夕礼拝

十字架の上の主

「十字架の上の主」  伝道師 嶋田恵悟

・ 旧約聖書; 詩編 第22章1ー22節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第15章16ー32節
・ 讃美歌 ; 288、303

 
主イエスの死刑が決定
 マルコによる福音書はこれまで、主イエスが十字架に向かって歩んでくる道のりを語って来ました。それは苦難の道です。十字架につけられるということだけが、主イエスの苦しみなのではありません。神の子でありながら、世に来られ歩まれたその生涯全体が苦しみであったと言って良いでしょう。神様の御心に従って歩むご自身のことを誰からも理解されずに、お一人で神さまの救いの御業のために歩まれたのです。それは自分の思いに従って生きる人間たちによって拒絶され続ける歩みでした。愛する弟子たちにも、ご自身の苦しみを理解されることはありませんでした。そのような苦しみの歩みの集大成が、主イエスの十字架なのです。本日朗読された箇所は、主イエスの死刑が決定されてから十字架につけられるまでのことが記されています。人々拒絶され、その苦しみを理解されることなく、十字架につけられた主イエスのお姿に目をとめつつ、そこにある私たちの救いとはどのようなものなのか、又、神の御心を理解しない私たちが、どのように主イエスの十字架を受け入れて行くのかを示されたいと思います。

兵士たちからの侮辱
 16節以下には、主イエスは、ローマの兵士たちから侮辱されたことが記されています。ローマの兵士たちにしてみれば、主イエスは自分たちが支配している国の人で、しかも死刑が確定した死刑囚です。どのように扱っても咎められることはありません。16節には、「兵士たちは、官邸、すなわち総督官邸の中に、イエスを引いて行き、部隊の全員を呼び集めた」とあります。官邸にいた兵士全員で主イエスに暴行を加え侮辱したのです。「イエスに紫の服を着せ、茨の冠を編んでかぶせ『ユダヤ人の王、万歳』と言って敬礼し始め」ました。「また何度も、葦の棒で頭をたたき、唾を吐きかけ、ひざまずいて拝んだりした」というのです。紫の服というのは、当時の王が着る衣服です。更に、王がかぶる王冠を茨で造ってかぶせたのです。その上で、葦の棒で頭を殴りつけたのです。ここで、ただ単純に、主イエスに暴行を加えようとしたというのではありません。自らを王と自称した主イエスに敢えて王の格好をさせて、侮辱しているのです。侮辱することによって肉体的だけでなく精神的にも痛めつけようとしたのです。「お前は、自分を王だと言っているが、結局は何も出来ない、人々のしたいように暴行されている死刑囚に過ぎないではないか」と言わんばかりに、主イエスを嘲ったのです。出来得る限りの苦しみを加えようという人間の残酷さが示されていると言って良いでしょう。

ゴルゴタへの道
 暴行を加えた後、今度は、主イエスに十字架を担がせて、十字架刑が執行されるゴルゴタを目指して歩かせました。当時、十字架刑に処せられる人は、このように、自身が磔にされる十字架の横木を担いでゴルゴタまで歩かされたようです。「されこうべの場所」との説明書きが記されています。ゴルゴタというのは小高い丘であって、その形が骸骨の形に見えたのだとういことが言われています。又、実際に死刑に処せられた人々の骸骨が転がっていたのかもしれません。いずれにしても、人々が近寄りたがらない、死の香りが漂う、暗く縁起の悪い場所であったに違い在りません。そこに向かう主イエスの足取りも、死に瀕した者の歩みだったと言って良いでしょう。暴行を加えられた上で、大きく重たい十字架を担いで丘を登ること簡単なことではありません。21節を見ますと、通りかかったシモンというキレネ人が、兵士たちからイエスの十字架を無理に担がされたことが記されています。ここから分かることは、主イエスは丘を登る間に、もう担いで歩くことが出来なくなってしまったということです。多くの画家が、十字架にかけられる時の主イエスの弱りはてたお姿を描きますが、まさに、この時、主イエスの肉体的苦痛は限界に達していたと言って良いでしょう。ゴルゴタにつくと、人々は、主イエスに「没薬を混ぜたぶどう酒」を飲ませようとします。限界に達し、苦痛に悶える主イエスの姿を見てられなかったのでしょう。十字架刑をスムーズに進めるという目的があったのかもしれません。主イエスの肉体的な苦痛を少しでも和らげようとしたのです。しかし、「イエスはお受けにならなかった」とあります。主イエスは十字架の苦しみを味わい尽くされたのです。

