「逮捕と逃亡」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; 詩編 第88章9-19節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第14章43-52節
・ 讃美歌 ; 16、441
十字架に進む主イエスと、捕らえようとする人々
十字架を前にした主イエスは、ゲツセマネの園で、苦しみながら激しくお祈りになられました。人間的な思いからすれば、十字架の苦しみを過ぎ去らせてほしいと願いながらも、自らの思いよりも神様の御心が行われることをお求めになったのです。祈りの最中、共に目を覚ましていてほしいと言われた弟子たちは眠ってしまいました。自らの思いと神様の御心の間で苦しみつつ祈られた主イエスの苦しみは、弟子たちにも理解されなかったのです。主イエスは、お一人で十字架の苦しみを担われるのです。14章の42節には、「立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た」とあります。主イエスは十字架に向けて力強く立ち上がったのです。
ここで、「裏切る者」とは、イスカリオテのユダのことです。既に、主イエスはユダの裏切りによって御自身が引き渡されるということを予告しておられました。そのことが、今、起ころうとしているのです。ユダの裏切りによって、主イエスを殺そうと企む、祭司長、律法学者、長老たちに引き渡されようとしているのです。43節には、主イエスがまだ話しておられる時に、ユダが進み寄って来たことが記されています。その後には、剣や棒を持った、「祭司長、律法学者、長老たちの遣わした群衆」が一緒にいます。主イエスを先頭にして歩む弟子たちの一行の前に、剣や棒をもって主イエスを捕らえようとする一団がユダを先頭にして進んで来るのです。
接吻によって
群衆の先頭に立つユダについて、福音書ははっきりと「十二人の一人」と記します。十二弟子というのは、主イエスがご自身の傍らに置き、神様の御業に仕えさせるために選び出した人々です。主がお選びになった者が、主イエスを裏切る者となり、主イエスを捕らえる人々の先頭に立っているのです。私たちがここで覚えておかなくてはならないことは、主イエスの最も近くにて仕えていた弟子が、裏切る者となったということです。更に、この時、ユダは、主イエスに近寄って、「先生」と言って接吻しました。それを合図と決めていたのです。ユダは人々に、「わたしが接吻するのが、その人だ。捕まえて、逃がさないように連れて行け」と語っています。接吻というのは、当時の挨拶として行われていたものであり、言うまでもなく親愛のしるしです。「先生」と語りかけて、接吻するということは、その人に対する心からの尊敬を表す行為なのです。敬愛のしるしである接吻が、裏切りのために用いられたのです。敬愛の行為の中で主イエスに対する裏切りは行われると言っても良いでしょう。表面的には、主イエスに親しみを込め、従っていても、実際には、本当に主の弟子として歩んでいないということがあります。主イエスに敬愛の念を表しつつ、実際には、自分の思いや欲望に支配され、主イエスと歩みを共にしていないのであれば、それは、ユダのように主イエスを裏切るということをしているのです。この時、他の弟子たちは、ユダのように主イエスを引き渡すことはありませんでした。しかし、この後、皆、蜘蛛の子を散らすように主イエスの下から逃げ出してしまったのです。そもそも、主イエスが神様の御心を求めて祈られた時、眠ってしまった弟子たちなのです。神様の御心に従って歩む主イエスの道を最後まで共に歩むことが出来るはずもありませんでした。そのような意味では、ユダのように主イエスを引き渡すということをしていないにしても、すべての弟子が、この「救い主を裏切る」ということと無縁ではないのです。私たちも、主に選ばれ、キリスト者とされて主イエスの後に従って歩もうとしています。しかし、そのような歩みの中で、主イエスをひそかに裏切る思いに囚われる者となるのです。
剣や棒をもって
