモテをそちらに派遣しました」とあります。この手紙を書いた使徒パウロは、テサロニケで伝道し、教会がそこに誕生したのですが、反対者たちによって引き起こされた騒動のために早々にテサロニケを去らなければならなくなりました。その後彼ら一行はギリシャを南下してアテネに行ったのです。そのアテネからパウロは、仲間の一人であり、後輩である若い伝道者テモテをテサロニケに派遣したのです。そして6節には、「テモテがそちらからわたしたちのもとに今帰って来て」とあります。テサロニケに派遣されたテモテがパウロのもとに帰って来て、テサロニケ教会の人々の様子を伝えたのです。そのテモテの報告を受けて書かれたのがこの手紙です。テモテがパウロと合流したのはコリントであったと、使徒言行録の18章5節にあるますので、この手紙はコリントで書かれたのだろうと考えられています。そのようにこの部分は、この手紙の成立の情況を知るための大切な手がかりとなるのです。
 パウロは何故テモテをテサロニケに派遣したのでしょうか。1節に、「もはや我慢できず」とあります。何を我慢できなくなったのかは、2章17節以下に語られています。そこには、自分たちがテサロニケの人々から引き離されていることへの嘆きと、なんとかして、彼らの顔を見たい、もう一度会いたいと切に願っていることが語られていました。そう思って何度も、テサロニケに行こうと計画を立てたのだけれども、その都度それを実行することができなかったのです。パウロはそれを、「サタンによって妨げられました」と言っています。サタンの力に妨げられて、テサロニケへの再訪を阻まれているのです。そのような情況に我慢ができず、テモテを派遣したということでしょう。自分が会いにいけないので、代わりにテモテを派遣したのです。

伝道者の苦しみ
 パウロがテモテを派遣した目的は、2節から3節によれば「あなたがたを励まして、信仰を強め、このような苦難に遭っていても、だれ一人動揺することのないようにするため」です。テサロニケの人々の信仰が動揺してしまうことをパウロは心配しているのです。そのことは5節にもこのように語られています。「そこで、わたしも、もはやじっとしていられなくなって、誘惑する者があなたがたを惑わし、わたしたちの労苦が無駄になってしまうのではないかという心配から、あなたがたの信仰の様子を知るために、テモテを派遣したのです」。ここに出て来る「誘惑する者」は、先程の「サタン」と同じことです。サタンとは人間を誘惑して信仰を失わせ、神様のもとから引き離そうとする者です。テサロニケの人々が、このサタンの誘惑のただ中にいることをパウロは思い、彼らのことを心配しているのです。しかしこの誘惑、信仰の動揺は何によって生じているのでしょうか。「このような苦難に遭っていても」という3節の言葉がそれを示しています。苦難、苦しみが、信仰の動揺をもたらすのです。しかしその苦しみは誰の苦しみでしょうか。テサロニケの教会の人々が苦しみの中にある、それが彼らの信仰の動揺をもたらす、というのが普通の考え方です。ところがここの文章はどうもそれとは違うことを言っているようです。3節の後半に、「わたしたちが苦難を受けるように定められていることは、あなたがた自身がよく知っています」とあります。ここでは、「わたしたち」と「あなたがた」がはっきり区別されており、苦難を受けるのは「わたしたち」つまりパウロら伝道者たちとされているのです。4節もそうです。「あなたがたのもとにいたとき、わたしたちがやがて苦難に遭うことを、何度も予告しましたが、あなたがたも知っているように、事実そのとおりになりました」。パウロら伝道者たちが苦難に遭うことが予告されており、事実その通りになったのです。つまり「このような苦難に遭っていても」とあるのは、パウロら伝道者たちのことなのです。パウロたちの苦難が、テサロニケの教会の人々の信仰を動揺させる、そのことをパウロは心配しているのです。
 これは一見不思議なことのようにも思えますが、しかしよく考えてみればまさにその通りなのです。信仰における苦しみが私たちの信仰を動揺させる、その苦しみは勿論自分自身の味わう苦しみであることもあります。信仰者として生きることにおいてこんな苦しみを味わわなければならないのか、ということが、あるいは神様を信じているのにどうしてこんな苦しみに遭うのか、ということが私たちの信仰を動揺させるのです。しかしそれと並んで、同じ信仰に生きる他の人の受ける苦しみ、あるいは信仰の先輩、指導者が苦しみを受けるという事実によって自分の信仰が動揺するということがあるのではないでしょうか。むしろこちらの方がより頻繁に起こるとも言えるかもしれません。特にテサロニケの教会は、パウロの伝道によって誕生した群れでした。彼らに信仰を伝え、教えたパウロが苦しみや迫害を受けていることは、テサロニケの人々にとって他人事ではない重大な問題であり、彼ら自身の信仰を動揺させずにはおかないようなことだったのです。パウロは、自分が苦しみ、迫害を受けているその苦しみが、テサロニケの人々を動揺させ、信仰を失わせるような結果になってしまうことを心配しているのです。そして彼がテモテを通してテサロニケの人々に伝えようとしていることは、自分たち伝道者が苦しみを受けることは、神様によって既に定められており、予告されていることだ、ということです。伝道者が苦しみを受けることを、何かとんでもないことが起ったように驚き、動揺しないでもらいたい、それはむしろ当たり前のこと、神様がそのように定めておられることなのだと言っているのです。自分自身が苦しみを受けている中で、このようにかえって教会の人々のことを心配するところに、パウロの、伝道者としての真骨頂があります。伝道者たる者、このようでありたいと願うのです。

