夕礼拝

神の顔を見る

「神の顔を見る」  牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書; 創世記 第33章1-20節
・ 新約聖書; ヨハネによる福音書 第14章1-14節
・ 讃美歌 ; 297、130
 

故郷への帰還と兄との再会
 この夕礼拝でご一緒に読みますのは、旧約聖書、創世記第33章です。その冒頭の1節に、「ヤコブが目を上げると、エサウが四百人の者を引き連れて来るのが見えた」とあります。ここから、この33章はその前の32章からの続きであることが分かります。ヤコブが、四百人の者を引き連れてやって来るエサウを見た、というのはどういう状況なのでしょうか。このヤコブとエサウは双子の兄弟です。エサウが兄、ヤコブが弟です。しかしヤコブは、これまで読んできた27章以降の物語において、父イサクの長男としての特権をエサウから奪い取り、そして父がエサウに与えようとしていた祝福を騙し取ってしまったのです。この祝福は、イサクの父アブラハムに主なる神様が与えて下さった神様の祝福であり、アブラハムの子孫が神様の祝福を担う民となり、地上の全ての人々にその祝福が及んでいくために彼らが用いられていくことを約束しているものでした。この祝福を兄エサウから奪い取ってしまったために、エサウはヤコブを憎み、殺意を抱くようになったのです。そのためにヤコブは故郷を逃げ出さなければなりませんでした。遠い、ユーフラテス川上流のハランに、母の兄弟を頼って亡命したのです。それから20年の時が経ち、沢山の家族と多くの家畜の群れを持つようになったヤコブは、兄エサウの住む故郷に、今帰ってきたのです。そしていよいよ兄と、20年ぶりに再会する、その場面が本日の第33章です。
 先ほど読んだ1節に、エサウが四百人の者を引き連れて来るのを見たとあるのは、32章7節で、ヤコブがいよいよ故郷に足を踏み入れようとするに際して、兄のもとへ使いの者を遣わした、その使いの者が帰って来てもたらした知らせと符合します。32章7節にこうありました。「使いの者はヤコブのところに帰って来て、「兄上のエサウさまのところへ行って参りました。兄上様の方でも、あなたを迎えるため、四百人のお供を連れてこちらへおいでになる途中でございます」と報告した」。ヤコブが帰って来たことを聞いて、エサウは四百人の供の者を引き連れてこちらへ向かって来るのです。これは何を意味するのでしょうか。ヤコブを歓迎しに来るのでしょうか。過去のいきさつからいって、そうではあり得ないでしょう。これはむしろ、四百人の手勢を引き連れてヤコブを迎え撃ちに来る、と考えるのが自然です。ですから次の8節にあったように、「ヤコブは非常に恐れ、思い悩んだ」のです。しかし兄エサウとの再会は、彼が故郷の地に帰るためには避けて通ることのできないことです。何故そんな危険を侵しても故郷に帰らなければならないのか、それについては先月、32章を読んだ時に申しましたが、主なる神様がヤコブに告げて下さった祝福の約束には、彼が生まれ育った故郷の地、アブラハム、イサクが生きたその地を与える、ということが語られていたからです。ですから神様の祝福にあずかるためには、その地に戻らなければならないのです。亡命先の外国でどんなに豊かになり、安楽な生活が出来ても、それでは、父をも騙し、兄に憎まれても得た神様の祝福が無駄になってしまうのです。どのような運命が待ち受けていようとも、ヤコブは故郷に帰らなければならないのです。

