主日礼拝

神に見捨てられた

「神に見捨てられた」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:詩編 第22編1-8節
・ 新約聖書:マルコによる福音書 第15章33-41節
・ 讃美歌:134、280

主イエスの苦しみと死
 毎週の礼拝で告白している「使徒信条」に導かれて、聖書のみ言葉に聞いています。今はその第二の部分、子なる神イエス・キリストへの信仰を語ってるところの中の、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」という所を読んでおり、先週と今週の二週にわたって、その中の「死にて」という言葉を取り上げています。主イエス・キリストが十字架につけられて死んだことが私たちのための救いの出来事だった、と聖書は語っており、教会はそれを信じているのです。先週の礼拝では、その主イエスの死が、私たちにとってどういう意味があるのかを語っている聖書の箇所を読みました。本日は、主イエスの死の出来事そのものを語っている箇所を読みます。マルコによる福音書第15章33節以下です。
 主イエスは、ゴルゴタ、その意味は「されこうべの場所」という所で十字架につけられました。それは午前9時のことだったと、この15章の25節に語られています。本日の箇所の冒頭の33節には、昼の12時になると全地が暗くなり、3時まで続いたとあります。真昼間なのに、全世界が暗闇に閉ざされたのです。そして3時に、つまり十字架につけられてから6時間後に、主イエスは息を引き取られました。十字架に手足を釘打たれて晒されての6時間、それは想像するだに身の毛のよだつような苦しみです。「十字架につけられ、死にて」と私たちは毎週簡単に唱えていますが、そこには、主イエスの筆舌に尽くし難い苦しみが語られているのです。

主イエスの最後の言葉
 ルカ福音書とヨハネ福音書には、主イエスが十字架の上で語られたいくつかの言葉が記されています。この後歌う讃美歌280番「馬槽のなかに」の3節には「十字架のうえにあげられつつ、敵をゆるししこの人を見よ」と歌われています。それはルカによる福音書23章34節において主イエスが、ご自分を十字架につける人々のために、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」と祈られたことに基づいています。しかし最も早くに書かれたマルコ福音書においては、十字架の上での主イエスの言葉は、34節の「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」という言葉だけです。それは旧約聖書の言葉であるヘブライ語で、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。主イエスは十字架の上で、この一言を大声で叫んで死んだのです。

主イエスの最後の言葉への戸惑い
 このことは私たちに衝撃を与え、戸惑いを覚えさせます。主イエスは神の子として、父なる神に信頼して生きて来られ、父なる神から託されたみ業を行い、み言葉を語り伝えてこられた、と福音書は語っています。その神の子主イエスが、最後死に臨んで、神に向かって「なぜわたしをお見捨てになったのか」と叫んだとしたら、主イエスは最後には神に見捨てられたという絶望の中で死んだのだとしたら、主イエスを救い主と信じる私たちの信仰は動揺します。そしてこのことは、先程見たルカ福音書における十字架の上の主イエスの姿とは合っていません。ルカ福音書の十字架の場面には、この言葉はないのです。ルカにおいては、主イエスは先程見たようにご自分を十字架につける人々のために神に赦しを願い、共に十字架につけられた人の一人が「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」と願ったのに対して「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と約束なさり、そして「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます」と叫んで息を引き取られたのです。ですからマルコとルカとでは、主イエスの死の描き方が大きく違うのです。ルカが描いている姿の方が、主イエスを救い主と信じる私たちの感覚ないし期待には合っていると言えるでしょう。しかし最初に書かれた福音書であるマルコは、主イエスが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死んだことを語っています。このことをどう捉えるかが私たちに問われているのです。
 このことは私たちを戸惑わせるだけでなく、キリスト教を批判するための格好の材料ともなりました。明治の始めに、キリスト教の伝道がようやく黙認された中、活発に伝道がなされていきましたが、それに反発する仏教徒の間で、キリスト教を批判するための数え歌のようなものが作られました。その中には、キリストは死に臨んで神に泣き言を言った。そんな奴を信じている連中は何と愚かなことか、という一節があったのです。それはまさにこの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉のことです。死に臨んでも泰然自若、従容として死を受け入れるということをよしとする感覚が強いこの国において、この主イエスの最後の言葉は、見苦しく情けない死に様と受け取られたのです。そういう感覚は今も、私たちの中にもあるでしょう。だからこの言葉に戸惑いを覚えるのです。

