「目を覚ましていなさい」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; イザヤ書 第42章18-25節
・ 新約聖書; マルコによる福音書 第13章32-37節
・ 讃美歌 ; 309、230
目を覚ます
主イエスは、弟子たちに「気をつけて目を覚ましていなさい」と仰います。この言葉は、主イエスに従う者の歩み、信仰者の歩 みがどのようなものであるべきかを、明確に語っています。キリストに従う者は、この世で目を覚ましているのです。それにして も「気をつけて目を覚ましていなさい」などと言われると、睡魔に襲われた時のことを思い起こして、そんなことを言われたら 困ると思うかもしれません。しかし、目を覚ますというのは、眠らずに夜を徹して祈ることが勧められているのではありません。 又、学校の講義や教会の説教で先生の話を聞くときにウトウトとしては行けないということを教えているのでもありません。 もちろん、そのようなことが大切なのは言うまでもありません。御言葉を一生懸命聞くことと、ここで言う目を覚ましている ことは確かに関係しています。しかし、ここで、肉体的に起きていることが直接見つめられているのではないのです。目をさま しているとはどのようなことでしょうか。主イエスは、マルコによる福音書、第13章に入って終わりの日のことについてお語り になりました。その時のことが16節に記されています。「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、 人々は見る。そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」。 救い主が世に来て、主なる神の救いを成し遂げて下さることが語られていました。そして、この終わりの時を忍耐して待つことが教 えられていたのです。ここで目を覚ましているというのは、肉体の目ではなく、信仰の目を覚ましつつ、救いの完成の日、終わりの時 を待つ歩みをすることなのです。
主人を待つ門番
そのことは、主イエスが続けてお語りになるたとえ話によっても明らかです。主イエスは、34節以下で、信仰者の歩みを旅に 出る主人と門番のたとえによってお語りになっています。「それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当て て責任をもたせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の 主人が帰ってくるのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである」。 このたとえは、キリストを信じる者たちを、主人に仕える僕として描いています。主人が家を後にして旅に出る。その間、 僕たちには、それぞれに仕事が割り当てられているのです。門番は目を覚ましているようにと言われます。もちろん、ただ起き ていれば良いのではありません。家に不審な者が入ってこないか見張っていなくてはなりません。さらに、主人が帰って来たな らば、急いで出迎えなければなりません。いつになるか分からない主人の帰りを待ち、帰って来れば、いつであっても、すぐに門 を開けて迎え入れられるようにしなくてはならないのです。
ここでは、特に、直接主人を待つ務めを与えられている門番が注目されています。しかし、門番でなくても、すべての僕は、 それぞれ割り当てられた責任を果たしつつ、主人の帰りを待ちながら家を守っているはずです。ここには、世に建てられた教会の 姿が示されていると言って良いでしょう。主イエス・キリストは今、地上にはおられません。もう一度世に来て下さると約束して 天に昇られたのです。それまで、わたしたちは主人の帰りを待ちつつ、聖霊の働きに支えられて教会を建て、守り続けるのです。 わたしたちが、信仰の目を覚ましているとは、主人の帰りを待ちつつ家を守る僕たちのようなものなのです。「僕たちに仕事を割 り当てて責任をもたせ」というのは、主イエスが弟子たちを宣教に派遣した時に、ご自身の権威をお与えになった時と同じ表現が 用いられています。弟子たちの宣教はこの主イエスの権威によってなされるのです。キリストに従う者は、主人が地上にいない今、 それぞれが与えられた主キリストの権威を用いて、主人の留守の間、主なる神の働きである教会を建てる務め、主なる神の祈り の家を守る務めに用いられるのです。
気をつけて