47節には、「居合わせた人々のうちのある者が、剣を抜いて大祭司の手下に打ってかかり、片方の耳を切り落とした」とあります。大勢の武装した群衆が、自分たちの前に迫って来るのです。危険を感じてとっさに剣を抜いて斬りかかったのでしょう。主イエスに対する服従、忠誠心から、主イエスを守ろうとして斬りかかったというのではありません。そもそも、主イエスは、斬りかかれなどとはおっしゃっていません。裏切り者のユダや、その手引きで主を捕らえて死刑にしようとする祭司長、律法学者、長老たちと戦うことが、主イエスの目的ではないからです。むしろ、そのような人々の手に自らを渡して、神様の御心に従って十字架にかかることこそが主イエスの目的なのです。この時、剣を抜いた人は、自分の命が危うくされることに対する恐れの中でとっさに斬りかかったのです。つまり、これは決して勇敢な行為と言えるようなものではありません。ここには、主イエスに従う弟子の弱さ、恐れが表れています。もし自分たちが御心に従って主イエスと共に歩んでいるという確信があったならば、どんな状況になっても、恐れることなく主イエスに従ったはずです。恐れに捕らわれる中で、激しく他人を攻撃するということは良くあることです。この人の行動は、自らの弱さの裏返しであったと言って良いでしょう。自らが捕らえられ命が危うくなることを恐れ、不安を振り払うように、大祭司の手下に斬りかかったのです。 この不安は、主イエスを捕らえようとする者も同じでした。群衆は、剣や棒をもって主イエスを捕らえに来たのです。そのような人々に向かって主イエスは「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。」とおっしゃいます。主イエスは、強盗のように武装していた訳ではありません。神殿の境内で一緒にいて教えていた時に、いつでも簡単に捕まえることが出来たのです。しかし、彼らは、主イエスが神殿で教えている時に捕らえることは出来ませんでした。主イエスの教えに聞き入っている群衆が怖かったのです。彼らは、主イエスを捕らえるためのはっきりとした理由がある訳ではありませんでした。ただ、自分たちの権威を脅かし、自分たちの支配を軽んじる主イエスが憎らしかったのです。自分たちのしようとしていることが明確に正しいことであるという確信が持てない中で、群衆を恐れ、主イエスを恐れているのです。剣や棒とは、不確かさの中で恐れに捕らわれる人々の弱さを象徴しているのです。
居合わせた人々のうちのある者
それにしても、大祭司に斬りかかった者とは誰だったのでしょうか。恐れの中で、斬りかかった人のことを、マルコによる福音書は、「居合わせた人々のうちのある者」とだけ記します。ヨハネによる福音書には、この人がペトロであったと記されています。主イエスに熱心に従って来た血気盛んなペトロであれば、このような行動に出ることもあながち無い話しではありません。しかし、マルコによる福音書は耳を切り落とした人が具体的に誰であったかを記さないのです。マルコは、名前を記すことによって史実を忠実に記録することには関心がありません。むしろ、ここで主イエスに従う者たちが、もはや主イエスと共に、同じ道を歩いていなかったということを表したかったのです。この人が、ペトロかどうかは別にしても、主イエスの弟子であったことは間違いないでしょう。しかし、ここでは弟子とも記さないのです。たまたま、そこに居合わせた人。主イエスと信仰的に何の関係もない人のような言い方がなされるのです。それは、ここで恐れの中で、耳を切り落とした者が、もはや、そのことにおいては主イエスの弟子、主イエスに従う者とは言えないからです。神様の御心に従う歩みから逸れてしまっているのです。マルコによる福音書は主イエスの道ということを意識して記されています。主イエスの弟子とは、主イエスと同じ道を歩む人です。それは、神様の御心に従う道です。この主イエスの捕縛の場面において、弟子たちはもはや、その道を歩む者ではなく居合わせた人に過ぎなくなっているのです。
弟子の逃亡
