夕礼拝

暗闇を照らす光

「暗闇を照らす光」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; イザヤ書、第9章 1節-6節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第2章 1節-21節

 
序 夜が近づくと、暗闇が天と地を覆い始めます。わたしたちにとって、暗闇というものはあまり気持ちのいいものではありません。それは何とも表現しようのない不安を掻き立てるものであります。わたしの父の郷里は長野であり、善光寺のすぐ近くです。子供の頃帰省した折に、善光寺の地下道に連れて行ってもらったことがありました。そこでわたしは全く光がない、文字通りの真っ暗闇を体験しました。母親にしがみついていなければ、怖くて泣き出したに違いないような、とてつもない恐ろしさを子供ながらに感じました。暗闇は大人になっても怖いものです。何が潜んでいるか、飛び出してくるか、全く分からない。自分で把握したり管理したりできない力が潜んでいるのを、わたしたちは感じるのです。
 先日送られてきた郵便物に中に、心の悩みを抱えている方のために電話相談を行っている社会福祉法人「いのちの電話」の会報がありました。それによりますと、今日では年間3万人を越える数の人々が自殺しているといいます。社会のひずみが目立ち、不況や家族や学校における人間関係の崩壊、戦争や環境破壊の進行が不安をあおっています。悲惨な事件が連日報道され、ニュースや新聞を見るのもうんざりしている、というのが正直なところではないでしょうか。
 讃美歌の中に、「敵は外にも内にもあり」と歌われていますが、わたしたちの外にも、内にも、御し難い暗闇の力があるのを誰もが感じているのではないでしょうか。聖書はその暗闇の現実を隠したり、ごまかしたりせずに、直視することをわたしたちに促します。しかし同時に神がその暗闇の中にどんな驚くべき光をもって介入されるのかを示しつつ、その暗闇を照らし出してくれるのです。

1 フランス文学者で、罪の問題を深く考えた人に森有正という人がいます。この人はアブラハムの生涯から深く学んだ人ですが、ある講演の中で次のように語っています、「・・・人間というものは、どうしても人に知らせることのできない心の一隅を持っております。醜い考えがありますし、また秘密の考えがあります。またひそかな欲望がありますし、どうも他人に知らせることのできないある心の一隅というものがあり、そういう場所でアブラハムは神様にお眼にかかっている。そこでしか神様にお眼にかかる場所は人間にはない。人間がだれかれはばからずしゃべることのできる、観念や思想や道徳は、そういうところで人間はだれも神様に会うことはできない。人にも言えず親にも言えず、先生にも言えず、自分だけで悩んでいる、また恥じている、そこでしか人間は神様に会うことはできない」。わたしたちが心の隅に抱えている深い暗闇、誰にも言えないような苦しみや悩み、恥、自分でも認めたくもないような汚点、気を紛らわして忘れてしまいたいような痛み、そこにおいてこそ神はわたしたちと出会ってくださるというのです。
 主イエスがお生まれになった時、それも暗闇が深く天と地を覆う夜でした。クリスマスはまさにこの闇夜の中に到来した出来事なのです。わたしたちはこの暗がりの中で、自分たちの小さな光を掲げて、それでもって闇夜をやり過ごしていこうとあくせくしています。財産や家族、友情や才能、名声や長寿につながる健康法などに心を配りながら日々を送っているのです。そういう小さな光に頼って、その光が消えないように必死でその光を守ろうとしているのがわたしたちの現実ではないでしょうか。そのような人工的な光をかかげていると、天からの光が見えにくくなります。ちょうど横浜の町が明るい光を放つと夜空の星が見えにくくなるように、わたしたちが自分たちの持つ小さな光に固執すると、神が投げかけてくださる天からの光が見えにくくなってしまうのです。まさに今、救い主という天からの光がこの世に到来しようとしているのに、それを喜び、受け入れることができないのです。それゆえに救い主は何と馬小屋の中の飼い葉桶の中に寝かされたのです!ルカはその理由について、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかったからである」(7節)と説明しています。救い主がお生まれになるのに、それを受け入れる心を持つことさえできない、救い主を救い主として認めることさえできない、それほど心の目が見えなくされているのがわたしたちの姿ではないでしょうか。ただ神が主イエスにおいてご自身を現してくださらなければ、わたしたちは主を主として認めることさえできない、そういう憐れな存在なのです。

