「最後まで耐え忍ぶ」 伝道師 嶋田恵悟
・ 旧約聖書; ダニエル書第12章1-13節
・ 新約聖書; マルコによる福音書第13章1-13節
・ 讃美歌 ; 506、469
はじめに
主の年2008年を迎えました。今年も、共に御言葉に聞きつつ、信仰生活を続けて行きたいと思います。年の初めの主の日、 私たちは、マルコによる福音書第13章の御言葉が与えられました。本日お読みした箇所の最後13節には、「最後まで耐え 忍ぶ者は救われる」とあります。キリスト者の歩みとはどのようなものかについて、様々な表現が出来ると思います。今日与 えられた御言葉に従うならば、信仰生活は「最後まで耐え忍ぶ」歩みであると言うことが出来るでしょう。「最後」というのは、 主なる神の救いの御支配が完成する時です。終わりの時、終末とも言われます。聖書は、はっきりとこの世の最初、創造と、 この世の終わり、終末を語ります。つまり、聖書の世界観は、すべてのことが繰り返されて行く円環的なものではなく、 創造から終末に向かって進んで行く直線的なものなのです。ですから、信仰者は、この世の終わり、救いの完成を待ち望み つつ歩むのです。
マルコによる福音書の第13章は小黙示録と言われている箇所ですが、ここにも終わりの出来事が記されています。主イエスが終末のことについて語っているのです。この13章が終わると、いよいよ、主イエスが十字架につけられることになります。主イエスは、終わりの日の救いの完成がどのようなものなのかを告げて、ご自身の教えを締めくくっていると言って良いでしょう。この終わりのことは、それだけ大切なことなのです。しかし、それは私たちに約束として示されているものの、どのようなものなのかは具体的に語られているわけではありません。様々な誤解が生まれたり、人間の自分勝手な解釈がされやすいのも、この終わりについてであると言って良いかもしれません。私たちは、終わりの日の約束について、聖書が語る内容を真摯に受けとめ、そこにはっきりと示されている信仰者の歩みを自らのものとしつつ、新しい年の歩みを始めたいと思います。 神殿の崩壊 13章の1節、2節には、エルサレム神殿を巡る主イエスと弟子のやり取りが記されています。弟子の一人が神殿を見て主 イエスに問いかけたのです。「先生、御覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」。主イエスの一行 はエルサレムに入ってから、日々、神殿の境内で教えていました。そのような中、弟子の一人が、神殿の荘厳さに目を奪われ 驚嘆したのです。この時のエルサレム神殿は、ヘロデ王の大規模な改築によって、広い境内と大理石の本殿をもつ荘厳な建物 でした。全国各地から、巡礼にやって来ていた人々は、エルサレムの神殿のあまりの大きさに圧倒されて、「これこそ、私たち の神の家だ」という思いになったことでしょう。主イエスの弟子たちも例外ではなかったのです。ここでは一人の弟子が語って いますが、他の弟子たちも同じ思いであったはずです。しかし、主イエスは、その弟子に対して、次のようにお語りになります。 「これらの大きな建物を見ているのか。一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」。一つの石も他の石の上に 残らない、つまり跡形もなく、崩れるのだと仰ったのです。
ここで、弟子たちが驚嘆しているエルサレム神殿は、ローマ帝国の手によって、紀元70年には徹底的に崩壊させられるこ とになります。確かに主イエスのお語りになった通りに神殿は崩されたのです。しかし、主イエスはこの時、ただ単に、紀元7 0年に起こることになる神殿の崩壊をあらかじめ知らせたかったのではありません。未来のことを見通せる力を持った先見者と して、まもなく起こることを予言したというのではないのです。主イエスは先ず「これら大きな建物を見ているのか」と仰って いるように、建物に目を向ける弟子の態度を問題にしているのです。神殿の崩壊を語ることによって、主イエスは、もっと根本 的なことを問いかけておられるのです。
神殿の偶像化
この時、弟子たちを含め、イスラエルの民は、神殿を一つの偶像にしていたと言って良いでしょう。目を見張るような神殿が建て られている事実をもって、ここに神がいると考えていたのです。壮麗な神殿があることが事実、神が自分たちと共にいて下さる確か なしるし、保証となっていたのです。そして神に目を向けるのではなく大きな建物に目を向けていたのです。
なぜイスラエルの民は、立派な神殿を建てたのでしょうか。そこには、神に最高のものを捧げようという熱心な信仰の思いがあった ことは言うまでもありません。しかし、そのような信心深さが神殿という建築物となる中で、いつしか、それ自体が偶像になってしま ったのです。ここに、私たち人間の宗教心が生み出す偶像礼拝があると言っても良いでしょう。もちろん、神様を礼拝しようと言う熱心 さや捧げる思いは大切です。私たちはどのような時にも、あらん限りの熱心さをもって礼拝し、自らがなし得る最善のものを捧げるべきです。 しかし、そのことが人間の業の結晶として形となる時、いつしかそれが偶像になってしまうことがあるのです。ここに神が住まわれている、 ここに神がおられるということを人間が思い込む時に、偶像が生まれるのです。偶像となるのは神殿だけではありません。自分の持っている ものや、自分の行いを根拠にして、神が共にいて下さることのしるしとするのであれば、神殿ではなくても、偶像礼拝と同じことが行われて いるのです。熱心な奉仕、讃美、献身、礼拝生活、その他にも、もろもろの私たち人間の宗教的な儀礼が、それによって、神が共にいること のしるしとなり得るのです。そこでは、神の居場所を人間が決めて、人間が好き勝手に神を所有するということが起こります。お守りを持つ ことによって様々な御利益が約束されると言った感覚で、神殿がある限り、神は私たちと共にいると思うようになったのです。そこでは、 真の神にではなく、大きな建物に目を向けているのです。主イエスは、弟子の神殿を見る眼差しの中に、そのような思いがあることを見抜いて、 それは崩れるものだとお語りになったのです。私たち人間の偶像、神殿は、永遠のものではない、それ故、必ず崩れるものなのです。
