夕礼拝

心の貧しい者よ

「心の貧しい者よ」  伝道師 岩住賢

・ 旧約聖書:イザヤ書 第61章1-11節
・ 新約聖書:マタイによる福音書 第5章3節  
・ 讃美歌:351、404

心の貧しい人々が幸いであるのは、心が貧しいから幸いなのではなく、その心の貧しい者に、神様が、憐 れみと恵みによって、天の国を、神様の救いを与えて下さるから、そこに幸いがあるのです。
いま、巷では、「幸せになる10の方法」であるとか。「本当に幸せになるためにやめなければいけない 8つのこと」であるとか「幸せになるための~」という、本も見かけますし、テレビでも、ネットでもその ような、「幸せになるためのハウツー」が出回っています。その中でも、「本当に幸せになるためにやめ なければいけない8つのこと」ということを紹介しているサイトでは、「他人を傷つけることを怖れないこ と」、「自分の幸せを後回しにしないこと」など、どうやったら、自分が幸せになるか、またはなにをした ら、不幸になってしまうのかということが書かれていました。本日共に読みました、イエス様の山上の説 教、「幸いの教え」も、何気なくこの箇所を読むと、「幸せになるための9の教え」のように読んでしまう ことがあると思います。イエス様は、「幸せになるための9の山の上からの教えをわたしたちに教えてくだ さるのか」と期待していたわたしたちが、この箇所を読むと、なんだか期待はずれになります。今日与えら れました3節では、「心の貧しい人々は、幸いである。天の国はその人たちのものである。」これを、聞い てもなんのこっちゃ、幸せになれそうな気がしません。無理して、「心の貧しい人々」ということを、ハウ ツーのようにして、聞くならば、そのように聞くことが出来ます。「心を貧しくすれば、幸せになることが できる」。このように言い換えれば、わたしたちは、「自分を謙遜にして、無欲になって、驕り高ぶらなけ れば、幸いになれますよ」という、メッセージを、無理やりこの教えから、引き出すことができます。しか し、これは、この教えが、教えようとしているメッセージとは、全く違っています。まずわたしたちは、こ の教えの聞き方を間違っていました。この山上の説教の中の「幸いの教え」は、「幸せになるためのハウツ ー」を教える教えではありません。これは、イエス様が、山の上で宣言されたことです。「心を貧しくすれ ば幸せになれますよ」と山の上で教えたのではなくて、「心の貧しい人々は、幸いです」と言い切って、宣 言されています。
確かにここでは、イエス様は「これこれの条件を満たしたら幸いになれる」というような語り方をされて いません。けれども、「心の貧しい人々は幸いである」というのは、「心の貧しい者」こそが幸いなのであ って、そうでない者は幸いではない、だから、幸いを求めるなら心の貧しい者になれ、ということにやはり なるのではないかとわたしたちは、考えることができます。だから「やはり心の貧しさが幸いを得るための 条件になっているのではないかぁ」。その問いに答えるために、「心の貧しい人々」という言葉の意味を考 えていかなければなりません。まず「貧しい」と言う言葉を見て行きましょう。ここで用いられている「貧 しい」という言葉は、たんに貧乏であるとか、ちょっと少ない、人と比べると少ない、平均よりも少ないと いう意味ではなくて、「全く何も持っていない、物乞いをして生きるしかない」、という意味を表す言葉で す。貧しさの極みを表すような言葉です。イエス様が「幸いだ」と言われたのは、そのように徹底的に貧し い人です。自らのものは何一つ持たず、物乞いをして生きるしかないような人です。
そしてこの徹底的な「貧しさ」に「心の」という言葉がついています。「心において」貧しい人々が幸いであ ると言われています。自らのものは何一つ持たず、物乞いをして生きるしかない、そのことが、心にあてはめ られています。それはつまり、自分の心の中には、自分の内側には、寄り頼むべきもの、支えや誇りとなるも のは何一つない、ということです。わたしたちは、自分自身の中に、自分を支える拠り所を持とうとしていま す。それなしには、わたしたちは生きていくことができません。その拠り所は言い替えれば心の豊かさです。 ところが、「心の貧しい人々」というのは、そのような心の豊かさを失っている人のことです。自分の中に、 自分を支える拠り所となる心の豊かさを全く持っていない者です。それが、わたしたちの考える「幸い」を得 るための条件になるでしょうか。まったく心に、余裕もない、自信もない、誇るべきものない、それがどうし て幸せになる条件となるのでしょうか。わたしたちの理解では、「心の貧しい人々」は、どう考えても幸いで はないと思ってしまいます。