ヤコブの恐れと覚悟
 このような悲壮な思いで、ヤコブは32章でヤボクの渡しを渡りました。そしていよいよ四百人を引き連れて来るエサウと対面したのです。その対面に際して彼は、家族を三つのグループに分けて配置しました。1節後半から2節にそのことが語られています。彼にはレアとラケルという二人の妻がいました。この二人は姉妹です。また、レアの召し使いだったジルパと、ラケルの召し使いだったビルハの二人も、ヤコブの側女となりました。これら四人の女性たちから、十一人の息子が生まれたのです。ヤコブはその家族を三つのグループに分けました。第一のグループはジルパとビルハ、そして彼女らが生んだ子供たちです。第二はレアとその子供たちです。第三はラケルと、彼女が生んだただ一人の子ヨセフです。そして第一のグループを一番前に、第二をその後に、第三を最後に配置したのです。ここには明らかに、ヤコブの心における家族の中の序列が現れています。ヤコブが最も愛したのはラケルでした。ラケルを妻にしたかったがために、彼はレアとも結婚したのです。また二人の側女は、二人の妻たちが子供を得ようと競ってそれぞれ自分の召し使いを夫に与えたのです。そのあたりの事情は29章と30章に語られています。そのようにして彼は二人の妻と二人の側女、十一人の子供を得たわけですが、兄エサウとの対面を前にして彼は、最も愛するラケルとヨセフを最後に置いたのです。もしもエサウとその手勢四百人が襲いかかって来ても、他の家族が犠牲になっている間に、ラケルとヨセフだけは生き延びることができるように、ということです。随分ひどい話だとも思いますが、しかしそこに人間の赤裸々な現実が表されていると言えますし、何よりも、ヤコブがエサウとの対面において起るかもしれない最悪の事態を覚悟していたことが伺えます。ただヤコブはこのことによって、家族を犠牲にして自分が生き延びようとしていたのではありません。このように家族を三つのグループに分けて配置した後、3節にあるように、彼は先頭に進み出て、真っ先に兄エサウと対面したのです。そういう意味で彼は決して卑怯者ではなかったと言えます。エサウと対面し、その怒りを真っ先に受けなければならないのは自分なのであって、自分が犠牲になっている間に最愛の家族が逃げ延びることができるように、というのが彼の思いだったのです。
 ヤコブはこのように深い恐れと覚悟とをもって兄エサウとの再会に臨みました。そこで彼が兄に対してとった態度は、兄の僕として、徹底的に従順を示すことでした。3節に、「兄のもとに着くまでに七度地にひれ伏した」とあることがそれを語っています。これは家来が王様に対してすることです。つまりヤコブは決して兄と一戦を交えようとは考えていません。ひたすら下手に出て、兄の赦しを得たいと願っているのです。そのために彼は出来る限りの手を既に打ってきました。32章14節以下に、彼が前もって兄に多くの家畜の贈り物をしたことが語られていました。彼はその贈り物を三つの群れに分けて、四百人の供を連れてこちらへ向かっている兄のもとに順々に届けさせ、その都度、「これは、あなたさまの僕ヤコブのもので、御主人のエサウさまに差し上げる贈り物でございます。ヤコブも後から参ります」と言わせたのです。贈り物の波状攻勢をかけたということです。そのようにして何とか兄の心をなだめ、平和に迎えてもらえるようにしたいとの願いです。しかしそのように周到な準備をしてもなお、彼の心は不安と恐れに満たされていたのです。

和解
 このようにヤコブは、恐れと、そして決死の覚悟をもって兄の前にひれ伏しました。するとエサウは、4節にあるように、「エサウは走って来てヤコブを迎え、抱き締め、首を抱えて口づけし、共に泣いた」のです。恐れていた襲撃は起りませんでした。エサウはヤコブを歓迎し、20年ぶりの兄弟の再会を喜んだのです。8節以下には、ヤコブが贈った家畜の群れについてのやりとりがあります。エサウは、「わたしのところには何でも十分ある。お前のものはお前が持っていなさい」と言います。それに対してヤコブは強いてその贈り物を受け取ってくれるように願い、エサウはそれを受け取ります。この贈り物をエサウが受け取ったということは、エサウとヤコブの間に平和な関係が回復したことの現れです。こうしてヤコブは無事に兄エサウと再会し、故郷の地への帰還を果たすことができたのです。
 私たちはこれを読むと不思議に思います。何故エサウはヤコブを迎え入れたのだろうか、長男としての権利を奪われ、父の祝福をも奪われたあのひどい仕打ちへの怒り、恨みはどこへ消えてしまったのだろうか、と思うのです。しかしエサウの気持ちを推測してみてもあまり意味はありません。人間の気持ちというのはいろいろに移り変わっていくものですし、エサウという人はもともと、単純で直情径行的なところがあります。いつまでも昔の恨みを根に持っているような人ではない、ということも言えるでしょう。あるいは、エサウにとっては、長男としての権利や祝福などはあまり意味のないものだったのかもしれません。彼は9節で、「わたしのところには何でも十分ある」と言っています。つまり、経済的に満たされ、豊かな生活ができているのです。そうなっていれば、神様の祝福など必要がない、そんなものはヤコブにくれてやる、ぐらいに思っていたのかもしれません。エサウが何を考えていたのかははっきりしませんが、とにかく、ヤコブとエサウの和解は、あっけないくらい簡単に、何も問題なく実現したのです。