終わりの徴
偶像を拝み、しがみつく人間にとって、それが崩されるというのは、何よりも恐れるべきことです。この弟子とのやり取りを受けて、 3節以下で、弟子のペトロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかに主イエスに尋ねます。「おっしゃってください。そのことはいつ起 こるのですか。また、そのことがすべて実現するときには、どんな徴があるのですか」。神殿の崩壊についての話題の後に、弟子たちは世 の終わりのことについて尋ねました。弟子たちが語る「そのこと」と言うのは、「神殿の崩壊」のことであると共に、世の終わりの終末の ことです。弟子たちは、神殿の崩壊と世の終わりを結びつけたのです。これだけ大きく荘厳な神殿、神が住みたもう家が崩壊するという のであれば、それこそ、その時は世の終わりであるにちがいないという思いをもったのです。大災害や世界大戦のようなものが起こること によって破滅が訪れて、世界は終わるというイメージをもつということは私たちにもあることです。弟子たちは、今、目の前にそびえ立つ、 立派な神殿が崩壊するということを聞き、そのような世の終わりがいつ来るのかを知ろうとしたのです。
私たちは、誰であっても将来に対する不安があります。そのような中で、将来どうなるのかを知りたいという思いが沸いてくるのです。 神殿が崩壊するような、世の終わりとしか言いようのない事態が生じると言われれば、それこそ、その時はいつなのかを知りたいと思うで しょう。もし、その時が間近に迫っているのであれば、それに備えた歩みをしようとします。やっておくべき事をやろうという思いになる でしょう。反対に、その時がはるか先のことであれば、そのような備えは必要ないという思いになります。弟子たちは、「ひそかに」聞いた とあるように、世の終わりの兆候を自分たちだけこっそりと聞きだそうとしたのです。終わりの時とは、どういう時かを自分の知れる範囲で 考え、その時がいつかを知ることによって自らの力で対処しようとしたのです。神殿を神が共にいて下さることのしるしとして、神を自分 たちが所有できるもののようにして扱おうとした弟子たちは、終わりの時をも、そのしるしを知ることによって、自分たちの知りうること として捉えようとしたのです。しかし、この終わり、救いの完成は、神の御業であり、私たちに知らされることではないのです。ですから、 私たちはただひたすら祈りつつその時を待ち望む生活をするのです。
「終末のしるし」
終末のしるし、終末の時を聞き出そうとした弟子たちに主イエスは話し始められます。「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう」。多くの偽預言者が登場するというのです。 さらに続けて、主イエスは、私たちが世の終わりであると思いがちな事態をお語りになっています。「戦争の騒ぎや戦争のうわさを聞いても、 慌ててはいけない。そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない。民は民に、国は国に敵対して立ち上がり、方々に 地震があり、飢饉が起こる」。更に、12節では次のように言われています。「兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して 殺すだろう」。ここで語られていることは、誰しも目を覆いたくなるような事態です。しかし、一方で、ここで語られていることは、私たちが 今、現在、直面していることであると言ってよいのではないでしょうか。世界を見渡せば戦争や内紛があります。テロの恐怖も増しています。 まさに、国、民の間に争いがあるのです。さらに、「地震」「飢饉」と言われている自然災害も、私たちに身近なことです。昨年は特に、 天災に見舞われた年であったと言って良いでしょう。日本においてもいくつかの大きな地震が起こりました。世界では、サイクロンや山火事、 異常気象等、年々深刻になる環境破壊による災害が生じています。人間の、とどまることを知らない豊かさの追求が、際限なく石油を燃やし、 畑にするための土地を求めて熱帯雨林を焼き払うことによって、膨大な二酸化炭素が放出されて、温暖化が進んでいるのです。人間の身勝手 な行いは、地球に壊滅的なダメージを与えていて、この地球は、後どれだけ私たちが住むことが出来る場所として保たれるかということす ら心配される状況です。又、兄弟、親子の間の殺人事件も、たびたび報道されました。現代人の精神的荒廃を思わずにはいられないのです。 つまり、ここで主イエスがお語りになっていることは、これから将来にわたって起こるであろうことと言うよりも、将来においてはもちろん のこと、これまでの人間の歴史において、そして、今私たちが生きている現在において起こっていることなのです。主イエスが2千年前 に預言したことが今起こっていると考えることも間違いです。主イエスは、私たちがどのような時代を生きるかに関わらずに直面する世 の現実をお語りになっているのです。主イエスは、私たちが直面する時に、世の終わりと思ってしまうような事態をお語りになった上で、 「そういうことは起こるに決まっているが、まだ世の終わりではない」と仰るのです。