神様の御心にそって歩む、主イエスの道から逸れてしまっている状況は、剣をぬいた者だけでなく、他の弟子たちも同じでした。実際に、弟子たちは、主イエスと共に歩むことを放棄してしまいます。50節以下には、弟子たちの逃亡が記されています。「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」とあります。ゲツセマネの園での祈りでは、思いにおいて主イエスと完全に離れてしまっていることが明らかになりました。ここでは、実際に、主イエスを見捨ててしまいます。主イエスの逮捕の時、誰一人として、主イエスの傍にいることが出来る者はいなかったのです。ここには、はっきりと、「弟子たち」と記されています。しかし、弟子というのは、そもそも、主イエスがご自身の傍におくために選んだ者たちです。弟子とは、主イエスの傍に置かれるということにおいて弟子なのです。ですから、「イエスを見捨てて逃げてしまう」ということは弟子であることを止めてしまうことなのです。恐れの中で斬りかかることも、また主イエスのもとを逃げ去ってしまうことも、主イエスの道から逸れることであり、主イエスの弟子とされ、主イエスの道を歩んでいた者が、単なる居合わせた人々になることに他ならないのです。
人々の恐れ
主イエスが捕らえられる時、主イエスに従って来た人々というのは、主イエスの道に従っているように見えて、主イエスに自分が思い描く救い主像をかぶせて、自分の思いが主イエスによって実現されることを願いつつ歩んできた人々でした。人間の思いが実現することを求めていたのです。だから、主イエス逮捕の現場で、ある者は、恐れの中で、剣で斬りかかり、他のものも恐れつつ逃げ去ってしまったのです。又、主イエスを捕らえようとしていた人々というのは、自分の支配が脅かされるということに危機感を抱き、主イエスを亡き者にしようとしていた人々です。神の支配ではなく人間の支配を求めていたのです。この人々は不確かな人間の支配を求めているが故に、主イエス逮捕の場面で、やはり恐れに支配されて剣や棒を持って捕らえに来たのです。
これらの恐れは、人々が、神様の御心に従って歩まず、その限り、自分たちがしようとしていることに根本的には確信が持てないことによって引き起こされたものであると言って良いでしょう。もし本当に神様の御心に従って歩み、神様の支配を求めて歩んでいるのであれば、恐れに取りつかれることもなかったのです。この人々の恐れが明らかにしているのは、逮捕も逃亡も共に、神様の御心を求めず自らの思いに従い、自らの支配を求める人間の罪が引き起こした結果であるということです。
主イエスの平安
この時、引き渡されようとしている主イエスは、恐れとは無縁でした。人々が恐れの嵐のなかで翻弄されているときに、静かに落ち着いておられるのです。この時、主イエスは、神様の御心に従って歩んでいたのです。もちろん、そこに苦しみが無かった訳ではありません。捕えられたときの主イエスは、深い孤独の中にありました。その苦しみは、本日お読みした旧約聖書、詩編第88編の詩人が歌っている苦しみに通じるものがあるでしょう。9節には「あなたはわたしから/親しい者を遠ざけられました」とあるのです。14節以下には次のようにあります。「主よ、わたしはあなたに叫びます。朝ごとに祈りは御前に向かいます。なぜ御顔をわたしに隠しておられるのですか。わたしは若い時から苦しんで来ました。今は、死を待ちます。あなたの怒りを身に負い、絶えようとしています」そして締めくくりの19節には、「愛する者も友も/あなたはわたしから遠ざけてしまわれました。今、わたしに親しいのは暗闇だけです」とあります。裏切りと逃亡の中で、愛する者を遠ざけられることによる暗闇を経験しておられたのです。
しかし、主イエスは、この苦しみの中で、恐れてはおられません。主イエスの周りにおいて、人間の恐れが満ちています。恐れの中で斬りかかる者がおり、見捨てて逃げ去る弟子がおり、強盗を捕らえるかのようにして主イエスを捕らえに来る群衆がいます。しかし、主イエスのみは、落ち着き、恐れることなく、ユダの接吻を受け入れ、捕らえられるのです。