信仰による励まし
 6節以下には先程申しましたように、テサロニケに派遣されたテモテが帰って来て、テサロニケ教会の様子を伝えたことが語られています。それはパウロにとって非常に嬉しい知らせでした。「あなたがたの信仰と愛について、うれしい知らせを伝えてくれました」とあります。テサロニケの人々の信仰と愛が、パウロたちの受けている苦難によっても動揺させられずに、しっかりと維持されていることをパウロは知ったのです。またそれだけではなく、「あなたがたがいつも好意をもってわたしたちを覚えていてくれること、更に、わたしたちがあなたがたにぜひ会いたいと望んでいるように、あなたがたもわたしたちにしきりに会いたがっていることを知らせてくれました」ともあります。パウロが会いたいと思っているのと同じように、テサロニケの人々もパウロに会いたいと願っている、パウロの伝道の働きによって自分たちが信仰を与えられ、教会が誕生したことを心からの感謝をもって覚えており、志半ばで去らなければならなかったパウロともう一度会いたいと願い、そして勿論今苦しみの中にあるパウロのことを心配して祈っている、そういう知らせをテモテはもたらしたのです。パウロはそれを聞いて、7節で、「それで、兄弟たち、わたしたちは、あらゆる困難と苦難に直面しながらも、あなたがたの信仰によって励まされました」と言っています。パウロは今、様々な困難と苦難に直面しているのです。そのことが教会の人々の信仰を動揺させはしないかと、教会の人々のことを心配していますけれども、しかしパウロ自身だって、一人の人間として、苦しみや困難に直面して心弱ったり、くじけそうになったり、絶望的な思いにとらえられたりすることはあったでしょう。そのパウロが、励まされたのです。元気を、力を与えられたのです。何によってか。「あなたがたの信仰によって」です。教会の人々が、パウロのことを思い、感謝し、会いたいと願っている、それはパウロ個人への好意とか愛ではありません。パウロが宣べ伝えたイエス・キリストの福音への信仰に彼らが固く留まり、動揺せずに信じ続け、主イエス・キリストと共に歩んでいるということです。この彼らの信仰こそが、困難と苦難の中にいる伝道者パウロを励まし、力づけ、勇気づけるのです。

