「真実である言葉」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書: イザヤ書 第59章21節
・ 新約聖書: マルコによる福音書 第16章14-20節
・ 讃美歌 : 11、403
マルコによる福音書の結び
先週と今週の二度にわたって、マルコによる福音書の締めくくり、「結び」と言われる箇所から御言葉を聞いています。先週お読みした第16章9節以下には「結び一」とあり、20節の後には、節の記していない「結び二」という箇所があります。これらは、いずれも、括弧でくくられているように、本来の福音書にあったものではありません。本来の福音書は、16章の8節までで終わっているのですが、終わり方が中途半端なために、後に様々な結びが付け加えられて読まれるようになったのです。新共同訳聖書は、様々な結びの内の二つを示しているのです。前回は「結び一」の前半、9~18節の御言葉に聞きました。そこには、主イエスの復活の証言を聞いても、信じることが出来なかった弟子たちに、主イエスが現れて下さったことが記されていました。そこで主イエスは、弟子たちの不信仰を咎めつつも、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」と、宣教に派遣して下さったのです。復活の主イエスを信じることが出来ない時、弟子たちは、悲しみに暮れ涙を流していました。しかし、復活の主との出会いの中で信仰を与えられた時、主イエスのことを証言する者とされたのです。つまり、信仰を与えられることと、主を証することとは一つなのです。そのことが、17節で、次のように記されています。「信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る」。ここで言われている「新しい言葉」というのは、主イエスを証する言葉に他なりません。この世で主イエスと出会い、信仰を与えられて生きるということは、世に遣わされ新しい言葉を語って行くことなのです。そのようにして、主イエスの福音宣教の御業に加えられて行くことなのです。つまり、信仰者は、それぞれ新しい言葉を語って行く中で、福音書の結びを生きることになるのです。
主の言葉を語る弟子たち
本日は、先週お読みした箇所の後半である14~18節を含め、それに続く19節以下をお読みいたしました。ここには、主イエスが天に昇った後、信仰を与えられて新しい言葉を語った弟子たちのことが語られています。19節には次のようにあります。「主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた」。主イエスは、弟子たちを派遣した後、天に昇られました。そして、一方、弟子たちは、20節の最初で語られている通り、出かけて行って、至るところで宣教したのです。福音書は主に、復活の主が天に上げられるというところまでを記します。その後、弟子たちに聖霊が降り宣教したということは、使徒言行録に示されているのです。しかし、マルコによる福音書は、非常に短くではありますが、弟子たちが主を証する言葉を語っていく様を、結びにおいて記しているのです。この結びにおける弟子たちの働きの中に現代を生きる信仰者も連なっているのです。ここで注意をしなくてはならないことは、信仰を与えられて、主イエスを証する言葉を語るというのは、すべての信仰者の務めであると言うことです。主を証する言葉として、私たちが真っ先に思い浮かべるのは、礼拝における説教ではないでしょうか。説教は、紛れもなく、キリストを証する言葉です。しかし、説教だけが証の言葉なのではありません。もし、聖書を釈義し、黙想して、教会の講壇から説教を語ることのみが、新しい言葉を語ることなのであれば、所謂、牧師や伝道師と言った人々だけが、新しい言葉を語るのだと言うことになるでしょう。しかし、ここで、「新しい言葉を語る」というのは、信仰者の中の特別な人々、説教をするために立てられた人々だけに担わされているのではありません。この世にあって、キリストに生かされつつ信仰に生きる時、誰しも、世に遣わされ新しい言葉、キリストを証する言葉を語る者とされているのです。
新しい言葉
この「新しい言葉」とはどのようなものなのでしょうか。「新しい言葉」というのですから、それがどのようなものなのかは、それまで語っていた言葉、旧い言葉との対比の中で明らかになります。つまり、それは、復活の主と出会う前の弟子たちと、その後の弟子たちにおいて何が変わったのかを知ることによって示されます。復活の主と出会った弟子たちは一つになって集まっていました。共に祈っていたのです。それまで、弟子たちは、主イエスに従って歩んでいました。しかし、その道の途中、彼らは、決して一つになっていることはありませんでした。福音書は、彼らが、自分たちの内で誰が一番偉いのかということを議論する姿や、主イエスが栄光を受ける時に、自分たちを取り立てて欲しいということを願い出る姿を記しています。皆、主イエスに従って歩む自分を誇り、自分が高められることを願っていたと言うことが出来るでしょう。彼らが主イエスに後に付いて行く中で抱いていた思いは、自分こそが認められたいという思いであり、自分の栄光を求める思いでした。そこで語られる言葉は、自分を誇る、自己主張の言葉でしかありません。そのような弟子たちでしたから、一緒に行動はしていても、思いにおいて一致することはなかったのです。しかし、復活の主に出会った時、共に一致して祈りの言葉を唱えていたのです。自分が高められることのみを求め、自分のことしか考えないで歩む者のために、主イエスが十字架について下さり、その罪を贖って下さったこと、更には、その十字架の死を克服されることによって、救いを約束して下さっていることを示されて、ただ主イエスのみを見つめるということにおいて一致し、共に祈っていたのです。この弟子たちのように、復活の主イエスを見つめることにおいて一致し、兄弟、姉妹と共に、祈るのであれば、その祈りの言葉は、紛れもなく、「新しい言葉」であると言うことが出来るでしょう。