「わたしの名を名乗る者」とありますが、実際に主イエス・キリストという名を語るかどうかは問題ではありません。人に過ぎない者 が神のようにして、終わりのことを語り出す。誰かよその人が預言を始めるというだけではありません。自ら、世の終わりを心に思い、 勝手に想像し、それに惑わされるということもあるのです。
自分のことに気をつけていなさい
そのような事態に直面する時に、私たちが耳を傾けなくてはならないことは、9節以下に記されている御言葉です。「あなたがたは自分 のことに気をつけていなさい」とあります。様々な噂があり、預言者まがいの者が現れるのです。しかし、そこで、それらに惑わされる のではなく自分のことに気をつけろと言うのです。何に気をつけるのでしょうか。それは、自分がしっかりと、主なる神の救いの希望に 生かされているか、主なる神の恵みを見失うことなく歩んでいるかということです。
もちろん、「自分のことに気をつけていなさい」というのは、自分と神様のことだけに関心を持ち、世において平和を作り出すことや、 地球環境の破壊を食い止めること、平安な社会を作りだすことに関心を向ける必要はないということではありません。そういうことに無関心 であってはならないのは言うまでもないことです。しかし、世に起こる事態に対して、闇雲に恐れ、神の救いの御業を見失うことがあっては ならないのです。この世を支配する神の救いの御業に目を向けることなく、世で起こるあれこれの事態に対応しようとする時、人間はしばしば、 絶望的になったり、自暴自棄になったりするのです。根本的に神様の救いのご計画が世を支配しているとの信仰の内に、それらの世の事態に 関心を持ち、平和を求めて行くことこそ大切なのです。
神の言葉に立って歩む
主の恵みに生かされて、人の言葉に惑わされることなく、救いの御業を信じつつ歩んでいるのであれば、そこでは自ずと、この世の現実の前で なすべき事が示されます。その事が9節の後半に記されています。「あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたし のために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる」。ここに記されていることの背景にはキリスト者が迫害されている状態があります。 しかし、主イエスは、単純に迫害に合うことを予告したいのではありません。続く箇所に、「しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられなけ ればならない」とあるように、要するに、福音を語るということを言いたいのです。福音を語るというのは、世に人の言葉が蔓延する中で神の言葉 を語ることに他なりません。そこでは緊張が生じます。それが、迫害の時代であれば、実際にここに書かれているように、引き渡され、打ちたたか れることも起こるかもしれません。しかし、迫害の時代であれ、迫害の無い時代であれ、御言葉に立った歩みをするようにと言われているのです。
この歩みは、人間の業ではありません。11節には、次のようにあります。「引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をして はならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は話すのはあなたがたではなく聖霊なのだ」。聖霊の働き、十字架で死に復活され、今 も私たちと共にいて下さる主イエス・キリストの霊の働きの中で語るのです。私たちが自分の業として、福音を伝えようとするのであれば、それは、 御言葉を語っているつもりでも、実際は、「わたしがそれだ」と言って人々を惑わす偽預言者と同じように、自分の言葉を語ることになってしまう でしょう。聖霊の働きを祈り求めつつ、自らを通して生ける主が働いて下さるように祈り求めなくてはならないのです。その祈りの中で、私たちを 通して、生ける主が働いて、御言葉が伝えられていくのです。
最後まで耐え忍ぶ
このように祈りつつ、御言葉に立って歩む歩みを続けることこそ、私たちの信仰生活なのです。それ故、信仰者の歩みとは、終わりの日をいたずら に恐れて、その時を予想して歩むことではありません。又、何時の時代にも現れる預言者や占い師のような人々が語る、これから先に起こるであろう ことに心奪われ、それらに惑わされて歩むことでもありません。更には、この世の現実に絶望して諦め、世捨て人のように、殻にこもった独りよがり の信仰に歩むことでもありません。世の終わりと思えるような現実の中で、ただひたすら祈りつつ、御言葉に立つのです。主イエスがお語りになり、 十字架と復活によって示して下さった救い約束の御言葉に立つ中で、この世において、聖霊の働きに身を委ねつつ、真の平和を作り出す歩みをしてい くのです。それは私たちにとって、忍耐を強いるものです。神の言葉より人の言葉に聞くことが多く、真の御言葉に聞くよりも、様々なものを偶像と し、それを拝むことによって安心しようとするのが私たち人間だからです。そのような私たちに主イエスが、「しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる」 と語って下さっているのです。この御言葉に促されて、常に、神がなして下さる救いを見失わずに、この世で真の救いの御支配を待ちつつ歩むのです。 新しい年も、そのような、最後まで耐え忍ぶ歩みを続けて行きたいと思います。