神の顔を見る
 私たちがこの話において見つめるべきことはむしろ、ヤコブがここで何を体験したのか、ということです。彼は先ほど見てきたように、この再会を深く恐れ、最悪の事態をも覚悟していました。アブラハム、イサクの跡を継ぐ者となり、神様の祝福を受け継ぐことに強くこだわり、父と兄を欺いてまでそれを得ようとしたヤコブは、それを奪われたエサウが、自分に対して決して消えない深い怒りと憎しみを抱いているに違いないと思っていたのです。だから再会において、自分も家族も皆殺しにされてしまうことさえあり得ると警戒していたのです。しかしその恐れはあっけない程に外れ、エサウとの和解が簡単に成立してしまったのです。ヤコブはこのことをどのように受け止めたのでしょうか。
 そのことを示しているのが、10節の彼の言葉です。ヤコブは自分の贈り物を受け取ってくれるようにエサウに願ってこう言っています。「いいえ。もし御好意をいただけるのであれば、どうぞ贈り物をお受け取りください。兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます。このわたしを温かく迎えてくださったのですから」。「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます」。私たちの感覚では、この言葉は、歯の浮くようなお世辞と感じられます。「あなたのお顔は神様の御顔のようだ」なんて、それは言い過ぎだろう、こんな言い方は、神様のみ名をみだりに唱える罪ではないか、と私たちは思うのではないでしょうか。けれどもこれは、ヤコブがエサウにお世辞を言ってそれで赦してもらおうとしているのではありません。エサウが自分を兄弟として迎えてくれた、その驚きと喜びの中で彼はこう言っているのです。彼は自分を迎え入れてくれた兄エサウの顔に、主なる神様の顔を見たのです。そのことの意味は、前回読んだ32章とのつながりの中で見えてくるのです。

祝福のみ顔
 32章でヤコブは、エサウとの再会への深い恐れを抱きつつ、ヤボクの渡しを渡りました。32章23節以下には、その夜、ヤコブが何者かと一晩中格闘したことが語られていました。その何者かは神様ご自身だったのです。ヤコブは神様と格闘しつつ、27節にあるように、「祝福してくださるまでは離しません」と言って祝福を求めたのです。つまりこの格闘は、神様の祝福を求めての格闘でした。そして夜明けに彼はついに、その祝福を与えられたのです。この話は、ヤボク川を渡り、いよいよ兄エサウと対面しようとしているヤコブの不安と恐れとを背景としていると言えるでしょう。前回も申しましたが、人生には、不安や恐れ、あるいは悲しみを抱きつつ、しかしどうしても渡らなければならない川があります。そこを渡っていく時、私たちは不安や恐れや悲しみと格闘しなければなりません。しかし神様を信じる者においては、その格闘は、ただ不安や恐れや悲しみを克服するための格闘ではないのです。むしろそこで私たちは、神様の祝福を求めて、神様ご自身と格闘することになるのです。ヤコブも、最初は、自分を川にひきずり込もうとする得体の知れない魔物と戦っているように感じていたのでしょう。しかしその格闘の中で彼は、今自分が格闘している相手は神様ご自身なのだ、ということに気付かされたのです。そして神様の祝福を必死に求めていったのです。自分が格闘している相手が、得体の知れない魔物ではなくて、神様ご自身であり、この格闘は神様の祝福を求めての格闘なのだ、という気付きを与えられること。それこそ、神様を信じる者にのみ与えられる恵みです。その気付きの中で私たちは、不安や恐れや悲しみの中でも、希望を与えられるのです。そしてこの格闘を通して神様は必ず祝福を与えて下さるのです。ヤコブは神様と格闘して勝った、とここに語られていますけれども、人間が神様と喧嘩して勝てるはずはありません。これは、神様の方が、わざと負けて下さったのです。必死に祝福を求めるヤコブにわざと負けて、祝福を与えて下さったのです。ヤコブもそのことを知っていました。だから彼は21節で、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言ったのです。神様を、顔と顔とを合わせて見ることなど、罪ある人間にはできません、そんなことをしたら死ぬしかないのです。それなのにこうして生きている、それはただ神様の憐れみによることです。神様が自分を赦し、祝福を与えて下さったのです。つまりヤコブは、このヤボクの渡しにおいて、自分を祝福して下さる神様のみ顔を見ることができたのです。この場所は、ペヌエル(神の顔)と名付けられました。それは、ヤコブが神様の祝福のみ顔を見た場所、という意味なのです。