平安を告げる言葉
それだけではありません。ヨハネによる福音書第20章の記述によれば、復活の主は、恐れのために、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた弟子たちに姿を現された時、「あなたがたに平和があるように」と声をおかけになりました。これは、直訳すれば「平安」という意味の言葉で、当時の人々の一般的な挨拶の言葉であったようです。恐れの中で心を閉ざしていた弟子たちに、主イエスは平安を告げ、その閉ざされた心の扉を開いて下さったのです。復活の主に出会い、真の平安を知らされた者は、この平安を告げる言葉を語る者になります。主イエスに促されて、自らの罪によって閉ざされた心を開きつつ、互いに挨拶を交わすのであれば、それは、まさしく「新しい言葉」を語っていることになるでしょう。つまり、私たちの信仰生活の至る所で、この「新しい言葉」は語られているのです。信仰生活そのものが新しい言葉を語ることであると言っても良いかもしれません。私たちが、主イエスに生かされつつ、御言葉によって歩む時、自然と「新しい言葉」が語られて行くのです。「言葉」と言われていることから、単純に、口から発せられる言葉だけを思い浮かべる必要はありません。言葉はもちろん、行い、態度、全人格的な存在そのものをもって、キリストを証していくのです。私たちが、自分を誇り自己主張するのではなく、又、自分の殻に閉じこもり、相手との隔たりを生みだすのでもなく、ただ、主イエスを仰ぎつつ謙る真の謙遜の中で、互いの間に一致を生み出し、更には、罪によって閉ざされた、心の扉を開きつつ平和を実現して行く時、それは、「新しい言葉」となり、主イエスを指し示すものとなって行くのです。そのようにして、主イエス・キリストによって示されている愛が、私たちを通して世に示されていくのです。つまり、私たちが新しい言葉を語ると言うのは、私たちを通して御言葉が生きられて行くことなのです。
私たちの戸惑い
しかし、それにしても、信仰を与えられた者が、新しい言葉を語ると言うのは驚くべきことです。私たちは、自分の信仰を誇ることが出来るような者は一人もいません。私たちの現実を顧みる時、私たちが、語ることは、時に、主イエスを証するよりも、むしろ、自分自身のことを語るものになっているからです。又、隣人との間に一致を生む言葉というよりも、むしろ誤解や対立を生む言葉を語ってしまったり、隣人を苦しめる言葉を語ってしまうこともしばしばです。そのような私たち自身を省みる時に、私たちの言葉が、果たして、本当に、主を証するようなものになっているだろうかという思いを抱くのではないかと思います。しかし、忘れてはならないことは、主イエスは、不信仰な者を用いられるということです。主イエスの弟子たちも、やはり、不信仰な者たちであり、自己主張だけに生きていた者たちでした。そのような意味で、何ら特別なことはない、私たちと同じような者たちだったのです。しかし、そのような弟子たちが語る言葉によって、福音が伝えられて行ったのです。つまり、私たち自身の欠けや弱さ、不信仰であっても、そのような者を用いて、主が働いておられるのです。
聖霊の働きとして
そして、主が用いて下さっていると言うことは、そこで働いているのは、根本的には、私たちではないと言うことです。主イエスが天に昇った後の、弟子たちの宣教、主を証する働きは、弟子たちの業として行われたのではありません。主イエスが天に昇ってしまったので、神様の御業を行う人がいなくなってしまったから、主イエスの代わりに、弟子たちが、自分たちで新しく活動を展開したと言うのではありません。確かに、弟子たちを通して行われていますが、それは、根本的には、聖霊の業なのです。ルカによる福音書には、主イエスが天に昇られる前に、弟子たちに、「高いところからの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」とおっしゃったことが記されています。すなわち、聖霊が降るまでは、福音を宣べ伝えずに留まるようにとおっしゃったのです。もし、聖霊の働きに委ねることなく弟子たちが、自分勝手に、主イエスについての言葉を語るのであれば、それは決して、主を証するものにはならないからです。神さまの救いの働きは、主イエスによってこの地上で行われ、主イエスが天に昇った後は、聖霊によって進められているのです。弟子たちは福音を証する者へと変えられましたが、それは、弟子たち自身が、弟子たちの力によって自己改革したと言うのではありません。弟子たちは復活の主と出会った後も、以前のように、かけ多く、弱い人間だったに違い在りません。しかし、聖霊の働きの中で、力強く新しい言葉を語ったのです。
イエスを主として