2 しかしそうであればこそ、この暗闇の中に、主は来て下さったのです。救い主を受け入れる素地など本来持っていない、もてっこない、罪深き暗闇の世界に、神は人となって来てくださいました。人口調査という世俗的な雑事に追われて宿屋も溢れかえっているような巷の片隅でひっそりと神の救済計画が動き出しているのです。人口調査は、国家の主権者が徴税の目的のために、領土内の人工を確認する必要から時々行った制度です。しかし主はこのような全くの世俗的な営みをも用いつつ、ヨセフとマリアをダビデの町であるユダヤのベツレヘムへ導き、救い主がこの地にお生まれになるとの預言を成就されるのです。わたしたちの日毎の歩み、それもまた一見、全くの世俗的な歩みであるかもしれません。けれどもその日々の歩みの只中に、神は深い顧みに基づいたご計画をもって働きかけてくださり、天来の光をそっと投げかけてくださるのです。
 暗闇の中で最初にこのよき訪れを知らされたのは羊飼いたちでした。人口調査の最中にあっても、誰からも顧みられず、ただ昨日と同じように、主人から託された羊の世話をしている彼ら、自分の所有物など何もなく、ただ与えられたものによって生きること以外に何も知らない彼らに、「民全体に与えられる大きな喜び」が伝えられるのです。しかしその内容は驚くべきものでありました。救い主であることを示すしるしとは何か。それは何と「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」だというのです。わたしは最近、ある先生のクリスマスの説教をテ-プで聴いていて、はっとさせられることがありました。その先生は説教の中でおしゃっていました、「もしわたしが馬小屋に生まれたら、そのことを一生涯誰にも言わずに生きたことでしょう」。わたしははっとしました。人間にとって自分が馬小屋で生まれたということは、生涯誰にも明かせないような激しい羞恥心と痛みを引き起こす事実だということに改めて思い至ったからです。それが知られれば、馬鹿にされるかもしれない、いじめられるかもしれない、軽蔑されて相手にされなくなるかもしれない、そういう恐れと悩みに生涯苦しめられなければならなくなる、心の中に重い暗がりを秘めたまま一生を送ることになるかもしれない、そういう重みをもった事実を、神は引き受けられたのだということを、深く思わされました。
 国際連合の事務総長を長く務めて、最後はアフリカのコンゴでの紛争を調停しようとしていた最中に事故で亡くなった、ダグ・ハマーショルドという人がいます。この人の死後に毎晩書きつづけていた日記が発見され、出版されました。『道しるべ』という題で日本語にも翻訳されている本です。その中でクリスマスの時期に黙想をした箇所には、次のような言葉が残されていました。「降誕節が待降節に続いてやってくるのは、なんとふさわしいことであろうか!―――行手を見つめる者にとっては、ゴルゴダの丘は馬槽の置かれた場所にあり、十字架はすでにベツレヘムに建てられている」。この世のすべての悩みと苦しみ、わたしたちの心の中にある罪という底の見えないほどの暗い闇、うずまく死と悪の力、それらをご自身が引き受けて、十字架において担いきる、その重大な神のご決意が、既に「飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子」の中に込められているのだ、ということです。それゆえに天の大軍の中で賛美を歌った天使たちが天に去り、乳飲み子を探し当てた羊飼いたちが帰っていった後も、御子イエス・キリストはこの罪深き世において「世の罪を取り除く神の子羊」として神の御心を貫徹するために人間の罪の現実に留まられたのです。ただ幼子主イエスだけがこの世に留まり、わたしたちのために義と聖と贖いとなってくださったのです。
 クリスマスの光が到来した、その中には、わたしたちをおそるべき罪のとりこから救い出すという神の永遠の決意が秘められていることを、わたしたちは深い驚きと感謝をもって受け止めざるを得ないのです。わたしたちは自分の中の光に依り頼んでいては、いつまでも神の与えてくださる光に気づくことができません。救いは、自然を越えた天からの光によらなければならないのです。地上のどこそこにある小さな光がわたしたちを救い出すのではない。暗闇の世界に降って来る天からの「主の栄光」の光こそが「民全体に与えられる大きな喜び」(10節)を告げ知らせるのです。それは人間の理性や思想の中で知るに至る知らせではなく、天から主の天使が伝えてくれなくては、誰も知ることができないよき訪れなのです。そしてそれは思想や議論の中に見出されるのではなく、賛美の中に見出されるものなのです。「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ」(14節)。神の栄光、「神が今ここにおられるという目に見える光り輝き」がこの暗闇の世界に照り渡った日、それがクリスマスです。そしてその光は街角のイルミネーションのように、一つのシーズンが終われば電球が外され、装飾が撤去され、灯りが消されるといった類のものではない。あの夜、天に輝いた光は今も輝き続けているのです。その高い所からの光、主の栄光を、わたしたちは主の日ごとの礼拝においてさやかに仰ぎ見ているのです。
 あのアメリカでの同時多発テロが起こった年のクリスマスに、ある教会の前に掲げられた説教題の掲示板には、「それでもクリスマスを祝う」と書かれてあったといいます。世界がとてつもないショックに直面し、望みや力を失いかけ、意気消沈している時にもかかわらず、いやそのような時ゆえにこそ、わたしたちは暗闇の中に光り輝き、今も輝き続けている天からの光を仰がなければならないことを伝えようとしたのでしょう。「主を仰ぎ見る人は光と輝き、辱めに顔を伏せることはない」(詩編34:6)、そう詩編の詩人も歌いました。この天からの光に照らされた者は、それをあがめ、賛美し、証言する者へと変えられます。ある人はここにおいて「天の使いはすべての福音宣教者を代表しており、羊飼いたちはすべての聞き手を代表している」と言っています。天使は言いました、「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる」、そして救い主と合い見えた羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせました。そして神をあがめ、賛美したのです。ここにおいて「聞き手」もまた、証し人として遣わされることを知るのです。
 
