夕礼拝

主の宝の民

「主の宝の民」 牧師 藤掛順一

・ 旧約聖書:申命記第7章1-26節
・ 新約聖書:ペトロの手紙一第2章1-10節
・ 讃美歌:227、517

侵略を命じる神?
本は、旧約聖書申命記第7章からみ言葉に聞きたいと思います。申 命記は、エジプトの奴隷状態からモーセに率いられて脱出し、四十年 の荒れ野の旅を経て、いよいよ約束の地カナンに入ろうとしているイ スラエルの民に、モーセが神のみ心、掟をもう一度語り聞かせている という設定で書かれています。モーセ自身は約束の地に入ることはで きず、まもなく死ぬのです。つまり申命記はモーセの遺言であると言 うことができます。
本日読む第7章には、イスラエルの民がこれらから約束の地カナン に入り、そこに住み着こうとする時にしなければならないことが語ら れています。彼らがこれから入って行こうとしているカナンの地には 既に多くの民が、1節によれば七つの民が住んでいるのです。その七 つの民を追い払い、滅ぼし尽くさねばならない、と神は語っておられ ます。つまりイスラエルの民は先住民たちからカナンの地を奪い取る のです。このことは私たちが旧約聖書を読んでいく時に最もつまずき を感じ、疑問に思うことです。他の民族が住んでいる土地に入って行 ってその人々を追い出し滅ぼして自分たちのものにするというのは、 要するに侵略です。それを神が命じるなんて、そんなことがあってよ いのか、と思うのです。今日泥沼化しているパレスチナ問題の根本的 原因はこういう所にあるのではないか、と思ったりもします。つまり お互いの民族がお互いの神の名によってこの土地は自分たちのものだ と主張し合っているわけです。

カナンの地を与えて下さる主
この箇所が、今日の目から見てそのようなつまずきを与えることは 否定しようもありません。ただ私たちは、この箇所が語ろうとしてい ることを冷静に正確に読み取らなければなりません。つまりこの箇所 は、イスラエルの民が、自分たちの欲望によってカナンの地を侵略し 、そこに先に住んでいる人々を追い出し滅ぼすことを、イスラエルの 神の名によって正当化し、弁護しようとしているのではないのです。 モーセは、イスラエルの民がカナンの地を侵略し、七つの民を追い出 し滅ぼすことを主なる神が許可したと主張しているのではありません 。1節から2節を注意深く読むと、「あなたの神、主が」カナンの地 にあなたを導き入れ、七つの民を追い払い、あなたの意のままにあし らわ「させる」となっています。つまり「導き入れ」も「追い払い」 も「意のままにあしらわさせる」も、主語は主なる神なのであり、主 がなさることなのです。ですからこの箇所が見つめており語ろうとし ていることの中心は、主なる神がイスラエルの民に約束の地カナンを 与えて下さる、という神の恵みなのです。

聖なる民、宝の民としての選びの恵み
そして主がイスラエルの民にこのような恵みをお与えになる理由が 、6節に語られています。「あなたは、あなたの神、主の聖なる民で ある。あなたの神、主は地の面にいるすべての民の中からあなたを選 び、御自分の宝の民とされた」とあります。モーセはここでイスラエ ルの人々に、あなたがたは主なる神の聖なる民、宝の民とされている のだ、と告げているのです。「聖なる民」というのは、清く正しい民 ということではなくて、神のものとされている民、ということです。 聖書においては、神がご自分のものとされたものこそが「聖なるもの 」なのです。だから、「あなたがたは主の聖なる民である」というの は、あなたがたは主なる神のものである民とされているのだ、という ことです。また「宝の民」というのは、あなたがたは主なる神にとっ て宝物のように尊い大切な存在なのだ、主はあなたがたを特別に愛し 、大切に思って下さっているのだ、ということです。その愛によって 主はイスラエルの民にカナンの地を与えて下さるのだし、他のどの民 よりもイスラエルの民を大切に思って下さっているがゆえに、そこに 住んでいる七つの民を追い払うことができるようにして下さるのです 。そのように主なる神がイスラエルを他の民とは違って特別に愛して 下さっている、あなたがたは主にとって特別な、かけがえのない宝物 なのだ、ということを言い表しているのが、「主は地の面にいるすべ ての民の中からあなたを選び」という言葉です。主は地上の全ての民 の中からあなたを選んだ、あなたは主に選ばれた者なのだ、このこと をモーセは遺言としてイスラエルの民に語り聞かせているのです。こ こに語られていることが今日の感覚からすれば疑問を感じさせ、つま ずきを与えることは確かですが、しかしこのような表現を通してこの 箇所が示そうとしているのはこのように神の選びの恵みなのであって 、私たちはそれをしっかりと読み取る必要があるのです。

