主日礼拝

最も大切なこと

「最も大切なこと」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 詩編 第22編1-32節
・ 新約聖書; コリントの信徒への手紙一 第15章1-5節
・ 讃美歌; 294、55、405

 
死者の復活
 礼拝においてコリントの信徒への手紙一を読み進めてきまして、本日から第15章に入ります。この手紙の7章から14章にかけては、 コリント教会から寄せられたいろいろな質問への答えが語られてきました。「~のことについて言えば」という言い方にそれが表れています。 しかしこの第15章はそれとは語り方が違います。ここは、質問に対する答えではなく、パウロ自身が、このことをぜひ教え、伝えなければ ならないと考えて語っている所です。パウロがここでぜひ教え、伝えなければと考えているのは、死者の復活に関することです。死者の復活 というのは、主イエス・キリストの復活のことではありません。主イエスが本当に復活したのかどうか、という話ではないのです。そのこ とは疑う余地のない事実として前提になっています。問題は、主イエスの復活ではなくて、私たち自身の復活です。私たちが、また信仰を もって既に死んだ人々が、世の終わりに復活し、新しい命と新しい体を与えられる、そのことについてこの第15章は語っていくのです。 パウロがここでこのことをぜひ語っておかなければと考えたのは、12節にあるように、コリント教会の中に、「死者の復活などない」と 言っている人が出てきていたからです。この「死者の復活などない」という主張の意味については、そこへ行ったところで語ることにした いと思いますが、いずれにせよ、死者の復活についての間違った考え方がコリント教会の中に起ってきていた、そのことを伝え聞いたので、 パウロは、いろいろな質問に答えた後、今度は自分の方から、このことについて語り始めたのです。

最も大切なこと
 15章の主題は死者の復活です。しかしパウロはそのことを直ちに語り始めるのではなく、先ず、そのことの前提となる基本的な事柄を 確認することから始めています。その基本的な事柄とは、3節以下に語られていることです。3~5節をもう一度読んでみます「最も大切 なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの 罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後十二人に現れたこと です」。ここに、パウロが「最も大切なこと」として伝えたことが語られています。この「最も大切なこととして」というのは、文字 通りに訳せば「第一に」という言葉です。しかしそれは、第二、第三が後に控えている中での第一、つまり順番における第一というこ とではありません。第二、第三のことがこの後語られていくわけではないのです。つまりこの「第一に」は、「これこそが中心であり、 これなしには全体がその意味を失う、本質的なもの」ということです。ですから「最も大切なこととして」と訳すことができるのです。 パウロが語り伝え、コリントの人々がそれを信じて教会が生まれたその教えは「福音」、即ち「良い知らせ」と言われていますが、その 福音の中心、最も大切なポイントが、この3節の「すなわち」以下に語られているのです。それは、「キリストが、聖書に書いてあると おりわたしたちの罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、その後 十二人に現れたことです。」

キリストの十字架の死
 キリストが、聖書に書いてあるとおり私たちの罪のために死んだことが福音の中 心だとパウロは言っています。主イエスがその地上のご生涯において語られた教えやなさったみ業の全てをとびこえて、十字架の死の みが見つめられているのです。それは、主イエスの教えやみ業はどうでもよいということではありません。むしろ、主イエスのどの教 えにしてもみ業にしても、この十字架の死からふりかえって見ることによってこそ、その本当の意味や大切さが分かるのです。十字架の 死は、「私たちの罪のため」でした。主イエス・キリストは、私たちの罪のために、その罪を背負い、私たちの身代わりになって死んで 下さることによって私たちの罪を赦して下さるためにこの世に来られたのです。それが、主イエスのご生涯を見つめる上での「最も大切 なこと」です。この最も大切なことを見つめることによって、主イエスのご生涯はまさにキリストのご生涯、つまり救い主のご生涯とな るのです。逆にこの最も大切なことを見失ってしまうと、主イエスのご生涯はその焦点を失ってぼやけてしまい、単なる人間イエス の生涯になり、私たちの信仰も、このイエスの歩みに倣って愛と自己犠牲に生きよう、という倫理的、道徳的な教えになってしまう のです。それはもはや神様による救いを信じる信仰ではなくて、人間が自分の決意によって掲げるスローガンでしかないのです。