この聖霊の中で用いられるということは、信仰生活において、私たちが自分を主人として歩むのではなく、イエスを主として歩むということに他なりません。私たちのために、十字架で死に、仕えて下さったイエスを主とし、私たちも、この主イエスの姿に倣って行く者とされるのです。19節の最初で「主イエス」と言われていることに注目したいと思います。福音書において、「主」という言葉と「イエス」という言葉が一緒になって記されることは、ほとんどありません。後の人々が、そのように呼んだのです。主イエスが地上を歩まれた時、弟子たちは、自分を主人にして歩んできました。そこで語っていることは、自己主張の言葉、自分の栄光を求める言葉でした。しかし、主イエスが天に昇られて、栄光をお受けになった時、本当に、この方が主となって、主イエスに従う者が僕であることがはっきりとしたのです。そして、天に上げられた主イエスの働きを世において担って行ったのです。本当にイエスを主とする所でこそ、語られる言葉は、私たちの自分勝手な言葉ではなく、主イエスご自身の働きとして語られる言葉となるのです。
私たちはともすると、信仰生活や教会生活においても、自分の言葉、自分の思いに縛られた言葉を語ろうとしてしまうことがあるかもしれません。自分を主人として、自分の思いに従って行こうとしてしまうのです。しかし、聖霊の働きの中で、主イエスに仕える時、私たちは、たとえ、そこで語ることが、自分の思いとは異なるとしても、主イエスを証する言葉を語る者とされるのです。
言葉が真実である
20節の後半には次のようにあります。「主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった」。ここで、主イエスが共に働いたことが記されています。天に昇られた後、聖霊としてこの世に臨んで下さっていることが示されていると言って良いでしょう。そして、共に働いて下さり、「彼らの語る言葉が真実である」ことが示して下さったのです。ここで真実であると訳されている言葉は、その言葉が確かであるということを保証する時の言葉です。私たちがキリストを指し示す証の言葉を語る時、その確かさを自分で保証することは出来ません。新しい言葉とは、それが真実であることを私たちが保証することが出来るようなものではないのです。むしろ、私たちが、キリストを証する時、自分で、その確かさを保証出来るような言葉を語っているのであれば、それは、キリストを証する言葉とは言えないでしょう。私たちがキリストを世に示すという時、自分で、それが真実であることを世に示す必要はありません。なぜなら、そもそも、私たちが語る証の言葉は、聖霊を通して、語られていることだからです。ですから、そこで語られる言葉も、主が働かれることによって、そのことが真実であることが示されていくのです。私たちは、主イエスを証する時、たとえ、自分が確かさを保証出来ないことであっても、主の働きに委ねつつ、主が真実であることを示して下さることに信頼することが出来るのです。
結び二
このことと関連して、結び二に目を留めておきたいと思います。「婦人たちは、命じられたことすべてペトロとその仲間たちに手短に伝えた。その後、イエス御自身も、東から西まで、彼らを通して、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められた。アーメン」。ここには、永遠の救いに関する聖なる朽ちることのない福音を広められたのは他でもなく「イエスご自身」であることが語られています。しかし、「彼ら」、即ち、弟子たち、ご自身を信じる者たちを通してなされたのです。ここにも、聖霊の働きとは、主イエスご自身の働きでありながら、信仰者を通して行われる働きであることが記されています。おそらく、この結びを記した人も、自分自身を通して、主イエスご自身が働いておられることを受けとめていたことでしょう。今、この結びを書いているのは、私を通して、主イエスご自身が働かれているのだという信仰の内に記したのです。自分自身が何か立派な業を行ったということではありません。自分が人よりも立派な信仰者だと言うのでもありません。自分のことを見つめれば、かけの多い、不信仰な者でしかない。しかし、主イエスご自身が宣教の働きの主となって下さっている。それ故、自分の言葉も真実なものである。そのような確信の内に結びを記したのです。
そのような主に委ねた者の確信が、最後に記された「アーメン」という言葉に表されています。「アーメン」とは、そのことが確かであると保証する時の言葉です。「然り」とも訳される肯定を表す言葉です。私たちは祈る時、その最後において「アーメン」と唱えます。それは、自分が祈った内容が確かだと言うことを、自分で保証するためではありません。自らは不真実な言葉しか語れない不信仰な者であっても、主イエスが、そのような者を肯定し、用いて下さっていること。それ故、そこで語られる言葉、そこで祈られる祈りが、確かであるという意味でアーメンと唱えるのです。この結びを記した人は、自らが、主の救いの御業の中に入れられているという確信の中で、そこで語る新しい言葉が真実なものとされていることを喜びながら、「アーメン」と記したのです。私たちも、イエスを主として、聖霊に委ねる時、自らの内に不確かさしか見いだせないとしても、私たちを通して語られる新しい言葉が主イエスによって真実とされているという確かさに信頼して歩むことが出来るのです。そのようにして、福音の結びを生きつつ、主イエスを証する者とされて行くのです。