2025年1月26日
説教題「主イエスのまなざし」 副牧師 川嶋章弘
イザヤ書 第43章1~7節
ルカによる福音書 第22章54~62節
弟子たちの代表としてのペトロ
最後の晩餐を終えて、オリーブ山のいつもの場所で主イエスは父なる神様に祈られ、弟子たちにも「誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい」(46節)と言われました。するとそこへ十二弟子の一人であるユダを先頭にして、剣や棒で武装した人たちが主イエスを捕らえに来ました。本日の箇所は、その人たちが主イエスを捕らえて大祭司の家に連行したところから始まります。
冒頭54節にこのようにあります。「人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った」。武装してオリーブ山に押し寄せて来た人たちは、主イエスを捕らえると引いて行き、大祭司の家に連れて行きました。そのとき大祭司の家に連行された主イエスに従ったのが一番弟子のペトロでした。この「従う」という言葉は、ペトロが主イエスの弟子として召されたときに、「すべてを捨ててイエスに従った」(5章11節)と言われていた、その「従う」と同じ言葉です。本日の箇所で、ペトロはなお主イエスの弟子として連行される主イエスに従ったのです。では、ほかの弟子たちはどうしていたのでしょうか。マルコによる福音書やマタイによる福音書では、主イエスの逮捕が語られた直後に、「弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マルコによる福音書14章50節、マタイによる福音書26章56節)と語られています。ところがルカによる福音書はこのことを語っていません。それはルカ福音書が、連行された主イエスに従ったペトロと、主イエスを見捨てたほかの弟子たちという視点で語っていない、ということです。むしろ弟子たちの代表としてのペトロという視点で語っています。22章31節で、主イエスはペトロにこのように言われていました。この主イエスの言葉はルカ福音書だけが記している言葉です。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」。つまりサタンの働きによって試練に直面し、その信仰が小麦のようにふるいにかけられるのはペトロだけではなく、「あなたがた」つまり弟子たち皆です。本日の箇所でルカ福音書は、その弟子たち皆の代表として、試練に直面する中でなお主イエスに従って行こうとするペトロの姿を描いています。そうであるならばそれは、私たちの姿でもあります。私たちも主イエスに従って行こうと決めてキリスト者になったからです。ルカ福音書はこの箇所でペトロの姿を通して、私たちキリスト者の姿を描いているのです。
闇がペトロをのみ込もうとしている
ペトロは逮捕され連行される主イエスに堂々と従ったのではありませんでした。「遠く離れて従った」と言われています。できるだけ主イエスと距離を取って、主イエスの弟子だとバレないようにこそこそとついて行ったのです。主イエスが捕らえられたのであれば、自分も捕らえられるかもしれない、という不安に駆られていたからです。ルカ福音書は、本日の箇所の直前でも、不安に駆られた人たちの姿を描いていました。主イエスを裏切ったユダも、剣を振り回して人を傷つけた弟子も、過剰に武装して押し寄せて来た人たちも不安に支配されていました。53節の終わりで主イエスが、「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている」と言われていますが、まさにこのとき闇が猛威を振るっていたのです。その中で誰もが闇にのみ込まれ、不安に駆られていました。別の言い方をすれば、誰もがサタンの働きによって神様から引き離されようとしていたのです。この闇が、今、ペトロをのみ込もうとしている。このサタンの働きが、今、ペトロに及ぼうとしているのです。
主イエスとの関係を否定する
ペトロは大祭司の屋敷の中庭に入りました。人々がその中庭の中央に火をたいて一緒に座っていたので、ペトロもその中に混じって腰を下ろしていました。そこから大祭司の家の中に連行された主イエスの姿が見えたのかもしれません。しかしペトロは主イエスの様子を伺っているどころではなくなりました。一人の女中が、たき火に照らされて座っているペトロを目にすると、じっと見つめて、「この人も一緒にいました」と言ったからです。原文には「この人も彼と一緒にいた」とあります。「彼」とは主イエスのことですから、この女中は、「この人も主イエスと一緒にいた」と言ったのです。それに対してペトロは、それを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言いました。「打ち消す」と訳された言葉は、「否定する」、「否認する」という意味の言葉です。ペトロは、「主イエスと一緒にいた」という女中の言葉を否定して、否認して、「私は主イエスを知らない」と言ったのです。
仲間との関係を否定し、自分自身を否定する
