夕礼拝

いったい、何者だろう

「いったい、何者だろう」 伝道師 矢澤 励太

・ 旧約聖書; 詩編、第139篇 1節-24節
・ 新約聖書; ルカによる福音書、第9章 7節-9節
・ 讃美歌 ; 275、360

 
1 「いったい何者だろう、耳に入ってくるこんなうわさの主は」。これはガリラヤの領主ヘロデが深い不安と戸惑いの中で発した言葉です。このヘロデが戸惑う様子は、9章の7節から9節に、何か突然飛び込んできたかのような印象を与えられます。それまで語られていたことは、主イエスが十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになったことでした。そしてこの十二人が、主イエスの権能を携えて、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした出来事です。さらに今日の箇所のすぐ後には遣わされた十二人が主のもとに戻ってきて、自分たちのなしたことをすべて主イエスに報告したことが記されています。そしてそれに引き続いて祝福された五つのパンと二匹の魚によって、大変な数の人々が満腹になる出来事が起きています。今日の箇所の前の方でも、後の方でも、語られているのは主が遣わされた十二人の働きです。いったいなぜ十二人の働きが描き出されるその間に挟み込まれたようにして、ここでヘロデの戸惑いが語られるのでしょうか。
 十二人が遣わされて、そこで宣べ伝えたのは「神の国」でした。神の国がやって来る、もうそこまで来ている、今既に始まっている、あまりにもすぐそばまで来ているのでもうその影響が色濃く出始めている、見てみなさい、百人隊長の僕も癒された、やもめの息子は生き返った、自分の深い罪に捕らわれた女性はその罪を赦された、悪霊に取りつかれた男もいやされた、死にかけていた会堂長の娘は起き上がり、長い出血を患っていた女性も治った。神の国が始まっていることのしるしではないか、というのです。そしてその続きの業を託されて、十二人が同じ働きを担っているのです。神の国とは、神のご支配です。神がご自身の下で持っておられるご支配が、この地上においても、隅々にまで行き渡るということです。この世のまことの支配者は主なる神であるということが、はっきりとした形で現れ出始めているのです。私たちが主の祈りで祈るように、御心が、天において実現しているように、地にも同じように実現し始めているのです。とすると、その時この地上に置かれている権力はどのようなことになるのでしょうか。今やってきている神のご支配を受け入れるか、それともこのご支配を拒んで、抵抗をするか、どちらかでしょう。神のご支配を受け入れ、神の御心を問い続け、神のご支配が自分のなす政治の営みを用いて行われることを願いつつ務めに当たる支配者は、神の御心であればなおそのための当面の地位を与えられるかもしれません。けれども、この神のご支配を受け入れず、むしろこれに抵抗し、自分の支配をもって神のご支配を呑み尽くそうとする地上の支配者は、自らその裁きを招くことがここに示されています。