聖書に書いてある通り
 この主イエスの十字架の死による救いは、「聖書に書いてあるとおり」に起ったのです。その聖書とは旧約聖書のことです。 主イエスの十字架の死による救いは、既に旧約聖書に予告されていたのです。それは、このことが神様のご意志、ご計画による ことだった、ということです。私たちの救いは、神様ご自身が、独り子イエス・キリストをこの世に遣わし、そのみ子の十字架 の死によって罪人である私たちを赦し、救って下さることを決意して下さった、その神様のご決意によっているのです。そのご 決意が既に旧約聖書の中に披瀝されています。本日共に読まれた詩編第22編もその一つです。この詩の冒頭の言葉「わたしの 神よ、わたしの神よ、なぜわたしをお見捨てになるのか」は、主イエスが十字架の上で息を引き取られる直前に語られた言葉 です。このことは、主イエスが、十字架の死の苦しみの頂点において、なおこの詩編の言葉によって主なる神様に語りかけ られた、ということを示していると同時に、この詩が、自らは何の罪もないのに、神に見捨てられ、人々に嘲られるという 苦しみを味わう人の出現を語っており、その人によって、この詩の25節以下に語られている神様の救いとご支配が実現す ると予告しているということでもあります。25節以下を読んでみます。「主は貧しい人の苦しみを決して侮らず、さげすま れません。御顔を隠すことなく、助けを求める叫びを聞いてくださいます。それゆえ、わたしは大いなる集会であなたに賛 美をささげ、神を畏れる人々の前で満願の献げ物をささげます。貧しい人は食べて満ち足り、主を尋ね求める人は主を賛美 します。いつまでも健やかな命が与えられますように。地の果てまですべての人が主を認め、御もとに立ち帰り、国々の民 が御前にひれ伏しますように。王権は主にあり、主は国々を治められます。命に溢れてこの地に住む者はことごとく主にひれ伏し、 塵に下った者もすべて御前に身を屈めます。わたしの魂は必ず命を得、子孫は神に仕え、主のことを来るべき代に語り伝え、 成し遂げてくださった恵みの御業を民の末に告げ知らせるでしょう」。キリストが、聖書に書いてある通り、私たちの罪の ために死んで下さり、それによって救いを成し遂げて下さったことが、この詩からも分かるのです。

葬られたこと
 4節には、キリストが葬られたことが「最も大切なこと」の一つとして語られています。墓に葬られたということがそんな に重要なことだろうか、と思う方もいるかもしれません。けれども、「私たちの罪のために死んだ」というだけではなくて 「葬られた」ことによって、主イエス・キリストが私たちと共にいて下さることがより一層はっきりするのです。昨日も埋 葬式が教会の上大岡墓地で行われました。私たちは皆いつか死んで、墓に葬られます。その時にも、主イエス・キリストが 私たちに先立って共に歩んで下さっていることを、私たちはこの一句から聞くのです。そしてさらに、この「葬られた」は、 主イエスが死んだ者たちの一人となられたことを語っています。それは、次の復活への備えとなっています。主イエスの復活 は、死者の中からの復活でした。死んで、葬られて、死者の一人となった主イエスが、その死者の中から復活させられたのです。

復活
 三日目に復活したことにも、「聖書に書いてあるとおり」がつけられています。主イエスの復活も、十字架の死と並んで、 聖書に語られている神様のご意志、ご計画によることでした。いや復活の場合はそれ自体がそもそも神様のみ業なのです。 「復活した」というと、「自分の力で復活してきた」という意味にとられがちですが、原文の言葉は「復活させられた」と いう受け身の形です。つまり主イエスは、自分で復活してきたのではなくて、神様によって復活させられ、新しい命と体を 神様から与えられたのです。同じみ業を神様が私たちにもして下さる、それが私たちに与えられている復活の希望です。そ れがこの15章の主題なのですが、これについてはもう少し先のところに語られています。

復活の証人
 5節にあるのは、復活されたキリストが、ケファ、これは主イエスの第一の弟子であったペトロのことですが、 そのケファに現れ、また12人の弟子たちに現れた、弟子たちは復活したキリストと出会い、そのお姿を見たとい うことです。それゆえに弟子たちは、主イエスの復活の証人として立てられ、遣わされたのです。これらのことが、 パウロが宣べ伝えている福音の中心、最も大切なことです。死者の復活の問題を考える前に、この福音をまず確認し ようとパウロは言っているのです。

