特別伝道礼拝説教

罪を赦すことのできる方

「罪を赦すことのできる方」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 申命記 第22章22ー29節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第8章1ー11節
・ 讃美歌; 18、127、436

 
死語
 このごろの日本の社会において、聞くことがなくなり、ほとんど死語となった言葉が、本日皆さんとご一緒に読む聖書の箇所、ヨハネによる福音書第8章1節以下に出てきます。「姦通」という言葉です。何とレトロな響きを持った言葉でしょうか。「不倫」という言葉は、ひところのトレンディードラマのテーマだったりしましたが、最近はそれすらも聞かなくなった気がします。こういう言葉が使われなくなったことは何を意味しているのでしょうか。これらの言葉によって言い表されていた事柄がなくなったのではないことを私たちは知っています。変わったのは、そのことを受け止める人々の意識です。「姦通」は、「姦通罪」という昔の法律上の罪を思わせます。日本の刑法にも、昭和22年、1947年まではそういう規定があったのです。また「不倫」という言葉も、倫理に反する、という意味を持っています。つまりこれらの言葉はいずれも、このことは罪であり人間としての倫理にもとることだ、という意識が働いているのです。その罪の意識そのものがなくなってきたことが、これらの言葉が消え失せ、死語となった原因だろうと思います。今なお生き残っている言葉は「浮気」です。こちらは、「気持ちが浮いている」と書くことからも分かるように、姦通や不倫よりもずっとフワフワとした、軽い感じです。「軽いノリ」がもてはやされる今の風潮とピッタリくると言えるでしょう。深刻に受け止めるほどのことはない、ちょっとした過ちという感覚がそこにはあると思います。どういう言葉が用いられるかは、人々がどういう感覚でそのことを受け止めているかを如実に表すのです。

姦淫の本質
 しかしおよそ二千年前のユダヤにおいては、姦通は、今日の私たちの社会とは比べものにならないくらい深刻な、重いことでした。4節から5節にかけてのところに、「先生、この女は姦通をしているときに捕まりました。こういう女は石で打ち殺せと、モーセは律法の中で命じています」とあります。姦通は、石で打ち殺されなければならないほどの重罪だったのです。そのことを定めている「モーセの律法」が、本日共に読まれた旧約聖書の箇所、申命記第22章22節以下です。ここには、姦淫の罪を犯した者は殺されなければならないという、今日ではびっくり仰天するような掟が語られているのです。ひょっとして皆さんの中には、今日初めて教会の礼拝というものに来てみた、そして聖書に初めて触れた、という方がおられるかもしれません。そういう方には、最初に触れた聖書の言葉がこの申命記22章というのはちょっと刺激が強すぎたかもしれません。聖書にはこんな恐ろしいことが書いてあるのか、とびっくりし、とまどいを覚えるのではないでしょうか。そういう印象を否定するつもりはありません。聖書、特に旧約聖書には、これよりももっと恐ろしいことだって書かれているのです。問題はそれらの箇所をどう読むかです。例えばこの申命記22章も、じっくり読んでみると、ただ恐ろしいことが語られているだけではなくて、聖書が「姦淫」をどのように考えているかが分かってくるのです。ここには、姦淫の罪はこういう場合に成り立つ、ということが語られています。第一は、「男が人妻と寝ているところを見つけられたならば」です。ずいぶん赤裸々な表現ですが、とても分かりやすいとも言えます。第二は、ある人と婚約している娘と、別の男が床を共にした場合です。これらの場合には、姦淫の罪が成り立ち、女も、相手の男も共に殺されなければならないのです。ただし第二のケースにおいて、事が町中で起ったのか野で起ったのかによる区別がなされています。町中なら、助けを求めることができたはずだからそれは合意のもとになされたことと見なされるが、野では助けを求めることができないから、娘は被害者として扱われ、その場合には姦淫の罪は成り立たないのです。このように、本人の意志によることだったのかそうでないのかということに配慮がなされていることも、これがただ野蛮な教えというわけではないことを示していると言えますが、それはさておき、ここで大切なのは、姦淫の罪が、女性が結婚ないし婚約している場合にのみ成り立つという点です。結婚も婚約もしていない女性の場合のことは28節以下にあって、その場合には、男は必ず彼女と結婚し、生涯離婚してはならないとされています。つまりこれは姦淫の罪とはみなされていないのです。このように、姦淫の罪は結婚ないし婚約している女性にのみ成り立ちます。日本の昔の姦通罪もそうでした。その背後に、男性優位社会における、女性は結婚によって夫の所有物になるという女性差別の感覚があることは確かでしょう。しかしそのことだけからこれを捉えてしまうのは浅薄です。このことは、聖書が姦淫を、結婚という一人の男と一人の女との約束の関係に他の者が介入し、それを破壊することとして捉えていることの現れなのです。婚約あるいは結婚という約束の関係の破壊、ないし裏切りこそ、姦淫の本質なのです。本日の話において考えるならば、この女性は姦通の現場で捕えられました。それはこの女性には夫あるいは婚約者がいたということです。彼女は、夫または婚約者がいるのに、その人を裏切って、他の男と関係を持ったのです。どのような事情があるにせよ、それは人を傷つける行為であり、大きな罪であることには間違いがないのです。姦淫のこの本質は、社会における男女の立場や関係が変わり、今日のように基本的には男女平等になり、交際も自由になり、肉体的関係と結婚とが切り離して考えられ行われるような時代になっても、変わってはいません。罪の意識が失われて姦通とか不倫という言葉は使われなくなっても、そういう裏切り行為によって人が傷つき、苦しみ、人と人との間に憎しみが生じ、人間関係が破壊されるということは少しも変わることはないのです。そこに目を向けるなら、私たちは、今日の社会の常識がどうであれ、姦淫は罪であるということを真剣に受け止める必要があると思うのです。

