夕礼拝

主が共におられる

「主が共におられる」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 創世記 第39章1-23節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第15章10節
・ 讃美歌 ; 321、531
 

奴隷となったヨセフ
 旧約聖書創世記の、ヨセフの物語を読み進めています。ヨセフの生涯は、波瀾万丈の大河ドラマのようです。先月読んだ第37章がプロローグで、ヨセフは兄弟たちの嫉妬によって殺されそうになり、結局奴隷としてエジプトに連れ去られてしまいました。37章の最後のところには、ヨセフがエジプトの王ファラオの宮廷の役人で侍従長だったポティファルという人の奴隷となったことが語られていました。本日の39章はその続きです。無理やり他国に連れ去られ、奴隷とされてしまう、それはとんでもない苦しみです。あってはならないことです。しかしいわゆる拉致問題の被害者の方々はそういう苦しみを味わったわけですし、アジアの女性たちが人身売買によって日本に連れて来られて働かされているということは現在もあるのですから、私たちはこれを、何千年も昔の単なる伝説として聞き流してしまうことはできません。このような苦しみを味わっている人は今日もいるのです。

主の計らいによって
 それはともかくとして、ヨセフの苦しみがこのように始まったわけですが、2節には「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ」とあります。奴隷に売られるという苦しみの中にあるヨセフに、主なる神様が共にいて下さったことを、創世記は語っているのです。しかしこの「彼はうまく事を運んだ」というのは翻訳としてはいただけません。これだと、「うまくやった、上手に立ち回った」という感じです。しかし語られているのは、ヨセフが奴隷の境遇の中でもうまく立ち回ったということではありません。口語訳聖書ではここは、「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり」となっていました。またある注解書の訳では「それゆえ彼には、すべての事がうまく運んだ」となっています。これらの訳の方が事柄を適切に表しています。事をうまく運んだのはヨセフではなくて、主なる神様が共にいて下さって、すべての事をうまく、ということは彼の幸いになるように運んで下さったのです。それが具体的にどういうことだったのかは分かりませんが、その結果、3、4節に語られていることが起ったのです。「主が共におられ、主が彼のすることをすべてうまく計らわれるのを見た主人は、ヨセフに目をかけて身近に仕えさせ、家の管理をゆだね、財産をすべて彼の手に任せた」。主人ポティファルは、ヨセフに全幅の信頼を寄せるようになり、自分の家と財産の管理を全て任せたのです。奴隷に家の管理や財産を任せるというのは不思議なことのように感じますが、古代においてはこういうことは必ずしも珍しくはなかったようです。戦争捕虜などで奴隷になった人の中には、知識と教養に富んだ人もおり、そういう人は主人の信頼を得れば、家族同様の扱いを受け、家の執事や子供の家庭教師のような働きを与えられることもあったのです。

祝福
 ヨセフがそのように家の管理や財産を任せられるようになると、ポティファルの家は神様の祝福を受けるようになりました。5節です。「主人が家の管理やすべての財産をヨセフに任せてから、主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された。主の祝福は、家の中にも農地にも、すべての財産に及んだ」。そのためにポティファルのヨセフに対する信頼はますます深まり、6節にあるように「主人は全財産をヨセフの手にゆだねてしまい、自分が食べるもの以外は全く気を遣わなかった」のです。ここに私たちが注目しておくべき大切なことが教えられています。それは、「主はヨセフのゆえにそのエジプト人の家を祝福された」とあることです。ヨセフは、イスラエルの民の先祖アブラハムのひ孫、神様の祝福を受け継ぎ、担う者です。要するに主なる神様を信じる信仰者です。その一人の信仰者ヨセフのゆえに、神様は、エジプト人ポティファルの家の全体を、農地やすべての財産に至るまで、祝福して下さったのです。この家で、主なる神様を信じているのはヨセフ一人です。しかもヨセフは一人の奴隷に過ぎません。しかし信仰者である一人の奴隷の存在のゆえに、神様の祝福が、その家全体に、財産にまで、及んだのです。まして、家族の一人が信仰者である家庭を、神様が祝福して下さらないはずがありましょうか。家族の中で自分一人が信仰者であるという時に、その中で信仰者として生きることにはいろいろな困難があります。理解してもらえない、協力してもらえないという苦しみもあるでしょう。しかし奴隷だったヨセフにはそれ以上の苦しみがあったのです。私たちがそういう苦しみの中で信仰者として生きることによって、神様の祝福が私たちの家に、家族に、財産にまでも及んでいくのです。私たちはこのことをしっかりと覚えておきたいのです。