ここで主イエスが「目を覚ましていなさい」とお語りになる前に、「気をつけて」と仰っていることに注目したいと思います。 何故、「気をつけて」いなくてはならないのでしょうか。それは、主イエスが来られる終わりの時が、何時、どのように起こる のか知らされていないからです。主イエスははっきりと、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父 だけがご存じである」とお語りになっています。その時については、父なる神以外は誰もしらないのです。もし、その時のこと について知らされているのであれば、ただ待っていれば良いのです。しかし、その時が何時で、どのようなものか、わたした ちには示されていないために、わたしたちは気をつけていないとならないのです。そうしないと、様々なものに惑わされたり、 いつになるか分からない終わりの時を待つことをやめてしまうのです。そこで信仰の目が閉ざされて眠りこけてしまうのです。 この「気をつけて」という言葉には、しっかり見るという意味があります。気をつけていない時というのは、しっかりと見るべ きものを見ていないのです。そして見るべきものを見ていない時に、待つのを止めて信仰から離れてしまうのです。ここで、 見るべきものとは何でしょうか。それは、神様の救いの御支配です。神様の救いの御支配が、この地で行われている、神様が 救いの完成に向けて、しっかりとわたしたちに眼差しを注ぎ、祝福し、歩みを導いていて下さるということです。そのことを しっかりと見て、救いの恵を示されている時、わたしたちの信仰は眠ることはありません。終わりの時、救いの完成の時が、 何時になるか分からなくても、その時を待ち続けることが出来るのです。
気をつけることが出来ない神の民
しかし、信仰者の歩みは、しばしば、眠りに陥りそうになることが多い歩みです。神の民の歴史は、繰り返し睡魔に襲われて、 ウトウトとしてしまうような歩みでした。気をつけていることが出来なかったのです。本日読まれました旧約聖書イザヤ書第42 章18節以下も、見るべきものを見ていないイスラエルの民の姿が語られています。
「耳の聞こえない人よ、聞け。
目の見えない 人よ、よく見よ。
わたしの僕ほど目の見えない者があろうか。
わたしが遣わす者ほど
耳の聞こえない者があろうか。
わたしが 信任を与えた者ほど
目の見えない者
主の僕ほど目の見えない者があろうか」。
この箇所は、イスラエルの民がバビロンに 連れ去られた捕囚期の最後の10年間に活躍した預言者の救済預言だと言われています。前539年にバビロン没落しますが、 その少し前、ペルシアの勢力がバビロンに迫っていた時だと思われます。自分たちを支配しているバビロンが、 キュロスという王が率いる隣国のペルシアによって滅ぼされようとしている。捕囚の苦しみからの解放の兆しが 見えて来ているのです。しかし、この時、イスラエルの民は、今まで続いていた捕囚の苦しみによって、自分た ちが、神の祝福の中にあることを忘れ、アブラハムの子孫としてのアイデンティティーを失いかけていたのです。 主なる神の救いの歴史は終わったという思いが蔓延し、主なる神に対する信仰は過去の遺物となっていたのです。 そのようなイスラエルに、主なる神は語りかけます。「主の僕ほど目の見えない者があろうか」。この言葉は、 イスラエルの民の嘆きに答える形で語られていると言われています。イスラエルの民は、捕囚の苦しみの中にあって、 「わたしたちの主は目の見えない、耳の聞こえない方だ」と嘆いていたのです。苦しみの中で、主なる神の祝福が分から なくなってしまう。そのような中で、自分たちの苦しみを見、嘆きを聞いて下さらない神は神ではない、神の民として歩 むことに何の意味があるのかというような思いが生まれたのでしょう。それに対して、主なる神は預言者を通して、本当に 目が見えず、耳が聞こえないのは誰なのか、わたしの僕であるあなたたちこそ目の見えない者ではないかと言うのです。 ここには、気をつけて目を覚ましていることが出来ない民の姿が描かれ、そのような民に、目を覚ますことを告げる預言者 の言葉が語られています。24節には、次のように語られています。「奪う者にヤコブを渡し/略奪する者にイスラエルを 渡したのは誰か。それは主ではないか/この方にわたしたちも罪を犯した」。ここで、自分たちを略奪者に渡し、苦しみに 合わせたのは誰なのかということが問われています。それに答えて「それは主ではないか」というのです。この苦しみも、 主なる神の御手の中にある。そして、その神は、全能の父であり、すべてを導く主なる神である。そうであれば、その中に あって、主に委ねつつ望みを持って歩むことが出来るはずだと言うのです。そして、預言者は、「この方にわたしたちも 罪を犯した」と罪を告白しているのです。
待つための忍耐
神の民の歩みは、気をつけていることが出来ない中、ウトウトとしては目を開かれるということの繰り返しでした。 先ほども申し上げたように目を覚ましているというのは待っているということです。その反対に眠ってしまうというこ とは、待つことが出来なくなることです。待つ歩みには忍耐がいります。その時がいつなのか分からなければなおさらです。 13節で「最後まで耐え忍ぶ者は救われる」とありました。しかし、最後まで耐え忍ぶことが出来ないのがわたしたち人間の 姿です。そして、忍耐して待つことが出来ない中で、人々は自ら終わりを定めようとします。自分なりに様々な終わりを 思い描く中で、世の終わりを破滅や苦難と結びつけるのです。様々な終末を語る宗教が流行り、破滅を語る大預言の類に 人々が関心を示すのはそのためです。そこで、忍耐して神の支配の完成を待つのではなく、その時を自分で知ろうと するのです。自ら終わりを定めるというのは、その時のことを具体的に思い描いているかどうかは関係ありません。 終末なんてものはそうすぐに来るものではないと思い込み、主なる神の約束を忘れ去ってしまったり、反対に、 恐ろしい終末が明日にでも来ると思い込み、闇雲に恐れを抱いて主の救いの希望に生きることから離れてしまう ならば、それは自ら終わりを自ら定めているのと同じことです。そのようにする時、「気をつけて目を覚ましている」 こと、主に委ねつつ、その救いの御支配を待ち望むということが出来ていないのです。終わりの日がいつなのか、 わたしたちに示されていないというのは、救いの歴史の導き手は主なる神であって、わたしたちではないということです。 待つことが出来ず、自ら終わりを定め、人間の思い描く範囲に神の御業を押し込めている時、人々は、この主なる神が 成し遂げて下さる救いに信頼していないのです。