選ばれる理由などないのに
あなたがたは神によって選ばれた民だというこのモーセの教えは、 イスラエルの民に、だから自分たちには他の民族には与えられていな い特別な権利があるのだという傲慢な「選民意識」を与えるのではな いか、と思うかもしれません。確かにイスラエルの民はその後の歩み においてそのような傲慢な選民意識に陥り、他の民族を「異邦人」と 呼んで軽蔑するようなことがあったし、今日のパレスチナ問題の原因 の一つに彼らのそのような思いがあると言えるでしょう。しかしそれ は、ここでモーセが語っていることを彼らが間違って受け止めた結果 です。モーセはここで、そのような傲慢な選民意識を生むようなこと は語っていないのです。なぜなら先ほどの6節に続く7、8節にはこ う語られているからです。「主が心引かれてあなたたちを選ばれたの は、あなたたちが他のどの民よりも数が多かったからではない。あな たたちは他のどの民よりも貧弱であった。ただ、あなたに対する主の 愛のゆえに、あなたたちの先祖に誓われた誓いを守られたゆえに、主 は力ある御手をもってあなたたちを導き出し、エジプトの王、ファラ オが支配する奴隷の家から救い出されたのである」。ここには、イス ラエルの民がなぜ主に選ばれ、宝の民とされたのか、が示されていま す。それは、彼らが他のどの民よりも数が多かったからではない、つ まり力が強かったり、豊かだったり、特別に優れたところがあったか らではないのです。むしろあなたたちは他のどの民よりも貧弱だった 、他の民に比べたら最もみすぼらしい民だったのです。カナンの地の あの七つの民のことも、「あなたにまさる数と力を持つ七つの民」と 語られています。つまりイスラエルは、他の民と比べて強かったり優 れていたりするわけでは全くないのであって、神に選ばれる理由など 何もなかったのです。ではなぜ彼らが選ばれたのか。それはただひた すら、「あなたに対する主の愛のゆえに」です。その愛は、彼らの先 祖であるアブラハム、イサク、ヤコブにかつて主が誓って下さったこ と、あなたの子孫を大いなる民とし、祝福を与えると約束して下さっ たことを主が覚えていて下さったことによるのです。つまりあなたた ちが主に愛され、選ばれたのは、あなたたち自身のゆえではない、あ なたたちが優れた者、立派な者、強い者だからでは全くない、あなた たちのあずかり知らないところで、主が先祖たちへの約束を大切にし て下さっていたので、何のとりえもないあなたたちを愛して下さり、 選んで下さり、宝の民として下さったのだ、ということです。それゆ えにイスラエルの民は、自分たちは神に選ばれたのだと言って他の民 に対して誇ったり、自分たちには特別な権利があるのだ、などという 傲慢なことを言うことはできないのです。カナンの地に入って七つの 民を追い払い、その地を自分たちのものとすることも、他の民族を侵 略して土地を奪う特権が自分たちにあるからそうしてよいのだ、とい うことではなくて、主なる神が彼らを選び、特別に愛して下さって、 その地を与えて下さるという神の恵みによることなのです。別の角度 から言うならば、イスラエルの民は自分たちよりも力の弱い民を征服 してその領土を奪うことを神に許されたのではなくて、自分たちを選 び、特別に愛して下さった神の愛によって、自分たちにまさる数と力 とを持つ七つの民、つまり自分の力ではとても打ち勝つことができな いはずの相手に勝利してカナンの地を得ることができる、という約束 を与えられたのです。