わたしたちはこの「心の貧しい」という言葉を先ほどのように、無理やりに勝手に、納得できるものに解 釈していた時は、「無欲で」「謙遜で」あることと読み替えていました。無欲で、謙遜であるというのは、 ある程度安定している人が使うことのできる言葉でしょう。人は、なにも食べずには生きていくことができ ません。どうしても、切羽詰まると、食欲がでてきます。ですから、無欲であることができる人は、ある程 度、食べることなどが、保証されているものがなせる業でしょう。「謙遜さ」もそうです。ある程度、富を もっている人が、誇ることなく、振る舞うのが「謙遜」です。ですから、無欲しても、謙遜にしても、ある 程度のものを持っているのが前提となています。しかし、イエス様が本当に語ろうとしている「心の貧し さ」とは、自分自身のものを何一つ持たず、物乞いをするしかない、ということです。本当は持っているの だけれども、持っていないふりをする、というのはイエス様のおっしゃられた「貧しさ」ということにはな りません。
もう一つのわたしたちの、「心の貧しさ」ということの理解があります。それは、良くない意味での「心 の貧しさ」です。その意味は、心が狭いとか、親切でないとか、愛がない、人を受け入れる度量がない、気 持ちに余裕がない、ということです。この理解の方が、このイエス様の言われていることに、該当します。 「心の貧しい者」というのはやはり、心が狭い人なのです。愛がない、度量がない、気持ちに余裕がない人 です。
このように、「心の貧しい人々」という言葉の持つ意味を掘り下げていくと、イエス様が語っておられる のは、わたしたちが幸いを得るためにどんな条件を満たさなければならないということ、つまり「幸せにな るためのハウツー」の話しをされているのではないということがわかってきました。「心が貧しい」こと は、幸いへの条件ではありません。「心が貧しい」というのは、むしろ、幸いであり得ないわたしたち人間 の現実を表しているのです。わたしたちの心は、豊かで広いでしょうか。愛にあふれているでしょうか。自 分の意見や考えと違う人を受け入れる度量があるでしょうか。むしろ、すぐにイラっとし、人を責めること をしてしまうことはないでしょうか。わたしたちが、それがまったくないとは言い切れません。わたしたち にはそのような「心の貧しさ」を全員生まれながらに備えています。そしてそれは、決して幸いなことでは ありません。わたしたちのそのような心の貧しさのゆえに、様々な問題が、争いが、困難が生まれてきま す。
このような、わたしたちの心の貧しさの現実の中に、「心の貧しい人々は、幸いである」というイエス様 のお言葉が響きます。イエス様が「幸いである」と言われるのは、心の貧しい者であるわたしたちに、それ ゆえに決して幸いではないわたしたちに、イエス様を通して、神様が与えて下さるものがあるからです。イ エス様の前で、この説教を聞いていたのは、弟子たち、病気を癒やされた人たちでした。彼らも、心の貧し さをそれぞれに持っていました。病気のものの中には、中風のものがおりました。そのものは、自分自身で は、歩くこともできない、仕事することもできない。まさに人の助けが必要で、物乞いをしなければならな い者たちの中のひとりでした。その彼らも、心の貧しさを持っています。理不尽な病気の故に、「なぜこの ようになってしまったのか」、それは、親のせいか、自分のせいか、隣にいる人のせいか。」と悩み、次第 に自分や他者にいらだちをおぼえる。そのような心の弱さ、心の貧しさを持っていました。そのものたち は、自分の貧しさ、弱さが癒やされると聞いて、イエス様のもとに集まってきました。今この礼拝の中で、 イエス様の言葉を聞いているわたしたちも、例外なく心貧しい者たちです。わたしたちは心が貧しい。だか ら、イエス様の言葉を聞きたいと願いここに来るのです。そしてイエス様のもとに集まってきました。わた したちの心の中、自分の内側には、誇るものは何もなく、頼れるもの何もありません。むしろ、わたしたち は、外にある何かに頼ろうと必死です。自分の外にあるものに、救いを必死に求めます。なぜならば、自分 の内側には、頼れるものも、誇るものも、救いになるものないからです。
イエス様は、そのような「心の貧しいあなたは、幸いである」と宣言をされます。その者たちは、必死で 外に、救いを求めています。そのような、己の内側に、頼りになるものも、誇りになるものも、救いもない と、そのように苦しんでいる者、もがいている者、絶望をしている者に、イエス様は近づかれます。そし て、「わたしこそが、あなたの頼りになる者、あなたの誇りであり、あなたの救いである」と言われます。 心の貧しい者は、自分の外に、本当の王を求めています。自分自身に信頼を置けないわたしたちは、真に信 頼を置くことのできる支配者を求めます。傲慢な独裁者ではなく、自分たちを真に幸せにして下さる、真の 王を求めます。
自分の中に何もない、空っぽな、渇ききっているわたしたちは、自分の外に、自分の内側を満たしてくだ さる、恵みを追い求めます。空っぽなわたしたちは、良いもので、満たされたいと望みます。苦しみ、妬 み、怒りなどで心を満たしたくはありません。真の愛、真の優しさ、真の善、真に恵みとなるもので満たさ れたいと願います。そのような恵みを願う、空っぽなわたしたちに、イエス様は恵みを注ぎ、その恵みによ ってわたしたちを満たし、その恵みによって、わたしたちを支配してくださいます。