主が共におられる
 そしてそこで大事なことは、この神様の祝福は放っておいて自動的に与えられるのではない、ということです。ヨセフは、ポティファルの奴隷となって、主人に忠実に、熱心に仕えていったのです。奴隷とされた悲しみ、嘆き、恨みによってふてくされ、命じられたことをきちんとせず、反抗してばかりいたら、このような信頼を得ることはなかったでしょう。つまりヨセフは、奴隷という自分の現在の、変えることのできない現実を受け入れたのです。受け入れて、その中で、自分にできる精いっぱいのことをしていったのです。そのような前向きな姿勢があったからこそ、主人の信頼を得ることができたのです。ヨセフが、奴隷として外国に売られるという苦しみのどん底で、絶望して自暴自棄になるのでなく、このように自分の境遇を受け入れ、前向きな姿勢を失うことなく生きることができたのは驚くべきことです。なぜ彼はそのように生きることができたのか、それこそが、「主がヨセフと共におられた」からです。「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ」というのは、先ほど申しましたように、ヨセフが共におられる主の助けによってうまく立ち回ったということではありません。口語訳聖書の、「主がヨセフと共におられたので、彼は幸運な者となり」という方が訳として良いと申しましたが、しかし事柄は、共にいて下さった主がヨセフに幸運を与えて下さった、具体的には、彼を信頼してくれるよい主人のもとに置いてくれてラッキーだったということでもないのです。主なる神様が共にいて下さることによってヨセフに与えられたのは、苦しみのただ中にあっても絶望しない、ということです。もうおしまいだと自暴自棄にならずに、今の苦しみの状況を受け入れて、その中で自分に出来ることを精いっぱいしていくという前向きな気持ちを失わなかったということです。それこそが、主が共にいて下さることによって与えられる恵みなのです。私たちは、神様が共にいて下さるとはどういうことなのかを、正しく知らなければなりません。それは、災いや苦しみに遭わず、いつも幸運に生きることができる、ということではありません。もしそうなら、兄弟たちに恨まれて奴隷に売られてしまったヨセフには、神様が共にいて下さらなかったことになります。しかしそうではありません。苦しみ悲しみ嘆きのどん底において、神様は私たちと共にいて下さるのです。そして、私たちを絶望から救い、苦しみの現実の中でなお前向きに生きることができるようにして下さるのです。それが、神様を信じる者に与えられる幸いなのです。