主にあって堅く立つ
 パウロはさらに8節で「あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きていると言えるからです」と言っています。この「主にしっかりと結ばれているなら」は、前の口語訳聖書では「あなたがたが主にあって堅く立ってくれるなら」となっていました。こちらの方が原文の感じを伝えています。教会の人々が主イエス・キリストにあって、主イエスに結ばれて、動揺させられることなく堅く立つ、そのことによって、伝道者パウロは生きることができるのです。励まされるとか力づけられるというだけではなく、まさに生かされるのです。伝道者の生死、生きるか死ぬかは、教会の人々の信仰にかかっているのです。伝道者を殺すのに刃物は入りません。「私はもう信仰なんて捨てた」。この一言が、伝道者を殺すのです。
 伝道者が生きるか死ぬかは教会の人々の信仰にかかっている。それは逆もまた言えることです。教会の人々が主イエス・キリストに結ばれて堅く立つことができるのは、伝道者の語るみ言葉によってです。その意味で、教会の人々が生きるか死ぬかは、伝道者にかかっている、とも言えます。パウロとテサロニケ教会の人々との間には、そのような、お互いがお互いを生かし、困難と苦難の中で信仰による励ましを与え合う関係があったのです。そのことを心から感謝しつつ書かれたのがこの手紙です。この手紙に基本的に流れている喜びの調べはそこから来ているのです。

喜びと感謝のクリスマス
 アドベントを迎えた私たちの歩みには、始めにお話ししたように様々な苦しみや困難、問題があります。クリスマスだからって、呑気に喜んだり楽しんだりしているどころではない私たちそれぞれの生活なのです。またこの社会や世界の有り様だって、とても喜んではおれないような状態にあります。そのような中で私たちがアドベントを歩み、クリスマスを祝うのは、到来する救いを待ち望むことにおいてです。なお荒れ野、荒れ地、砂漠としか言いようのないこの世の現実の中で、私たちは、主イエス・キリストが私たちの救い主としてこの世に来て下さった、その第一の到来の恵みを受けています。その主イエスは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかり、私たちのために死んで下さったのです。そして復活して、私たちに、罪の赦しの恵みと新しい命の約束を与えて下さったのです。その主イエスがもう一度来て下さり、私たちの救いを完成して下さり、新しい命の約束を実現して下さる第二の到来を私たちは待ち望んでいます。主イエスの第一の到来と、第二の到来の間の時を歩んでいるのが教会であり、そこに連なる私たち信仰者なのです。私たちも、パウロとテサロニケの人々と同様に、様々な苦しみや困難の中にあります。伝道者が去らねばならなくなり、教会の人々がとり残されて途方に暮れるようなこともあります。伝道者が苦しみを受け、困難に直面してしまうこともあります。そういうことが教会の人々を動揺させてしまうこともあるし、伝道者自身もそれによって心くじけてしまうこともあります。サタンの、誘惑する者の様々な攻撃や妨害に私たちはさらされているのです。そのような中にあって、パウロとテサロニケの教会の人々が信仰による励ましによって生かされている姿をしっかりと見つめたいのです。伝道者と教会の皆さんの間においても、また教会に連なる兄弟姉妹の間においても、お互いが信仰による励ましを与え合い、それによって生かされる交わりを築いていきたいのです。そのためには、主にしっかりと結ばれること、主にあって堅く立つことが必要です。悲しみと嘆きに満ちたこの世の歩みにおいて、私たちを本当に生かし、励ますのは、クリスマスに人となってこの世に来て下さり、私たちのために十字架にかかって死んで下さり、復活して下さった主イエスが、いつかもう一度来て、神様のご支配と救いとを完成して下さることを信じる信仰に堅く立つことでしかないのです。このアドベントを、私たちがその信仰に堅く立つことによって互いに励まし合う時としたいのです。そうすることによって、私たちが迎えるクリスマスは、本当の喜びに満ちた時となるのです。テサロニケ教会の人々の信仰による励ましを受けたパウロは、あらゆる困難と苦難に直面しながら、9節で、「わたしたちは、神の御前で、あなたがたのことで喜びにあふれています。この大きな喜びに対して、どのような感謝を神にささげたらよいでしょうか」と言っています。私たちの迎えるクリスマスも、お互いの信仰による励ましによって、なお荒れ野のようなこの世にありながら、このような喜びと感謝の時となるのです。

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