イエスへの問い
 さてこの姦通の罪を犯した女性がイエス・キリストのもとに連れて来られたわけですが、彼女をわざわざイエスのもとに引っ張って来たのは、「律法学者たちやファリサイ派の人々」でした。彼らは、イエス・キリストを憎み、何とかして陥れようとしていました。6節には、「イエスを試して、訴える口実を得るために」とあります。彼らはそのためにこの女性を引っ張って来て、イエスに質問したのです。5節、「こういう女は石で打ち殺せと、モーセが律法の中で命じています。ところで、あなたはどうお考えになりますか」。彼らはこの問いによってイエスを訴える口実を得ようとしたのです。それについては少し説明が必要でしょう。ここでもしもイエスが、「そんな厳しいことを言わないで、赦してやりなさい」と答えたならば、イエスはあの申命記22章の律法の教えに反することを教えている、と訴えることができます。逆にイエスが、「この女を石で打ち殺せ」と答えたらどうなるでしょうか。イエスはこれまで、当時の社会において罪人として蔑まれていた人々、例えば徴税人とか娼婦とか、そういう人々を受け入れ、友となり、彼らを愛してこられたのです。それによって民衆の間に人気が出て、この日も、イエスが神殿の境内に入ると多くの民衆たちがその教えを聞こうとして集まって来たのです。その人々の前で、「姦淫の罪を犯した女は打ち殺せ」と言ったなら、「やっぱりイエスも律法学者たちと同じか」という失望が人々の間に広がるでしょう。さらに、当時のユダヤはローマ帝国の支配下にあり、ユダヤ人たちには、自分たちだけで人を死刑に処することは認められていなかったようです。それゆえにイエスがこの女性を死刑にせよと命じたなら、イエスはローマの権威を無視して勝手に人を死刑にしようとした、ローマへの反逆者である、とローマ帝国の総督に訴えることができるのです。つまりこの問いは、どう答えようとも、イエスを陥れ、追いつめ、滅亡させることができるように仕掛けられた問いなのです。彼らはこの問いをイエスに投げかけるために、この女性を引っ張って来たのです。