少し時間が経ってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言いました。それに対してペトロは、「いや、そうではない」と言いました。「あの連中」とは、主イエスの弟子たちのことでしょう。「お前も主イエスの弟子たちの仲間だ」と言われて、ペトロは「いや、そうではない」と否定したのです。自分が主イエスの弟子の仲間であることを否定すれば、自分が主イエスの弟子であることを否定することになります。それは、主イエスによって選ばれ、召され、弟子とされた自分自身を、主イエスに愛されてきた自分自身を否定することにほかなりません。前回の箇所で、ユダが愛情と尊敬を表す接吻で主イエスを裏切った、と語られていました。このユダの裏切りは、主イエスから受けた愛を捨ててしまう、まことに恩知らずな振る舞いでした。ここでペトロは、ユダと同じ振る舞いをしています。主イエスの弟子であることを否定することによって、主イエスから受けた愛を捨てているのです。このように「この人も一緒にいました」、「お前もあの連中の仲間だ」と立て続けに問いただされたペトロは、主イエスとの関係を否定し、主イエスが与えてくださった仲間との関係を否定し、今までの自分自身をも否定したのです。
一時間
それから「一時間ほどたつと」と59節の冒頭にあります。マルコ福音書やマタイ福音書は「しばらくして」(マルコによる福音書15章70節、マタイによる福音書26章73節)と記しているだけですが、ルカ福音書は「一時間」と記しています。一時間は決して短い時間ではありません。ペトロはこの一時間をどのような気持ちで過ごしたのでしょうか。立て続けに問いただされた後、誰も声を掛けてこなかったので、ホッとしていたのでしょうか。少し落ち着いたから主イエスの様子を伺ってみようと思っていたのでしょうか。そうではなかったと思います。むしろこの一時間は、ペトロの不安に拍車を掛けたのではないでしょうか。一時間の間ずっと、誰かに声を掛けられるのではないかというプレッシャーに晒され、ビクビクして怯えていたのだと思います。主イエスの様子を伺う余裕も、主イエスのことを考える余裕さえもなかったかもしれません。一時間ほど経つ間に、ペトロは不安と恐れに押し潰されそうになっていたのです。
あなたの言うことは分からない
そのような一時間を過ごしたペトロに、別の人が声を掛けました。「確かにこの人も一緒だった。ガリラヤの者だから」。「確かに」というのは、「真実に」という意味の言葉ですから、この人は真実という確信を持って「ペトロが主イエスと一緒だった」と証言していることになります。その根拠として「ガリラヤの者だから」と言っています。おそらくペトロの言葉遣いから、彼がガリラヤ出身であると分かったのだと思います。それに対してペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言いました。最初に女中から「この人も主イエスと一緒にいた」と言われたとき、「主イエスを知らない」と答えたペトロが、「確かにこの人も主イエスと一緒にいた」と言われたこのときは、「主イエスを知らない」と答えるのではなく、「あなたの言っていることは分からない」と答えました。不安と恐れに押し潰されそうになり、どう答えたら良いのか分からなくなる中で、「あなたの言っていることは分からない」という言葉が口についたのではないでしょうか。
主イエスが「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた」(31節)と言われたとき、ペトロは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」(33節)と言いました。その覚悟と決意を持って、ペトロは大祭司の家まで主イエスに従って来ました。しかしその決意と覚悟はあっという間に崩れてしまい、ペトロは主イエスとの関係を否定し、主イエスが与えてくださった仲間との関係を否定し、「あなたの言っていることは分からない」と答えたのです。
孤立して、周囲の人のまなざしに怯え
すでに見てきたように、ペトロは自分も捕らえられるかもしれないという不安と恐れを抱えていました。だから「遠く離れて」、こそこそと大祭司の家に連行される主イエスについて行ったのです。しかし大祭司の家の中庭で、ペトロを押し潰そうとしたのは、自分が捕らえられるかもしれないという恐れだけでなく、その中庭でペトロが置かれた状況から引き起こされる恐れもあったのではないでしょうか。その状況とは、一言で言えば、孤立です。ペトロは大祭司の家の中庭で明らかに孤立していました。主イエスは家の中にいたはずですが、ペトロからは離れていたでしょう。少なくとも中庭には主イエスはいなかったし、ほかの弟子たちもいませんでした。主イエスの弟子は、主イエスを信じ、従って行こうとする者は、中庭にはペトロのほかに誰もいなかったのです。孤立していたペトロに、周囲の人たちの視線が注がれています。決して好意的な視線ではなかったはずです。あの女中は、たき火に照らされているペトロを、「じっと見つめ」た、と言われていました。この女中だけでなく、中庭にいた多くの人たちがペトロをじっと見つめたのではないでしょうか。そのまなざしは、興味のまなざしであり、疑いのまなざしであり、正体を暴こうとする敵意あるまなざしでした。孤立していたペトロは、この周囲の人たちのまなざしに怯え、不安と恐れに押し潰されそうになったのです。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った、そのペトロの覚悟と決意は、大祭司の家の中庭で孤立し、周囲の人から敵意あるまなざしを向けられることによって、あっという間に崩れ去り、ペトロは主イエスを知らない、と言ったのです。