くじを引く人々
ゴルゴタに着くと、兵士たちは、主イエスを十字架につけます。その時の様子は24節に記されています。「それから兵士たちはイエスを十字架につけて/その服を分け合った、だれが何を取るかをくじ引きで決めてから。」とあります。聖書は、ここで主イエスが十字架に磔にされる仕方について細かく語りません。例えば、映画が描写するように、手や足に釘を打つ様子や、痛みで主イエスが呻く様子等は一切記さないのです。なぜなら、この時の本当の主イエスのみ苦しみは、残虐な刑罰によって肉体的な苦痛を被ったということのみにあるのではないからです。罪に支配された人間のために罪の裁きをご自身の身に受け、父なる神から切り離され、呪われた者となることに苦しみがあったのです。そのような苦しみは、人間が、どれだけ、刺激的かつ感傷的に主イエスの十字架を描いたとしても、描ききれるものではありません。十字架の苦しみは、私たち人間が、自分たち自身が自分たちの苦しみと重ねることによって知ることが出来ることではないのです。だからこそ、聖書は、一言、十字架の事実だけを語るのです。聖書が丁寧に記すのは、十字架に付けられた主イエスのお姿よりもむしろ、その周りにいる人々の姿です。そこで見つめられているのは、十字架の下で、くじを引いて、主イエスの服を分け合う人々です。それは一種の賭け事のようなものであったようです。主イエスが十字架の苦しみを耐えておられる時、人々は、娯楽に興じている。十字架の主イエスの衣服を自分たちの楽しみのために用いているのです。ここには、主イエスの苦しみに全く思いを寄せることが出来ない人間の姿が示されています。私たち人間の罪のために苦しまれるキリストに思いを寄せることなく、この世で自分が少しでも得をしたいという射幸心を抱きながら、賭けごとの楽しみに心奪われて、虚しく時間をすごすことにのみ熱心になっている。この十字架の場面に、世界の現実が表されていると言って良いでしょう。主イエスの十字架の苦しみに思いを寄せることなく、自らの人生の楽しみや気ばらしに熱中している時、私たちは、この時の兵士たちと変わらないのです。

「ユダヤ人の王」として
26節には、主イエスの十字架の上には、罪状書に「ユダヤ人の王」と記されたとあります。又、29節には、通りがかった人々は、「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ」とののしったとあります。ユダヤの祭司長や律法学者たちは、「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら信じてやろう。」と言って主イエスを侮辱します。ここで言われていることは、もし本当にお前が王であり、救い主であるならば、自分自身を救って見せてみろということです。自分たちが信じるにたる救い主であることを証明してみろというのです。お前のような、弱くみすぼらしい者が、私たちの王であるはずはないではないかというのです。ここには、主イエスに対する憎しみをあらわにすると共に、主イエスを試す人々の姿が現されています。何か、人間が理解できるかぎりの不思議な、超常的な力で、自分自身を救って見せれば信じようというのです。この試す思いの背後には、自分にとって都合のよい、自分の願いを実現してくれる限りでの救い主を求める人々の姿勢があると言って良いでしょう。人々は、自分の願っているとおりに、自分を圧倒させるような力強い王を求めているのです。そこでは、根本的には、自分が主イエスの上に立って、主イエスが、自分たちのあがめる王として相応しいか否かを判断しようとしている。そのような意味で、自分たちが主人となって主イエスを裁いているのです。そのような人間の罪が、「メシア・イスラエルの王、ユダヤ人の王」として主イエスを祭り上げるそぶりを見せつつ、実際は、出来得る限りの侮辱を加えるということに表れているのです。私たち人間の罪、仕えるべき王を求めながら、結局自分が王となって歩もうとしていることにあると言って良いでしょう。そのような罪が、主イエスを十字架の死へと追いやるのです。