2 十二人の働きの背後にあったもの、あるいはその中心にあったものは、主イエスの言葉と業でした。主イエスから派遣された十二人の働きは、いわばこの主イエスの働きの続きです。主イエスご自身が神の国を宣べ伝え、その福音を告げ知らせながら、町や村を巡り歩いて旅を続けられたのです。その主イエスから権能を託されて、十二人は村から村へと福音を告げ知らせ、病気を癒しているのです。そのようにしてガリラヤの隅々にまで神のご支配がやってきていることが知らされるようになっていたのです。こうした主イエスと同じ働きをする者たちの各地での働き、さらにその核にある主イエスご自身の言葉と業は、ヘロデに深い恐れと不安を引き起こしたのです。ヘロデはおよそ権力というものについての鋭い感覚を持っていたに違いありません。そのヘロデが力を振るっているはずの土地で、別のお方のご支配が告げ知らされている。権力を持つ者にとって、こんなに不安な材料、警戒すべき状況はありません。およそ権力者というものは、自分が手に入れた権力が奪われることのないように、大変な力を注ぎ込みます。少しでも自分に反抗しそうな集団があると、いろいろな方法をもってその力を削ごうとするのです。
 現在のヘロデの権力の座も、相当な力の駆け引き、騙しあいや裏切りの結果手に入ったものです。それはこのヘロデの父親にまでさかのぼります。彼の父親は、山賊の反乱を鎮圧したことをきっかけに時のローマ帝国に認められるようになり、後にはローマ帝国の税金を取り立てる、徴税官に任命されます。その時代、この父親は納税を拒否する町を焼き払い、そこの住民を奴隷として売り渡し、大変厳しい支配を行ったのです。その後彼はガリラヤ地方の領主となり、紀元前37年にはユダヤの王としてローマ帝国に、その支配のお墨付きをもらったわけです。かつてのダビデ王国と同じくらいの領土を支配するようになり、次々に反対する勢力を取り除いていきました。それまで政治にも深い関わりを持っていた祭司の働きを宗教的働きだけに限定し、自分に都合のよい祭司だけを任命することを通して、宗教の世界も自分の思うとおりにしました。生涯に10人の妻をめとり、15人の子供をもうけたと伝えられています。ところが70歳近くの晩年になると、自分の王位を狙う近親の者たちに悩まされるようになり、大変な恐れと疑いの中で生きざるを得なくなります。将来自分の地位を危うくする家柄の者を次々と暗殺しました。その中には自分がお世話になった叔父も、彼の義理の母親も、また彼が一度は愛した妻も含まれていたのです。ローマ皇帝にさかんに取り入りました。その権力闘争の中で自分の立場が危うくなると、元の主人に誓った忠誠は簡単に放棄し、有利な方の勢力に寝返りながら、権力の座を固めてきたのです。自身も毒を盛られそうになった危険を切り抜けながら、ユダヤ王の地位を築いてきたのです。その父親の歩み、その権力の座を受け継いだのが、今主イエスのうわさを耳にしているこのヘロデなのです。幼い頃から、あの父親が巻き込まれた混乱、相次ぐ戦争と厳しい支配、晩年の父親の家族も信じられなくなった悲惨な姿、それらを側にあってつぶさに見つめてきたはずです。あの父親と同じ立場に今、自分は立っている。ヘロデの心は否が応でも緊張し、こわばらざるを得ません。ある意味では父親以上に強い不安と警戒感に捕らわれていたことでしょう。塚本虎二という人は福音書を個人的に訳したものを出版していますが、今日の箇所について、「ヘロデ、イエスを恐れる」という表題をつけています。まさに、自分の支配とは異なる支配が今、ガリラヤ地方に広がり始めている。権力を握る者として決して見過ごしにはできない動き、運動が始まっていることを感じ取って恐れを抱いたのです。数々の教えが宣べ伝えられ、多くの人々が癒され、民衆から絶大な支持を得ているイエス運動とも呼ぶべき危険な動きが、自分の領土に広がっていることを知ったのです。

3 しかも困ったことに、この方がどういう方なのかが、なかなかはっきりしないのです。民衆から聞こえてくる声を調査してみても、ある者は「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言いますが、またある者は「エリヤが現れたのだ」と言い、さらに「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言い出す人までいて、誰もその本当の正体を突き止めることができなかったのです。このヨハネやエリヤ、また昔の預言者と呼ばれた人々は皆、この世の終わりの時にやってきて、世界にまことの裁きと支配をもたらす者を信じる、そのような人々の信仰と結びついている人物たちです。エリヤについては、旧約聖書の最後にあるマラキ書の中で、終わりの日に預言者エリヤが再びやって来て、裁きと救いを行われることが語られています。またこれと似たような教えとして、古の預言者である、たとえばイザヤやエレミヤといった預言者が、終わりの日に再び現れる、といった信仰が広まっていたのです。そうした神の言葉を取りつぐ預言者の伝統の流れに連なりつつ、その流れの一番先に立つ者として、かつてヘロデの前に現れたのが洗礼者ヨハネでした。けれどもこのヨハネを、ヘロデは首をはねて殺害してしまったのです。そのきっかけとなったのは、ヘロデが自分の兄弟の妻、ヘロディアを自分の妻として引き入れている事実をヨハネに指摘され、責められた出来事でした。この時、ヘロデの中には、かつて父親を苦しめたのと同じ不安や恐れがにょきにょきと頭をもたげてきて、今の内にこの気にくわない男の存在を地上から消し去っておかなければならない、という思いを限りなく強くかき立てたのです。このヨハネは、来るべきまことの支配者である、主イエスを指し示す務めを帯びてきたのに、このヨハネの存在を抹殺してしまうのですから、ヘロデに主イエスの正体が分かるはずはありません。彼のイライラは募る一方だったはずです。彼は部屋の中で一人になった時、自分自身に確かめるような調子で言ったのです、「ヨハネなら、わたしが首をはねた」、と。この上なおわたしの立場を危うくしようとするこのうわさの主はいったい誰なのだ、「いったい、何者だろう」、これがヘロデの気がかりな問いです。