私たちにとっての「大祭司の家の中庭」
ペトロが中庭で置かれた状況は、ペトロだけが経験する状況ではありません。主イエスを信じ、主イエスに従って生きようとする者が、つまり私たちが経験する状況です。ペトロは問いただされて、「わたしはあの人を知らない」、「いや、そうではない」、「あなたの言うことは分からない」と答えました。これらの言葉は、孤立して、敵意あるまなざしを向けられ、不安と恐れに駆られるとき、私たちも口にしてしまうような言葉ではないでしょうか。私たちも主イエスの弟子として、主イエスに従って生きようとしています。しかし孤立した状況の中で、人の目に怯え、人からどう思われているか不安になり恐れることがあります。とりわけ日本の社会において、私たちはしばしば、その場に自分しかキリスト者がいない、という状況に直面します。家庭でも、親戚が集まる場でも、学校や職場でも、友人たちと会うときも、そのような状況に直面するのです。もちろん私たちはそのような状況で必ずしも疑いの視線や敵意ある視線を注がれるわけではありません。今の日本では、そのようなことはほとんどないと思います。もっともだからと言ってこれからもずっとそうであるとは限りません。前回お話ししたように今の私たちの世界は、不安と恐れに駆られた人たちが、自分の剣を振り回して互いに傷つけ合っている世界のように思えます。そのような世界にあって、その矛先が、その敵意が特定の宗教に、キリスト者に向けられることがないとは限らないのです。いずれにしても私たちは孤立した状況で、周囲の人たちの、一緒にいる人たちのまなざしに怯え、どう思われているだろうかと不安と恐れに駆られ、自分が主イエスの弟子であることを隠してしまうことがあります。主イエスを信じ、従って生きている者であることを隠してしまうことがあるのです。「クリスチャンですか」と聞かれなかったとしても、人の目を気にして、主イエスを知らないかのように、主イエスと関わりがないかのように振る舞ってしまいます。「主イエスを知りません」、「主イエスを信じる者たちの仲間ではありません」と、心の中で呟いてしまうのです。私たちはペトロのように大祭司の家の中庭に連れて行かれることはありません。自分が捕らえられるかもしれないという試練に直面することもないかもしれません。しかし私たちにとっての「大祭司の家の中庭」があるのではないでしょうか。日々の生活の中で、私たちは度々、私たちにとっての「大祭司の家の中庭」に置かれることがある。その場に自分しかキリスト者がいないという孤立した状況に、周囲の人たちのまなざしに怯えるという状況に直面するのです。そのとき私たちはペトロと同じように、自分の覚悟や決意があっという間に崩れ去り、主イエスとの関係を、あるいは主イエスが与えてくださった信仰の仲間との関係を隠し、否定してしまいます。ほかの人たちのまなざしを恐れ、世の中の当たり前から外れてしまうことを恐れ、私たちは繰り返し主イエスを拒み、否定し、裏切ってしまうのです。
主の言葉を思い出す
ペトロが「あなたの言うことは分からない」と言い終わらないうちに、突然鶏が鳴きました。すると主イエスが振り向いてペトロを見つめられます。主イエスのまなざしに気づいたときペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主イエスの言葉を思い出しました。そしてペトロは外に出て、激しく泣いたのです。最後の晩餐の席で、ペトロが「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と、自分の覚悟と決意を語ったとき、主イエスは「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」と言われました。その主イエスの言葉をペトロはずっと忘れていて、主イエスに見つめられたこのとき、初めて思い出したということではないと思います。ペトロは主イエスの言葉を聞いていたし、覚えてもいました。でもそれが本当に自分に語られている言葉だと分かっていなかった、本当に自分に語られている言葉として受けとめていなかったのです。たとえ試練に直面しても、自分の力で、自分の覚悟や決意で何とかできる、何とかしてみせると思っていたからです。私たちも主の日毎の礼拝で、主イエスの言葉、神様の言葉を聞いています。聞いているし、覚えているし、よく分かったと思うこともあります。それにもかかわらず、私たちもなかなかみ言葉を本当に自分に語られている言葉として受けとめることができずにいるのです。
主イエスが見つめてくださることによって