神の祝福による和解
 最初に申しましたように、本日の33章はこの32章とつながっています。32章で神様の祝福のみ顔を見ることを赦されたたヤコブが、そのみ顔に押し出されるようにして、エサウと対面したのです。そこには、恐れていた怒りや憎しみによる戦いではなく、和解が、兄弟としての交わりの回復が与えられました。ヤコブはそれを、何よりも神様の祝福によることと受け止めたでしょう。何故エサウはヤコブを歓迎したのか、その理由はエサウの心の中に求められるべきなのではなくて、むしろ神様の祝福にこそあるのです。ヤコブが、「兄上のお顔は、わたしには神の御顔のように見えます」と言ったのはそのためです。彼は、ヤボクの渡しにおいて示された神様の祝福のみ顔を、兄エサウの顔の中にも見ることができたのです。ですからこれは決して、歯の浮くようなお世辞ではありません。兄の機嫌を取るために神様のみ名をみだりに用いているのでもありません。彼は兄との再会を恐れていました。兄の心には自分に対する怒りと憎しみがなお渦巻いていると思っていました。それゆえに兄の顔を見ることは恐怖だったのです。その思いが32章21節に現されています。エサウへの贈り物を三組に分けて送った時のヤコブの思いです。「ヤコブは、贈り物を先に行かせて兄をなだめ、その後で顔を合わせれば、おそらく快く迎えてくれるだろうと思ったのである」。ここの原文には、実は「顔」という言葉が四度出てきます。それを生かして訳すとこうなります。「ヤコブは、自分の顔の前に贈り物を行かせることによって兄の顔をなだめ、それから彼の顔を見れば、おそらく自分の顔を受け入れてくれるだろうと思ったのである」。このように、どのようにして兄と顔を合わせるか、兄の顔をどうやって見るか、がヤコブの不安、恐れだったのです。その不安と恐れの中で彼はヤボクの渡しを渡り、そこで神様ご自身と格闘し、神様の祝福のみ顔を見ることができました。その神様の祝福のみ顔を、兄と顔を合わせた時にも、兄の顔の中にも見ることができたのです。それは勿論偶然ではありません。神様が祝福のみ顔を向けて下さることによって、私たちは、自分と敵対関係にある、憎しみと怒りが渦巻いている相手の顔の中にも、神様の祝福のみ顔を見出していくことができるのです。人間どうしの関係における和解はそのようにして与えられていくのです。ヤコブはそのことをここで体験したのです。
 私たちはしばしば、人間関係における破れに苦しみます。和解を得たいと願っても、それがなかなか得られないことを嘆きます。そのような苦しみの中で私たちが本当にしなければならないことは、神様の祝福をこそ必死に求めていくことなのです。神様が祝福のみ顔を自分に向けて下さることを願い求めて、「祝福してくださるまでは離しません」という気迫を持って、神様ご自身と格闘していくことなのです。神様を信じる者にはそのことが許されているのです。神様はそのような私たちの願いに応えて、祝福のみ顔を向けて下さいます。勿論それはそんなに簡単に右から左へというわけにはいきません。神様の祝福のみ顔を見ることは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」という驚くべき体験なのです。またヤコブはこの神様との格闘において腿の関節を打たれて足を引きずるようになりました。神様の祝福のみ顔を見るというのは、決して楽な、簡単なことではありません。しかし神様が祝福のみ顔を向けて下さるならば、人間の思いにおいては到底得られないと思っていた和解が得られるのです。どのような贈り物をしても相手の心を変えることはできないと思われる状態の中で、しかし神様が人の心を変えて下さり、和解が、敵対関係の解消が与えられるということがあるのです。
わたしを見た者は、父を見たのだ
 神様の祝福のみ顔は、主イエス・キリストにおいて今私たちに向けられています。本日読まれた新約聖書の箇所、ヨハネによる福音書第14章の9節で主イエスは、「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言われました。7節にも、「あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる」とあります。神様の独り子イエス・キリストは、私たちに父なる神様を知らせるために、父なる神様の祝福のみ顔を見せて下さるために、この世に来て下さったのです。ヤコブは、神様の祝福のみ顔を見るために、腿の関節を痛め、足をひきずるようになりました。しかし私たちにはそんな必要はありません。主イエス・キリストご自身が、私たちに神様の祝福のみ顔を見せて下さるために、十字架にかかり、苦しみと死とを、私たちの代わりに引き受けて下さったのです。この主イエスの十字架の死と復活とにおいて、神様は今、私たちに祝福のみ顔を向けて下さっています。主イエス・キリストこそ、私たちが神様の祝福のみ顔に出会うための道であり、その祝福の真理であり、そこで与えられる命なのです。神様は私たちが祝福のみ顔を見るために、主イエスという道を与えて下さいました。この道を通らなければだれも父のもとに行くことはできない、つまり神様の祝福のみ顔と出会うことはできないのです。私たちは、主イエス・キリストという道を通って、即ち主イエスを信じ礼拝する者となることによって、主なる神様の祝福のみ顔を仰ぐ者となることを、切に求めていきたいのです。