神の御心として
 しかし、この、主の苦しみに思いを寄せることもなく自らの楽しみに熱中し、あるいは、自ら主人となって主イエス裁きつつ侮辱する人々の中で、十字架の上に上げられるということこそ、真の王、救い主の姿です。私たちには、そのことが分かりません。その姿が私たちが望む王、救い主とは正反対の姿で、私たちの理解を超えているからです。しかし、「十字架の上の主」にこそ、神様の救いの御心があるのです。本日お読みした旧約聖書、詩編22編には、この時の主イエスのお姿が記されています。7-9節には、「わたしは虫けら、とても人とはいえない。人間の屑、民の恥。わたしを見る人は皆、わたしを嘲笑い/唇を突き出し、頭を振る『主に頼んで救ってもらうがよい。主が愛しておられるなら/助けて下さるだろう』」とあります。更に、17-19節には、「犬どもがわたしを取り囲み/さいなむ者が群がってわたしを囲み/獅子のようにわたしの手足を砕く。骨が数えられる程になったわたしのからだを/彼らはさらしものにして眺め/わたしの着物を分け/衣を取ろうとしてくじを引く」。ここで語られていることが、主イエスの十字架において成就しているのです。それは、この十字架が、世を貫く、神様の救いの御計画であるということです。救い主が呪われた者とされ十字架で死ぬということ、十字架の上の主というのは、私たち人間から見れば、理解を遙かに超えたことです。しかし、人々がその真意を理解しない中で、救い主が人間の手によって裁かれ、罪人の贖いとなって下さった十字架にこそ、私たちの理解をはるかに超えた真の救いがあるのです。主の苦しみに思いを寄せることもなく、自らを主として真の救い主を裁いてしまうような救いようのない者の救いが成就しているのです。

キレネ人シモン
この十字架の出来事において、私たち人間は、主イエスの御業に関わることなく、ただ、主イエスを侮辱し、苦しんでいる主イエスの下で賭け事に興じる者としてのみ登場するのでしょうか。そのような意味で、否定的な形でのみ十字架に関わるのでしょうか。確かに、主イエスの十字架は父なる神様の御心です。その救いの御業において、私たちの積極的な業が関わる余地はありません。あるのは、私たちの罪の現実と、神様の人間を救うための御業だけです。しかし、その苦しみの歩みの中に、一人の人間が肯定的な意味で関わっていることにも目を向けたいと思います。肯定的と言っても、自らの思いによって積極的に関わったのではありません。極めて消極的にですが、確かに、主イエスの十字架に肯定的に関わった人がいるのです。それが、十字架を背負わされたキレネ人シモンです。「田舎から出て来た」と言われています。祭の最中、神様を礼拝するために、はるばるエルサレムにやって来たのです。そのような中、この人は、とんだ不幸を経験することになります。自分は、十字架につけられるようなことは何もしていない。しかし、死刑に処せられようとしている犯罪人の十字架を背負って歩かなくてはならない事態になったのです。当時は、兵士が一般の民衆をこのようにして使ったようです。しかし、背負わされる方はたまったものではありません。相当な肉体的な労働を強いられることになりますし、周囲の人々からは、まるで自分が犯罪人であるかのように見られるのです。シモンは、主イエスのことなど全く知らなかった人です。それにしても自分の決断によってではなく、十字架を背負わされる、そのような不幸に遭遇するという形で、シモンは確かに、主イエスとの関わりを持たされたのです。おそらく、このシモンは、後に主イエスを信じ、教会に連なる者とされたであろうと言われています。事実、聖書は、シモンが、アレクサンドロとルフォスの父親であると記します。福音書にシモンの息子の名が記されたということは、彼の息子達が、福音書が記されていた時、教会の中で名が知られていた人であったということです。更に、ここでルフォスと言われている人は、ローマの信徒への手紙16章13節で、パウロが記した挨拶の中で、「主に結ばれて選ばれた者ルフォス」と記している人と同一人物であったかもしれません。そうだとすれば、息子たちが教会の中心的なメンバーになっていることになりますから、その父親も又、キリスト者とされていたにちがいありません。シモン自身がこの後、「主に結ばれて選ばれた者」とされたのです。名もない一人の田舎から来た男が、自分の思いとは関係なく、主の苦しみに参与させられた。このシモンの姿の中に、主に結ばれて選ばれた者として救いに与るとはどのようなことなのかが示されているように思います。