主イエスは、ここで、強い精神力で自らの意志に従って、非暴力を貫こうとされているのではありません。主イエスは、このような形で捕らえられることを、「しかし、これは聖書の言葉が実現するためである」とおっしゃっています。聖書の言葉が実現するためというのは、神の御心が実現するためと言っても良いでしょう。主イエスだけが、主なる神の御心を求め、真の苦しみと向かい会われているのです。はっきりと、ゲツセマネでの祈りから立ち上がった主イエスは、自らの進む道を確かに見据えて、人間の罪が織りなす喧噪の中に静かに入っていかれたのです。主イエスの落ち着きと、恐れの中にある人々の姿は対照的です。この対照の中で描かれていることは、主イエスが父なる神の御心に従う落ち着きが、人間の思い、自らの思いに従う者の恐れを打ち砕くのです。捕らえようとする者たち、道を逸れて逃げていく者たちの中で、主イエスのみが、神様の救いの御心の実現のために歩み続けます。御心に従って、ユダの接吻を受け、十字架に赴かれる主イエスによって、自らの思いの中で恐れ、あわてふためく人々の罪が担われて行くのです。逮捕と逃亡の中で、主イエスは、あたかも完全に世の力に負けてしまったかのように見えます。しかし、恐れることなく、捕らえられていく主イエスによって、神様の御心が実現しているのです。
一人の若者
主イエスの逮捕の場面に続く、51、52節には、一人の若者が逃げ出したということが記されています。「素肌に亜麻布をまとってイエスについて来た」若者が亜麻布を捨てて裸で逃げてしまったと言うのです。それにしても、ここに記されているのは、情けない姿です。素肌に亜麻布をまとうとあることから想像すると、寝間着のまま、野次馬のようにして、主イエスの後を、こっそりとついて来たのかもしれません。主イエスに関心はありながら、従う程の思いはない。こっそり見てみようと思って、一番後ろから、主イエス一行の後について歩いていたのかもしれません。曖昧な態度であったとしても、この人は、主イエスを捕らえる側ではなく、主イエスと弟子たちの一群の中にいました。この人は、人々に捕らえられようとした時、自分が身につけていた唯一のものであった、亜麻布を捨てて裸で逃げてしまったのです。
この記事はマルコによる福音書だけに記されているものです。そのため、この若者は福音書を書いたマルコ本人のことではないだろうかと言われます。福音書記者が自分の姿を物語の中に記したのです。実際にそうだったのかは分かりません。しかし、そのように想像することには意味があります。マルコは、人間の惨めさを記さずにはいられなかったのでしょう。主イエスを見捨て、裸になってまで逃げ出してしまう。それが、福音書を記すマルコ、そして福音書を読むすべての人々の姿であるという罪の告白があるのではないでしょうか。
裸というのは、人間の無防備な弱い姿、罪の姿を象徴的に示していると理解することが出来るでしょう。そして、主イエスを見捨てて逃げることと、自らがまとう唯一の亜麻布を捨てるということを重ね合わせて読むことも出来ると思います。私たちの唯一の罪を覆って下さるキリストを捨てて裸で逃げて行く。そこに私たち人間の罪の姿があるのです。マルコは、主イエスの逮捕と弟子たちの逃亡の姿を記した後、自らの罪の告白を福音書に記したのです。この告白は、しかし、主イエスが、その罪を担って下さっているということを知らされる中で生まれるものです。神様の救いの御心を実現して下さったキリストによって罪を、赦されていることを感謝する中で、悔い改めつつ、自らの罪の姿をマルコは記しているのです。
おわりに
わたしたち自身も又、主イエスを見捨て、逃亡する者の一人であることがあります。又、主イエスを捕らえようとする群衆の中にいることもあります。御心よりも自分の思いに従って歩んでしまうのです。しかし、そのような恐れと不安に支配された私たちを救うためにこそ、ただ主イエスだけが父なる神の御旨にしたがって、十字架へと進みいかれるのです。そして、私たちの逮捕と逃亡の中で、ただお一人で、御心を成し遂げて下さった主イエスの前で、私たちは、真に恐れから解放されるのです。なぜなら十字架の愛こそが、恐れを締め出すからです。そのキリストの愛に迫られて私たちは真に罪を悔い改めつつ、主イエスに従って行く者とされるのです。