絶望の言葉か、信頼の言葉か
 このことは昔から信仰者たちを悩ませてきました。主イエスは父なる神に見捨てられたという絶望を抱いて死んだのだろうか、神の独り子であり救い主である主イエスがそのような死に方をするはずはないのではないか、と多くの人が思ったのです。マルコ福音書には、主イエスが、ご自分がエルサレムにおいて殺されること、そして三日目に復活することを三度にわたって予告しておられたことが語られています。そのことを知っておられた主イエスが、十字架の死に臨んで、神に見捨てられた、とおっしゃるはずはない、とも思います。なので、この最後の言葉は絶望の言葉ではない、という解釈がなされていきました。その有力な根拠とされたのは、この言葉が、詩編第22編2節の言葉だということです。先程共に読まれた旧約聖書の箇所です。その2、3節にこうあります。「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない」。この2節の冒頭のところを、主イエスは十字架の上で、最後に叫ばれたのです。ここには確かに、神が自分を見捨て、遠く離れてしまって救って下さらない、自分の呻きを聞いて下さらず、呼び求めても答えて下さらない、という苦しみ、絶望が語られています。またこの詩の7?9節には、人々に虫けらのように、人間の屑のように蔑まれ、嘲笑われている苦しみが語られています。この詩人は、人々から「主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けてくださるだろう」と嘲られているのです。それはまさに、マルコ福音書15章29節以下で人々が十字架につけられた主イエスに浴びせた侮辱の言葉そのものです。この詩編22編には、主イエスが十字架につけられたことにおいて受けた苦しみが他にもいくつか予告されてます。主イエスが人々の憎しみや嘲りを受け、神に見捨てられたという絶望の内に死ぬことをこの詩は予告していた、とも思えるのです。しかし、この詩の4?6節にはこう語られています。「だがあなたは、聖所にいまし/イスラエルの賛美を受ける方。わたしたちの先祖はあなたに依り頼み/依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され/あなたに依り頼んで、裏切られたことはない」。ここには、主なる神の救いへの深い信頼が語られています。このようにこの詩編22編には、神に見捨てられたという深い苦しみ、絶望と、神への深い信頼が共に語られているのです。そして、最初の方では絶望の思いがより強く語られていますが、次第にそれは神への信頼へと変わっていきます。そしてこの詩の最後のところはこうなっています。「わたしの魂は必ず命を得/子孫は神に仕え/主のことを来るべき代に語り伝え/成し遂げてくださった恵みの御業を/民の末に告げ知らせるでしょう」。つまりこの詩編22編は、最終的には神の救いへの信頼を語っているのです。神に見捨てられたとも思える苦しみ、絶望の中に、なお神の救いが与えられて、最終的には神への信頼に至る、そういう信仰の歩みがこの詩に歌われているのです。主イエスはこの詩の冒頭のところを十字架の上で語られた。それはこの詩の全体を意識してのことだ。つまり「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、主イエスが神に見捨てられたという絶望の内に死なれたことを示しているのではなくて、十字架の苦しみと死に直面しても、主イエスは詩編22編に語られている神への信頼を失っていなかったことを示しているのだ、という解釈がなされたのです。