神の前で生きる
 ヨセフはこのように、エジプト人ポティファルの家で、奴隷ではあっても恵まれた地位を与えられました。ところが7節以下には、彼に新たな苦しみが襲いかかって来たことが語られていきます。せっかく幸せになったかと思ったらすぐに次の苦しみが襲ってくる、そのあたりがまさに大河ドラマです。次の苦しみの元凶はポティファルの妻でした。彼女がヨセフに言い寄って来たのです。ヨセフは6節の後半にあるように「顔も美しく、体つきも優れていた」人でした。そのヨセフに、ポティファルの妻が夢中になってしまったのです。8、9節には、ヨセフが彼女の誘惑を退けた言葉このように語られています。「ご存じのように、御主人はわたしを側に置き、家の中のことには一切気をお遣いになりません。財産もすべてわたしの手にゆだねてくださいました。この家では、わたしの上に立つ者はいませんから、わたしの意のままにならないものもありません。ただ、あなたは別です。あなたは御主人の妻ですから。わたしは、どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」。ここで二つのことに注目しておきたいと思います。第一は、今の最後の所の、「どうしてそのように大きな悪を働いて、神に罪を犯すことができましょう」という言葉です。主人の妻と関係を持つことは誰に対する罪なのでしょうか。勿論それは彼女の夫である主人ポティファルに対する罪でもあります。ヨセフも、自分を取り立てて信頼してくれている主人を裏切るようなことはできない、と言っています。しかし彼がここで語っているのは、これは神様に対する罪だということです。他人の妻と関係を持つことは、神様のみ心に背く、神に対する罪なのだ、ということをヨセフは強く意識しているのです。この状況の中で、彼女と関係することの言い訳はいくらでもできます。そもそも、自分が求めたのではない、彼女の方から求めてきたのです。忙しくてかまってくれない夫への不満があったのでしょう。少し慰めてあげても罰は当たらない、とも思えます。また、ヨセフ自身は結婚しているわけではありませんから、妻を裏切ることにもなりません。日本には、「据え膳食わぬは男の恥」なんていう諺があります。私たちがこういう状況に置かれた時、この誘惑に負けることの言い訳はいくらでも出来るのです。しかしそれらは全て人間の間での言い訳であって、神様の前ではそれは通用しません。ヨセフがこの状況の中で、この誘惑に打ち勝つことができたのは、彼が、主なる神様のみ前で生きていたからです。主なる神様のみ心を思い、それに従おうとしていたからです。「主が共におられる」とはこういうことでもあるのです。先ほど、神様が共にいて下さるとはどういうことなのかを正しく知らなければならないと申しました。それは、災いや苦しみに遭わず、いつも幸運に生きることができるということではない、苦しみ悲しみ嘆きのどん底において、神様は私たちと共にいて下さるのだと申しました。しかし神様が共にいて下さるとは、そのような苦しみの中で守り導き支えて下さるということだけではないのです。私たち人間は身勝手な者ですから、困った時、必要な時には神様に共にいてもらいたいと思うけれども、そうでない時、自分の好きなようにしたい時には、神様今はちょっとあっちへ行っていて欲しい、と思ってしまうことがあります。しかし共にいて下さる神様は、どんな時にも共にいて下さいます。私たちが自分勝手に、自分の欲望に従って歩もうとしているその時にも、神様は共にいて下さるのです。「主が共におられる」と信じるとは、そのような時にも共にいて下さる主なる神様を信じ、その神様のみ前で生きることです。その時私たちは、苦しみの現実の中でも前向きに生きることができるようになると共に、人生の歩みの中で起ってくる様々な誘惑から守られるのです。

信頼関係に生きる
 ここで見つめるべき第二のことは、ヨセフが、自分を信頼して全てを委ねてくれている主人を裏切ることはできない、と言っていることです。つまり彼は、人間どうしの信頼関係を大切にしているのです。彼は好きでここにいるのではありません。無理やり連れて来られてポティファルに買われて奴隷とされたのです。他国人であり、自分を奴隷にしている主人にそんなに義理立てする必要はない、バレさえしなければ裏切ったってかまわないではないか、とも思えます。しかしヨセフはそのように考えるのではなく、自分が奴隷として仕えている主人との信頼関係をも大切にしているのです。それも先ほど見た、共にいて下さる神様のみ前を、神様のみ心を思いつつ生きていることから来ていることです。神様を信じ、神様と共に生きている者は、このように人間どうしの関係をも、しかも親しい仲間内の関係だけでなく、自分を奴隷にしている主人との関係をも大切にするようになるのです。そして、誰も見ていない隠れた所でも、相手の信頼を損なうようなことを慎むようになるのです。主が共にいて下さることによって私たちに与えられるのは、このような歩み、生き方なのです。