約束の地に留まる
 33章の後半には、ヤコブがエサウの申し出を丁寧に断り、結局エサウとは別々に歩むことにした、ということが語られています。エサウが住んでいたのは、16節にあるようにセイルです。それは別の言い方ではエドムと呼ばれる地で、死海の南です。しかしヤコブは、ペヌエルから西に向かい、スコトへ、さらにヨルダン川を渡ってシケムへと行ったのです。このようにヤコブがエサウとは別の道を行くことを選んだのは、エサウのことを本当には信頼しておらず、自分に対する怒りと憎しみがいつ再燃するか分からないと思っていたからだとも言われます。そういうことも確かにあるでしょう。しかし一番の理由は、神様がこの地を彼と子孫とに与えると約束して下さった、その神様の祝福の約束のもとに留まるためです。彼は兄から神様の祝福を奪い取りましたが、実は彼らが生まれる前から、神様はヤコブを選び、祝福を受け継ぐ者として下さっていたのです。そして故郷から逃げていく彼に現れて、この約束を与えて下さったのです。ヤコブはこの神様の祝福の約束のもとに戻り、そこにあくまでも留まろうとしているのです。本日の箇所の最後のところには、彼がシケムである土地を買い取り、そこに祭壇を立てたことが語られています。それは主なる神様を礼拝するための祭壇です。ヤコブは、神様が祝福によって約束して下さった地に留まり、そこで礼拝をささげつつ生きたのです。私たちが、神様の祝福のみ顔を求めて留まり続け、祈り続ける場も礼拝です。主の日の礼拝で、主イエス・キリストのみ顔を仰ぎ、そこに神様の祝福のみ顔を見つめながら、そしてそのみ顔を、共に生きる人々の顔の中にも見ることを願い求めながら、私たちは歩んでいくのです。

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