かがみ込むイエス
 律法学者、ファリサイ派の人々のこの悪意に満ちた問いに対して、イエス・キリストはどうなさったのでしょうか。6節の後半にこうあります。「イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた」。これは不思議な姿です。どのように答えても窮地に立たされてしまう悪意に満ちた問いの前で、さすがのイエスもたじたじとなり、途方に暮れてしゃがみ込み、どう答えようかと考えながらただ空しく指で地面に何かを書いていたのでしょうか。あるいはイエスは、このような悪意ある問いには答えない、という意思表示として座り込んだのでしょうか。イエスがこの時地面に書いていたことを想像してこのように言っている人もいます。「このように悪意ある問いで自分を陥れようとしている人々の罪状を書き留めておられたのだ」。イエスのこのお姿はこのようにいろいろに解釈されていますが、私は、イエスのこのお姿は、人々の罪の重みに押しつぶされるようにうずくまっておられるお姿なのではないかと思うのです。

罪の重み
 イエスを問いつめ、陥れようとしている人々は、6節の冒頭に、「イエスを試して」とあるように、イエスをテストしてやろう、と思っています。彼らは律法の専門家です。旧約聖書に記されている神様の掟をくまなく知っている人々です。彼らはその知識によってイエスのことをテストして、合格か不合格か判定しようとしているのです。そしてその答えは始めから決まっています。彼らはイエスを認め受け入れるつもりは全くないのです。「不合格」という結果は決まっており、そのための口実を探しているだけです。要するに、あら捜しをして批判しようとしているのです。彼らはイエスに答えさせるために、「先生」と語りかけていますが、イエスのことを自分の先生だとは少しも思っていません。イエスの教えを聞く気は全くないのです。つまり彼らは、イエス・キリストと少しも向き合おうとはしていません。自分の思い、考えによって自分の周りに固い壁を築き、その壁の中からイエスを裁いているのです。彼らは姦通の現場で捕えられた女性を連れて来ましたが、自分の殻の中に閉じこもっている彼らはこの女性とも全く向き合おうとしていません。彼らにとってこの女性は、イエスを訴える口実を得るための道具でしかないのです。姦淫の罪を犯すような汚らわしい罪人は、人間として扱う必要はない、という感覚でしょう。このように彼らは、自分の正しさという壁の内側に隠れて、誰とも向き合おうとせず、ひたすら他の人々を裁き、批判し、攻撃しているのです。もしもイエス・キリストがここで、彼らの悪意ある問いに答えることを拒み、彼らを拒絶し、無視したなら、イエスの方も同じように彼らと向き合おうとしていないことになります。しかしイエス・キリストは、律法学者、ファリサイ派の人々と、正面から向き合おうとしておられます。彼らの悪意ある問いをしっかり受け止め、それに正面から答えようとしておられるのです。しかしその時、彼らのどす黒い悪意が、憎しみが、それらの根本にある彼らのとてつもなく重い罪が、イエス・キリストの肩にのしかかって来るのです。イエスはその重みを受け止め、それによって押しつぶされるようにうずくまっておられる、それがこの、かがみ込んで地面に何かを書いておられるお姿なのではないでしょうか。  イエス・キリストは、自分の前に連れて来られたこの女性とも向き合おうとしておられます。律法学者たちのように彼女を道具として利用するのではなくて、一人の人間として見つめ、向き合おうとしておられるのです。その時、彼女の罪と、その罪のゆえに彼女が今陥っている苦しみとが、イエスの肩にのしかかって来るのです。彼女は、夫あるいは婚約者がありながら、その人を裏切って他の男と関係を持ちました。その裏切りによって、約束を交わした相手を傷つけ、共に生きる関係を破壊してしまったのです。それは重大な罪です。しかしその罪によって今最も傷つき、苦しんでいるのも彼女自身です。姦通の現場で捕えられたということは、そこには相手の男がいたはずです。その男も同罪であって、共に石で打ち殺されなければならないはずです。しかし今彼女は一人です。相手の男はどこへ行ってしまったのでしょうか。おそらく、彼女を捨てて逃げ去ってしまったのでしょう。結局彼女一人が捕えられ、このように多くの人々の前にひきずり出されて見せ物にされ、石で打ち殺されようとしているのです。姦淫は彼女自身の犯した罪であって、彼女は決して被害者ではありません。しかしその罪において彼女は結局相手の男の欲望のために利用され、全てを失い、あげくの果てに捨てられてしまったのです。先ほども申しましたようにこのごろは、結婚と切り離された肉体的関係は当たり前となり、それを切り離すことが人間の解放、自由に生きることであると考える風潮が支配的となっていますが、今日でも、そのことによって結局傷つき、つらい思いをするのは、この話のように、男性よりも女性の方なのではないでしょうか。この女性の罪とそれによる苦しみが、今イエス・キリストの上にのしかかり、その重さによってイエスはうずくまっているのです。  さらにこの時、イエスの周囲には多くの人々が集まっていました。彼らは、今ここで起っていることをどのようなまなざしで見ていたのでしょうか。おそらくは、姦通の現場で捕えられた女を好奇心と嫌悪とが混ざりあった目でジロジロ見ていたのだと思います。私たちが、スキャンダルを起した政治家や芸能人を興味本意の冷たい目で見るのと同じ目です。そして彼らは、律法学者たちがイエスに「あなたはこの女をどうすべきだと考えるか」と問いかけるのを聞いて、イエスはどう答えるだろうかと無責任な議論をしていたのではないでしょうか。彼らの好奇のまなざしと無責任な言葉という罪もまた、今ここで起っていることに本当に誠実に、責任を持って関わろうとしているイエス・キリストの上に重くのしかかっていたのだと思うのです。  イエス・キリストはこのように、ここで起っていることに誠実に関わり、人々としっかりと向き合おうとしておられるのです。その時、その人々一人一人がそれぞれに様々な形で持っている罪が、またその罪から生じている苦しみが、イエス・キリストの上にのしかかって来たのです。かがみ込んで指で地面に何か書き始められたというイエスのお姿は、人々の罪の重さにあえぎ、それに押しつぶされるようにうずくまっているお姿なのではないでしょうか。