結 主イエスはおっしゃいました、「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)。この「世の光」こそ、闇の中を歩む民が仰ぐべき「大いなる光」であり、「死の陰の地に住む者の上に輝く光」にほかなりません。そこには「深い喜び」、「大きな楽しみ」、が生まれ、主の御前に「喜び祝う」礼拝が生まれるのです。「驚くべき指導者」、「力ある神」、「永遠の父」、「平和の君」であるお方が、「万軍の主の熱意」をもって神の国を来たらせてくださると約束してくださっています。その約束の実現が、この御子の誕生において始まっているのです。「闇に住む人をその牢獄から救い出すため」(イザヤ42:7)照り輝いた光が今も、御言葉と御霊をもってわたしたちの歩むべき道を照らし、教えてくださいます。その命の光の道を賛美と感謝をもって辿り行く「光の子」として歩むことを願いつつ、祈りを捧げましょう。

祈 主イエス・キリストの父なる神様、あなたは暗闇の中で行きなづむわたしたちに深き憐れみと慈しみをもって身を向けてくださり、大いなる永遠の昔からのご決意をもってこの世界に独り子をお与えになりました。それゆえにわたしたちは、もはや夜にも暗闇にも属していない(Ⅰテサ5:5)ことを知っています。
どうか闇の力に悩まされる時にも、決して消えることのない上からの恵みの光に留まることができますように、豊かな導きをお与えください。「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった」(Ⅰペトロ2:9)主の力ある業を喜び証し、生涯にわたってクリスマスの恵みにの内に生き切る者とならせてください。
 まことの世の光なる、主イエス・キリストの御名によって祈り願います、アーメン。

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