わたしも受けたものです
 死者の復活については、今申しましたようにこの章のもう少し先へ行ってから語ることになりますので、 本日は触れません。本日はむしろ、その前提となっている「最も大切なこと」、即ち福音の中心についてさ らに思いを深めていきたいのです。パウロは今見ましたように3節以下にその「最も大切なこと」を語って いますが、そこで注目すべき最も大事な言葉は、「わたしも受けたものです」という言葉です。つまり、パ ウロが宣べ伝えている福音は、パウロが発見したり考え出したものではなくて、パウロ自身もそれを先輩の 信仰者から伝えられ、受け取ったものだったのです。「キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの 罪のために死んだこと、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、ケファに現れ、 その後十二人に現れたこと」、パウロはその「最も大切なこと」を受け取り、それを「最も大切なこと」として コリントの人々にも伝えたのです。それが彼のした伝道だったのです。そして今、パウロがここでしようとして いることは、自分が宣べ伝えたその福音を、コリントの人々にもう一度しっかりと確認させようということです。 1節にこうあります。「兄弟たち、わたしがあなたがたに告げ知らせた福音を、ここでもう一度知らせます」。 日本語にするとどうしてもこういう語順になってしまうのですが、ここは原文では、「私はあなたがたに知らせる」 という言葉が冒頭に来て強調されています。「もう一度」という言葉は原文にはありません。「私はあなたがたに 知らせる、兄弟たちよ、私が告げ知らせた福音を」という感じです。「知らせる」という言葉も、ただ「告げる」 とは違って、「知るに至らせる」という強い言葉です。ですからここは、「念のためにもう一度言っておくけれど」 ということではなくて、「私が告げ知らせたこの福音をしっかり知りなさい」という強い命令なのです。

教えの継承
 その福音を、コリントの人々は知らないのではありません。パウロはその福音を告げ知らせたのであり、彼らはその福 音を聞いて信じ、信仰者になったのです。1節後半の「これは、あなたがたが受け入れ、生活のよりどころとしている福音 にほかなりません」というところがそのことを語っています。この福音を、あなたがたは受け入れた、それは3節の「わ たしも受けたものです」の「受けた」と同じ言葉です。パウロは、自分も受けた福音をコリントの人々に告げ知らせ、 コリントの人々もそれを受けたのです。こうして、人から人へ、世代から世代へと、福音が受け継がれていくのです。 それから約二千年後の、また遠く離れたこの日本において、私たちが今キリストの福音を受け入れ、信じて、教会の一員 であることができるのも、このように人から人へと福音が受け継がれてきたことの結果です。私たちは、福音を、神様の 救いを告げる喜ばしい宣言を、自分で見出したり、考えて造り出すことはできません。パウロですら、自分で考えたので はなくて受けたものだと言っているのです。私たちはこの「受け入れる、受け継ぐ、継承する」ということの信仰における 大切さを深く覚えるべきです。神様の救いは、教会の教えを受け継ぐことによってこそ与えられるのです。受け継ぐことを せずに、あるいは自分の考えや好みに合うことだけ、自分が納得し気に入ることだけを受け継ぐのでは、神様の救いにあず かることはできません。そこにあるのは信仰ではなくて自分の考えに過ぎないからです。そこでは、神様ではなくて自分が 主人になっているのです。信仰を継承することを拒否して、自分の考えを神様に逆に押し付けていくようなところには、 神様による救いは与えられないのです。

生活のよりどころ
 またここには、生活のよりどころとしている福音、という言い方もされています。ここは文字通り訳すならば、 「あなたがたがその中で立っているところの福音」です。キリストの福音は、私たちの生活を飾るアクセサリーで はありません。アクセサリーならば、好きな時に付けたり外したりすることができます。しかしキリストの福音は そのように、気に入った時だけ取り出してきて身に付けるようなものではないのです。福音は、私たちの生活に何 かを付け加えるものではなくて、私たちの生活全体がその中に置かれるものです。キリストの福音によって自分の生活 に何かを付け加えようとしている内は、私たちは何も得ることはできません。福音は、3節以下の「最も大切なこと」 に語られているように、神様がその独り子イエス・キリストを遣わして下さり、そのキリストが私たちの罪のために 死んで下さり、神様がキリストを復活させて下さったという神様のみ業です。神様のみ業はアクセサリーのように身に 付けることはできません。この神様の恵みのみ業の中に私たちの人生の全体が置かれることによってこそ、その恵みに よって生かされる新しい、祝福された歩みが与えられるのです。