イエスの力ある言葉
 律法学者たちは、うずくまっておられるイエスにしつこく問い続けました。するとイエスは身を起こして、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われました。それだけ言うと再びかがみ込んでしまわれたのです。  イエスが言われた言葉の意味は単純明快です。イエスは、この女は確かに石で打ち殺されなければならない罪人だ、だから石を投げなさい、ただし、自分は罪を犯したことがない、それゆえに人の罪を責め、裁くことのできる資格があると言うことができる者からにしなさい、と言われたのです。つまりイエスはここで、あなたがたの中に、人の罪を裁くことができる罪のない者がいるのか、と問われたのです。これを聞くと、そこに集まってしつこく問いかけていた人々も、見物人たちも、静かになってしまいました。そして年長者から始まって、一人また一人と立ち去り、ついにイエスとこの女性の二人きりになったのです。ここで起ったことは何なのでしょうか。皆さんはこれをどう思われるでしょうか。これは、人を陥れようとする悪意に満ちた問いに対してイエスが巧みな答えで窮地を切り抜けた、という出来事ではありません。人々が立ち去ったのは、イエスの答えの巧みさに感心したからではありません。彼らは、イエスのこの言葉によって、自分自身の罪を見つめさせられたのです。自分が、人を裁き、石を投げつけることのできるような者ではないことに気付かされたのです。そこまでは誰でも分かります。問題は、そのことがどうして起ったのか、です。例えば私たちがこの場にいたとして、このイエスと全く同じことを言ったら同じ結果になったでしょうか。そんなことは絶対にないでしょう。「何くだらないことを言ってるんだ」と鼻であしらわれるだけでしょう。律法学者やファリサイ派の人々は、自分たちは律法に従って罪を犯さずに生きていると思っているのです。だから自分こそ真っ先にこの女に石を投げることができると思っているのです。ですから私たちがこれと同じことを言っても、彼らがそれで、「なるほど自分にも確かに罪があるな」などと思うわけはないのです。しかしここではそういうことが起った。それはもはやこの言葉の意味によることではありません。これを語ったのがイエス・キリストだったからこそこういうことが起ったのです。ただしそれは、イエスは奇跡を起こすことのできる特別な力を持った方だったから、ということではありません。このことが起ったのは、イエスが、律法学者たちよりも、この女よりも、また周囲で見物している人々の誰よりも深く、真剣に、今ここにいる人々の中にある問題、罪、そこから生じている苦しみと向き合い、その罪と苦しみの重荷をご自分の身に背負い、その重さに押しつぶされるようにうずくまっておられる方だからなのです。イエス・キリストは、人々が、そして私たちが犯している罪を、また私たちが気付いておらず、意識もしていない罪をも、そしてそれらの罪から生じている苦しみの全てを、ご自分の上に担い、背負って下さっているのです。そのイエスのお言葉だからこそ、人々は、そして私たちは、自分の罪に気付かされるのです。つまり人々が自分の罪に気付かされて立ち去ったことと、イエスがかがみ込んで地面に何か書いておられたこととは無関係ではなく、深く結びあっているのです。私たちが同じことを言っても同じことが起らないのは、私たちは主イエスのように、人々の罪と苦しみと本当に向き合い、それを背負い、その重さによってうずくまるような生き方をしてはいないし、そんなことはできないからです。そういうことなしにこの言葉だけを真似てみても、そこには何の力も、迫力もないのです。  イエス・キリストが人間の罪と苦しみとを背負い、その重さによってうずくまっておられる、そのお姿は、キリストの十字架の苦しみと死に直結しています。キリストは、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかり、その苦しみと死とによって私たちの罪を赦して下さった方なのです。本日の箇所の、かがみ込んで地面に何かを書いておられるお姿は、主イエスがその地上の生涯の終わりに、私たちのために十字架にかかり、苦しみと死を引き受けて下さることを予告していると言うことができます。人々の罪を全て背負って十字架にかかって死んで下さるイエス・キリストの言葉だからこそ、人々に自分の罪を悟らせ、自分が人を裁く資格のない者であることを示す力を持っていたのです。