奴隷から囚人へ
 10節には「彼女は毎日ヨセフに言い寄ったが、ヨセフは耳を貸さず、彼女の傍らに寝ることも、共にいることもしなかった」とあります。執拗に言い寄る主人の妻をヨセフは拒み続けたのです。「共にいることもしなかった」というのは、疑いをかけられるようなことを避けたということです。「李下に冠を正さず」という諺があるように、疑いを招く可能性のある行動は慎むことが大切なのです。しかしそのように気をつけてはいても、同じ屋敷に住んでいるのですからどうしても二人きりになる時が起ってしまいます。それが11節以下です。その日はたまたま家の者が誰もいなかった、その時彼女は彼を無理やりベッドへと誘おうとしたのです。ヨセフはその場を逃げ出して外に出ました。この手の誘惑から身を守るのに一番いいのは、逃げ出すことです。人生、どんなにみっともなくても逃げ出した方がよい場面というのがあるのです。しかしその時、彼女がつかんで離さなかったヨセフの着物が彼女の手に残ってしまいました。それがヨセフに災いをもたらします。ヨセフに徹底的に拒まれた彼女は、一転してヨセフを激しく憎むようになり、彼を破滅させようとしたのです。これもドラマでよく見る場面です。「可愛さ余って憎さ百倍」ということです。彼女は家の者に、そして夫に、ヨセフが自分にいたずらをしようとしたと嘘を言い、彼の残した着物をその証拠としたのです。着物が彼女の手にあっては、それは嘘だということを証明することはできません。こうなれば、奴隷であるヨセフの立場は弱いのです。主人ポティファルは、それまで全幅の信頼を置いてきただけに、裏切られたという怒りを強く覚え、ヨセフを王の囚人をつなぐ監獄に入れてしまいました。ヨセフは奴隷からさらに囚人へと身を落とされてしまったのです。

主が共におられることによって
 身に覚えのないことでこのように主人の信頼を失い、牢獄につながれてしまったヨセフの苦しみ、悲しみ、怒り、絶望は想像に余りあります。外国に奴隷に売られるという苦しみの中で、ようやくある地位を得たというのに、それを全て奪われて奴隷以下の囚人とされてしまったのです。もはや神も仏もあるものか、というのが、人間の普通の思いでしょう。ところが聖書はその次の21節にこう記しています。「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し」。先ほどの2節と同じです。奴隷としてエジプトに連れて来られ、ポティファルに買い取られた、そのすぐ後に、「主がヨセフと共におられた」と語られていたのです。今度も、奴隷から囚人に落とされてしまった、そのすぐ後に、「主がヨセフと共におられた」と聖書は語るのです。そのことによってこの牢獄の中で起ったことも先ほどのことと似ています。21~23節を読んでみます。「しかし、主がヨセフと共におられ、恵みを施し、監守長の目にかなうように導かれたので、監守長は監獄にいる囚人を皆、ヨセフの手にゆだね、獄中の人のすることはすべてヨセフが取りしきるようになった。監守長は、ヨセフの手にゆだねたことには、一切目を配らなくてもよかった。主がヨセフと共におられ、ヨセフがすることを主がうまく計らわれたからである」。共にいて下さった主なる神様の計らいによって、ヨセフは今度は監守長に信頼されるようになり、囚人たちのことを委ねられたのです。しかしここでも先ほどと同じことを見逃してはなりません。ヨセフがこのように周囲の信頼を得ることができたのは、彼が、無実の罪で奴隷から囚人に落とされてしまったというこの苦しみの中にあっても、絶望して投げやりになったり、周囲に当たり散らしたり、あるいは悲しみに打ちひしがれて何もできずにただうずくまってしまうのでなくて、現実を受け入れて、その中で前向きに、自分に今できることをしていったからです。そして彼をそのように導いて下さったのは、共にいて下さった主なる神様なのです。21節から23節、つまり牢獄に捕えられたヨセフのことを語る所に、「主がヨセフと共におられ」という言葉が二度語られています。ヨセフの苦しみが深まれば深まる程、主なる神様は彼と共にいて下さり、恵みを施して下さったのです。その恵みとは、彼の苦しみを直ちに取り除くことではありませんでした。主が共にいて下さる中でヨセフの苦しみはむしろ深まっていったのです。しかし共にいて下さる神様は、ヨセフに、その苦しみのどん底においてもなお、神様のみ前で、変えることのできない現実を受け入れてその中で積極的に生きていく信仰を与えて下さったのです。この創世記39章におけるヨセフの姿は、主が共にいて下さることによって私たちにどのような信仰が与えられるのか、そしてその信仰によって私たちはどのように生きることができるのかを教えているのです。