ペトロは、自分が三度主イエスを知らないと拒んだ後に、鶏の鳴き声を聞いたから、はたと主イエスの言葉を思い出したのではありません。ルカ福音書はそのようには語っていません。主イエスが振り向いてくださり、ペトロを見つめてくださったから、ペトロはあの主イエスの言葉が本当に自分に語られた言葉であったことを深く受けとめたのです。ペトロから主イエスを見つめたのではありません。ペトロが主イエスの姿を探し求めていたのでもありません。大祭司の家の中庭で孤立して、周囲の人たちの目に怯えていたペトロは、主イエスの姿を探す余裕などありませんでした。不安と恐れに押し潰されそうになりながら、自分を守ろうとして、「わたしはあの人を知らない」、「いや、そうではない」、「あなたの言うことは分からない」と答えるしかなかったのです。そのように答えているとき、ペトロは自分が主イエスを裏切っていることに気づいていなかったのではないでしょうか。自分が本当のところ何を言っているのかよく分からないままに、不安と恐れに駆られて答えてしまったのです。そのペトロを、主イエスが見つめてくださいました。主イエスのまなざしに気づくことによって、主イエスのまなざしの中で、ペトロは初めて、あの主イエスの言葉を自分に語られた言葉として受けとめ、自分がこのとき主イエスを拒み、否定し、裏切ったことに気づいたのです。「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った、あの自分の決意や覚悟が完全に崩れ去り、自分が主イエスを裏切り、主イエスとの関係を、主イエスが与えてくださった仲間との関係を絶ち切ってしまったことを突きつけられたのです。主イエスのまなざしの中で、ペトロは自分の取り返しがつかない罪に気づかされ、打ちのめされ、絶望したのです。ペトロは「外に出て、激しく泣いた」と言われています。それは自分の罪に対する絶望の涙にほかならなかったのです。
わたしの目にあなたは価高く、貴く
けれども主イエスがペトロを見つめたのは、ペトロを裁かれるためではありません。あれだけ勇ましいことを言っていたのに、私が言った通りになったではないか、鶏が鳴く前に三度私を知らないと言ったではないか、と非難されたのではないのです。そうではなく主イエスのまなざしは、「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」(32節)という主イエスの祈りと結びつきます。主イエスがペトロを見つめてくださるとは、主イエスのまなざしがペトロに注がれるとは、この「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」という主イエスの執り成しの祈りの中にペトロが置かれるということです。ペトロは孤立して、周囲の人たちの目に怯え、不安と恐れに押し潰されて主イエスを裏切り、主イエスとの関係を絶ち切りました。しかしそのペトロを主イエスは決して見捨てませんでした。ペトロが主イエスとの関係を絶ち切っても、主イエスはペトロとの関係を絶ち切ろうとしなかったのです。主イエスのまなざしは、あの女中のまなざしとはまったく異なります。共に読まれた旧約聖書イザヤ書43章4節に、「わたしの目にあなたは価高く、貴く わたしはあなたを愛し」とあります。主イエスの目にペトロは価高く、貴く、主イエスはペトロを愛されているのです。主イエスのまなざしは、ご自分を裏切ったペトロを、なお価高いと、貴いと言って、愛してくださるまなざしなのです。
主イエスのまなざし
主イエスのまなざしによってペトロの罪が赦されるのではありません。ペトロが新しく生き始めるのでもありません。ペトロが罪を赦され、新しく生き始めるのは、主イエスが十字架で死んでくださり、復活してくださることによってです。しかし自分の取り返しがつかない罪に気づかされ、打ちのめされ、絶望しているペトロを、主イエスのまなざしが、主イエスの執り成しの祈りが支え続けるのです。私たちも、私たちにとっての「大祭司の家の中庭」で、孤立した状況にあって、ほかの人の目を恐れて、主イエスを否定し、主イエスを裏切ってしまいます。自分が取り返しのつかない罪を犯したことを、自分がまことに恩知らずな者であることを突きつけられて絶望します。しかしそのような私たちに、主イエスのまなざしが注がれています。主イエスを裏切る私たちを、まことに恩知らずな私たちを、なお価高いと、貴いと言ってくださり、決して見捨てることなく愛してくださる、主イエスのまなざしが私たちに注がれているのです。そして主イエスは私たちの罪を赦すために十字架に架かって死んでくださいました。すでに私たちは主イエスの十字架による罪の赦しにあずかって生きています。それでもなお私たちは、日々罪を犯し続け、そのことに絶望してしまうことがあります。しかしそのようなときも私たちは、主イエスのまなざしによって、主イエスの執り成しの祈りによって支えられているのです。主イエスに従って生きることができるよう、主イエスが与えてくださった仲間と共に生きることができるよう、主イエスは私たちを支え続けてくださっています。この主イエスのまなざしに支えられて、私たちはこれからも歩んでいくのです。