主を見出す
 皆が立ち去ってしまい、イエスとこの女性だけが残りました。うずくまっていたイエスは再び身を起こし、彼女と向き合われます。「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪に定めなかったのか」。彼女はイエスに、「主よ、だれも」と答えました。この言葉は、彼女が今や新しくされつつあることを示しています。彼女は、このイエスという方に、自分の主、主人を見出したのです。それまでの彼女は、自分の主人は自分だと思っていたのです。自分の体は自分のもので、それをどう用いようと自分の勝手だと思っていたのです。しかし今彼女は、自分と本当に真剣に向き合い、自分の命と体を本当に大切に思い、それを生かすために自分の罪を代って背負って下さる本当の主人イエス・キリストと出会ったのです。この主イエス・キリストとの出会いによって、彼女はおそらく初めて、自分のしたことがどれだけ大きな罪であったかに気付かされたのです。

罪を赦すことのできる方
 主イエスは彼女に、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われました。これは、「あなたのしたことは大したことではないから気にしなくてよい」ということではありません。彼女は確かに、石で打ち殺されなければならないほどの重大な罪を犯したのです。神の独り子であり、何の罪もない方であるイエス・キリストこそ、彼女を罪に定め、石を投げつけることのできるただ一人の方です。その主イエス・キリストが、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言われたのです。それは、「私があなたの罪を全て背負って十字架にかかって死ぬ。あなたの罪はそれによって赦される。だからあなたは、罪赦された者として、新しく歩み出しなさい。自分が主人となって生きていた時の罪を脱ぎ捨てて、あなたを本当に愛し、生かし、導いて下さる神の下で生きる者となりなさい」というイエス・キリストからの恵みのメッセージなのです。  私たちは、人の罪を得意になって批判し、裁くことがあります。また逆に、人から批判され裁かれて絶望に陥ることもあります。けれども私たち罪ある人間には、本当に人を裁くことはできません。人に石を投げることのできる者などいないのです。しかしそれは同時に、私たちの中には、人の罪を本当に赦すことのできる者もいない、ということです。「罪ある人間どうしなのだから、お互い石を投げることはやめよう」というだけでは、罪の問題の解決にはならないし、私たちは変わっていくことができません。私たちが本当に新しくなることができるのは、私たちの罪を全て背負い、その重さにおしつぶされるようにうずくまり、最後には十字架の死を引き受けて下さることを通して、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と語りかけて下さる方、イエス・キリストとの出会いにおいてこそです。イエス・キリストこそ、私たちの罪を本当に赦すことのできる方なのです。

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