福音の言葉
 さてパウロはコリントの人々に、この福音を告げ知らせ、彼らもそれを受け入れ、信じてコリント教会が生まれたので した。ところが今、コリントの人々は、彼らが受け入れ、信じたはずの福音からそれていってしまいそうになっているので す。そのことに対するパウロの警告が2節です。「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか、しっかり覚えていれば、 あなたがたはこの福音によって救われます。さもないと、あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまうでしょう」。 「どんな言葉でわたしが福音を告げ知らせたか」。福音は、漠然とした気分ではありません。何となく救われたような感 じがする、というのは福音ではないのです。福音は言葉によって告げ知らされるのです。その言葉が、あの3節の、パウ ロ自身も受け、コリントの人々に伝えた「最も大切なこと」なのです。キリストが私たちの罪のために死んで下さった、 そして神はキリストを死者の中から復活させて下さった、この福音の言葉を受け、それをしっかりと覚えているならば、 私たちはその福音によって救われるのです。この福音の言葉に飽き足らず、この最も大事なこと以外に何かもっと大事 なことがあるのではないか、もっと人の心をかき立て、豊かにするものがあるのではないか、と他のものを求めていくならば、 「あなたがたが信じたこと自体が、無駄になってしまう」。ここは直訳すれば、「あなたがたは無駄に、無益に信じたこと にならないだろうか」となります。パウロの告げ知らせた福音、そこに語られている最も大切なことをしっかり継承しない 信仰は、無駄な、無益なものになってしまうのです。

良い実りはどこに
 コリント教会の人々はどうして、パウロが告げ知らせたこの福音から離れていこうとしたので しょうか。それは、人から受け継いだ教えや信仰には命がないと思ってしまう傾向が誰にでもあるからです。 教えられたことをそのまま受け継ぐのではなくて、何か自分なりの独自なものを得たい、という思いです。そ こにもう一つのことが結びつきます。パウロが教えた福音は、神様が主イエス・キリストにおいて私たちの救い を成し遂げて下さったのであって、私たちはそれを感謝をもって受けるだけだ、という教えです。それでは物足り ない。自分の側でも、これをしなければならない、あれをしてはならない、という掟や戒律のようなものを守るこ とによって救いの確信を得たい、という思いです。受け継いだ福音の言葉よりもそのような教えの方に魅力を感じ てしまうのです。私たちにも同じようなことが起ります。私たちも、代々の教会が受け継いできた福音の言葉、 つまり教会の信条や信仰告白に言い表されている信仰の言葉を、無味乾燥な命のないものと思ってしまう傾向が あります。そういうものを学ぶよりも、今自分たちが直面しているいろいろな問題、それは個人的な問題から 社会の問題までいろいろありますが、そういうことに取り組んでいく方が大事だ、と思ってしまうのです。けれど も、福音の中心、あの最も大切なことにしっかりと土台を置かないでそのような問題に関わっていくと、私た ちは足元をすくわれて、信仰そのものがおかしくなります。キリストが私たち罪人のために死んで下さり、復 活されたという福音にしっかりと立っていないと、私たちの歩みは結局、自分の力で善い業をどれだけできるか、 ということを追い求めるようになっていくのです。そうなると私たちは次第に疲れていきます。自分の力で全てを しなければならないからです。そして疲れてくると、人を批判したり攻撃するようになります。自分は一生懸命善いこ とをしているのに、あの人は協力しない、この人は理解しない、という苛立ちに満たされていってしまうのです。どんなに 善い業も、苛立ちの中でなされたのでは、本当に良い実りを生むことはないでしょう。
 私たちの歩みが本当に良い実りを生んでいくものとなるのは、主イエス・キリストにおいて神様が成し遂げて下さ った救いに感謝して、その大きな恵みに少しでも応えて生きようとする所でこそです。つまり私たちの生活全体が、 福音の中に置かれることによってです。私たちの歩みを支えているのは、あの「最も大切なこと」、主イエス・キ リストの十字架と復活の恵みなのです。それに支えられているなら、私たちは、疲れて投げ出してしまうことなく、 また苛立って人を批判したり攻撃することもなく、どんなときにも希望を失わずに善い業に励み、自分にできることを できる限りして、主と教会に仕えていくことができるのです。

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