主イエスの死において見つめるべきことは何か
 主イエスの最後の言葉は確かに詩編22編の言葉であり、それとの繋がりによってその意味を捉えるというこの解釈は確かに成り立ちます。そのように読むことはできるでしょう。そしてそれによって、この言葉から私たちが受ける戸惑いや信仰の動揺は解消されるかもしれません。そして人々に、主イエスは神に見捨てられたという絶望の中で見苦しく情けない仕方で死んだのではなくて、神への信頼を最後まで保っておられたのだ、と説明することができるかもしれません。しかし、それで「よかった」ということになるのでしょうか。そのことによって、主イエスの十字架の死が私たちの救いの出来事であることがはっきりするのでしょうか。主イエスは神に見捨てられたという絶望の中でではなくて、最後まで神に信頼して、従容として死んでいかれたのだとして、そのことは私たちにどういう救いをもたらすのでしょうか。私たちもこの主イエスを見倣って、どんな苦しみの中でも、神に見捨てられたと思うような絶望を感じても、神への信頼を失わずに最後まで、死に至るまで歩み通そう、ということでしょうか。それは「救い」でしょうか。主イエスは神への信仰を貫いて、こんなに立派な、すばらしい死に方をした、ということは私たちの救いとなるのでしょうか。主イエスの死において私たちが見つめるべきことはそういうことではないのではないでしょうか。

理不尽なこと
 そもそも、主イエスの十字架の死は、あり得ないこと、あってはならないことです。主イエスは神の独り子です。ご自身がまことの神であられる方です。被造物である人間の一人なのではなくて、天地を造り、支配しておられる神なのです。その主イエスが、人間となってこの世に生まれ、生きて下さった。つまり主イエスは神でありつつ、私たちと同じ、肉体をもって生きる一人の人間となって下さったのです。そして捕えられ、死刑の判決を受けて、十字架につけられて殺されました。まことの神である方が、一人の人間となって、人間によって裁かれ、十字架に釘づけられて死んだのです。それは、「イエスさまは立派な素晴らしい死に方をなさった」などと称賛されたり尊敬されたりするべきことではなくて、「どうしてこんなことが」「こんなことあってよいはずはない」という理不尽な出来事なのです。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉は、そういう理不尽なことが主イエスの身に起ったことを示しているのです。神の子であり、まことの神である主イエスが、人間によって裁かれ、死刑の判決を受け、十字架につけられて殺されてしまった、神に見捨てられるはずなどない独り子が、神に見捨てられた深い苦しみの中で死んだ。主イエスの死において私たちが見つめるべきなのはそのことなのです。「どうしてこんなことが」「こんなことあってよいはずはない」という理不尽なことが、主イエスの十字架の死において起ったのです。

理不尽に苦しむ私たちのために
 それは私たちのためでした。私たちのこの世の歩みは、「どうしてこんなことが」「こんなことあってよいはずはない」という理不尽なことだらけです。どうして自分がこんな苦しみにあわなければならないのか、自分が何をしたというのか、と思うことがあります。またこの世には、「こんなことあってよいはずはない」と思うようなことが起ります。今世界中が、新型コロナウイルスによってそういう苦しみを味わっています。このウイルスに感染した人は世界全体で3億人を超え、亡くなった人は540万人を超えています。このウイルスで亡くなると、家族もちゃんとお別れができない中で火葬に付されたり、埋葬されてしまいます。540万人の死者それぞれの周りには、慰めを得られずに取り残されている家族がいるのです。たとえ感染しなくても、このウイルスのために、仕事がなくなってしまったり、働き方が大きく変わってしまったりということが起っています。教会においてもそうですが、それまでの生活が一気に大きく変わってしまったことを私たちは体験しているのです。人と人が繋がりにくくなり、家族どうしですらなかなか会えなくなって、寂しさ、孤独、不安を覚えている人が無数にいます。どうしてこんなことが、こんなことあってよいはずはない、という理不尽さを、世界中の人々が今感じているのです。世界全体に広がっているそういう苦しみとは別に、私たちそれぞれの人生には、それぞれ個別の苦しみ悲しみが起ります。病気であったり、老いであったり、事故や災害だったり、人とのトラブルだったり…。それらのことによっても私たちは、「どうしてこんなことが」「こんなことあってよいはずはない」という理不尽さを感じるのです。その時に、「主イエスは十字架につけられるという絶望的な状況の中で、なお父なる神に信頼して歩み通された。だからあなたも、神への信頼を失わずに最後まで、死に至るまで歩み通しなさい」と言われても、それは励ましにも救いにもなりません。むしろ私たちはそこで、「神さまどうして私にこんな苦しみをお与えになるのですか。こんなの理不尽です。なぜ私をお見捨てになるのですか」と叫ばずにはおれないのではないでしょうか。その私たちの絶望を、主イエスはご自分の身に引き受けて下さったのです。私たちと同じ絶望の中に身を置いて、そこで、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死んで下さったのです。主イエスの死において、全地が暗闇に覆われたとマルコは語っていました。それは、今も全地を、私たち全ての者を覆っている苦しみ、絶望の闇の中で、それを背負って、主イエスが死んで下さったということを示しているのだと思います。