ゲツセマネの祈り
しかし、いつ来るのか、どのようにして来るのか分からない終わりを待つ歩みから逸れて、しばしば、 うたた寝をしてしまうようなわたしたちは、終わりの日に救いに預かれないのでしょうか。36節には、 「主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない」とあります。この箇所を 読むと、目を覚ましていることを脅迫されているように思ってしまうかも知れません。確かに、門番が、 自分の責任、自分に割り当てられた役割を果たすことが出来なかったら、咎められるでしょう。しかし、 わたしたちは、自分の歩みを省みて、主人の帰る日、終わりの日の裁きをいたずらに恐れる必要はあり ません。わたしたちの主人である、主イエスは、実にしばしば、眠ってしまうわたしたちのために、 一人目を覚ましていて下さる方だからです。
マルコによる福音書は、この記事のすぐ後、第14章の32節で、ゲツセマネの園で祈られる主イ エスのお姿を記します。主イエスは十字架の苦しみを目前にして、必死に祈るのです。その時、目覚 めて祈ってほしいと言われていた弟子達は、目を覚ましていることが出来ませんでした。主イエスが 十字架を前に苦しみながら、祈っているのにもかかわらず、共に祈ることが出来なかったのです。ただ肉 体が疲れていたというのではありません。主イエスが、苦しみながら人間の罪との闘いをしておられるのに、 そのことに思いを寄せることが出来なかったのです。ここで目を覚ましていられない弟子たちの姿も、わたし たちの信仰がいかに眠ってしまいやすいものかを示しています。しかし、主イエスはお一人で、十字架の苦し みと向かい合われるのです。
気をつけて見るべき救いの出来事
そして、主イエスは、この十字架の苦しみを担うことによって、わたしたちの罪と戦って下さいました。神さま の御心に御自身を委ね、救いの御支配の実現に向けて十字架に歩み、そこで、わたしたちが受けるべき罪の裁き を受けて下さったのです。主なる神は、そのことによって、わたしたちの罪を赦し、救いを成し遂げて下さった のです。この主イエスの姿、十字架の苦しみに向かわれる主イエスの真剣さ、そこに示された、主なる神の救いの 御支配に対する信頼を示される時に、わたしたちも目を覚ます歩みに導かれるのです。苦しみの中で、神の救いに 目と耳を閉ざし、眠りに陥りそうになる自らを省み、預言者が語った「この方にわたしたちも罪を犯した」との 告白をなしつつ、尚進められる救いの御業の完成を待ち望む者とされるのです。主イエスの十字架の苦しみの中 にこそ、わたしたちが気をつけて見るべき救いの御支配が示されているのであり、主イエスを見つめている限り、 わたしたちは眠ることがないのです。主イエスのお姿を見る中で、確かに、主なる神は、わたしたちを救おうと されていることが分かるからです。それ故、わたしたちは繰り返し、主イエスを示され、主イエスをしっかりと 見ることによって、主なる神が再び来られるとおっしゃった約束に信頼するのです。
主に信頼して
弟子たちが眠っている間、目を覚ましておられた主イエスは、今、この時も、はっきりと目を覚ましていて 下さいます。天にいて主なる神の救いの御業を進めておられるのです。わたしたちの信仰の目がしばしば閉じて しまう時、苦しみの中で神は自分たちに目を向けず耳を傾けない、目の見えない、耳の聞こえない方だと嘆き つつ、神の救いに対する信頼を忘れてしまう時にも、主なるイエスは目を覚ましておられるのです。
37節には、「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」。この時、主イエスは、 数名の弟子たちに向かってお語りになっていました。しかし、このことは、すべての人に言われている御言葉だと言 うのです。弟子だけが注意していれば良いというのではないのです。この言葉は、すべての人が救いに招かれている ことを示しています。主イエスは、すべての人が、目を覚まして終わりを待ち望む歩みをするようになることを望ん でいるのです。そのようになることを望みつつ、救いの御業を行われているのです。
わたしたちは、繰り返し、主イエス・キリストを示されながら、主が救いの御業を進めて下さることにのみ信頼して、 主人の留守の間、神の家である教会を建てるのです。そうすることによって、主を証ししつつ歩むのです。それは、 自分の業を行い、自分の思う救いを主張することではありません。主なる神に委ね、しっかりと目を覚まして終わり を待ち望みつつ、主なる神の救いの御業に用いられて行くのです。