4 私たちは普通、誰もが、自分が自分の人生の主人公であると考えています。特に現代のように個人の持っている可能性が尊重され、自分の能力を育み押し広げていくことが喜ばれ奨励されるような時代ではなおさらのことです。そこでどのように生きていくか、誰もが思い思いの人生計画を立て、その夢や願いをかなえようと躍起になっています。その意味では自分が自分の支配者になっています。自分以外のものが、自分のことについてあれこれと口出しをしてくることは面白くありません。自分が自分の主人でいたいのです。そこで自分の思い通りにならないものへの我慢がきかなくなってきています。自分が思い通りに支配できないものの存在を消し去る出来事、思い通りにならない者を殺害する事件が、この国でも毎日のように起こっているのです。相手が中学校の同級生であれ、恋人であれ、母親であれ、子供であれ、自分の妻や夫であれ、人生の主人である自分の支配に従わない者は、嫉妬や憎しみの対象になるのです。その意味では、私たちは誰でも、あのヘロデと同じような不安や恐れを抱えて生きているのではないでしょうか。そして自分の願いに従わない者を葬り去ってもよいという思いを深いところには秘めて生きているのではないでしょうか。たとえ実際に行為に及ばなくても、「あいつさえいなければ自分はどんなにかいいのに」と、心の中で密かな殺人を犯してしまっているのではないでしょうか。
現代の社会の中では、自分の目標や人生の意味を見出すことができないで苦しんでいる人もたくさんいます。こうした人たちは、ある意味では自分が人生の主人だと思いこんでいる人たちよりはさらに先を進んでいて、もはやそのような生き方では本当に幸せになることはできない、ということに気づき始めています。あのヘロデのような生き方で行くことに、もはや疲れを覚え始めているのです。何か別の道,他の生き方はないものだろうか、と考え始めているのです。けれども、本当に幸いな人生を与えられていく生き方を未だ見出すことができず、苦しんでいるのです。どこか深いところでは別の道を求め始めているのです。現代の日本社会で、あれだけたくさんの新興宗教が流行っているのも、このことと無関係ではない、と思います。ところで実はこうした要素は、ヘロデ自身の中にもあったと思われます。彼は「いったい、何者だろう」、と主イエスの正体を怪しみながらも、「イエスに会ってみたいと思った」と、福音書は伝えております。彼は自分の支配を覆すことになるかもしれない、気にくわないこの人物に、しかしとりあえず一度会ってみたいと思ったのです。これは大変興味深いし、大事なことだと思います。
自分が人生の支配者だ、主人公だ、と思っている人にとっても、そうした生き方に疲れを覚えて、むしろ本当に自分を平安の内に治めてくれる人でも宗教でもあるならば、自分をゆだねてしまいたいと考えている人にとっても、この主イエスというお方は、どうにも気がかりなお方です。ヘロデにおいてそうであったように、私たちに「戸惑い」を引き起こすお方です。今のままの生き方、これまでの人生の支配者についての考えを深いところから問い直すように迫ってくるお方です。「いったい、何者だろう」、という強い関心と問いを引き起こさずにはいないお方なのです。