その恵みとはなにか。それは、唯一の独り子であるイエス様を犠牲にしてわたしたちを救おうとしてくだ さった父なる神様の愛、己のすべてを、一部分だけでなく、命を含めたすべてをわたしたちの救いのために 手放し十字架にかかって下さったそのイエス様の愛、そして今その、愛に出会わそうと尽力してくださって いてわたしたちの傍らにいて、導き、気づかせ、その愛に結びつけようと働き続けてくださっている聖霊な る神様の愛です。わたしたちの恵みはそれだけではありません。イエス様を信じることのできるその信仰 が、恵みです。その信仰は父なる神様によって与えられ、イエス様によって現実となり、聖霊なる神様によ って確信させられます。イエス様によって与えられたわたしたちの罪からの救い、身体の復活、永遠の命が 与えられて、終末の日に神様の国に入ることを与えられることを信じ続けるその信仰が恵みです。身体の復 活、永遠の命、神様の国に入ること、それはわたしたちとっての希望です。この信仰、希望、愛がわたした ちの恵みです。
この恵みの支配に与るのはだれか、それが「心の貧しいものたち」です。「天の国はその人たちのものであ る」。とイエス様と宣言されています。天の国の「天」は神様のことを言い替えた言葉です。ですから「神の 国」と意味は同じです。「国」という言葉は、王国、支配という意味です。ですからここでの天の国とは、 「神様の支配」ということです。「神様の支配は心の貧しいものたちのものである」すなわち、「恵みによる 支配は、心の貧しいものたちにすでに与えられている」ということです。
なぜ、その恵みによる支配が、心の貧しい者たちに与えられるのか、それは、心の貧しい者たちが、その 支配を切に望んでいたからです。切に求めていたからです。「心の貧しいもの」「心の貧しいわたしたち は」己の内側に、頼りになるものも、誇りになるものも救いもないと、苦しんでいる、もがいている、絶望 をしている故に、自分の外側に、救いを求める。その呻き、苦しみ、もがき、絶望しながら、救いを求めて いるわたしたちのもとに、ただイエス様だけが、近づいて下さるので、そしてイエス様だけが近づいて下さ って苦しみを担い癒してくださり、その絶望から救い出して下さり、希望を与えて下さるから、「心の貧し い人々は、幸いなのです」。
なぜ心の貧しい者に「恵みによる支配」が与えられるのか。それは心の貧しい人ほど、それを本当に必要とし ているからです。心の貧しさという良い姿勢や、謙遜さに対する良い報いとして支配が与えられるのではあり ません。自分の心の中に、拠り所となるもの、誇るべきものを何も持たない、豊かさがない、愛がない、度量 も狭い、そういう者は、神様の救いに寄り頼むしかないのです。天の国すなわち神様の支配を求めるしかない のです。神様は、そのように神様の支配を本当に必要としている者たちに、それを与えて下さります。それは 深い憐れみと恵みによってです。従って、心の貧しい人々が幸いであるのは、心が貧しいから幸いなのではな く、その心の貧しい者に、神様が、憐れみと恵みによって、天の国を、神様の救いを与えて下さるから、そこ に幸いがあるのです。
わたしたちの心を貧しくしている原因は、わたしたち自身です。隣の人を、家族を、友人を、愛すること のできない弱さ、愛するよりもむしろ隣人を傷つけてしまう、自分のどうしようもなさ。それは、わたした ちの生まれながらに持っている罪のためです。わたしたちは自分をなによりも大事にすることによって自ら の手で他者との関係を拒絶したり破壊したりする、そのような性質を持っています。それが罪です。その罪 のために、すべての人は、「心の貧しい者」となっています。ここにいるわたしたちすべても、その罪を持 つ者に該当します。そのわたしたちの罪を、イエス様が、全てご自分の身に背負って十字架にかかって死ん で下さいました。このことによって、わたしたちの罪は赦されました。心の貧しい、自らの内に何らのよい ものも、拠り所となる豊かさもない、その貧しさゆえに常に人を傷つけ、問題を起し、悲惨な事態を生んで しまう、そんなわたしたちを、イエス様が犠牲になり、かばって下さり、さらに背負ってくださったので す。そしてイエス様はそのわたしたちにこう言われています。「あなたはもう、自分の中に豊かさを持とう としなくてよいのです。自分の心を豊かにすることに必死にならなくてよいのです。豊かさが自分の中にな いと生きていけないということはありません。あなたがどんなに貧しい者であっても、誇るべきものを、こ れだけは人に負けないと自負できるようなものを何も持っていなくても、わたしはあなたを愛しています。 そして今でも、あなたを背負い、支えています。既に恵みによって支配しています。あなたの真の王です。 だからあなたは幸いである。だから安心して生きていってよいのです。」
わたしたちはイエス様に心の貧しい人になろうと努力することが求められてはいません。そんな努力はし なくても、わたしたちはもともと心の貧しい者です。本当の幸いは、わたしたちが心豊かな者になることで はなく、心の貧しい者がイエス様の恵みを受けるところにあります。イエス様によってわたしたちが支えら れ、真の王と共に、真の王に恵みよって支配させられながら、喜びの内を歩むことができます。それが、心 の貧しい人の幸いです。

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