主なる神との関係を守るために
このようにイスラエルの民がカナンの地を得ることは、ただひたす ら主なる神の愛によって、彼らを選んで下さった神の恵みによって実 現するのです。イスラエルの人々はそのことをしっかりと自覚し、カ ナンの地はただ神の愛と恵みによって与えられるのだということを意 識しつつそこに入って行かなければならないのです。それが、ここで モーセが民に語り聞かせていることです。そのために、七つの民を追 い払い、滅ぼし尽くさねばならないと語られているのです。滅ぼし尽 くすとは要するに皆殺しにすることです。これまたまことにつまずき に満ちたことですが、そのことの意味、目的が3-5節にこう述べら れています。「彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に嫁がせた り、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。あなたの息子 を引き離してわたしに背かせ、彼らはついに他の神々に仕えるように なり、主の怒りがあなたたちに対して燃え、主はあなたを速やかに滅 ぼされるからである。あなたのなすべきことは、彼らの祭壇を倒し、 石柱を砕き、アシェラ像を粉々にし、偶像を火で焼き払うことである 」。ここから分かることは、先住民を殺すことが目的ではないという ことです。避けなさいと言われているのは、彼らと相互の縁組みをす ることです。その理由は、そうすることによってイスラエルの民の息 子たちが主なる神から引き離されて、他の神々、先住民たちが拝んで いる偶像の神々に仕えるようになってしまうからです。主なる神から 心が離れ、他の神々、偶像を拝むようになるということは、愛によっ て自分たちにこの土地を与えて下さった主なる神の恵みを覚えること をやめてしまうということです。主を礼拝することをやめ、偶像の神 々を拝み仕えるようになることによって、主なる神との関係を失って しまうのです。七つの民を追い払い、滅ぼし尽くせというのは、この ような危険を取り除くためです。イスラエルの民は、自分たちを選ん で下さり、特別に愛して下さり、先祖への約束を果してこの地を与え て下さった主なる神を心から愛し、その主にのみ依り頼み、主のみを 礼拝し、主と共に生きていくべきなのです。そうでなければ主の恵み は失われ、むしろ「主の怒りがあなたたちに対して燃え、主はあなた を速やかに滅ぼされる」ことになるのです。また2節には、「彼らと 協定を結んではならない」ともあります。この「協定」という言葉は 「契約」と同じ言葉です。口語訳聖書は「彼らと何の契約もしてはな らない」と訳していました。他の民族と契約を結ぶことは、単なる人 間どうしのそれこそ協定ではなくて、その民族が拝んでいる神と契約 を結ぶこと、その神と共に生きる者となることでした。つまりこれは 、他の神々と契約を結んではならない、ということなのです。イスラ エルの民は、彼らをエジプトの奴隷状態から解放し、荒れ野の旅を導 き、そして今約束の地を与えて下さろうとしている主なる神との契約 の関係に生きているのです。主なる神が彼らの神となり、彼らは主の 聖なる民、宝の民とされているのです。その主との契約の関係をしっ かり守り、そこから離れないことによってこそ、彼らは主に選ばれ、 特別に愛されている宝の民として、主の愛に応えて生きることができ るのです。

彼らの神に仕えてはならない
16節にも「あなたの神、主があなたに渡される諸国の民をことご とく滅ぼし、彼らに憐れみをかけてはならない。彼らの神に仕えては ならない。それはあなたを捕らえる罠となる」と言われています。こ こにもカナンの地の先住民をことごとく滅ぼし、憐れみをかけるな、 というつまずきに満ちた命令があります。しかしここでも、その先住 民たちは「主があなたに渡される諸国の民」です。つまり主なる神が 彼らをイスラエルの手に渡されるという主の恵みのみ業が先ず見つめ られているのです。そしてこの命令は「彼らの神に仕えてはならない 」と言い換えられています。主の宝の民とされているイスラエルの人 々が、主なる神との関係を失い、他の神々に仕える者となってしまう という罠に陥り、せっかく与えられている主との愛の関係を失ってし まうことがないようにと心配してモーセはこれを語っているのです。