5 けれども、このお方と本当の意味で出会うためには、一度自分の物差し、自分の判断、自分の価値観を捨て去らなければなりません。この気になる者の正体を突き止めて、この者が自分の支配のために利用できる人物なのか、それとも自分の支配を脅かす者で、すぐにでも存在を消し去ってしまわなければならない者であるのか、そのことについての判断を降そう、と思っている内は、主イエスの本当のお姿は、私たちの目には見えてまいりません。ヘロデは結局、最後までこの自分が判断を降す主人なのだ、という思いから自由になれませんでした。神の支配を受け入れることを拒んで、自分が自分の支配者であるというこだわりにしがみつき続けたのです。この福音書の23章8節以下には、ヘロデがついに念願かなって主イエスと直接出会う機会を得たことが記されています。「彼はイエスを見ると、非常に喜んだ。というのは、イエスのうわさを聞いて、ずっと以前から会いたいと思っていたし、イエスが何かしるしを行うのを見たいと望んでいたからである」。ここでもヘロデは結局、自分がこのイエスという人物の正体を突き止め、その価値を判断し、自分の人生に役に立つ者かどうかの判断を降そうとしています。あくまでも判断し、決断をし、支配者であり続けるのは自分自身です。自分を自分の支配者としているヘロデが何を尋問しても、主イエスは何もお答えにならなかったのです。
 けれどもこれとまったく反対の、出来事の受け止め方があります。先ほどお読みいただいた詩編139編には、実は私たちが自分自身の主人なのではなくて、神が私たちの人生を究めておられることが歌われているのです。「主よ、あなたはわたしを究め わたしを知っておられる。 座るのも立つのも知り 遠くからわたしの計らいを悟っておられる。 歩くのも伏すのも見分け わたしの道にことごとく通じておられる。 わたしの舌がまだひと言も語らぬさきに 主よ、あなたはすべてを知っておられる。 前からも後ろからもわたしを囲み 御手をわたしの上に置いていてくださる」(1-5節)。さらに8節から10節ではこう歌われます、「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます。 曙の翼を駆って海のかなたに行き着こうとも あなたはそこにもいまし 御手をもってわたしを導き 右の御手をもってわたしをとらえてくださる」。
「コペルニクス的転回」という言葉があります。それまで地球が中心にあって、太陽を始めとする星々は、この地球の周りを回っていると考えられていた時代にあって、コペルニクスという人は、そうではない、と言いました。そうではなく、太陽が中心にあって、その周りを地球を始めとする星々が回っていることを明らかにしたのです。これと同じことが、この歌を歌った詩人の中にも起こっています。それまでは自分が自分の人生の主人公であり、支配者であったかもしれません。けれども、今や、詩人の中ではコペルニクスの転回が起こっています。もはや自分が人生の主人ではありません。自分がどこに行こうとも、生きていようと死に直面しようと、あるいは生まれる前であろうと、死んだその先であろうと、とこしえに私たちをとらえ、支え、治めてくださる方がおられる。私たちはこのお方のものとされている。それがこの詩人の人生を深みから喜びに満ちたもの、感謝にあふれるものとしているのです。

6 耳に入ってくるうわさを聞いて、この主イエスというお方と実際に会ってみたいと思うのは、すばらしいことです。あそこに教会があると聞いて、足を踏み入れてみるのはすばらしいことです。その教会が行う、家庭集会に出てみるのはすばらしいことです。聞くことは、実際に出会うことと結びついているのです。そして私たちが本当にこのお方と出会う時、そこで私たちは自分の枠組み、自分の判断基準を打ち壊されます。私が主イエスをとらえ、「いったい、何者だろう」と言って正体を突き止めようとし、主イエスを支配するのではありません。逆に神が主イエスにおいて私たちを究め、私たちを知っておられ、私たちの人生のすべてを治めておられることを示されるのです。このすぐ後、18節以下で、十二人がやはり主イエスについて世間でいろいろなうわさが流れていることを報告していますが、そこで主イエスは十二人に問われるのです、「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。私たちが主イエスの正体を突き止めようとして、主を問いつめるのではありません。自分自身を支配者として互いに傷つけ合い、疲れ果てている私たちのこの暗い世界に飛び込んできて、本当のご支配、神の支配をもたらすために、十字架におかかりになってくださったお方がおられます。このお方から私たちが今、問われているのです。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」、と。ヘロデのように神の支配に抵抗し、自分の支配にしがみつこうとする私たちのこだわりを、主イエスは十字架の上ですべて引き取ってくださいました。私たちはもはや死のおそれ、自分の面子にこだわるために起こる不安や嫉妬、それらすべてにもはや脅かされることはありません。神との交わりに生きる生、本当の平安に与らせる神のご支配が、ここに始まっているからです。主イエスにおいて、神が私たちのまことの支配者であり、恵みの内に私たちを治めてくださるお方であることを知らされるからです。神の与えたもうコペルニクス的転回が、ここに起こっているからなのです。

祈り 主イエス・キリストの父なる神様、主イエスの存在は、私どもにとっては、どうにも気になって仕方のないものです。私どもはこのお方と向き合う時、自分のあり方を深く問われ、戸惑い恐れます。できれば関わらないでこのお方を通り過ぎてしまいたいという誘惑に惹かれることもあります。しかしまた私どもは耳に入ってくるうわさの主である主イエスに、本当の意味で出会うことを、深いところでは願っているのです。どうか主イエスの十字架の苦しみと復活の喜びを深く味わわせ、あなたが私どもとこの世界を、まことのご支配のうちにとらえていてくださっていることに、心の目を開かせてください。どうか御国を来たらせ、御心が天になるように、地にもならせてください。
生ける神の子、救い主イエス・キリストの御名によって祈ります、アーメン。

関連記事

TOP