「わが神」と祈る道が開かれた
 主イエスのこの叫びにおいて見落としてはならない大事なことは、「わが神、わが神」という呼びかけです。深い嘆き苦しみの中で神に見捨てられてしまったと絶望している私たちと共に、主イエスは「わたしの神よ」と呼びかけて下さった、つまり神に祈って下さったのです。この主イエスの祈りによって、私たちにも、神に見捨てられてしまったという絶望の中で「わたしの神よ」と祈る道が開かれたのです。理不尽な深い苦しみの中で私たちは、いわゆる不条理を感じ、神が自分を見捨ててしまったという絶望の闇に陥ります。しかしその絶望の闇の中で、主イエスの「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という祈りに自分の祈りを重ねることができるのです。そしてこの一言の祈りから、あの詩編22編に語られていることが起っていくのです。神に見捨てられたと思われる苦しみ、絶望の中に、なお救いが与えられて、最終的には神への信頼に至る、という信仰の歩みが、そこに与えられていくのです。主イエス・キリストは、この救いを私たちに与えるために、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死んで下さったのです。

神との間の隔たりが取り去られた
 マルコ福音書は、主イエスが息を引き取られたことに続いて、38節で、「すると、神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けた」と語っています。この「垂れ幕」は、エルサレム神殿の「聖所」と「至聖所」とを隔てていた幕ですが、それは要するに、主なる神と人間との間を隔てていた幕ということです。罪人である人間と聖なる方である神との間をこの幕が隔てていたのです。それは人間を守るためでもありました。罪人である人間が聖なる神に不用意に近づいたら、滅ぼされずにはおれないからです。しかし神の独り子である主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、神は私たちを赦して下さったのです。そしてこの隔たりを取り去って下さったので、私たちは罪人でありながら、神の前に安心して立つことができるようになったのです。主イエスのあの最後の言葉によって起ったのもそれと同じことです。主イエスがあのように叫んで死んで下さったことによって、私たちは、神に見捨てられたという苦しみ、絶望の中でも、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と祈ることができるようになった。それは、苦しみと絶望が、もはや私たちと神とを隔てることはなくなった、ということです。そこにも祈りが与えられ、神と繋がることができるようになったのです。

本当に、この人は神の子だった
 39節には、主イエスがこのように息を引き取られたのを見たローマ軍の百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」と言ったとあります。ルカ福音書ではこの百人隊長の言葉は「本当に、この人は正しい人だった」です。そこにも、ルカとマルコにおけるこの場面の捉え方の違いが現れています。マルコ福音書は、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫んで死んだ主イエスこそ、本当に神の子なのだ、ということを見つめているのです。神の子である主イエス・キリストが、私たちの罪を全て背負って、罪のゆえに神に見捨てられ、滅ぼされなければならない私たちの苦しみと絶望を背負って、「わが神」に祈って死んで下さった。それによって私たちは、神に見捨てられたと思わずにはおれない絶望の中でも、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と祈ることができるようになった。主イエスの死はそういう救いを私たちにもたらしたのです。

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