主の宝の民とされた私たち
イスラエルの民が、選ばれるのに相応しい力も素質もまた実績も何 もない、他のどの民よりも貧弱な民だったのに、ただ主の愛のゆえに 聖なる民、宝の民とされた、それと全く同じ恵みが私たちにも与えら れています。私たちは、生まれつき神に背き逆らい、そっぽを向いて いる罪人ですが、神の独り子イエス・キリストがその私たちの罪を全 て背負って十字架にかかって死んで下さったことによって、神は私た ちの罪を赦して下さったのです。私たちは、主イエス・キリストを信 じる信仰によって、その信仰のみによって、私たちの中には何の正し さも立派さも実績もないのに、義とされ、神の子とされました。それ はただひたすら主の愛によることです。主なる神は私たちのことを、 ご自分の独り子の命を与えて下さるほどに愛して下さり、私たちをご 自分のもの、聖なる民、宝の民として下さったのです。その救いの恵 みにあずかった私たちには、ここでモーセがイスラエルの民に語った のと同じことが求められています。同じ戦いを戦うように促されてい るのです。それは決して、自分の廻りから誰かを追い払ったり、皆殺 しにするための戦いではありません。そうではなくて、私たちを主イ エス・キリストによる救いの恵みから引き離し、主イエスの父である 神と共に生きることを妨げ、主との愛の関係を失わせるような罠とな る偶像を私たちの生活から徹底的に取り除いていくための戦いです。 偶像というのは、神を目に見える形に刻んだ像だけではありません。 主イエス・キリストの父であられる神様以外の力が私たちの人生やこ の世界を支配し、導いているように私たちが感じるなら、そしていろ いろな苦しみや悲しみ、困難の中で、主イエスの父なる神以外の力に 私たちが依り頼もうとするなら、それが偶像です。つまり私たちが今 この世において、主イエスの父なる神以外のものを恐れていたり、逆 に頼りにし、それによって安心を得ようとしているなら、それが偶像 なのです。25節以下に、その偶像をどうすべきかが語られています 。「彼らの神々の像は火に投じて焼きなさい。それにかぶせてある銀 や金に目を奪われて、それを取っておくことがあってはならない。あ なたがその罠に陥ることがないためである。それは、あなたの神、主 のいとわれることである。いとうべきものをあなたの家に持ち込んで はならない。そうすれば、あなたも同じ様に滅ぼし尽くすべきものと なる。それを憎むべきものとして憎み、徹底していとい退けなさい。 それは滅ぼし尽くすべきものである」。銀や金に覆われている偶像は 時として大変魅力的であり、頼りになるように感じられるのです。し かしそれはどんなに素晴しいものに思えても、「いとうべきもの」で あり、「滅ぼし尽くすべきもの」です。なぜならそれは、御子イエス ・キリストの命を与えて私たちを愛して下さり、宝の民として下さっ ている主なる神様から私たちを引き離す罠となり、この主のもとでこ そ与えられる真実の救いを失わせるからです。その主の救いを失うな ら、罪人である私たちは「いとうべきもの」「滅ぼし尽くすべきもの 」となってしまいます。元々滅ぼし尽くされるべき罪人であった私た ちが、御子イエス・キリストによって与えられた神の愛によって、選 ばれるのに相応しい清さも正しさも力も何もないのに、選ばれた民、 主の宝の民とされた、そこにこそ私たちの救いはあるのです。そのよ うに私たちを選び、特別な愛を注いで下さった主なる神様の下にしっ かりと留まって生きることが私たちの信仰なのです。

私たちの使命
その信仰に生きる時に私たちは主から大切な使命を与えられます。 そのことを語っているのが、本日共に読まれた新約聖書の箇所、ペト ロの手紙一の第2章9節以下です。「しかし、あなたがたは、選ばれ た民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。 それは、あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてく ださった方の力ある業を、あなたがたが広く伝えるためなのです 」。「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくだ さった方の力ある業」それは主イエス・キリストの十字架と復活とに よって神が私たちに与えて下さった救いのみ業です。私たちはこの神 の救いのみ業を広く宣べ伝えるために、神に選ばれ、聖なる民、主の 宝の民とされたのです。
私たちがこの使命を果していくことは、イスラエルの民が、自分た ちに優る数と力を持つ七つの民が住むカナンの地に入っていくのと同 じように大変な、困難な歩みです。しかし17節以下にはイスラエル の民に対するこのような語り掛けがあります。「あなたが、『これら の国々の民はこちらよりも多い。どうして彼らを追い払うことが出来 よう』と考えるときにも、彼らを恐れることなく、あなたの神、主が ファラオおよびエジプトの全土にあさったことを思い起こしなさい。 すなわち、あなたが目撃したあの大いなる試み、あなたを導き出され たあなたの神、主のしるしと奇跡、力ある御手と伸ばされた御腕をも ってなされたことを思い起こしなさい。あなたの神、主は、今あなた が恐れているすべての民にも同じことを行なわれる。あなたの神、主 はまた、彼らに恐怖を送り、生き残って隠れている者も滅ぼし尽くさ れる」。「これらの国々の民はこちらよりも多い。どうして彼らを追 い払うことが出来よう」というのは、信仰をもって生きようとしてい る私たちの現実です。しかし主は、「彼らを恐れるな」とお命じにな っています。そして、主なる神がエジプトでなさったこと、奴隷とさ れていたイスラエルの人々を解放して下さった、そのみ業を思い起こ しなさい、と言っておられるのです。それは、主なる神がイスラエル の民を、彼らの側の相応しさのゆえにではなく、ただ彼らに対する愛 のゆえに、選んで下さり、救いを与えて下さり、導いて下さった、そ の事実を見つめなさい、ということです。私たちにおいてはそれは、 主イエス・キリストが、私たちの側のいかなる功績にもよらず、ただ 私たちへの愛のゆえに十字架にかかって死んで下さり、復活して下さ ったことによって、罪の赦しと永遠の命の約束を与えて下さった、そ の救いのみ業を見つめなさいということです。主イエスの十字架と復 活によって私たちは、罪を赦され、神の子とされ、主の宝の民とされ ているのです。その恵みの中で生きる私たちに主は、21節のみ言葉 をも語りかけて下さっているのです。「彼らのゆえにうろたえてはな らない。あなたの神、主はあなたのただ中におられ、大いなる畏るべ き神だからである」。

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