自分の十字架を背負って
そのような想像をするまでもなく、聖書は、このシモンの姿の中に、キリスト者の姿を描いていると言うことが出来るでしょう。主イエスは、マルコによる福音書第8章34節で次のように語っておられました。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」。主イエスに従う者とは、自分を捨て、自分の十字架を背負って歩む者のことだと言うのです。そして、この福音書は、そのような人の姿を、主イエスのゴルゴタに向かう道の途中に描いているのです。 自分の十字架を背負う、それは、自分の罪を自分で担え、自分の悪事の尻ぬぐいは自分でしろということではありません。それは、主イエスが担った十字架を共に背負うということです。もちろん、十字架の苦しみ、私たちの罪のための根本的な苦しみは、主イエスがお一人で担っていて下さるのです。私たちがそれを担うことは出来ません。しかし、その十字架の一端に参与するのです。そのような中で、主イエスが他でもなく、自分自身の為に苦しんで下さったということ、自分の苦しみを担って下さっているということを知らされるのです。 シモンは、最初は、何も悪いことをしていない自分が、どうして赤の他人の死刑囚の十字架をかつがないとならないのかとの思いに捕らえられたことでしょう。しかし、十字架を背負ってゴルゴタの丘を歩むという苦しみを経験したことを通して、この方が十字架に付けられたのは、自分自身の罪のためであり、主イエスの十字架は、他でもなく自分自身の十字架でもあることを悟らされたのです。そして、主イエスが十字架に付けられた時には、それが、自分のための贖いの死であることを受けとめたのではないでしょうか。主イエスの十字架への道の一翼を担うことによって、十字架の苦しみの一部を担い、主イエスの苦しみに参与するという形で、この人は主イエスと関わりを持ち、主イエスを信じる信仰が与えられたのです。

主イエスの苦しみに参与しつつ
ここにキリストの十字架と私たちの接点とでも言うべきものがあると言っても良いでしょう。十字架に至るまでの弟子たちのように、自分たちで主イエスに従おうとした人々は、主イエスが十字架に付けられる時、主イエスの下から逃げてしまっていました。権力の座についていた者たちは、主イエスを裁き侮辱していました。そのような人々は、主イエスに従おうとし、あるいは自分たちの王を求めていながら、実際は、自ら救い主を選ぶ主人となって歩んでいたからです。人間の自ら積極的に主イエスと関わりを持とうと言う姿勢の中には、少なからず、そのような罪があるのです。そうではなく、自らの意志が全く働かない所で、主イエスの十字架に参与させられる。そのような中で、私たちは、真にキリストの救いを示され、それに与る者とされるのです。ここに、私たちがキリスト者として世を歩む時に経験する、自分には良く分からない苦しみ、不条理としか言いようのない苦しみの意味があるのではないでしょうか。私たちは、順風満帆な歩みをしている時に、キリストに従うのは難しいことです。そのような時、ローマの兵士たちのように、十字架のすぐ傍にいながら、その苦しみに思いを寄せることもなく、自分の人生の楽しみに興じているということがあるのです。そうではなく、本当に苦しみの中で打ちひしがれている時、自分の予期しなかった不幸が降りかかったり、人間の罪に直面して苦しむ時、キリスト者として歩む中で様々な恥じを受ける時、そのような、誰にも誇ることの出来ないような苦しみの歩みの中で、十字架を背負うのです。そこでこそ、自らが担うべき本当の苦しみを担って下さっている方がいること、その方を苦しめた方が自分自身であること知らされ、更には、理解しつくすことはできないにしても、その苦しみの大きさに思いを寄せる者とされるのです。ただ、そのようなことを通してのみ、消極的にではありますが肯定的に主イエスと結びつくのです。それ以外のどんな所においても、私たちは、自分を誇り、自分が主人となろうという思いから自由ではないからです。罪による苦しみは、確かに、主イエスご自身が、十字架に磔にされることによって担って下さっています。しかし、その中で、私たちに、その苦しみを知らされるほんの僅かな道が用意されていると言っても良いでしょう。主を十字架の下で、賭け事に興じ、主を侮辱するような歩みをしている私たちが、自分自身が主を選んで従おうとするのではなく、ただ主に選ばれて、十字架をかつがされる時にのみ、本当に、十字架の上の主を見上げる者とされるのです。十字架の上の主という理解を超えた御業を、驚きつつ恵として受け入れて主イエスこそ真に救い主であると讃える者とされるのです。

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