主イエスと共に生きる
 主が共にいて下さる。私たちはその恵みを、神様の独り子イエス・キリストによって与えられています。主イエスは「インマヌエル」と呼ばれる方です。それは「神は我々と共におられる」という意味です。主なる神様が私たちと共にいて下さるという恵みが、独り子イエス・キリストにおいて実現したのです。それは具体的には主イエスの十字架の死と復活によってです。神様の独り子であられる主イエスが、私たちの全ての罪を背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、神様は私たちの罪を赦して下さいました。そしてその主イエスを復活させることによって、私たちにも、永遠の命の約束を与えて下さったのです。復活なさった主イエスは、「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたと共にいる」と約束して下さいました。その約束は、聖霊によって実現しています。聖霊なる神様の働きによって地上にキリストの体である教会が誕生しました。私たちは今その教会の礼拝へと導かれ、こうして神様のみ言葉を聞きつつ歩む者とされています。それもまた、聖霊のお働きによることです。聖霊が今私たちにも働いて下さることによって、目には見えないけれども、主イエス・キリストがいつも私たちと共にいて下さるのです。私たちは、この主イエス・キリストのみ前で、主イエス・キリストと共に生きることへと招かれているのです。どんな苦しみの中にあっても、この主イエスのみ前で、主イエスと共に生きるなら、私たちも、やけになったり、絶望せずに、前向きに生きることができるのです。何故なら、私たちと共にいて下さる主イエスは、私たちの罪を全て背負って十字架の苦しみと死とを引き受けて下さり、それによって私たちを赦し、神様の祝福を与えて下さった方だからです。私たちの罪と苦しみとをご自分の身に引き受けて十字架にかかって下さった主イエスが共にいて下さるがゆえに、私たちもこのヨセフと同じように生きることができるのです。この39章のヨセフの姿は余りにも立派でとうてい真似できない、と私たちは思います。創世記の文脈の中だけで読むならば確かにそうです。このような苦しみの中でこのように生きることができる人など、めったにいないと言わなければならないでしょう。けれども、私たちのために十字架の苦しみと死とを引き受けて下さった主イエス・キリストが共にいて下さるならば、私たちの歩みも、このヨセフと同じようになっていくのです。使徒パウロがそうでした。本日共に読まれた新約聖書の箇所、コリントの信徒への手紙一の15章10節でパウロは、「神の恵みによって今日のわたしがあるのです」と言っています。「今日のわたし」とは、苦しみ、迫害、困難の現実の中で、決して絶望せず、福音を宣べ伝えるために前向きに精いっぱい生きており、他の全ての使徒たちよりずっと多く働いてきた「わたし」です。しかしそれは、パウロが立派な、優れた人だったからできたことではなくて、「わたしに与えられた神の恵み」によることです。「しかし、働いたのは、実はわたしではなく、わたしと共にある神の恵みなのです」とパウロは言っています。主イエス・キリストが共にいて下さることによって私たちは、私と共にある神の恵みを豊かに受けることができるのです。そしてこの恵みによって、私たちに与えられている現実の中で、苦しみに負けることなく、あのヨセフのように、前向きに歩み続けることができるのです。

関連記事

TOP